16

 バットを振り抜けば、ぱかぁん、という心地よい音と共にボールが高々と宙を舞う。試合に出ていないだけで、勘は鈍る。それでも、これほどまでの設備を用意して貰えているのだから、文句は言えない。せめて肉体だけは維持しなければと、御幸一也はそれなりのピッチングマシーンから放たれる白球を打ち返した。

 先ほどまで抱いていた怒りや苛立ちは、野球を前にすると溶けて消えていく。野球選手としての『反射』である。試合や練習に、雑念は持ち込まない。研ぎ澄まされた集中力は、ありとあらゆる悩みや不安を吹き飛ばす。奇妙なことに、御幸にとっては仕事中こそが最もストレスフリーになる瞬間であった。

 その時ガチャリと戸が開き、誰かがこの練習場に入った来た。バットを携えたまま振り返ると、そこには──。

「瑠夏、サン?」

 アスリート以上の屈強な肉体に強面スーツのサングラスの男が、拗ねた子どものようにムスッとした表情でこの芝生の練習場に足を踏み入れていた。青々しい芝の上に、元ヤクザ男は驚くほど不釣り合いだった。瑠夏の年齢は知らないが、明らかに年上なので形ばかりの敬称を付ける。ただ、取って付けたような敬称は薄ら寒いようで、瑠夏は心底嫌そうな顔をしていた。

「……瑠夏でいい」

 瑠夏は苦々しげにそう告げる。そっすか、と御幸も大して追及もせず、軽く会釈をする。すると瑠夏は、どこかガックリしたように肩を落とした。

「なんだ、元気そうじゃねえか」

「……なんか問題、すか」

「別に。ただ所長がお前のメンタルケアしろっつーから……ほんとあの人はお人好しっつーかなんつーか……」

「天城が?」

 先ほどの凪沙の姿を思うと、また苛立ちが腹の底から蘇ってくる。力強い瞳に、拗ねた表情、そして自らを省みない病的なまでの自己犠牲。ギュ、とバットのグリップを握り締める。だめだ、せっかく凪いでいた心が、再び荒れ始めてしまう。御幸は瑠夏を無視して、再びバッティングを始める。

「……いつもああなんだよ、あの人は」

 ぱかん、かきん、と白球を打ち込んでいると、ぽつりと瑠夏がそう呟いた。手は止めない。だが、意識は自然と瑠夏に吸い寄せられる。

「そこいらのヤクザが震え上がるほどの現場に、あの人は果敢に乗り込んでいく。ドスだろうがポン刀だろうが、チャカを向けられたって、あの人は笑って受けて立つ」

「……」

「昔からそうだ。あの人はガキの頃からそうやって生きてきた。そういう生き方しか知らないし、そういう生き方を楽しいと教え込まれてんだ。あの……クソ親父が、そう叩き込んだんだ」

「……クソ親父?」

 ぼす、と白球が背後のネットに突き刺さる。その言葉には、強烈な違和感を覚えた。彼らが『オヤジ』と呼ぶ人間は、二種類いる。だが、彼らがよく利用する意味合いなら、わざわざ『クソ』とは呼ぶまい。つまりそれは、広義的な意味合いの方だと考えられる。けれど、そうだとしたら尚のことおかしい。

『──大切な、人だったの』

 以前彼女と家族の話になった時に、凪沙は迷いなくこう答えた。母親に捨てられ、父親と二人で育てられたと。貧乏で苦労続きだったが、大切な人なのだと。そんな父親の跡を継いで、彼女は探偵になったのだ、と聞いている。だが、そんな御幸の考えを読んだかの如く、瑠夏はハッと吐き捨てるように笑った。

「たった十四の娘を捨て、知人を連帯保証人にして三億の借金被せてトンズラだぜ。あいつのどこが立派なんだか」

「……は?」

 そうして語られる天城凪沙の父親──天城辰夫は、御幸が聞いても『クソヤロウ』に違いない人物だった。

 小さな町工場を経営していた天城家は、経営不振により倒産。その際に闇金を頼ってしまったがばかりに、真面目にコツコツ働いても借金は膨らむ一方。更には嫁にも逃げられ、幼い娘を抱えて一人生きていくのは確かに大変だったのだろう。けれど、闇金の借金を返すためにまた闇金から借金をする、という悪手のせいで、彼らの生活が明るくなることは無かった。故に表社会では働けず、探偵としてアンダーグラウンドで働くようになった天城辰夫。その一人娘たる天城凪沙が、その余波を受けないはずもなかった。

