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 俗に、これは絶体絶命ではないだろうか。背後は断崖絶壁とばかりの高層ビルの屋上、目の前には銃口を向ける男と、拳を鳴らすヤクザ集団、それを率いる紅城夕木。武力で押せる瑠夏もおらず、凪沙もさほど武装しているようには見えない。

 けれど、成金探偵は威風堂々と御幸を庇うように前に出る。

「あらあら。見送りにしては、随分物々しいわね」

「お黙りなさい。薄汚い探偵風情が」

 紅城夕木はまるで親の仇でも見るような目で凪沙を睨みつける。だが、そんな視線もどこ吹く風。笑みを絶やさぬ凪沙に、紅城はギッと唇を噛み締める。

「あなたのような──あなたのような無謀な人間がいるから、御幸さんは叶いもしない夢を見る……!! あなたさえいなければ、その人は命を狙われることもなかったのにッ!!」

 叩き付けるように叫ぶ悲痛な女の声は、強風に攫われて消えていく。その声もその思いも、御幸には何一つ届かず、また、響かない。紅城のせいで、御幸は人生の全てだった職を失う羽目になったのだ。憎しみこそすれ、感謝などするものか。だって泣き寝入りするほど、御幸は物分かりはよくないのだから。

 ハァ、と凪沙も呆れたように溜息を零している。

「随分な物言いねぇ。私たちは勝手に首突っ込んだわけじゃないわ。この人がうちに依頼をした。私たちは彼の望みを叶えようとしているだけよ。寧ろ御幸の邪魔をしているのは、あなたの方じゃない?」

「違うッ!! あなたは何も──何も分かってない!! わたしですら、この人を守るので精一杯だったことを、どうして理解しないのッ!! わ、わたし、だって──御幸さんには、野球選手のままで、いて、欲しかった、のに……っ!!」

 顔を覆い、涙に暮れる女の慟哭は、やはり御幸には理解できない。御幸が何よりも大事にしているものを知りながら、それを奪うことを良しとした。守るためと言いながら、他者を加害し、御幸を攫い、軟禁まで試みた。それのどこが、御幸のためなのか。

「それだけの力があるなら、あなたが助けてあげればよかったじゃない」

 凪沙は心底不思議そうに呟いた。そうだ。『力』があるというのなら、御幸の意向に沿うように手を貸してくれれば、こんなことにはならなかったはずだ。勝手に敵わないと決めつけて、勝手に守るとしゃしゃり出てきて、そして今度は凪沙の行いを責め立てる。全く理屈が通らない。

「ただ生かすだけが、『守る』ことだと思わないことね」

「なっ──!」

「生き甲斐を奪われた人間の痛みも知らないで、何が精一杯よ。虫唾が走る」

 生き甲斐。その言葉に含まれる天城凪沙の迷いない本音に、ズキリと胸が痛んだ。やはり彼女はまだ、父親の呪縛に捉われたままなのだと、思い知らされる。故にこそ、だからこそ。高らかに声を上げる彼女の背中が何よりも勇ましく、そして何よりも寂しかった。


「退きなさい、お嬢さん。ここから先は、天城探偵事務所が推し通る!」


 けれど──これほど頼りになる背中も、御幸は他に知らない。

 強風に煽られるほど小さな身体で、銃口を前に一歩と怯まぬその眼差しには、『娯楽』のためでは済まないほどの覚悟が滲んでいる。この細い肩を握り締めながら、やはり助けを乞うべき相手は間違えていなかったと確信する。

「これが答えだ。お前は引いてくれ、紅城」

「そ、そんな──っ」

「危険だって言うなら、お前だって好き好んで巻き込まれることはねえだろ。……俺は、どんな危険が待ち受けていたとしても、球界に戻る」

 狼狽する紅城に、御幸は静かにそう告げた。御幸に好意がある以上、交渉の余地はあるはずだ。これ以上敵を増やしたくない。引いてくれるならそれに越したことは無い。これで退散してくれないか、そんな思いで言えば、紅城は益々困惑したように後退り、そして両手で顔を覆ってワッと泣き出した。

「どう、して……っ! わたしは、わたしは、ただ……!!」

 指の合間から恋に破れた女の嘆きが聞こえる。お嬢様、と銃口を向けていたスーツの男が、崩れ落ちる紅城を抱きとめる。女泣かせねえ、と凪沙は独り言を呟くもんだから、彼女の肩を握る指にグッと力を入れて意思表示をしておいた。

