24

 生まれ育った実家に見慣れぬ高級車が横付けされるのは、何とも変な気分だった。

「此処に停めていーの?」

「ああ、この裏はうちの敷地だから」

 そっちこそこんな高級車を砂利とロープで作られたような質素な駐車場に停めていいのか。そんな疑問は投げかけることなく、凪沙はアクセルをゆっくりと踏んで、簡易的な駐車場に乗り込んでいく。まあ、本人が気にしないのなら、と御幸はそれ以上言葉を続けず、車が止まるのを待つ。そうして御幸は自分が雇った探偵共々、しばらくぶりに実家を訪れたのだった。

「ただいまー」

 返る声はない。思えばいつだって、この家に人がいることはなかった。おかえりと言うのは、いつも自分の役目。それでも、何となく家に戻ると口にしたくなるのは、何年も前に家を出て尚、ここが帰るべき家だと認識しているからだろうか。

「ふうん、ここがあなたの育った家なのね……」

 その背後で、凪沙が興味津々とばかりに辺りを見回している。物珍しさなど何一つない、小さくて、狭くて、ボロくて、それでも思い出の溢れる実家。生活感丸出しの部屋に、探偵とはいえ若い女性を入れるのも気が引けるが、我儘は言っていられない。

「なんだか、変な気分だわ」

「なんで?」

「こんな風に誰かの家に来ること、ないから」

 凪沙は物珍しげに部屋を見回している。キッチンには散らかったダイニングテーブル、カップ麺が積み上がった棚に、仕事の資料の束が雑多に積まれている。こんなものの何が珍しいのかと思ったが、彼女の過去を思い出して口を噤んだ。彼女が子どもの頃、こうして他人の家に踏み入れることは、ついぞなかっただろうから。

「……依頼で人んち行かねーの?」

「大体打ち合わせはうちの事務所か、ホテルか、料亭か、そんなとこばかりだもの。代わり映えしなくてつまらないわ」

「じゃなくて、こう、証拠欲しさに人んちに忍び込むとか」

「あのね、裁判で法的に効力のある証拠は、法を犯さない範囲で得た証拠だけなのよ。私たちのこと何だと思ってるのよ、全く……」

 紅城のマンションにはダクトを通って侵入してきた口が何を言っているのだろう。ただ、それについては御幸の救出が目的。御幸の冤罪の証拠を集めるのが狙いではなかったのだろう。まあ、結果として色々な情報を得られたわけだが。

「はー……」

 凪沙の事務所と違って、寛げるようなソファなんて高価な物はこの家には存在しない。イ草香るこの畳みの間が、御幸にとっての寛げる場所だった。ごろりと寝転ぶと、体の力がするすると抜けていく。思えば、今住んでいるマンションにも和室はない。畳で寝転ぶなんて、何年ぶりだろう。次に家を引っ越す──或いは買う時は和室がある家にしよう、そんなことを思った。

 すると、凪沙はテーブルの上に散らかったビール缶を積み上げながら、鞄からスマホやらノートパソコンやらを引っ張り出していた。

「何してんだ?」

「ちょっと調べもの。あなたは少し休んでて」

「……いいのか?」

「朝からずっとドタバタしてて疲れてるでしょう? お父様が戻られるまで、ゆっくりしててちょうだい」

 確かに、家に戻った安堵もあり、どっと疲れた。今日は朝からドタバタしっぱなしだった。だがそれは、凪沙も同じ。寧ろ御幸以上に奔走していたはずだ。彼女だって少しは息抜きすればいいものを。そんな不満が顔に出たのだろう、凪沙は緩やかに微笑んだ。

「大丈夫。護衛の探偵もこの辺張り込んでるし、攻め込まれても時間を稼いでくれるわ!」

 そういうことを心配してるわけじゃない。だが、それを口にすべきかは、迷った。彼女だって子どもじゃない。この道のベテランなのだ。あれこれ口に出し過ぎても、彼女の仕事に差し障る。もう十分なぐらい、御幸は彼女の無茶を引き留めているのだから。

