15

 血の臭いが充満する車を爆走させ、成金探偵一行は神室町に戻ってきた。血の気が失せ、ぐったりしたようにシートに身を委ねる凪沙を優しく抱きかかえた瑠夏は、マンションへと連れ込む。迷いなくエレベーターに乗り込む瑠夏に、御幸はぎょっとした。

「病院行かなくていいのかよ!?」

「るせぇっ、手に風穴開けて怪しまねえ医者がいるかよ!」

「かといって……闇医者に……診せるほど、の、怪我でも……ないしね……」

「所長、静かに! 今は寝ててくだせえ!」

 そうして事務所に併設されている凪沙の部屋に担ぎ込み、ざっくりと肉を断たれた凪沙の手を、瑠夏が丁寧に処置していく。傷口を洗い、開いた傷を閉じるように包帯をきつく巻き付ける。湯を沸かせ包帯を取ってこいタオルを出せと、命じられるがままに御幸も事務所内を奔走する。

 ベッドの上で血まみれの手のひらを縛りあげられ、流石の凪沙も苦悶の表情を浮かべる。

「っ、ぐ……!」

「全く、無茶しやがる! いつもいつもいつも!」

「でも……無茶した甲斐は、あった、わ」

 ベッドの中で、青白い肌に脂汗を浮かべながらも、凪沙は力強く笑っていた。血がべっとりついたタオルを抱えた御幸にとって、それは言葉にできない光景で。

「総角──お嬢様──なにより、亜門のあの態度──それだけじゃない……連中の武器まで手に入った……! 貴重な情報、よ、無駄には、しない……!」

「ったく、以前武器の出どころ調べたら逆探知されて、事務所の住所が割れたじゃねえっすか!」

「だいじょ、ぶ……発信機がついてても、特定のポート以外は、通信できない、よう、ジャマー、置いた、から……」

「へいへい全く。準備のいいことで!」

「瑠夏、聞いて」

 苛立ち半分の瑠夏の手を、凪沙の細腕が掴む。戸惑う瑠夏に、凪沙は声を低くして続ける。御幸はただ、それを見守ることしかできない。

「すぐ、『総角』という名称と、銃とナイフの出所を、洗いなさい」

「で、でも──所長、傷が!」

「情報は、鮮度が命でしょ。何のために、こんな怪我してまで、情報拾ってきたと、思ってるの」

 一言一言区切りながら、凪沙は息も絶え絶えだった。けれど、その声にはしっかりとした力が込められていて、彼女がこの『仕事』にかける思いが、全身から読み取れるほどだった。


「命令よ、瑠夏──今の私に、できない仕事を、しなさい」


 一回りは違うであろう年上の元ヤクザに、若い女が説教するそのさまは、不思議と母親が自らの子どもを叱責する雰囲気に似ていた。瑠夏は困惑したように視線を泳がすも、凪沙の真っ直ぐな瞳はそれを許さない。数秒ほど唸っていたが、やがて観念したように男は項垂れ、そしてすっくと立ちあがる。

「おい御幸! 所長のこと頼んだぞ! ひとまず処置はしてあっから……とにかく飯だ! 飯食わせて、血を作ってやってくれ! いいな!!」

 苛立ち半分でそう叫ぶや否や、瑠夏は猛ダッシュで部屋から飛び出していく。そんな助手の姿に、凪沙は呆れたように溜息を吐いていた。

「全く、心配性、なんだから……こんなの、寝てれば治るわよ……」

「……そんなわけ、あるかよ」

 御幸の言葉に、凪沙は答えない。ただ薄ら笑いを浮かべて、肩を竦めるだけだった。そんな仕草に、何故か無性に腹が立った。理由は考えないようにしながら、大量の血だらけのタオルやシーツをランドリーに運び、綺麗なタオルを抱えて戻る。努めて冷静なふりをしながら、御幸はベッドに横たわる凪沙を見下ろす。

「俺もシャワー浴びてくる。こんな格好じゃ、飯も作れないからな」

 何せ一日テーマパークを歩き回って、埃まみれの汗まみれ。おまけに凪沙の血が体のあっちこっちに付着している。流石にこれでキッチンに立つのは衛生上まずい。なのでそう告げれば、凪沙は力なくニコリと微笑んだ。

「りょーかい」

「その後で飯作ってくるけど、何が良い?」

「別に、食べなくても──」

「な、に、が、い、い」

「……この間の、おかゆ」

 凪沙は渋々とそう告げて、ベッドに潜り込む。分かった、と呟いて御幸は部屋を出ようとして──くるりと踵を返して再び凪沙のベッドを覗き込む。彼女は布団を被って眠ったふりをしながら、タブレット端末を覗き込んでいた。

