21

 ベッドルームの外はごくごく普通のマンションのようだった。リビングにいくつかの部屋、バスルームとトイレがある。ホテルのような天城探偵事務所のゲストルームとは違って、綺麗な部屋だが、ところどころに生活感が滲み出ている。だが、この家の外はごくごく普通のマンション、ではなかった。他に窓も扉もない廊下が長々と続いており、広いフロアにエレベーターと非常階段しか見当たらない。周囲に気を配りながら階段を降りようとすると、下からは多くの足音と、耳を塞ぎたくなるような喧騒が響いてくる。

『テメッ──亜門!?』

『お前なんでここに──ぐあっ! 止めろこの馬鹿!』

『っ、このイカれ殺人鬼! 下にはお嬢様がいるんだ、通すな!!』

 肉と骨が砕ける鈍い音、軽い発砲音、怒鳴り声の合間に聞こえる痛みに歪む声。そんな暴力の全てが、下のフロアから聞こえてくる。下には行かない方がよさそうだ。だからといって上を目指したところで、玄関は下の階にあるのだ。逃げられるわけはないのだが、下の階に行ってノコノコ捕まるわけにもいかない、と御幸は身を潜めながら上のフロアを目指す。

 上のフロアは普通の事務所のようで、いくつもの鉄扉が並ぶ廊下が続いている。人の気配を察して男子トイレに身を隠したのと同時に、廊下奥の扉から何人もの男が長い杖のようなものやトンカチやレンチなどを携えて飛び出してきた。みな人相が悪く派手なスーツを着ており、一目でその筋の者と分かる。

「亜門のアホがまた暴れよったらしい! 行くで!」

「へい!」

 そうして血の気の多そうな男たちはドタタタタッと軽快な足取りで階段を転がり降りていく。一瞬の静寂。ぶらーん、と空きっぱなしの扉を前に、チャンスと御幸はコソコソと扉に忍び寄り、中を覗き見る。よかった、誰もいない。

 部屋に入り、ひとまず鍵をかけて辺りを見回す。小さな部屋だ。五畳あるかないかという小部屋に、事務デスクが並べられており、書類が積み上げられている。窓があったのでちらりと外を見て、少なくとも窓から逃げることは断念した。ここがどこだか知らないが、窓からの景色はそれは見事なもので、眼下に広がる道を行く人々は米粒サイズだということは分かる。見覚えのない景色だが、五階十階の高さではなさそうだ。移動時間を考えるとまだ都内だろうが、流石にビルの群れを見ただけでは居場所までは分からない。

「(なんかねえか……?)」

 スマホ、せめて電話。天城探偵事務所の番号は曖昧だが、ぼんやりと記憶に残っている。とにかく今は、外と連絡が取りたい。だが、そんな希望も空しく、固定電話もヤクザたちの私物スマホも見当たらない。御幸は舌打ち交じりで、他に目ぼしい物はないか紙束を手に取る。

 封筒には『登記権利情報』だの『登記済証』などと書かれている。今しがた出て行った連中はあまり頭を使うような人間には見えなかったが、こんな小難しい書類と顔を突き合わせているのだろうか。不思議に思いながら書類をパラパラと捲る。すると、一枚の書類に目が留まる。初老の男性の写真が張りつけられており、赤いペンでバッテンが書かれている。登記済証とセットになったその写真に目が留まったのは、その初老の男性に覚えがあったからだ。何か、不思議と初めて見た気がしなくて──。

「……コロッケ屋の、おっちゃん、か?」

 その瞬間、ピンときた。そう、そうだ。どこかで見覚えがあったわけだ。実家の近くの商店街の、コロッケ屋。コロッケ屋なのにメンチカツの方が美味しくて、いつもシニアの練習帰りに買って帰ったっけ。赤ら顔の店主はいつもビール瓶を片手にメンチカツを揚げており、御幸が行くと『もっと食わねえとデカくなれねえだろ』と、形の悪いコロッケをオマケしてくれたっけ。懐かしい──けれど、何故、こんなものが、こんなところに。