 ややあってから、涙に濡れた顔が再び御幸たちを向く。

「わか──わかり、ました。天城探偵──あなたは、お引き取り、ください!」

「は?」

「え?」

「ここから先は──我々、紅城が、御幸さんを、お、お守り、して、この人を、球界に、か、帰れるよう──尽力、します!」

「お嬢様!?」

 今、紅城はなんと言ったか。ついにこんなことを言い出す紅城夕木に、凪沙や御幸だけでなくスーツ姿の男まで素っ頓狂な声を上げた。子どものようにしゃくり上げながら、紅城は言葉を続ける。

「あ、あなたより、あなたなんかより──我々の方が、適任のはず! 球界とのコネクションが、あります! 資本だって、武力だって! あ、愛する人のために危険を冒せと言うのなら──や、や、やってみせます!! だから!!」

 何言ってんだこいつ、と零しそうになるセリフを飲み込んで、凪沙をちらりと見やる。凪沙もまた、何とも言い難い気難しい表情をして、「今更ねえ」と呟いた。全くの同意見である。今更手のひらを返して守るだの尽力するだの、虫がいいにも程がある。確かに、コネクションやら資本やら武力やら、天城探偵事務所にない物がある、という訴えは正論だろう。けれど──。

「ああ言ってるけど、どうする?」

「は?」

 すると凪沙は、きょとんとした顔を御幸に向ける。どうするも何も、と言いかけたところに、凪沙は畳みかける。

「そりゃあ、私としてはぜひこのまま──と言いたいところだけど、依頼人の意思も尊重しないと」

「尊重、って……」

「彼女の言う通り、紅城にはうちにない力がある。事件にも噛んでたみたいだし、ひょっとしたらうちより早く真相に辿りつけるかもよ?」

 そう言って、ニヤリと笑う凪沙は心底楽しそうだった。ああ、そうか。答えなど決まっていると分かっていて、からかっているようだ。全く、嫌味な女だ。御幸もニヤッと笑みを浮かべ、凪沙を支える腕を引き寄せる。ほとんど肩を抱いているかのような御幸の体勢に、紅城はヒュッと喉を鳴らす。

「生憎、女の趣味は悪いもんで」

 そうして仲睦まじい男女のように頭を傾ける御幸。「失礼な」という小声がしたが、凪沙もまた御幸の方に頭をもたげてきた。どうやら、乗っかる気満々らしい。というか、そうして紅城を煽るのが目的なのだろう。狼狽える紅城はショックを受けたように呆然としている。

「だから悪いな。お前らに頼る気はねえ」

「──ってことらしいので、クライアント様のご意向に沿って、この場を突破させていただくわ。邪魔をするなら、排除するまで!」

 正々堂々と宣言する御幸と凪沙。

 さあ、どう出る。これほどまでに煽っているのなら、彼女を噴火させて争いに持ち込むことが凪沙の狙いだろうか。逆効果な気もするが、凪沙の作戦が今まで失敗したことは無い。だから御幸は信じて、自分にできることをするまでだ。

 強風が吹きすさぶ。俯く紅城は今、何を思っているのか。誰もが見守る中で、やがて震える唇は小さく動き出す。

「──陽銘連合会、です」

「……?」

 ぽつり、と呟かれたワードに聞き覚えはない。だが、確実に空気が凍ったことは分かった。凪沙や黒服だけではない。周りのヤクザたちでさえ、目を見開いている中で、ただ一人紅城夕木だけが舞台に上がった女優のように動いている。

「糸を引いてるのは、此処の連中たちは、近江でも、東城会でも、ありません。真の黒幕は──この事件の絵を描いたのは、陽銘連合会なんです」

「なんですって!?」

 顔を上げた紅城は、腹を据えた目をしていた。その目には、確かに嘘らしい嘘がない。御幸にも分かったのだから、凪沙に悟れぬはずもない。焦ったように声を震わせる凪沙は、明らかに動揺している。亜門が出てきた時と同じぐらい、顔を顰めているのだ。

「陽銘連合──なんでそんな連中まで出てくるのよ……っ!」

「なんだ、そのヨーメーレンゴー、って……?」

「東京が東城会、大阪が近江連合なら──広島に根付く極道組織よ」

「広島!?」

 全然耳にしてこなかったワードが飛んできて、御幸も驚いた。確かに、広島にも野球チームがある。そういう関係だろうか。混乱する御幸以上に、凪沙は信じられないとかぶりを振る。

「私だって想定外よ! そりゃ、東城会も近江連合でもないようだし、北海道の北方も九州の山笠もゴタゴタ起こして外に目を向ける隙は無い。蒼葉がいる以上星龍会も噛んでこないはずだから、てっきり蛇華とか、ジングォン派とか、海外組織が絡んでるとばかり……! だって、陽銘連合は名古屋組同様、地元に根付くタイプじゃない……なのになんで……!」