 だけど──。

「お前も少しは休めよ」

「私? 平気よ、全然元気だもの」

「そーじゃなくて」

 食い下がる御幸に、凪沙は不思議そうに首を傾げた。がばりと起き上がると、テーブルの横で困惑する凪沙の腕を掴んで、和室へと引っ張っていく。

「ちょ、ちょっと!」

「休んでる横でバタバタされちゃ、気が散るんだっつの」

 そうして再び畳の上で寝転がる。けれど腕は、しっかりと凪沙を掴んだまま。ああ疲れた。これでようやく休めると、御幸は目を閉じる。

「ちょっと! 寝るならせめて布団でも敷きなさいよ!」

「へーきへーき。フローリングじゃねえんだし」

「そういう問題じゃ──」

 そう言いかけて、凪沙は言葉を飲み込んだ。そうして柔らかな指先が、御幸の頬を掠めて、かしゃん、という音と共に眉間と耳の辺りが楽になった。どうやら、凪沙が眼鏡を外してくれたらしい。

「全く……困ったクライアント様だわ」

 瞼の向こうに、そんな呆れたような、けれどとても穏やかな声が聞こえてきた。観念したように膝をつく、そんな布の擦れた音に、御幸はようやく腕を掴む力を緩める。いい、どうせ自分はお客様なのだ。だから、我儘なんか言ったもん勝ちだ。

 そんな思いで、御幸は自らの腕を枕に、疲労から生まれる眠気に身を委ねたのだった。



***



「──ふうん、その調子だと、帰りはまだかかりそうね。……ああ、違うの。クライアントがお父様に話があるらしくてね。まあ、いいわ、だいぶ情報も出揃ったし。ああ、あんまり揉め事はなしね。……いや、だってあなたたち、いつも暴力で何とかするじゃない。たまには元弁護士らしく、頭で解決しなさいな」

 うつらうつらとしていた意識が、ゆっくりと浮上する。溜息交じりの女の声が、滑らかに耳に流れ込んでくる。

「あと、相棒に言っておいて、この件は陽銘連合が関わってる、って。……あら、知らないの? 広島の東城会みたいなものよ。そう、結構ヤバくてね。東城会の連中に気取られたら、戦争になりかねないわ。だからなるべく穏便に……いや、まあ、クライアントの安全が最優先、そうね、その通りだわ」

 さらり、と温かな指が髪に触れた。日焼けで痛んだ髪を梳くように撫でる手が心地よく、再び眠気が蘇ってくる。このまま再び眠るのもいい。ごろり、と巨体を転がすと、慣れ親しんだイ草の香りとは別に、シャボンに包まれたような匂いがしてきた。そういえば、なんだが後頭部が温かいような──。

 目を開けて驚いた。自分が、凪沙が電話している姿を見上げていたのだから。

「うおっ!?」

「え、なに!? ……あ、何でもない。平気。それじゃあ、また」

 眠気は一瞬にして吹き飛び、御幸は畳の上を転がるように後退る。凪沙はどこへやら電話していたようで、キョトンとした顔でスマホを仕舞っていた。そうして苦い表情で、正座していた足を崩す。その仕草に、自分が今の今まで誰の何を枕にしていたのか悟る。

「お、おま、何して……っ!」

「ちょっ、責任転嫁しないで! あなたが私の膝を枕にしてきたのよ!」

「俺がぁ!?」

「そうよ! 覚えてないの!? それともアレ寝惚けてたの!?」

 覚えてない。全くだ。というか、覚えていたら、こんなに動揺していない。かっ、と顔に熱が集まるのが分かって、誤魔化すように視線を逸らす。凪沙はパンツスーツでは守られなかったらしい、痺れた足を揉んでいた。

「私も色んな依頼を受けてきたけど、膝を貸したのは初めてだわ」

「そーかよ……」

「それで? 成金探偵様の膝の寝心地はどうだった?」

 からかいがちに訊ねてくるものだから、うるせーよ、と吐き捨てて立ち上がる。壁掛け時計は既に十九時を指し示している。三時間も眠っていたらしい。無論、父親の姿はまだない。珍しい、あまり遅くまで仕事をするタイプではないのだが。