 書類を捲る。するといくつもの見覚えのある顔が、赤ペンでバツが書かれた写真が出てきた。これは八百屋夫妻の、こちらは確か近所のピアノ教室の先生、豆腐屋の店主は確か江戸川シニアの監督で、これは古着屋の女主人、クリーニング屋、食堂、町工場、見覚えのある顔が、場所が、紙面に事細かに描かれていて。そして。

「御幸、スチール……」

 当然のように、御幸の写真もそこにあった。父の姿もだ。御幸の写真には赤いペンのバッテンは描かれていない。その原因が、過程が、そして今日という結果が、一本の線に繋がったような。そんな気がして。

「まさか──こんな、ものの、ために……っ!?」

 書類を持つ手に力が入り、ぐしゃりと紙が潰れる。確かに、確かにこれなら、大金が動く。三億なんて目じゃない。何十億、下手したら何百億もの金額が、利権を纏って右へ左へ流れるだろう。

 蒼葉の登場に、凪沙は資金不足を指摘した。一方で紅城はそれなりの企業で、傘下にいくつものグループ会社を抱えている。だが、紅城夕木本人にそこまでの資本力はないはずだ。親や会社の金を無尽蔵に使えるような杜撰な企業なら、とうの昔に傾いている。だからこれだけの兵隊をどこから、何故、と彼女はいつもヤクザの情報を洗っていた。でも、これなら。これが理由なら、どんな相手でも関係ない。全てが上手くいけば、小さな国が動くほどの大金が転がり込む──。

「あら? 何でこんな部屋にいるの?」

「うお!?」

 背後から投げられた聞き覚えのありすぎる声に、ばさっ、と手元の書類が床に舞う。サッと振り返って、二度声を上げるところだった。そこには天城凪沙が、天井の通気口から逆さまで首だけ突き出しているところだった。妖怪かと驚き後退ると、凪沙はくるりと一回転して天井から降り立った。すたっ、と降り立つ姿はいつも通りで、黒いスーツに赤いスカーフがひらりと揺れる。

「お待たせ、ダーリン。助けに来たわよ」

 そうして成金探偵様は、勇ましく笑みを浮かべた。御幸はハァと溜息一つついて、凪沙の肩を叩く。

「囮は俺なら、先に言っといてくれよ……」

「敵を欺くにはまず味方から、っていうでしょう? でも意外だわ。あなた、気付いていたのね?」

「……お前が、自宅に盗聴器仕掛けられるなんてヘマするとは思えないからな」

 流石、と女は笑みを深める。そんなことだろうと思った。御幸は呆れたように腕を組む。怒るつもりはない。だが、事前に一言ぐらい言っておいて欲しかったものだ。心臓に悪い。

 違和感はあった。だが、その程度。けれど、あれだけ頑丈なセキュリティを誇るあのマンションだ。亜門に尾けられているかもしれないと、瑠夏がしばらく帰還しなかったほどだ。そんなマンションに盗聴器だの監視カメラなど、どうやって設置できようか。そもそも、『凪沙を囮として神室町で一人ブラつかせる』という作戦だって、思えば雑なアイデアである。裸一貫で突撃するのは天城探偵事務所の特徴だが、『囮に素直に引っかかる敵』を想定していなければこの作戦は上手くいかない。ましてや先日テーマパークでに多様な作戦を披露したのに、二度も三度も同じ手にかかるほど、敵も馬鹿ではないはずだ。

 だから何となく、凪沙が捕らえられたと聞いて、裏があるなとは思ったのだ。だから罠にかかった、というわけではない。かかったところで凪沙のように華麗に敵から情報を抜き取れるとは思えないからだ。そりゃあ、ちょっとはという期待はあったが。それでも一番は、凪沙だろうが誰だろうが、御幸以外の何者かが痛めつけられていると知ったからだ。