 ぶつぶつと矢継ぎ早に呟く凪沙の言っていることは、御幸には半分も分からない。だが、凪沙にとって予想外の出来事が発生したことは分かる。予想外の情報に戸惑う凪沙に、紅城夕木はあくまで静かに話を続ける。

「そう、本来東城会の縄張りである東京の揉め事に、抗争中の近江ならまだしも、陽銘連合が首を突っ込むのは本来ありえません。けれど、それだけの──利、が……」

 その瞬間、紅城の言葉が途切れた。表情はぽかんとして、自分の下腹部に目を落とす。御幸もその視線に釣られるように見て、ぎょっとした。彼女が身に纏っていた青いワンピースが、徐々に赤く、赤く染まっていき──。

「ど、して……」

「お嬢様っ!!」

 スーツ姿の男が崩れ落ちる紅城を抱きとめるが、血は止まらない。ドクドクと雨に流れる川のように、赤い血がおびただしくも広がっていく。そしてその背後には、赤い刃をかざすヤクザがいて。

「お嬢、困りますわァ。勝手にワシらの素性をベラベラ喋られちゃあ」

「き、貴様っ──!」

 ヤクザたちはげらげらと下卑た声で笑いながら、味方だったはずの紅城が無様に転がる姿を見下ろしている。彼らの中で、紅城を心配しているのはスーツ姿の男だけで、他の者たちはそうだそうだとばかりにヤジを飛ばしている。そんな男たちに、紅城はまた涙を流す。

「ひ、ひど……い……」

「酷い? いやいや、酷いのはそっちでしょうや、お嬢。なーに当たり前みたいな顔で、ワシらを裏切ってくれるんじゃ? ええか、ワシらは利害関係が一致してるから手を組んでるだけ。あんたの味方ってわけやあらへんのよ」

「そ、そんな……だって……っ」

「あんたの言うこと何でも聞いてきた? まあ、確かに? ワシらはお嬢の我儘は可能な限り叶えてきたわ。さっさと始末すりゃあいいものを、御幸一也を尾行して、誘拐も企てて、便利な兵隊でいてやった。仕方ないじゃろ? このご時世、ヤクザってだけで商売あがったりじゃけえ、金をくれるご主人様には尻尾振らなきゃ生きてけんのよ」

 リーダー格なのだろうか。やや訛ったその声色は、先ほど御幸に電話してきた男の声に似ていた。ニヤニヤと下卑た笑みをそのままに、男は血の滴ったナイフを御幸──ではなく、紅城に向ける。

「けど、あんたがワシらを売るなら、その契約もおじゃんよ。いやはや、ワシらも残念じゃ。湯水のように金使ってくれるあんたとなら、上手くやっていけると思ったんじゃが──所詮は恋に恋する一般人。縁の切れ目は金だけやあらへんと、もうちっとお勉強しとくべきやったのォ?」

 ほいじゃあ、と振りかざすナイフに、御幸は身体が強張り、スーツの男は庇うように自らの身体で紅城を覆い隠す。チッ、と凪沙が舌打ちを零す。

「仕方ない──瑠夏! プランCに変更よ!」

「合点承知!」

 その瞬間、ヤクザ集団の中から聞き覚えのある声が飛び出した。そいつはナイフを手にした男を体当たりで突き飛ばす。目を瞠る御幸の視線の先には、ガラの悪いサングラスがその拍子に床に転がり、ド派手なガラシャツに白パンツ姿のいかにもという格好の瑠夏が、拳を振り上げていた。

「あいつ何であんなとこに!?」

「木を隠すなら森の中、ヤカラを隠すならヤカラの中よ!

「なんだその理屈!?」

「ええい、やかましい! 瑠夏! 紅城は貴重な証人になる、絶対に生かして逃がしなさいッ!!」

「承知! 暴れさせていただきやす!」

 凪沙の命令に瑠夏は活き活きと返事して、手にしていた棒状の物を振りかざす。ヌンチャク、だろうか。二つの棒が、チェーンに結ばれている武器だ。映画でしか見たことのないそれを、瑠夏は己が手足のように振り回し、肉体に纏わせ、襲い掛かってくるヤクザたちに叩き付けていく。何十人ものヤクザ相手に器用に立ち回り、背中に血を流してぐったりする紅城を守るように戦う。

「来て!」

 そう言うが否や、強風吹きすさぶ中、凪沙が御幸の腕を掴んで駆け出す。そうして横たわる紅城とその傍で狼狽する男の前に駆け出して、凪沙はバッとスーツの上着を脱ぐ。上着の下は白シャツだったが、ごつめのギプスのようなものをつけている。防弾チョッキだろうか。御幸の疑問は置き去りに、凪沙はその上着を包帯のように、慣れた手付きで紅城の身体にきつく巻いて縛っていく。

