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 びゅうびゅう、ゴウゴウ、と耳元で風が唸る。重力に従って落下するだけで、信じられない轟音が鼓膜を揺さぶる。同じようなビルが立ち並ぶその間を割るように落下していくため、景色の変化は今一つない。だが、身体には上からも下からも圧力がかかって、今にもぺしゃんこになりそうだった。

「っ、ぐ──!」

「御幸!」

 すぐ近くで、凪沙が叫ぶ声がする。だが、風の唸り声に阻まれて、よく聞こえない。辺りを見回しても姿は見当たらず、ちらりと上を見上げると、大きな影が御幸を覆う。

「腕を!!」

 そう言って上から伸ばしてくる手に向かって腕を伸ばすも、風と重力が阻んで信じられないぐらい重い。全てに抗うようにゆっくりと腕を上げていくと、凪沙の小さな手が二の腕をガシリと掴んだ。そうして空中でもみくちゃになりながら凪沙はまるで御幸におぶさるように抱き着いてきた。風に煽られながら、二人分の体重を乗せた塊は徐々に車行き交うコンクリートロードに近付いて──。

「しっかり掴まっててよ!」

 そう言いながら、凪沙は器用にも懐からワイヤーのような銀色のロープを引っ張り出して御幸と自分の胴体を巻き付ける。その間数秒もない。慣れた手付きで互いの胴体を固定すると、上から覗き込むように凪沙の輝く瞳が御幸を捉え、半月型に歪む。

「お前、まさか──」

「上に参りますわよ、お客様ァ!」

 そう叫ぶなり、凪沙は脇の紐を思いっきり引っ張った。その瞬間、落下していたはずの身体が一瞬だけ止まったような気がした。そして瞬く間にへその裏をぐんと引っ張られるような感覚と共に、数十メートル下に見えていたはずの地面がぐんぐんと遠ざかっていく。景色は早送りするようにくるくると逆巻いて。そうして奇妙な浮遊感が全身を包み込むと、いつの間にか轟音も止み、景色もゆっくりゆっくりと動いていく。

 ちらり、と上を見上げると、凪沙がスーツの下に仕込んでいたと思われるパラシュートが花開いている。二人はタンデムのような体制でぷかぷか宙を漂い、オフィスビル群をふらふらと浮かんでいる。

「一回使ってみたかったのよね、コレ!」

 背後から、凪沙のウキウキとした声が聞こえる。足は御幸の胴体に抱き着き、か細い腕でパラシュートを操ってふわふわとどこかへ飛んでいく。そうして数十秒ほど緩やかに高度を下げながらパラシュートはとあるビルの屋上へと流れていく。

「降りるわよ!」

 その声と共に、屋上の地面が徐々に近づいてきた。ばつんっ、という何かが切れる音と共に御幸の身体が凪沙から離れ、数十センチほど下のコンクリートに降り立つ。ワンテンポ遅れて凪沙もまた地面に降り立ち、パラシュートはしぼんだ風船のようにシナシナと枯れていく。

「よし、あとは──」

 背負ったパラシュートを外しながら、凪沙は片手でスマホを取り出して何かを入力していた。何をしているのか、という問いよりも先に、答えが耳に飛び込んできた。

 どぉん、と遠くから何かが爆発するような派手な音が響き渡った。音の方を確かめると、恐らく御幸たちが居たであろう、紅城たちの根城のビル。火事のように白い煙がもくもくと立ち上り、その煙からはなにか黄色いひらひらとしたものが、まるで紙吹雪のように舞い散っていた。道行く人たちも悲鳴を上げ、足を止め、必死に地面を這い蹲って何かをかき集めていた。

「──私が子どもの頃、神室町のビルから百億もの大金が降り注いだの」

 くるくるとパラシュートを巻いて畳みながら、呆然と遠くのビルを見上げる御幸の横で凪沙が唐突にそんなことを語った。まさか、と彼女の顔を見れば、凪沙はしてやったりとばかりにニンマリと笑みを浮かべた。