「没収」

「あああああ!!」

 タブレットにスマホを取り上げて、ベッドから遠く離れた机に置く。この女、身体を休める気はないらしい。凪沙は不満げに抗議する。

「寝なくても平気なのに!」

「いいから、黙って、飯食って、寝てろ!!」

「ううう……」

 唸る凪沙に今度こそ背を向け、御幸は部屋を立ち去る。早く戻らないとベッドから這い出てスマホやタブレットを取りに行きかねない。烏の行水とばかりにダッシュでシャワーを浴びると、髪を乾かす間もなく御幸はキッチンへ向かう。とにかく食事だ。健康な食事が血肉を作るのだ。アスリートである御幸は、それを誰よりもよく理解している。早く戻らねえと、そんな一心で御幸は包丁を手に取った。



***



 卵粥に刻んだねぎを乗せて、御幸は再び凪沙の部屋に戻る。一応凪沙はベッドにいたが、上半身を起こして大きな枕にもたれかかって慌てたように枕の下に何かを隠した。そして御幸の顔を見るなり気まずそうに布団を被ろうとしたので、きっと起きて仕事でもしていたのだろう。呆れて物も言えない御幸はお粥を携えてベッドの元へと向かう。

「ほら、作ってきた」

「え、ええ、ありがとう」

 ぎこちなくお礼を言って、凪沙は茶碗を受け取る。だが、その手には痛々しいほど分厚い包帯が巻かれており、お椀を持つのも大変そうだ。添えられたスプーンを手にするも、怪我した手は利き手と逆だったらしく、覚束ない手付きだ。スプーンに粥を一匙掬うのも精一杯の様子だ。

「あー、悪い。貸せ貸せ」

 仕方ない、と御幸は折り畳み式の椅子に腰を下ろして茶碗とスプーンを強奪する。そうして恥を忍んでスプーンに粥を掬って凪沙の口元に寄せた。流石の凪沙もぎょっとしたように顔を引き攣らせた。

「あ、あなたっ、とんでもないことするわね……っ!!」

「うるせーな、怪我人なんだから仕方ないだろ!」

「こ、こんなこと、瑠夏だってしないわよ……」

 そう言いながら、凪沙は小さな口を開けて御幸の差し出すスプーンを咥える。こっちだって恥ずかしいことをしているのは分かっている。だが、これは御幸を守り、御幸の依頼のために付けた傷である。いくら客と探偵という立場であっても、負い目が無いわけではない。寧ろ、負い目しかない。

 人前でキスをするような女であっても、流石に他人の手ずから食事をするのは流石に恥ずかしいらしい。気まずそうに顔を赤らめ、視線を泳がせながら、恐る恐る御幸の差し出すスプーンを前に口を開く。まるで雛が親鳥から餌を与えられる光景だ。小さな喉が上下に動くのを薄めに見ながら、御幸は茶碗に盛られたお粥全てを凪沙に食べさせたのだった。

「ごちそう、さま」

「はい、おそまつさん。飲み物は?」

「……コーヒ」

「カフェイン入り以外な」

 先手を取るように素早く言葉を被せる。早く寝ろと言っているのになぜカフェインを摂取しようとするのか。眉間に皺を寄せる御幸に、凪沙はムッとしたように頬を膨らませてから、小声でこう呟いた。

「……じゅーす、おれんじの」

 意外な回答である。目を丸くする御幸に、不満なのか恥ずかしいのか、凪沙はばふっと布団に潜り込む。どうやら、思わぬ形でキスの意趣返しができたらしい。りょーかい、と御幸は笑って事務所のキッチンへと向かう。確かに、瓶詰のオレンジジュースがあったはずだ。グラスにジュース注ぎ、ストローを差して凪沙の部屋に戻ると、今度は隠しもせずにスマホとにらめっこしていた。なのでその小さな端末を取り上げて、その手にジュースのグラスを握らせる。

「……返してよぅ」

「休養が先だろ」

「……休んでる、暇、ないもの」

 ちゅー、とオレンジジュースを吸いながら、凪沙は不服そうに零す。確かに、一刻も早く球界に帰りたい。御幸はそう告げた。だが、それで身体を壊していては元も子もない。人一倍──いや、人の三倍身体に気を使っているアスリートだからこそ、凪沙の肉体を酷使する生活が、態度が、どうしても目に付いてしまうのだ。

「だからって体壊しちゃ元も子もないだろ。休む時はしっかり休むのも、プロの探偵じゃねえのかよ」

「……別に、壊れたって。死ぬわけでも、ないのに」

「そういう無茶の積み重ねが、死因に繋がったりするだろ」

「……」

 こればっかりは、御幸の正論の勝利だった。というか、この手の小言は瑠夏が口を酸っぱくして言っているはずだ。だが、先ほどのやり取りを見るに、瑠夏は凪沙に逆らえないのだろう。まあ、彼は彼でとんでもない弱味を握られているのだから、仕方がないとは思う。何せ弱味も弱味、惚れた弱味である。彼女のどういった部分に惚れ込んだかは分からないが、少なくとも小指を落とすレベルの崇拝っぷりだ。凪沙がどんな無茶をしても、強くは出れないのかもしれない。

