29

 敵は瑠夏が食い止めてくれているのだろう。追手の影はほとんどなく、二人して息を切らせて階段を上がり切る。そこには、屋上に続くと思われる、一枚の無機質な扉が佇んでいた。恐らく、ここが辰夫が指定した、最上階。ドアノブを捻ると、鍵は掛かっていないようで、ドアは容易く軋んだ。

 御幸は緊張気味の凪沙の顔を覗き込む。

「いけるか?」

「……行く」

 ああ、と御幸は頷く。そして、今回はスカイダイビングしないことを祈りながら、御幸は扉を押し開けた。

 扉の先にあるのは、紅城夕木のマンションのように、広いヘリポートのある屋上だった。辺りはすっかり日が暮れているというのに、不夜城たる神室町は明るく、星も見えない。風もない穏やかな夜には、ネオンに負けないほど眩いばかりの月が浮かんでいる。そしてその月の下に、草臥れた姿の初老の男の背中があった。

「遅刻だぞ、凪沙」

 天城辰夫──この事件の首謀者であるその男は、まるで飲み会に遅れてきた友人を諫めるかのように、軽々しく娘の名前を口にした。

「時間は守らなきゃ、探偵以前に人として評価が下がると教えただろ?」

「黙れ。人としての道を踏み外しておきながら、私に道理を語るな!」

「ははっ、手厳しいな」

 そうして振り返る男は、凪沙とはあまり似ていない。疲れたように微笑む姿は、本当にどこにでもいる初老の男にしか見えない。スーツでも来て電車に乗れば、社会の荒波に揉まれ切ったサラリーマンのそれだ。けれどこの男は御幸からキャリアを奪い、監督の命を奪い、大勢の人間を傷つけては殺し、巻き込んだ。全ては、自分の名を上げる。ただそれだけのために。

「さて、あまり長々語る時間もない。答えを聞こうか、お二人さん」

 そう言って、男は御幸に手を差し伸べる。

「凪沙、お前は手を引け。御幸一也の冤罪は、俺が晴らす」

「「──断る!!」」

 示し合わせるまでもない。凪沙と御幸は同時にその誘いを跳ね除けた。考える余地などない。御幸が取ったのは、この手だ。今繋がれている、凪沙のか細い手だ。断じて、ぽっと出の男でもなければ、こんな茶番を描いた黒幕でもない。けれど、天城辰夫はヘッと小ばかにしたように笑うだけだった。

「ま、そう来るとは思ってたさ。だが、だったらどうして御幸を連れてきた? わざわざネギ背負って来るようなマネするほど、馬鹿な娘に育てたつもりはないぞ」

「そんなの、決まってるだろ」

 物言いたげな凪沙の一歩前に出て、御幸が告げる。しっかと繋がれた手をそのままに、小ばかにしたような笑みを睨みつける。

「こいつの傍に居たいだけだ」

 ぎゅう、と凪沙の手に力が籠る。色々思うところはある。もし本当に天城辰夫が実の娘を殺すようなことがあればこの身を差し出すこともできるだろうとか、この戦いの行く末を見届けたいとか、色々目的はある。だが、言ってしまえば目的なんてそれだけだ。愛する人が自分のために戦ってくれているのだ。せめて傍で見届けたい。どんな顛末を迎えたとしても、だ。

 そんな御幸の答えに、辰夫はキョトンとしたように目を丸くした。そして、くしゃりと潰れたような顔で笑って見せたのだった。

「ああ──ほんとうに──」

 言葉は、それ以上続かなかった。何かを噛み締めるようなその物言いに、毒気が抜かれたような気分になる。なんだ、その笑顔。まるで御幸の言葉を、心底喜んでいるような。勿論、辰夫の目的は御幸なのだ。男の言う通り、ノコノコと鴨がネギ背負ってやってきたことを、喜んでいるのかもしれないが。