「流石に百億は勿体ないけど、せっかく三億もの依頼料が入るんだもの。一千万ぐらいパァーッと派手に使おうと思って。これなら、東京のビル群でパラシュートがフラフラしてた、なんて誰の目にも止まらないでしょうしね!」

 なるほど、どうやらあれはカモフラージュらしい。確かに、高層ビルばかりとはいえ、目撃者がいないとは限らない。けれど、そんなものが目にも止まらないぐらいの事件が起こったら。まさか爆発したビルから一千万もの大金が降り注いだら、通行人も世間の目も、迷いなくそちらに向くだろう。木を隠すなら森の中。イレギュラーを隠すなら、より大きなイレギュラーの中に。

 これが、凪沙の立てた脱出計画だったのだ。

「ふふ、どう? 意外と楽しかったでしょう?」

 にこにこと、こんなことを楽しむように凪沙は笑う。御幸を見上げる女はまるで少女のように無邪気だった。未だろくに一言も話さない御幸は、ただじっと見下ろす。そこに籠められている意味を察したのか、凪沙の笑顔はだんだんと固くなっていく。

「な、なーんてね! ジョークよジョーク! 怒らないで!」

 悪戯っぽい笑みは一転し、凪沙は道化のようにおどけてみせる。普通に考えて、安全対策など何一つ実施しないままパラシュート一つ背負って高層ビルから飛び降りるなど、『楽しい』わけがない。一歩間違えば落下死だってありえたかもしれないのに。しかもそのカモフラージュとして、一千万もの大金を東京の空一杯に撒き散らした。本当にありえない。何もかもが、だ。

 なのに、どうして。

「ぶっ……っくく……!!」

「み、御幸……?」

 込み上げる笑みをそのままに、腹を抱えて蹲る御幸。凪沙はオロオロとしたまま、不安げに御幸の周りをウロつきだすのものだから、輪をかけて面白くて。

 ああ、そうだ。彼女の言うように、楽しかったのだ。面白かったのだ。笑ってしまったのだ。命綱一つなく、高層ビルから身を投げて、空中で体勢を立て直して、パラシュートを開いて逃げ遂せ、青空一杯に散っていく一万円札まで、その全てが、ただ面白かったのだ。だから、笑ってしまった。だって、あんな経験初めてだったから!

「『名探偵』ってか、『怪盗』だろ、あんなの……っ!」

「え、え……?」

 腹を抱えて笑う御幸に、いよいよ凪沙は困ったように声を漏らす。畳んだパラシュートをリュックのように背負いながら、凪沙は「い、行くわよ」と笑い転げる御幸の腕を引く。

「困ったわ……ダイビングのせいで、御幸が壊れちゃった……」

「ぶっ!! おまっ、いちいち──笑わすな……っ!」

「笑うようなところじゃないわよ……?」

 こんなことが楽しいなんてどうかしている。そう思ったはずだった。なのに、勢いのままに二人で飛んだ空は、生涯忘れえぬ記憶として御幸の中に息づいたのだった。



***



 ビルの非常階段を駆け下りて、二人はコインパーキングに向かう。準備万端とばかりに彼女の車が止めてあり、すぐさま乗り込んで車は発進する。

「そういや、ここどこなんだ?」

「渋谷だけど」

「は!? 俺が連れて行かれてあのビルに行くまで三十分は掛かったぜ?」

「こっちの尾行を気にして高速乗って降りてぐるぐる回ってたみたいね。まあ、徒労に終わったんだけど」

 凪沙のマンションは新宿にあるので、車なら十分とかからず戻れるだろう。無駄に手の込んだ誘拐事件だと思いながら、ハンドルを握る凪沙を見る。

「これからどうするんだ?」

「そうねえ、ひとまず事務所に戻りたいわ。陽銘連合が噛んでるなら、場合によっては東城会との抗争になりかねない。抗争回避の手回しもしないといけないし、紅城の言った『葛西の公園』ってのも気になるし……」