 だが、御幸は違う。凪沙とは──クライアントと、探偵という関係。だから御幸にとって凪沙がどれほどの傷を負おうとも、関係はない。ただ、その肉体のケアを疎かにする姿が、目に付くだけ。プロのスポーツ選手として、許しがたいだけだ。

 なのに。

「……あなたには、関係のないことよ」

 なのに──この怒りは、苛立ちは、何だろう。

「関係ない、わけねえだろ」

「いいえ、関係ないわ。私たちが死のうと、あなたはちょっとした損をするだけ。探偵なんか腐るほどいるんだから、私たちが集めた証拠を手に他の探偵に頼ればいい」

「──っ!」

「私たちは『船』よ、あなたの目的地に辿りつくための船。途中で乗り捨てた船が泥に沈もうが、あなたが気にすることは無いでしょう?」

 ジュースのグラスを握り、見上げてくる凪沙の目は本気だった。御幸の怒りなど露とも知らぬ顔で、心の底から自分たちを乗り捨て可能な船だと思っている。その言葉は、御幸の感情や記憶でさえ『そう』なのだと暗に示しているようで、ギュッと胸が締め付けられるような激情が湧き出てくる。まだ出会って一か月と経っていなくとも、本当に色々なことがあった。数えきれないほどの記憶が積み上がった。それら全てを乗り捨ててもいいのだと、他でもないこの女探偵が口にすることが、御幸にとって耐えがたい怒りであった。

「……ふざけるなよ」

「ふざけていない。本気よ」

 凪沙もまた、真剣な表情で御幸に対峙する。そんな女を頭ごなしに怒り、その価値観を否定し、目を背けることは簡単だ。だが、ただの感情ではこの名探偵には届かない。自分とはまるで別世界のような環境で生きてきた女には、一つだって響きやしない。少ない時間ではあるが、その程度は理解していた。だからこそ、御幸はこの言葉を選ぶのだ。卑怯と言われようとも、彼女に声を届けるためには、こうするしかないと

普通の人間[・・・・・]はな、人が死ぬ様を見て平静じゃいられねえんだよ」

「──、」

 やはり、この言葉は──この手の言葉は、凪沙に響くらしい。ハッと息を飲む凪沙に、御幸は手応えと同時に新たな苛立ちを得た。彼女たちはあくまで探偵で、御幸はクライアントだ。それこそ、徹底して彼女たちは御幸に気遣っていた。御幸のために健やかに過ごせるよう衣食住を用意し、トレーニングルームを改築し、身体を張って守った。だからこそ、クライアント様が気分を害すると告げれば、探偵たる彼女たちにはそれを正す──『義務』があるはずだ。

 それを『義務』でしか強制できないこの現状に、御幸は何よりも腹が立ったのだ。

「死のうと関係ない? 乗り捨てればいい? よく言えたな、そんなこと。そうやって全部解決したとして、戻れると思うのかよ。元の生活に、俺は──」

 苛立ちに任せてそこまで告げて、ぐっと飲み込んだ。だめだ、これ以上先はやはり、感情論になりかねない。だから青年は思いの丈を飲み込んで、理性的なふりをする。そうだ、顔見知りだろうがそうじゃなかろうが、人が人を傷つけて、血を流し、死にゆく姿を目の前で見せつけられて、どうして全てが元通りになれるだろう。蒼葉のように道を踏み外してはいなくとも、外れた道の先に何があるのか、御幸も見てしまった。何も知らず、ただ野球に打ち込めばよかった数か月前の自分には、とっくに戻れないでいる。

 なればこそ、これ以上目を曇らせるわけにはいかない。その役目を買うのは、この探偵たちだ。彼女たちだってささやかな忠告をしていたのだから、御幸がこれ以上こちらに踏み込むことを良しとしないはず。なのに凪沙は自らを船と例えて、乗り捨てろなんて言って──ああ、もう、再び苛立ちが巡り巡ってくる。

 これ以上はまずいと、御幸は踵を返す。

「……食ったら、寝てろ。俺は、下にいる」

 空っぽになった茶碗を手に、御幸は立ち上がる。凪沙は不思議とショックを受けたような、そんな呆然とした表情のままベッドで固まっていた。自分でも分かってる。あれじゃ、凪沙たちはまるで『普通じゃない』と言っているようなもの。折に触れては『普通ね』と御幸を称する凪沙を、自ら突き放すような物言いのなんと残酷なことか。彼女だって、元々は普通の女の子だったはずだった。普通に生きることのできるはずだ、今からだって。美しいもの、面白いもの、楽しいもの、そういった何かに目を輝かせて、興奮して、大はしゃぎする彼女だって『天城凪沙』の一面だったはずなのに。

 部屋を出て事務所へ戻り、誰もいない部屋に鎮座するソファのクッションをぼすりと力任せに殴る。あの方法なら確実に、彼女を休ませることはできる。けれど、あの方法以外に彼女を食い止めることのできない現状に、そんな自分自身に、御幸は何よりも腹が立ったのだった。

 その苛立ちの理由を、青年はまだ、考えないようにした。



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