「あと一分で脱出用ヘリが来るわ。それに乗って瑠夏と逃げなさい」

「なん、で……たす、け……?」

「言ったでしょう。御幸の球界復帰には冤罪を被せた犯人がいるし、それを立証する証拠と証言が必要なのよ。あなたに今死なれたら困る」

 そう言って、袖口部分をぎゅっと縛ると、紅城は血の気の失せた表情を顰めさせる。血は止まらない。どくどくと赤い血だまりが広がるばかりだ。青ざめるスーツ姿の男の肩を、凪沙は赤く染まった手でポンと叩く。

「あなたは執事ね? ヘリは神室町に向かう手筈になってるから、着いたら柄本病院に向かいなさい。腕利きの闇医者よ、誰だって治療してくれる。場所は泰平通り西の牛丼屋の横。質問は?」

「え、あ、いや……!」

「何かあったら瑠夏に聞いて。多分すぐ片付くから。私たちは追っ手を分断するために、別ルートから逃げさせてもらうわね」

 そう言って立ち上がる凪沙。相変わらず、やることなすこと話の早い女である。たった数分前まで敵対していた女を助けるなんて、決断力の早さには舌を巻く。向こう側ではヤクザに扮した瑠夏が、ヌンチャクを振り回してヤクザたちを蹂躙している。あっちもあっちで事が早いものである。

 コクコクと頷く執事に、凪沙はニコリと微笑んだ。

「お互い、生きて会えますよう」

 そうして立ち上がろうとする凪沙のシャツの裾を──紅城が、震える指で握り締めた。はあ、はあ、と浅い息を吐きながら、紅城が必死に小さな唇を動かす。

「葛西の、公園──そこに、全てが」

「……え?」

 ぽつりと呟かされたその一言に、ドクンと心臓が跳ねた。やはり──やはり、そういうことだったのか、と。けれど凪沙はその事実に気付かぬまま、じっと青白い顔の紅城を見つめている。

「御幸さんに、選ばれた、からには──やり遂げ、て、ちょうだい」

 か細い息の合間に、そんな言葉が聞こえる。必死な表情は、恋に恋して、夢に夢見るお嬢様の顔ではない。覚悟を決め、痛みに耐え、願いを託す一人の女がいるだけだった。その顔を見て、初めて御幸は紅城の境遇に同情できたような、そんな気がした。

 凪沙は静かに首を縦に振って、得意げに笑った。


「当然よ。うちの依頼成功率は、未だに百パーセントなんだから」


 その言葉に、紅城は安心したように笑みを零したような気がした。

 けれど、それを見届けるはずもなく、凪沙は再び御幸の腕を掴んで走り出す。階段の方──ではなく、手すりの向こうにビルの群れが広がる空間で。

「……お前、まさか」

「名探偵を名乗るからには、ライヘンバッハの滝から飛び降りたって生還しないとね?」

 ライヘンバッハの滝が何を指し示す言葉か、御幸は知らない。知らないが、それが文字通りの言葉だとするのなら、死ぬほど嫌な予感がする。けれど凪沙は止まらない。御幸もまた、止まらない。二人はまるで助走をつけるようにスピードを上げていき。

「──私のこと、信じてくれるんでしょう?」

 そう訊ねられて、ハッと乾いた笑みが零れた。全く、問われるまでもない。嫌な予感は消えてなくなったわけではないが、もういい。この女を信じる。そう決めた。もうどうにでもなれだ。走る最中に、凪沙の身につけていたギプスのような物の正体を察した御幸は、口角を上げて頷いた。

「言われるまでもねえよ」

 その言葉に、凪沙はニッコリ笑って頷いた。そうして二人は走って、走って、走って、いつしか掴まれていたはずの手は、この手にしっかりと握られていて。そうして走って、走って、走って。ついに手すりを踏み台のように足をかけた。

「嘘だろ、あの二人まさか──」

 背後で息を呑んだのは、瑠夏にボコボコにされているヤクザだったのか。それともスーツ姿の執事だったのか。御幸は振り返って確認することもできなかった。手すりの向こうには、ビルの群れが立ち並ぶ空間。足元には、ゴマより小さな人や車が行き交う道が、遥か遠くに見えて。ふわり、という嫌な浮遊感。手すりを踏み越えて、足元に何もないのなら、あとは重力に身を任せて落下していくだけ。

 ひゅっ、という風を切る音を最後に、視界がくるくると、くるくるりと、引っくり返る。そうして二人は、高層ビルから仲良く一緒に飛び降りた──。



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