「え、えーと、親父は? まだ帰ってねえの?」

「ええ。渋滞に掴まって、仕事が長引いているって報告があったの。この調子だと、あと二時間は戻らないそうよ」

 凪沙は何でもないように肩を竦める。御幸も思考を切り替えて、時計を再度見る。あと二時間。二十一時を過ぎてしまう。その間ずっとここでダラダラするのも気が引ける──何より。

「腹減ったな……」

「んー、そうねえ。朝はお粥だけだったし」

 身体は十分休まった。そのせいか、緊張感が緩み、馬鹿正直な身体は空腹を訴えだしたのだ。無論、身体資本の仕事である。空腹を感じることは決して悪いことではない。故にこそ、御幸は玄関を顎で示す。

「なあ、今から葛西臨海公園に行こうぜ」

「今?」

「どっかで飯食えるし、親父はしばらく帰らねえんだろ?」

「……それもそうね!」

 同意見らしい、凪沙は勢いよく立ち上がった。そうして椅子に掛けてあったジャケットを肩にかける。

「どこか美味しいお店知ってる?」

「全然。テキトーでいいだろ」

「どうせなら美味しい物が食べたいわ。お金もあるんだし」

「臨海公園に飯食う場所なんかねえよ。バーベキュー場ならあっけど」

「バーベキュー!!」

「行かねーぞ、そんなめんどくせえとこ」

「どうして!? なんでめんどくさいの!?」

「お前絶対バーベキューしたことねえだろ……」

 そんなことを言い合いながら、二人は再び車に乗り込む。臨海公園までは車を走らせれば十五分もかからない。この辺は地元だが食事処なんかほとんど知らないので、しばらくああでもないこうでもないと騒ぎながら、駅近くの個室の居酒屋にやってきた。

「そういえば、なんで家に帰ってきたの? お父様の顔見るため?」

 流石に酒は飲めないので、メニューを開いて片っ端から食べ物を注文する。即座に運ばれてくるアスパラのベーコン巻に塩を付けながら、御幸は答える。

「いや、紅城のとこで変なもの見つけたんだよ」

「変なもの?」

「……『登記権利情報』とか、『登記済証』。しかも、俺んちの近所の、商店街とか、顔馴染みの店とか、そんなんばっかでさ」

 まさか、と梅水晶をつまんでいた凪沙の箸が止まる。

「連中の目的は──御幸スチールの、土地?」

「ああ。相手はヤクザなんだろ? この手は、連中の十八番だ」

 とはいえ、それも古い時代のヤクザの話。今時土地を転がし、地上げだのなんだのと、この不景気の時代にはさほど聞かない。だが、そうとしか考えられない資料が、敵地のオフィスで見つかったのだ。狙いが土地なら、何をするか定かではないが、確かにリターンも大きいはずだ。何より、御幸が狙われる理由になる。

「会社に資金提供していた俺がいなくなれば、親父は後ろ盾を失くして、連中の脅しに屈して土地を手放しかねない。だから、俺が邪魔だったんだよ」

「……何億もの資産を持つプロ野球選手の後ろ盾。確かに、この周辺の土地を買い漁っている連中からしたら、目の上のたん瘤ね」

「目的は──街の再開発、とか?」

「まあ、概ねそんなところでしょうね。土地は金を生むわ。特に東京の二十三区内ならなおさらね」

 街の再開発には何億もの資金が投じられる。建物を建てる人がいて、その上で商売をする人がいて、そこに集まる人がいる。そうして、更なる金を生む。だったら、人を消すだけの金を投じるのも頷けるし、御幸一也が狙われた理由にもなる。ヤクザは御幸に死んでほしかった、紅城は御幸が欲しかった、蒼葉は御幸が邪魔だった。統率の取れてないわけだ。連中は各々、目的が違って、御幸一也を表舞台から排除しようと画策していたのだから。

「……でも、それでも腑に落ちない点がいくつかあるわ」

「例えば?」

「そんな大きな再開発計画、東城会が見過ごすわけがないわ。どうしてわざわざ広島が本拠地の陽銘連合会が出しゃばってくるのかしら」

「それって、そんな変なことなのか?」

「野球にだって本拠地はあるでしょう? 自分たちの本拠地で、敵チームが我が物顔でイベント画策して集客してるようなものよ。ましてや二十三区ほどの値の張る土地。再開発計画が持ち上がっているなら、見逃すわけがない」