「なるほどな。此処にいりゃ、いざとなったら凪沙の命乞いもできるって魂胆か。ほんと、御幸さんはいい男を育てたもんだなあ」

「別にこいつが負けるなんて思ってねーよ」

 そう、そもそも天城凪沙の敗北なんか考えていない。だが、最悪の可能性を避けるための、保険だ。どうせ、凪沙が負ければどこに逃げたって辰夫たち率いるヤクザやら何やらが追いかけてくるのだ。いつそんな追手が来るとも分からないと怯えるよりは、此処で全てに決着がついた方が、いい。

 それに、と。チラリと御幸は凪沙を見た。

「言ったろ。傍に居たいだけだって」

 御幸は無力だ。瑠夏のように戦いに赴く彼女の隣で戦うことはできない。だからせめて、傍に居たい。何もできなくとも、せめて見届けたい。そして、その後の戦いの果ての道を、共に選びたい。勝っても、負けても、一緒にだ。

 隣に立つ凪沙が、小さく俯いた。

「……ほんとばかね、あなた」

「ん? 何か言ったか?」

「愛してるって言っただけよ」

 すん、と凪沙が鼻を啜ったような気がした。

 一方で、辰夫はそんな二人を尻目に再び空を見上げてポケットに手を突っ込む。身構える凪沙と御幸を他所に、辰夫が引っ張り出したのは煙草とマッチだった。慣れた手付きでマッチを擦って、男は煙草に火を灯す。ふーっ、と深々と空に向かって息を吐くと、白い煙がふわりと立ち上る。それを見た凪沙が驚いたように震えた。

「……変わらないのね、その煙草の吸い方」

「お前もマネして、よく俺の煙草をくすねてたよな」

「ええ。あなたに憧れから。あなたにように、なりたかったから」

「そりゃ、親父冥利に尽きるってもんだ」

「でも、あなたは変わった」

「十年経てば、お互いな」

「だからもう、あなたを父とは思わない!」

 そう叫んで、凪沙は御幸から手を離す。そうして拳を構えて、実の父親──否、実の父親だった男を睨みつける。その目には涙すら浮かんでいるが、瞳の奥の闘志は潰えていなかった。

「天城辰夫! 御幸の冤罪の証拠を出しなさい!」

「最後は力づく、か。つくづくお前も、こっちの世界に染まっちまったなあ」

 そう言いながら、辰夫は煙草をふかしながら反対の手で尻ポケットに手を突っ込み、USBを引っ張り出して、凪沙と御幸に見せつけるように掲げた。

「スパローズの監督にサイン盗を指示した音声データ、蒼葉優斗と蒼炎会の連中がつるんでる写真やメッセージのログ、紅城と陽銘連合の通話履歴、巌見グループ系列の会社の指示で江戸川区一体の土地の買収を行ってたという証言、ついでに陽銘連合と巌見の賄賂贈呈シーンを収めた動画。全部全部、ここに入ってる」

 ひゅっ、と喉が鳴る。あれだ、あそこに、御幸たちが求めていた全てがある。ついに、此処まできた。あれさえ手に入れば、御幸たちの勝ちだ。

 それをポケットに大事そうに仕舞う辰夫を前に、凪沙はぐっと腰を落とした。

「……奪い取るっ!!」

「やってみやがれってんだ、クソガキめ!」

 凪沙は駆け出し、辰夫は拳を構える。血を分けた親と子の、血で血を洗う親子喧嘩の火蓋が今、切って落とされたのだった──。



***



 どれほどの間、そうしていたのか分からない。目を背けたくなるような光景ばかりが続いていくも、御幸は決して目を逸らさなかった。例え愛する人が傷だらけになり、血を流し、耳を塞ぎたくなるような呻きを漏らしたとしても。そのために御幸は此処にいるのだと、己の拳を握り締めて。

 戦いは、不思議なことにほぼ互角だった。先ほど壁を蹴って飛び跳ねていた凪沙は、どうも屋外での戦いは不得手なようで、俊敏な身のこなしで相手の拳を避けては、ここぞという蹴りを食らわせているのがやっとだった。一方で、辰夫は完全に愛娘を拳で叩きのめそうと振り上げてはいるものの、明確な男女差は感じられなかった。いくら男と女とはいえ、二十代でヤクザ相手にも立ち回れるほど体力のある凪沙と、見た目通り老いて草臥れた辰夫とでは、幸か不幸かスピードもパワーも互角だった。おかげで互いの拳が、足が、互いの腹部や頭部を打ち抜き、鈍い音と、飛び散る血が、積み重なっていく。