「……お前の代わりに、誰かが爪を剥がされてた」

「ええ、ショックで気が動転してたから、瑠夏に頼んで連れ出してもらったわ」

「助かったのか──いや、助けたのか!?」

「当然よ。無関係の人間を巻き込んだなんて、探偵として失格だけど……」

 悲しそうに唇を噛む凪沙に、ほっと肩の荷が下りた。ああ、やはり。彼女は紅城夕木とは、違う。

「ひとまず病院に連れてってもらってる。幸い──と言っていいか分からないけど、爪と精神以外の外傷はないわ。傷と同じく、心も癒えてくれるよう祈る他ないわね……」

「……そう、だな」

 一瞬、重々しい沈黙が流れる。どうなっても、起こった出来事は変わらない。御幸一也一人をかどわかすために、犠牲になった人がいる。命が助かっていようが、そうでなかろうが、関係ない。その人物が正常に回復することを、願うばかりである。

 ああ、でも、と凪沙は微笑む。

「驚いた。私たちが来るって、分かってたのね」

「……天城が、信じろって言ったんだろ」

 正直に返すと、凪沙は虚を突かれたようにきょとんとした表情を浮かべる。そしてクスリと微笑み、「そうね」と零した。ただ、来るとは思っていたが、逃げ出した部屋まで割り当てるとは思わなかったが。

「お前、何で居場所が分かったんだ? まさかずっと尾けてたのか? いやでも、だったらなんで、この部屋が──」

「ああ、簡単よ。あなたの朝食に発信機仕込んだの」

 ニッと笑みを浮かべてポケットから小さなピアスのようなものを取り出した。グリンピースよりもなお小さいそれは、確かに食事に仕込まれれば飲み込んでしまうかもしれない。だから朝食は大して咀嚼の必要のないお粥だったのか、と納得半分、呆れ半分。そんな御幸に、何を早とちりしたのか、凪沙はこちらを安心させるように優しく微笑んだ。

「大丈夫! 医学的にも利用されてる技術だし、身体に害はないわ。発信機事態も数日としないうちに便から排出されるから、安心して?」

「そういうことじゃ──ったく……」

 そういうことじゃない。せめて一言言っておいて欲しいものだ。だが、それも含めての作戦だったのだ。これ以上は何も言うまい。

「で、こっからどうするんだ?」

「ひとまず脱出ね。戻ってきた瑠夏に騒ぎ起こしてもらって、その隙に──」

「下? 下は亜門が暴れてるって話だぞ、大丈夫か?」

「何それ大丈夫じゃないわね! 瑠夏聞いたわね、作戦変更よ!」

『ヘイ! でもなんで亜門の野郎がここに!?』

「理性的に動いてるとは思えないし、考えるだけ無駄ね!」

 どうやら、耳に引っ掛けたインカムで会話しているらしく、瑠夏の大声も聞こえてくる。凪沙は御幸の腕を掴んで、通気口を指差す。

「ねえ御幸。危険だけど脱出確率が低いルートと、もっと危険だけど脱出確率の高いルート、どっちがお好み?」

「……聞くまでもねえだろ!」

「言うと思った!」

 凪沙に導かれるまま、御幸もまた通気口に頭を突っ込む羽目になる。どうせ危険には変わりないのだ。だったら、脱出確率の高い可能性を選ぶまでだ!