「……なるほどな」

「だからこそ、その答えを見に行くのよ」

 そう言って、いくつもの空になった皿を積み上げて、二人は立ち上がる。腹ごなしは済んだ。次は、答え合わせの時間だ。紅城は腹部を刺されて尚、その情報を御幸たちに伝えてきた。絶対に無価値ではないはず。無論、罠の可能性もあるが──。

「大丈夫、紅城夕木は嘘は言っていない」

「……だよな」

 凪沙の言葉に、御幸も迷いなく頷いた。あれが嘘で、罠であるなら、もう人を信じない。息を絶え絶えで御幸たちに真相を託した、愛に生きる女の言葉は信じるに値する。それだけだ。

 会計を済ませ、車を駐車場に止めたまま臨海公園まで歩く。夜の公園ということもあり、周りは暗く、至近距離でなければ互いの顔の輪郭の定かではないほどだ。とはいえ人気がないわけではなく、遥か遠くからはバーベキュー会場の明かりが漏れており、人々の喧騒が目に見えているようだった。

 すると、凪沙が突如立ち止まる。ポケットのスマホを取り出すと、ほっとしたように微笑んだ。

「あら、噂をすれば──見て」

 そう言いながら、凪沙は御幸にスマホの画面を見せた。そこには、いかつい顔をした白衣を着た男、ぐったりしながらも笑ってピースをする紅城夕木とその執事、それから不機嫌そうな顔をした両手を包帯でぐるぐる巻きにされた見知らぬ女と共に、傷だらけの瑠夏が自撮りをするかのような構図で映し出されていた。

「みんな無事だったみたい。流石、柄本先生」

 くすりと微笑んで、凪沙はスマホを仕舞う。恐らく、包帯だらけの女は凪沙の身代わりに捕らえられた女だろう。怪我の有無はともかく、みんな生きて戻ったらしい。よかった、と御幸は無意識のうちに胸を撫で下ろす。

「それじゃ、私たちは私たちの役目を果たしましょう」

「……だな」

 そうして二人、言葉少なに公園を散策する。近くに水族館や遊園地があるようで、たびたび看板を目にした。だが、それが『答え』とは思えない。溢れる森林と、その奥から微かに漂う潮の香り、人々の喧騒は木々に遮られてしまい、ノイズの波ように寄せては返す。

「……」

「……」

 二人の間に会話はない。ただ肩を並べて、公園をぐるりと見まわしているだけ。人気はない。ヤクザどころか一般人すらろくに通らない。おかげで口元をマスクで隠すだけで往来を歩けるのだからありがたい。

 ただ、不思議と落ち着かない。胃の辺りがざわざわする。食べ過ぎてしまったのだろうか。一方で、ともすれば御幸と同じぐらいの量を食べていたが、凪沙は平気そうだ。その視線に気付いたのか、凪沙が御幸を見上げて微笑んだ。

「どうしたの?」

「いや──いや、別に」

「ふうん?」

 凪沙は首を傾げたまま、再び視線を周囲に向ける。キョロキョロと、首を振るたびに、軽そうな前髪が揺れる。穏やかな潮風に翻り、前髪の一部がぴょこんと逆立った。まるで触角のようだ。ひょこひょこ動くそれが面白くて、鼻から抜けるような笑いが込み上げてきた。

「なに」

「別に?」

「人の顔見て笑ったじゃない」

「顔じゃねーって」

 そう言いながら、触角のように逆立つ凪沙の前髪に触れて、撫で付ける。そうすれば、元通り。いつもの彼女だ。だが、凪沙は不服そうに顔を膨らせた。

「ちょっと、乙女の髪を気安く触らないで」

「お前だって俺の髪触ってたろ」

「あれは手持ち無沙汰で──というか、あなた起きてたの!?」

 心外だとばかりに声を荒げる凪沙だが、先に仕掛けてきたのはそっちだ。文句を言われる筋合いはないと笑えば、性格が悪いと凪沙は不服そうに零す。二人してやいのやいのと言い合いながら、人気のない公園を練り歩く。

