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 それから、御幸と凪沙は結城夫婦を尾行するふりをしてテーマパークを練り歩く。長い長いアトラクションの列に並び、道行くパレードを眺め、小腹が減ったらその辺りで売っている軽食を腹に収め、オブジェクトを背景に写真を撮る──尾行している・されていることすら忘れそうなぐらい、凪沙はテーマパークではしゃぎ倒していた。難事件を前にした時と同じぐらいテンション高い凪沙に、初めて年相応らしい姿を見たような気がした。のだが。

 場所が変わったところで、成金探偵は成金探偵だった。

「お、哲さんたちトイレ行くみたいだな」

「私たちもついでに行っておきましょうか。次いつ行けるか分からないし」

「りょーかい」

 二時間ほど歩き回った時、夫妻がトイレの方へと向かう。入り口は一つだが、こちらは好きに用を足せるほど余裕はない。なので一緒に──見つからないようトイレに向かうのだった、が。

「こっちね」

「待て待て待て」

 意気揚々と男子トイレに向かう凪沙の腕を掴む。確かに今の格好であれば──喋らなければ──凪沙も男に見えなくもないが、どこまで尾行するつもりだコイツ。すると彼女は心外とばかりに眉を釣り上げた。

「何言ってるの。あなたを一人にできないでしょ」

「トイレまで来るつもりかよ!?」

「同じ個室に入らないだけ感謝して欲しいわ」

 どうやら同じ個室までついてくるつもりだったらしい。ただ、こちらも尾行されている上に命まで狙われている身。やむなしと御幸は苦い顔をしながら凪沙を連れて男子トイレへと足を踏み入れる。一見少年にも見える凪沙は特に怪しまれることは無く、堂々と御幸の隣の個室に入る。そうして素早く用を足して、ほぼ同じタイミングでトイレを出る。肩を並べて手を洗っていると、鏡の中の凪沙がウインクした。男子トイレでも楽しそうな女である。

 それ以降は特筆することは無く──見るもの全てに凪沙が大騒ぎすること以外は──、尾行は続く。無論、尾行されているこっちが何かされたわけでもないし、通りすがりの人間にナイフを突き立てられることも無い。実に平和な時間である。

「……なあ、ほんとに尾けられてるのか?」

 ジュコー、とストローに口をつけて勢いよく甘ったるい飲み物を飲む凪沙に耳打ちする。こつん、と重たげなカチューシャが凪沙の頭にぶつかり、御幸はめんどくさそうにカチューシャを正す。

「ええ。今も見られてる」

「……マジかよ」

 辺りを見回すわけにもいかないので──何せこちらはあくまで何も知らない体で相手を罠に嵌めなければならないのだから──、その体勢のまま呻く御幸。凪沙はポケットからスマホを出すと、メッセージアプリを起動する。メッセージの差出人は、瑠夏のようだ。

『人数は二人、どちらも中年の男』

『代紋なし。どちらもグレー寄りの人間。同業者?』

『勘がいい、下手に近付くとバレる』

『定期的に電話でどこかに報告している』

『片方が土産コーナーで買い物中』

 尾行の報告らしい。最後のは報告が必要なのか分からないが、ひとまず誰かが尾行してきているのは間違いないようだ。尾行している連中は、自分たちのことをどう報告しているのだろうと思いながら、ファンシーなゴミ箱に空っぽになった紙コップをポーイと捨てる凪沙に視線を寄越す。

「どうかした?」

「……別に」

 ふいっと目を逸らし、結城夫妻に視線を向ける。アトラクションの入り口側で、二人は手のひらサイズのチケットを二枚手にしているところだった。まずいな、と御幸は凪沙の腕を引いてその場へ向かう。

「んん? どうしたの?」

「哲さんファストパス取るみてーだし、俺らも取らねえと。見失うぞ」

「ああ、早くアトラクションに乗れるチケット! ふうん、あなた詳しいのね!」

「……お前、来たことねえの?」

「ええ、初めて来たわ」

 薄々そうじゃないかとは思っていたが、やっぱりか。偏見上等だが、女という生き物は大抵こういう場所が好きなのだと思っていた。まあ、この女を普通の『女』の枠組みに収めていいのか迷うところだが。しかし、こんなに楽しんでいるのに、来たことも無いとは意外だった。