 誘拐されただけの甲斐は合った。この事件を紐解くピースが、次々に集まっていく。黒幕だと思っていた紅城の背後には、また別の黒幕がいた。しかもそれは、凪沙曰く広島に巣食うヤクザだという。予想外の名前に驚きは隠せないが、人の数だけ縁があり、恨みがある。それに、彼女の言うように瀕死の紅城が残した『葛西の公園』という言葉も気になる。あんな状況で嘘を言うとは思えない。そこに全ての答えがあるとしたら──。

「……なあ、いったん実家に帰れないか?」

「実家って、あなたの?」

「ああ。江戸川の方だ」

 無関係な気はしない。先ほど見つけた書類の束──見覚えのある人々──自分たちの家──そして、『葛西の公園』。それらが全てに、一つの共通点があったから。凪沙も気付いたようで、ハッとしたように息を呑む。

「ついでにいいだろ、葛西も江戸川区だしな」

 葛西の公園とくれば、思い当たるのは海辺の臨海公園である。実家からは少し離れてはいるが、同じ区内に存在するのだ。先ほどの書類と照らし合わせれば、連中の目的も何となく分かろうもの。故にこそ、実家に残している父親に問わねばならないことがあった。そのピースを以て、このパズルはきっと完成すると、思ったからだ。

「頼む」

「……いいわ。あなたの実家なら、私が雇ったボディガードも張り込んでる。そこらのセーフハウスよりは、よっぽど気が休まるでしょうしね」

 そう言って、凪沙はハンドルを切って車を進める。高速に乗って向かうは、御幸の実家である『御幸スチール』。凪沙はカチカチとインカムを何度か叩き、誰かに電話を始めた。

「はあーい、貧乏探偵さんこんにちは。悪いけど今からそっち行くから、私たちの警護も兼ねてよろしく! ……うん、そうそう、ちょっとトラブル続きでね……ふうん、そう……まあいいわ、ひとまず私もいるし。大丈夫、報酬に色は付けておくから。うん、そういうことで、よろしく! じゃあね!」

 ピ、とインカムから音がした。どうやら通話は瞬く間に終了したらしい。向こうの声はほとんど聞こえなかったが、低い男の呆れたような溜息が鼓膜を掠めたような、気がした。

「今あなたの家を張り込んでる探偵に連絡取って、ちょっと世話してもらうよう頼んだわ。お父様は今仕事で工場を離れてるそうで、一人はそっちについていってるみたいだけど、もう一人は自宅に怪しい人がいないか張り込んでくれてるみたい」

「ああ……親父、物品の納品で結構出かけるからな……護衛も大変そうだな」

「お仕事が無事にできることはいいことだわ。それも含めてボディガードなんだから、あなたが気にすることではないわよ」

「……そっか」

 そう言いながら、御幸は外の景色をぼんやりと眺める。半ば誘い出されるように誘拐されて、凪沙の手を借りてビルの屋上へ駆け込み、紅城が刺され、瑠夏が現れ、凪沙と二人でビルから飛び降りた。この一連の騒動から、まだ数時間と経過していないのだから驚かされる。本当に、色んなことがあった。本当に、色んなことが──。

「……そういや、亜門がいたな」

「は!?」

「しかも、俺のこと逃がしてくれた」

「え、なにそれどういうこと?」

 運転しながらぎょっとしたように凪沙がちらりと視線を寄越す。そういえばこれは話していなかった、と御幸は経緯を説明する。紅城が去った後、すぐに亜門が御幸の元にやってきたこと。怖いくらい冷静に御幸の枷を外して、どこかへ消えたこと。そして何故か階下で暴れていたこと。そして。

「このまま終わられては困る、ってあいつは言ってた。俺を殺すだけじゃ意味がねえ、とも」

「……理性を失った暗殺者とはとても思えないわね。まるで──そう、標的はあなたじゃないみたい」

「ああ、俺もそう思った」

 言葉も交わせていたし、御幸を助け出す素振りは冷静そのものだった。御幸もターゲットであることには嘘ではないのだろうが、御幸が本命ではないような──そんな、気がして。