 未だに、落ち着かない。胃はざわざわしっぱなしで、思考もどこか浮ついている。けれど、不思議と楽しかった。驚き、困り、そして笑う彼女の隣が、心地よかった。ずっと前から、それに気付いていた。その理由を、御幸はずっと考えないようにしていた。だって、けれど、でも──。

「だからあれは私のせいじゃなくて──あ、こっちは海かしら?」

 足を止めて、凪沙が道の向こうを指を差す。そうなんじゃないか、と御幸も答えずに肩を竦める。何故か凪沙は嬉しそうに指差した方へと走り出す。遊園地だけでなく、海でもはしゃぐなんて、いよいよ本当に子どもだ。

 いや、彼女の感性はずっと子どものままなのかもしれない。長いこと裏社会に身を置いていた凪沙は、幼い頃にこうした場所に訪れる機会はなかったのだろう。でも、彼女はもう自由だ。どこへ行くにも、何をするにもその制約はない。ただ自分自身で、少し自分に重石を乗せてしまっているだけで。

 でも、誰かが、彼女を導いてやれば。ほんの少し、背を押してやれたなら。

「わあーっ! 海! 久々に来た!」

 彼女はその場でくるくると回りながら、埠頭を歩いていた。海風は優しく。夜に浮かぶ月をゆらゆらと映し出している。いい夜だ。なのに、胃のざわめきはまだ収まらない。寧ろ、もっと。もっと──。

「天城」

 自然と、その名前を口にしていた。だが、彼女は振り返らない。埠頭に寄せられている、小型のフェリーを見上げている。その清らかな横顔に、御幸は今まで見て見ぬふりしてきた感情の色を垣間見てしまったような気がした。

「天城、俺──」

「そういう、こと──だから、陽銘連合だったのね……!」

 だが、彼女の名は凪沙のわななく声にかき消された。小型のフェリーを見上げる凪沙の目は見開かれており、歓喜と悔しさが入り混じったような複雑な面持ちで。とても先ほどの言葉の続きを言えるような雰囲気ではない。御幸は続きを飲み込んで、訊ねる。

「どうかしたのか?」

「紅城夕木の言う通りだったのよ……確かに、これが答えだわ! だから陽銘連合なのよ、これなら確かに、東城会と揉める必要もない!」

「だから、どうしたんだよ!」

 先ほどまでのざわめきはどこかへ吹き飛び、興奮気味の凪沙の肩を掴んで揺する。すると、凪沙の好奇心にぎらついた目が暗闇の中で煌めいた。

「陽銘連合会はね──巌見グループをフロント企業にしたヤクザなの」

「巌見グループ……なんか、聞いたことがあるよう、な」

「ええ。世界規模の造船会社よ」

「造船──」

 その言葉に、目の前のフェリーを見上げる。ここは、海辺の町だ。近くには江戸川もある。これは観光用だが、近くには長距離移動用のフェリー発着場もあったはず。もしこの辺り一帯の船を、そのグループが作ることができたなら。船一つ作るだけでも莫大な金が動く。観光地を築き、遊覧船やフェリーなどの『船』を目玉にすれば、観光客がわんさと押し寄せるだろう。そうなれば、その周囲には宿泊施設が必要になる。そうして建物が立ち並ぶには、土地が必要になって──。

「それが……目的なのか……!」

「間違いないわ。それなら、東城会のシマを直接的に荒らすことなく、陽銘連合が東京に進出できる。彼らはあくまで船を作って、観光地を増やそうとしているだけ。そして、そこに付随するであろう利益に向けて密かに先行投資しているだけなの……何年、何十年先を見据えてね……!」

 なるほど、この土地にはまだそこまでの価値はない。だから、土地を密かに買いたたいたところでさほど目立たない。この土地に価値が出るのは、観光地としてこの場所が人気を集めた後。だからまだ、主立ったシマ荒らしとは呼べない。だから、敵地で土地を買いたたくなんて奇妙な行為ができるのだ。

「やっと──やっと、辿り着いたわ!!」

 どんな美しい光景を目にした時よりも、どんな美味しい食べ物を食べた時よりも、女は顔を輝かせている。拳を握り締め、今にも振り上げそうな彼女に、御幸は遠慮がちに訊ねる。