***



 通気口をくぐり、人目に付かないように匍匐前進で天井を進む。階下では亜門なのか瑠夏なのかは知らないが、侵入者の撃退にてこずっているようで、色々な部屋からいかつい男たちが飛び出していく。その隙にフロアに降り立ち、人目を忍んで上のフロアを目指す。何階建てのビルか分からないが、凪沙は迷いなく上へ上へと目指す。

「なあ、ほんとにこっちから脱出できるのか?」

 御幸の知る限り、玄関は基本的に下の階にあるものだ。だが、凪沙はそれに背を向けるように上を目指す。逆に逃げ場を失っているのではないだろうか。素人考えをそのままに告げると、凪沙はニヤリと笑みを浮かべる。

「無策でこんなとこ来ないわよ。大丈夫、私を信じて」

「そりゃ、今更疑わねえけどさ」

「……あなたも、だいぶ染まったわねぇ」

「誰のせいだと思ってんだよ」

「私たち?」

「お前だろ」

 瑠夏の影響もないとは言わないが、一番は凪沙のせいだろう。こんな無茶苦茶なことにも動揺しなくなったし、敵の総本山に乗り込んでも冗談を言い合えるだけの余裕があって、突破口のために虎穴にすら飛び込むようになった。いい傾向なのかは分からないが、恐怖に震えて竦むよりはマシだろう、と御幸は割り切ることにした。そんな御幸を、辺りを見回しながら凪沙は不思議そうに視線を寄越す。

「私、なんだ」

「そりゃそうだろ」

「ふーん、そっか。……そう」

 そう呟く凪沙は、何故かニヤニヤと笑みを浮かべていた。御幸も人の気配や声がしないか確認しながら、その小さなつむじをこつんと小突く。

「何笑ってんだよ」

「笑ってないわ」

「嘘吐け」

「嘘じゃないわよ」

 そう言いつつ、凪沙は笑みを隠そうともしない。変な奴だと思いながら、長い長い非常用階段を登っていく。しばらくそうして進むと、大きく分厚い鉄扉が一枚佇む広い踊り場に出た。凪沙は扉の前にしゃがみ込み、鍵穴をチェックしている。

「カードキーで施錠されてるわね……ええい、めんどくさい!」

 ブツブツとそう言いながら、彼女は見慣れない青色のスマホを取り出して、何かを入力する。そして、ドアノブにガムテープで固定したかと思うと、凪沙は御幸を庇うように抱き着いて、頭を下げさせる。

「ちょっ」

「吹っ飛ばすわよ、息止めて!」

 何をしているのか聞き返すよりも先に、ボンッ、とドアノブから何かが破裂するような小さな音が聞こえた。数秒と経たず、焦げ付いた嫌な臭いが辺りに充満する。どうやら、ドアのセキュリティごと爆破させてしまったらしい。

「便利でしょう。バッテリーの熱膨張を利用した小型爆弾!」

「すげー……スパイ映画みたいだな……」

「工作は得意なの、昔からね」

 さらりとそう告げて、焦げ臭いドアを半ば蹴破るようにこじ開けた。ばふっ、と圧縮された風が襲い掛かり、ぎゅっと目を閉じる。強風吹き荒れる最中目を開けると、そこには突き抜けるような青空が広がる屋上があった。特にこれといって目新しい物もなく、ヘリポートと思しくマークが床に描かれているだけ。だがそこに脱出手段となるような乗り物はなく、広々とした空間と、高層ビルがいくつも立ち並んでいるだけだった。ビルの隙間から見える青空を、随分と久しぶりに見たような気さえした。

「……一応聞くけど、本気でこっから逃げるつもりか?」

「勿論。なんたって、名探偵なんだから!」

 理由になってない気がする。まあ、此処まで言うからには何か理由があるのだろう。吹き付ける強風は、体幹の強い御幸でさえ揺らしてくる。フラつく凪沙の肩を抱き寄せて支えとなる。

「あら、エスコートどうも」

「そりゃいいけど、これからどうやって──」

 その言葉は、背後から響いた銃声によってかき消された。パァン、という軽い音は体育祭の頃聞いた空砲を思い出した。ハッと振り返ったそこには、屈強な肉体のヤクザたちが入り口をふさいでいる。その中でも際立つスーツ姿の品のよさそうな男が、天に向けていた銃口をそっとこちらに向けたのだった。

「そこまで──です」

 そしてその先頭には、涙に濡れた紅城夕木が佇んでいた。



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