「でも、紅城は今回の事件を企てたのは亜門だった、と話していたのでしょう?」

「ああ。だから俺を殺したいのは間違いないとは思う。ただ、あいつがほんとに殺したいのは──ほんとに恨んでるのは、俺を殺すことで損する人、じゃねえか?」

「……お父様、とか?」

「いや、損はしないだろ──」

 と、言いかけて、悪い意味で染まったな、と御幸は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。損も得もない。御幸が殺されて尤も悲しむのは、御幸を愛して育ててくれた人。たった一人血の繋がった家族。御幸の父親への復讐を目的に、御幸一也を殺す。目的が復讐なら、本人を殺すよりもよっぽど堪えるに違いない。

「でも──あなたのお父様、殺し屋一族に名を連ねるような男に恨まれるほどの極悪人には見えないけど……」

「だよなあ」

 そう、このストーリーで唯一不自然な点は、その動機だ。殺し屋一族である亜門の腕は瑠夏たちも認めるほど。そんな物騒な人間と自分の父が何らかの因縁があるとは到底思えない。早くに母を喪い、男で一つで御幸を育て上げ、家計が苦しいにもかかわらず好きに野球をさせてもらったし、そのために私立高校にまで行かせてもらった。寡黙で真面目で、それでも確かな愛情を注いでくれるような、そんな人だった。復讐を計画されるほど恨みを買うとは、思い難い。

 それこそ、凪沙の父親とは違って──待てよ。

「お前が目的──とか、ねえ?」

 思えば、亜門の暴走は決まって凪沙が傍に居る時だけだ。だったら、凪沙本人はどうだろう。裏社会のありとあらゆる人間から恨みを買っていそうな成金探偵様である、彼女自身も思い当たらないような動機があるのではないだろうか?

 そう思ったのだが、凪沙は呆れたようにかぶりを振る。

「ありえないわ。だって、これまで私とあなたに接点はなかったじゃない。あなたがうちに転がり込んでくることを想定してなきゃ、その仮説は成り立たないわ。この日本だけでも何百、何千の探偵事務所があると思ってるの?」

「あー……そっか」

 確かに、それはそうだ。接点のない凪沙を狙った復讐を計画するなら、御幸一也の存在はあまりに遠すぎる。彼女に復讐したいなら、もっと手っ取り早い方法があったはずだ。それこそ、有名人たる御幸を介してしまえば、世間の注目度は高まる。殺し屋にとって世間の目はないに越したことは無い、と凪沙も言っていた。流石に暴論過ぎたか、と御幸は頭の後ろで手を組む。

「残念。いい推理だと思ったんだけどな」

「天才捕手の頭脳を以てしても、名探偵にはなりえないようね?」

「うるせーな。探偵になる予定もねーんだから、いいだろ」

「あら、老後の趣味と小銭稼ぎに探偵事務所を開く人も多いのよ? あなただって、いつまでもプロ野球選手を続けられるわけじゃないでしょう?」

「小銭稼ぎならコーチや解説やった方が稼げるっつの」

「あなたが? 人に教えたり実況席に踏ん反り返ったり──想像できないわ」

 くすくすと笑いながら述べる凪沙に、全くだと自分で言っていて思った。プロ野球選手の人生など、二十年続けば大往生といっていい。よくて四十そこそこまでプロで活躍できたとしても、その先は流石に厳しい。けれど、その後だって何十年も人生は続く。その時、自分は何をしているのか、全く想像できなかった。

「……今は二十年後より一か月後のが、大事だからな」

「ご尤も」

 そうだ、そんな遥か未来よりも、一か月後、二か月後に自分は球界に復帰できているか。それが重要だ。その手掛かりを探しに、二人は高速道路を駆け抜けていく。目指すは御幸が生まれ育った町。

 遥か歴史と共に流れる江戸川まで、そう遠くはない。



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