「これからどうするんだ?」

「敵の顔が見えた、目的も分かった! ここまでくれば、あとはボロを探すだけ! 探しものは探偵の十八番よ! もうすぐ──もうすぐ帰れるのよ、御幸!」

 まるで自分のことのように、彼女は喜んでいる。それは嬉しい。そのために、御幸はやってきたのだから。この探偵に、依頼したのだから。ただ、その一言で再び胃がザワついた。しかも、嫌な感じに。ああ、もう、認めざるを得ない。これは、この感覚は──。

「……嬉しくないの?」

 そんな御幸に、凪沙は心底不思議そうに首を傾げた。御幸はその答えを舌に乗せようと口を開いてから、閉じる。今は、まだだ。まだ、その時じゃない。時間はある。御幸にも、そして凪沙にも。だからこれは、全てが終わってからでも遅くない。全てが丸く収まってからだって、きっと。

 だから御幸は穏やかな思いで口角を釣り上げた。

「なわけねーだろ。ただ、思った五倍早かったと思ってな」

「三億も積んでもらえたんだもの、当然よ」

「流石、親父が見込んだだけあるな。お前に頼んで良かった」

「そう言ってもらえるなら──はい?」

 御幸の一言に、凪沙は素っ頓狂な声を上げた。ああ、そういえば、この話はまだしていなかったような。初手から親しく雑談する仲ではなかったし、彼女の父親の話を聞いてからは避けよう避けようと思っていたので、すっかり忘れていたのだ。

「いや、お前の父親と俺の親父が顔見知りみたいでさ」

「……は?」

「すげえ偶然だよな。お前の親父さん残した名刺が、巡り巡って俺のこと救ってくれるんだからさ」

 希少だと言われたその名刺を何故父が持っていたのか、理由はシンプル。御幸スチールの取引先だったが、天城家は倒産してその交流は断たれた。ただ、人付き合いの苦手な父にしてはかなり仲が良かったようで、取引先としての交流が無くなっても、たびたび顔を合わせていたのだという。そのツテで探偵をしているという天城探偵事務所の名刺を貰ったのだという。

 けれどそれも、もう何年も前の話。まさか二代目に引き継がれているとは、しかも自分と同世代の女が切り盛りしているとは聞いていなかったが。

 だが、凪沙は信じられないとばかりに目を見開いて、ヨロヨロと後退っていて。

「ま、待って、御幸。あなた、うちの事務所の名刺、業界人から貰ったんじゃないの!?」

「いや、親父から貰ったけど。言ったろ、親父同士が──」

「そんなことありえないわっ!! 絶対にっ!!」

 夜の埠頭で、女が叫ぶ。波の向こうには消えてくれない悲痛な声が、鼓膜を震わせる。何故、泣きそうな顔をしているのか。何故そんな辛そうな声をしているのか、分からない。確かに、偶然ではあるが──。

「あの名刺は、私が屋号を継いでから刷ったのよ!! 住所も電話番号だって変わった!!」

「……え?」

「父が消息を絶って十年は経ってるのよ! ずっと──ずっと、東城会も近江も、私だって探しているはずの消息不明の父が、どうして私の事務所の名刺を持って、あなたの父親に渡したって言うの!?」

 そんなことを言われても、分からない。父からそう聞いただけだ。自分の顔見知りが探偵をやっていると。頼りになるかは分からないが、相談してみるのも手だろうと、父から天城探偵事務所の名刺をもらっただけ。誹謗中傷の嵐の中で、自分に手を差し伸べてくれた父の言葉に従っただけなのだ。

 けれど、『それ』がいつ父の手に渡ったのかは、聞いていない。

「嘘よ──ありえない──でも、まさか、そんな──っ」

 凪沙は青ざめた顔をそのままにその場に頽れそうなほど震えている。大丈夫か、そう訊ねて手を伸ばしたその時。波の音色を劈くような、ピリリリリッという目覚ましのような大きなアラーム音が凪沙から発せられた。凪沙はハッとして電話を取る。電話の相手は男だった。よほど急いでいたのか、低い声が御幸にも聞こえるぐらいの声量でがなり立てている。

『天城、信じられねえ──ターゲットが今、辰夫の野郎──お前の親父と一緒に飲み屋に入っていったぞ、どうなってやがるんだ!?』



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