「うちの組からも借金してたからな、よく辰夫のケツを追いかけ回して、所長とはその時初めて出会った。信じられるか? 家にヤクザどもが押しかけた時、あの人はランドセル背負って俺らを出迎えたんだぜ」

「そんな時代から……」

「今思えば気味の悪いガキだったぜ。俺らみたいな連中が家に押し寄せて、あの人は『父は今いないから』と俺らに笑顔で茶を出してた。……まあ、父親の入れ知恵で、茶に下剤混ぜられてたんだけどな」

 苦笑いをしながら、そんな遠い日の記憶を語る瑠夏。下剤入りのお茶を笑顔で振る舞う天城凪沙の幼少期が容易に想像できる。御幸は半笑いでバットを構えた。

 皮肉にも、天城辰夫に金儲けの才能はなかったが、その場しのぎで始めた探偵業の才能があったらしい。借金を抱えながらも他人から金を借り、善人も悪人も等しく騙くらかす話術、ターゲットを尾行する隠密術に変装術。手先も器用で、盗聴器やら何やらも手前で改造する知識と腕があった。凪沙は、そんな父親の生き方を叩き込まれた。それどころか、それを楽しんですらいたという。

「借金取りが来れば家を変え、名を変え、住む場所さえ変えた。ダチなんかできやしない環境下で、あの人にとってそんな親父だけが家族で、唯一の理解者だった。あの親父が『この生活は楽しいものなのだ』と言い聞かせりゃ、あの人にとってもそうなるに決まってる」

「……」

「めんどくせえことに、辰夫はわりと子煩悩だった。娘を愛してやまなかったし、自分の助手としてあの人を育てることに誇りすら抱いていた。そういった愛情が、あの人の価値観をイカれさせたんだ、きっと」

 そう語る瑠夏は、いっそ憎しみさえ籠った声色だった。

 子どもは親を選べない。愛情は洗脳でもあり、呪いでもある。そんなものを惜しみなく注がれた凪沙が幼少のみぎりより歪むのは、何ら不自然ではない。それを瑠夏は、心底おぞましいとばかりに語る。

 そうして凪沙は、探偵の助手として父親の仕事を手伝うようになった。子どもであることを存分に生かし、迷子のふりをしてターゲットに盗聴器を仕掛けたり、ラブホ近くのごみ捨て場でゴムを漁って浮気の証拠を押さえたり。同じ年頃の子どもたちがテレビにネットにと遊び盛りな中で、幼い少女はとにかく汚い仕事をこなして、一つ一つ夜を越えていったのだ。

「想像できるか? まだケツの青いガキが、ヤクザと追いかけっこしながら、親父の仕事を手伝うためにホームレスのようにゴミを漁る。借金取りの俺らですら、ドン引きした。どういう教育してんだって」

「……ヤクザに言われたら、元も子もないな」

「全くだな」

 いつの間にか、バットを振る手は止まっていた。ブースの外に佇む瑠夏を振り返る。瑠夏はスーツのポケットに手を突っ込んだまま壁に寄りかかって、話を続けた。

 西へ東へと借金作っては逃げ出して、細々と今日を生きるための日銭を稼ぐ。だが、そんな生活が長続きするほどヤクザも甘くはない。ある日、あらゆる組のヤクザが首を揃えて天城家に押し入った。けれどそこには中学生になる一人娘しかいない。いつものことだったので家で辰夫の帰りを待つも、辰夫は姿を現さない。三日経っても、一週間経っても、一か月経っても、家に父親が戻ることは無かった。

「そうしてある日突然、あの人は父親に捨てられた」

 唐突な別れ。彼が何を思って、娘を捨てたのか誰にも分からない。凪沙自身も、だ。ただ一つ確かなことは、天城辰夫はもう戻ってこないこと。瑠夏は疲れたように溜息をつきながら、スーツの胸ポケットから煙草の箱を取り出そうとして、すぐに我に返ったようにかぶりを振る。

「天城は、それから……?」

「辰夫の行方は分からなかったが、奴が知人を連帯保証人に仕立て上げたことが分かってな。中学に通ってたこともあったしな、いきなり行方が分からなくなったらサツが捜査に乗り出されるのも時間の問題だった。金にならねえ小娘に用はない。だから俺らの組は連帯保証人から金を巻き上げることにして撤退したが──まァ、そんな紳士な連中ばかりじゃなかった」

 当たり前だ。何年も金を借りては踏み倒す天城辰夫への憎悪は膨れがある一方。無防備に残された一人娘に八つ当たりする連中が出てきても、何ら不思議ではない。風俗に売り飛ばす、裏ビデオに、いっそ見せしめで強姦を、そんな下卑た声を耳にしながら、当時十四歳だった天城凪沙は涙一つ見せずにこう提案したという。