 だが、凪沙の鋭いニーキックが辰夫の顎を一閃し、脳天を揺らされた辰夫がぐらりとフラついた隙をついて、凪沙が大きく跳躍した。そしてぐるりと宙で一回転しながら全体重を乗せた右足が辰夫の頸椎に振り落とされて、ゴッ、という骨と骨のぶつかり合う鈍い音がした。ふらり、と一瞬揺れて地面に崩れ落ちる辰夫は、起き上がることは無く。

 ──勝負あった。御幸はそう確信した。

「はぁ、はぁっ……ぐっ……!」

「凪沙!」

 だが、流石に男に何度も腹や背中を殴られた凪沙も限界のようで、最後の一撃で力尽きたらしく、その場で膝をついてしまった。慌てて駆け寄り、その肩を抱いて支えになる。

「大丈夫か!」

「っ……とーぜん、でしょ」

 そう言って腕の中で笑う凪沙は、拳をしっかりと握り締めている。その細い指が開くとそこには、辰夫が掲げていたはずのUSBが燦然と輝いていた。

「……手癖悪すぎだろ、お前」

「失礼、ね……これも名探偵の、嗜み、よ……!」

「探偵の嗜みがスリなんて売れ込めなくね?」

「いいわよ……私はあの人みたいに、そんなもの、求めてない、もの……」

 そう言いながら、御幸を支えにゆっくりと体を起こす凪沙。そうしてゴホゴホと苦しげにせき込む辰夫の元へ、一歩、二歩と歩いていく。その肩を支えながら、御幸もまた床に転がる男を見下ろす。

「私の──勝ちよ」

「お前は分かってない……分かってないんだ、凪沙……!」

 けれど男は、素直に負けを認めない。吠えるように叫ぶ辰夫は、濁流に揉まれながら藁にも縋るような、そんな惨めさがそこにあった。

「俺なら──俺たちなら、もっと上に行けるはずだ、そうだろ!? 天城探偵事務所の名は業界にだって知れ渡ってきた!! あと一押しでいいんだ! そうすれば俺もお前も一躍ヒーローだ!!」

「……それに、一体何の意味があるというの」

「見返してやるんだよ!! 俺から職を奪った連中も、俺を無能と烙印を押してきた求人職員たちも、貧乏を理由に俺たちを捨てて逃げて行ったお前の母さんも、みんなみんなみんなっ!!」

 そう叫ぶ男の、ああ、なんと哀れなことか。社会的地位を奪われ、妻に逃げられ、失意の果てにたった一人の家族を捨ててまでやったことが、復讐にも満たない茶番劇。けれどその茶番劇に、何人もの命が奪われた。決して許されるはずもない。

 何より、同じように何もかもを奪われた人間が、この世界に何人もいる。御幸は、そんな理不尽と戦った。一方で同じように球界から追放された男は、それを苦い思いで受け入れた。そうやって乗り越えてきた者たちに泥を塗るようなその振る舞いは、惨めさを通り越して怒りすら抱くほどだった。

「……一生そうやって、仮初の栄光にしがみついてなさい」

「なんで分からないんだ、凪沙! 俺はお前のためにも──」

「分かんないわよ、そんなこと」

 ぽつり、と呟く凪沙。その目は悔し涙に潤んでおり、やはりまだ割り切っていないのだと、御幸は知る。けれど、凪沙に悔いはあれど、迷いはなかった。

「貧乏でも、人に誇れなくても、よかったのよ。コンドーム集める仕事でも、ヤクザに追いかけ回されても、私は人生楽しかったし、そんな仕事をしてる父さんを誇りに思っていたのよ」

「凪沙──」

「私は!! 父さんがいるだけでよかったのにっ!!」

 愛の慟哭は、ネオン街に吸い込まれていき、空しく響くだけだった。ただ愛した家族がいてくれるなら何もいらないと、笑う彼女はやはり、歪んでいる。けれど、それでもいいと言い切れるだけの『愛』は確かなもので、そして哀しくなるぐらい純粋無垢であった。