『一週間、時間を下さい。父の借金と同じ額だけ、あなた方にお返しします』

 当然、誰もがその場を凌ぐための嘘だと信じて疑わなかった。だが、その啖呵を酷く気に入った男がいた。瑠夏が当時所属していた組の組長だった。

『その肝っ玉、気に入ったわ。クソオヤジがこさえた総額三億の借金、小娘に返せる思うんなやってみぃ。それができるんなら、ワシらはお嬢ちゃんに指一本触れんと約束したる』

 嘘は何とでもいえる。だが、その男は筋を通すからこそ、数多のはみ出し者に慕われていた。それなりに影響力のある男だったこともあり、当時の瑠夏が護衛兼見張りとして凪沙に張り付くよう命じられただけで、その場はお開きになった。

 そうしてヤクザたちが帰っていき、二人きりになるや否や、彼女は身一つで家を飛び出した。逃げるためではない、金を稼ぐためだった。

「神室町には少し変わった金貸しがいてな。金貸しが出すテストにクリアできれば、無利子・無期限で金を貸す。金持ちの道楽だろうが、テストも中々面倒で客は少ない。だが所長は、そのテストに見事合格した」

 未成年なので金の貸し借りはできないから、瑠夏の名義で金を借りたいと、彼女は金貸しに啖呵を切った。その額は一千万。この金を元手に、裏カジノで父の借金三億稼ぐと告げる彼女に、金貸しが同情したかは分からない。何にしてもその場で一千万借りるや否や、彼女は神室町に眠る裏カジノに足を踏み入れた。

「そうしてあの人はな、一週間で七億六千九百万を稼いだ」

「──は?」

「馬鹿げた話だろ、俺もそう思う。だが、あの人の見張りをしていた俺は全部見てた。あの人がポーカーなりブラックジャックなりで金を積み上げる様をな」

 馬鹿みたいな光景だったと、瑠夏は語る。まだセーラー服を着ているような少女が、場数を踏んできたギャンブラーたち相手に渡り歩く。寧ろ、そんな連中をカモにして金を稼いでは、もっと別の場所をと瑠夏から情報を吐かせてまで神室町中の裏カジノや賭場を荒らして回った。

「多少のイカサマもあっただろうが、一番は勝負強さとヒキの良さだろうな。……皮肉な話だがな、ゴミを漁り、ホームレスと肩並べて飯食って、段ボールを布団に寝ていたクソガキにはな、ギャンブラーの才能があったんだよ」

「……」

「俺は、その時の所長の眼差しに惚れちまってな。一歩間違えば破産。犯され、殺される未来だってあっただろうに、そんな未来をねじ伏せるかのように淡々とチップを賭ける横顔が──ああ、本当に、美しくてな」

 夢見るように語る瑠夏をじっと見つめていると、彼はゴホンと咳払いをして誤魔化した。そうして凪沙は三億キッチリ揃えて自由を得て、瑠夏は指と自分のシノギで得た一億を組に収めて、凪沙の元に転がり込んだのだという。喧嘩の腕はそれなりに馳せていたこともあり、大金を抱えた小娘一人をつけ狙う者もいなかった。そうして、彼女は本当の意味であらゆるしがらみから解放されたのだ。

 けれどそれは、全てを喪ったと同義でもある。家族も、楽しみも、何もかも、あらゆるしがらみが、彼女からするりと溶けていった。結局何年経っても父親は戻らず、今も生死は分からない。働く必要のなくなった彼女は、自らの『道楽』を求めて、中学を卒業してすぐ天城探偵事務所の屋号を継いだ。そうして瑠夏と二人、神室町の『成金探偵』として細々と活動を始めたのだという。

「依頼時に話したな、あの人にとって依頼は『道楽』の同義だと」

「ああ──……ああ、そういうことか」

 頷いてから、ワンテンポ遅れてその言葉を理解した。理解したくないものを、するりと飲み込めてしまった。おかげで、汚物を口に含んだかのような気分の悪さが腹の底を渦巻く。顔を顰める御幸に、瑠夏もまた気分を害したような表情でこう告げる。

「あの人はな、そんなクソオヤジと過ごした日々に戻りてェんだよ。薄汚れて、売後駆けて、必死に生きてきたあの頃が、何よりも楽しかったと信じて疑わねえからな」

「……っ!」

「年頃の女みてェに、遊園地で遊んで、洒落た服着て、美味い飯食って、いい人と一緒になって。そういう幸せだって選べるはずなんだ、なのにあの人はそれを選ばねえ!! あの人にとってはクソオヤジとヤクザに追いかけ回される日々の方が、ずっとずっと楽しかったんだよッ!!」