 けれど辰夫はその愛に背を向けた。全ては自分のためだけに、身勝手なまま他人を陥れ、傷つけ、そして死なせた。その罪は、愛では補えないし、償えない。凪沙はぐっと親指で涙を払い落として、毅然とした表情で辰夫を見下ろす。

「お前を警察に引き渡す。証拠がない? 言わせないわよ、そんなこと。天城探偵事務所の名にかけて、必ず罪を暴いてみせる」

 だから、と声を失う男を、凪沙は静かに見下ろす。


「栄光とは程遠い場所で、一人罪を償うことね」


 それは、まるで裁きの鉄槌のようだった。娘から父にかける言葉を、凪沙はとうの昔に手放したらしい。そこにあるのは、まるでドラマや映画のように探偵が犯人に罪を暴く姿。その罪を贖うよう諭すのは、優しさか、はたまた逆に手厳しいのか。静かな面持ちからは、感情は読み取れなかった。

「……そうかい。やっぱりお前は、そう来るか」

 項垂れ、地面にしゃがみ込む男は、ぽつりとそんなことを呟いた。未だふらつく凪沙が怪訝そうに眉を顰めると、辰夫はへらりと情けない笑みを湛えてみせた。

「お前は甘すぎるんだよ、凪沙」

「何を──」

「だから俺も、こんな保険[・・・・・]を使わざるを得なかった」

 その瞬間、バンッ、と屋上の扉が勢いよく開き、その扉の向こうに佇む男を見て背筋が震えた。亜門だ。亜門レイがゆらりと風に揺れる柳のように佇んでいる。立派なスーツは全身ずたずたのボロボロで、頭からはポタポタと血を流しているが、割れたサングラスの向こうには血走った眼がこちらを捉えている。

「っ、亜門──!」

 まさかこんなところで亜門が出てくるなんて。つまりそれは、彼を足止めしていた瑠夏は、どんなにポジティブに考えても、此処に来れるような状況ではないということで。凪沙だって満身創痍。御幸は戦えるような人間じゃない。お互いズタボロだが、流石に辰夫相手に互角だった凪沙が、亜門に太刀打ちできるとは思えない。

 どうする。亜門は扉の前だ。辰夫を挟んで、自分たちの背には柵がある。その向こうにはビル群と、神室町のごてごてしい看板のネオンが煌めいている。

「また飛び降りるか?」

「残念……今日やったら二人ともミンチよ……」

 こっそり耳打ちするも、流石に今日はパラシュートの備えはないらしい。だよなぁ、と半笑いで御幸は再び亜門を振り返る。まさに、絶体絶命。背水の陣。前門の虎後門の狼。逃げ場も隠れる場もない。ここを切り抜けられるような魔法の探偵道具だってありはしない。

 けれど、考えを張り巡らせている間にも亜門はゆらりと腕を上げて銃を構える。銃口はぎらりと月明かりに光り、それが理不尽に命を砕く道具であることを如実に示している。ぞくり、と背筋が凍った。その銃口は、真っ直ぐこちらに向けられて──。

「っ、御幸!」

「凪沙っ!」

 一瞬の出来事。互いが互いを庇うようにもつれ合う二人の間を引き裂くような、一発の銃声。ぱぁん、とビルとビルの間に木霊する音に、二人して動きを止めた。痛みはない。では、凪沙は。ハッとして凪沙を見るも、焦った彼女と目が合うだけ。汗ばんでいるが顔色は良く、派手な出血もしていなくて。

 思わず、亜門に視線を投げる。その先で、天城辰夫が腹部を押さえながらどさりと地面に頽れる姿が目に入った。夥しい血が一帯に広がっていき、何が起こったか理解できずに呆然とする凪沙と御幸を他所に、かしゃん、と亜門の手にしていた銃が手から滑り落ち、床に転がった。そして。

「待ち侘びたぞ、辰夫──俺は十年、この時を待っていたッ!!」

 亜門は力尽きたように膝を付き、月に向かって吠えたてたのだ。



*PREV | TOP | NEXT#