 瑠夏の慟哭は、彼女を大事に思うからこそ何よりも悲痛なものだった。どういった理由でも、瑠夏にとって凪沙が大事な存在であることは火を見るよりも明らか。そんな彼女に、こんな血なまぐさい世界よりも、日の当たる穏やかな世界で幸せになって欲しいと願うのは、当然のことだった。

「そりゃあ、所長の気持ちも分かる。ちまちました日銭を稼ぐので精一杯だったのに、ある日何億もの大金が転がり込んできたんだぜ。土地転がしてるだけで金は増える一方で、必死に生きてきた日々が馬鹿らしくなったんだろうさ。それは分かる」

「……」

「でも、あの人にとっては命の危険が付きまとい、汚れ仕事ばっかしてたあの頃の方がずっと楽しかったんだよ。だからあの人は、この手の仕事ばっか進んで引き受けるし、自分の怪我も省みねえし、望んでこの世界に入り浸る。そうやって歪んだ愛情に、あの人はずっと囚われてんだ」

 ──悲しい、過去だった。波乱ばかりの人生で、ようやく自力で掴んだはずの安寧では、すでに満足できなくなっていた。波に乗っている時間があまりに長すぎたのか、それとも共に乗っていた父を愛しすぎていたのか。何にしても、天城凪沙の歪みは正されることなく、今尚今日を生きている。だが、あんな生き方をしていてはいつか壊れてしまうだろうに、誰の言葉も届くことは無く。

 ずるずると、その場にしゃがみ込む瑠夏が、誰よりもその言葉を届けようと必死だったのだろう。けれど、結果は聞くまでもない。先ほどの彼女の言動を見れば、それは明らかだ。

「……俺らみたいなはみ出しモンはよ、大抵家族でトラブル抱えて、こうして道を踏み外して、血の繋がらねえ奴らを兄弟と呼び、親と呼んだ。だから血の繋がった家族のありがたみってもんが、分かんねえんだ」

「……」

「なあ、御幸よ。血の繋がった親ってのは、そんなに大事なもんなのか? 誰に聞いてもクソヤロウだと後ろ指差すような男でも、家族なら愛しちまうのか?」

「……知らねえよ」

 そんなの、人によるとしか言えない。御幸の父親は、誰に対しても誇れる立派な人だ。凪沙の父親も、本人曰く立派とはいいがたいが、大切な人だった。結局、そこに差はないのだ。注がれた愛情が、凪沙にとって『クソヤロウ』の烙印が霞むぐらい、嬉しかっただけ。それを上回るだけの相手が、天城凪沙の人生に存在しないだけの話。

 ふと、御幸はバットを肩に担いでネット越しに瑠夏と向き合う。

「……なんで、俺にそんな話を?」

 彼女の危うい価値観の根底は、分かった。それがひどく悲しくも、どうしようもないということも、含めて。けれど、何故瑠夏はそれを御幸に開示したのだろう。不思議そうに首を傾げる御幸に、瑠夏はケッとつまらなさそうに吐き捨てた。

「お前は、客だからな。客の言うことなら、あの人も耳を貸す」

「……どうだかな。聞く耳ぐらいは持ってたかもしんねーけどさ」

「ンだその物言い!! キスしたぐらいでリードしたとか思ってんじゃねえぞ!!」

「あれ、アンタも見てたのか……」

「当たり前だろォ!? 危うくドタマぶち抜くところだったぞ!?」

「俺、依頼人なんですけど」

「関係ねェよ!! 俺だってまだ所長にキスされたことねえのに!!」

「ロリコンも大概にしろよアンタ」

「ガキが好きなわけじゃねえよ!! 惚れた女がたまたま十四だっただけだ!! それに今はもう所長はオトナ! オトナのレディなんだよ!!」

 先ほどまで無鉄砲な所長を憂う一人の男だったはずなのに、喋れば喋るほど気色悪くなるのは何故なのか。ギャアギャア騒ぎながら凪沙の良さを語る瑠夏に対して、御幸はハイハイと受け流す。ヤクザとして育ち、愛のために奔走する男は凪沙と同じく活き活きとしている。そんな男を見て、凪沙に対する感情とはまた違った感情が芽生えていることに気付き、御幸は力なく笑った。

 数少ない知人の中に、こういった人間がいるのも、まあ、悪くないのだと。



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