 ファストパスを発券し、別のエリアに向かう結城夫妻を尾行しながら二人は会話を続ける。

「成金探偵サマのことだし、貸し切って遊び倒してそうなもんだと思ってたわ」

「うーん、できなくはないけど……」

「(できなくはねーのかよ)」

「こういう場所って、一人で遊んでてもつまらないでしょう?」

 純粋な瞳が御幸を仰視する。フッと過る強面の助手の顔に、御幸は片を竦める。

「優秀な助手がいるだろ」

「あの人は部下よ。こういう場所って……ホラ、家族とか、友達とか、恋人とか、そういう大事な人たちと来るところなのでしょう?」

「まあ……」

「──ならやっぱり、私には縁のない場所だわ」

 さらりと告げるその一言に、物悲しさはない。ただ事実を事実と受け止めるだけの、一言。故に、御幸も同情はしない。同情を買うために言ったわけではないのだと、分かったからだ。ただ、そういった存在が凪沙の人生においてただの一度も現れなかった、その事実に驚かされた。しかし、それを指摘するのも野暮な話で、御幸はゆるりと口元を緩めた。

「じゃ、今日来れてよかったな」

 家族でも友達でも恋人でもない相手とこんなにも楽しめるのだ。きっと付き合いの長い瑠夏とだって楽しいはずだ。物騒な仕事ばかり追いかける姿が悪いとは言わないが、年頃の女性らしく、こういう日の当たる場所ではしゃいでいる顔の方が『らしい』と、そう思ったのだ。

 凪沙はキョトンとした顔で御幸を見上げる。そうして何度か瞬きをして、ゆっくりと前方を歩く結城夫妻を見る。固く繋がれた手は、彼らの絆の強さの表れのようだった。そうして大きく頷いてから、彼女は不思議と力なく微笑んだ。

「……そう、ね」

 今まで見たことのない、余所余所しい笑顔だった。何とも言えない表情に、御幸は言葉を詰まらせる。けれど、そうしている間に結城夫妻は次のエリアへと向かっていく。時間的にそろそろ昼食を摂る頃だろうか。行こうぜ、と御幸が促して、凪沙もまた静かに頷いて夫妻の尾行のフリを再開するのだった。



***



「そういや、お前の目から見て哲さんってクロなのか?」

「んんん?」

 お昼時、夫妻の後を追ってテーマパーク併設のレストランに訪れた二人。頬一杯にパスタをかき込む凪沙にそう訊ねると、彼女はモグモグと咀嚼をしながら顔を上げた。そして少し考える素振りを見せて、ゴクンと飲み込む。

「黒か白かでいえば、白ね。これ、調査書の一部なんだけど」

 そう言って彼女は鞄からタブレットを取り出して御幸に差し出した。画面には、結城哲也の数日の行動記録が記されていた。申し訳なく思いつつ画面を見るも、やはり不自然な行動は見当たらない。毎日妻と共に職場へ向かい、仕事をして、高校球児たちのサポートに徹底し、夜に帰宅する。外部との連絡はほとんど取っておらず、通信・通話履歴の八割が妻もしくは同僚。素人目にも、結城の後ろ暗さは見当たらない。

「そもそも接触してる相手は高校生を除けば奥様か同僚だけ。仕事も忙しいみたいだし、他の人間が入り込む余地もないし、動機もない。あなたとの共通点だって、同じ高校の野球部でキャプテンをしていたぐらい。ポジションも違うし、野球に関わっているとはいえ高校野球とプロ野球、流石にステージが違い過ぎる」

「じゃあ」

「ええ。蒼炎会があなたの尾行状況を報告していたのは、まったく別の人だと思う。それに、実際見て確信した。あの人は白よ」

「なんで?」

 そうして空っぽになった皿をテーブルの隅に寄せ、凪沙は顔を近付けてくる。

「あの人、誰にでも丁寧な物腰だから。奥さんだけじゃなくて、店員さんにもね」

 当たり前のことすぎて、御幸は首を傾げる羽目になった。だが、凪沙にとってそれは当たり前のことじゃないらしく、苦々しく微笑んだ。

「当たり前のことじゃないのよ、全然。あなただって見たでしょう、平安僂で行われていた、蒼炎会の同窓会」

「ああ……」

「全員ではないにしろ、あの連中は表の顔と裏の顔を持っていた。表では家族を持ち、子どもを育んでいる中で、一方では女を売り飛ばし、若者から小銭を巻き上げ、暴力を肯定する連中と我が物顔でつるんでいる。そういう連中はね、身内にしか優しくできないの。初めて会った人間──特に下手に出ざるを得ない店員さんには、横柄な態度をとることが多い。でもね」

 あの人は違うわ、そうやって自然と凪沙は数メートル先に座っている結城夫妻に視線を寄越す。皿を下げてくれる店員に、結城は勇ましい顔つきでキビキビとお礼を言っている。ああいうところは、昔から変わっていない。自分も憧れた男のままである。フ、と笑みが零れてしまう。

「見知らぬ人の親切に、お礼が言える。あなたたちにとって当たり前のことでも、それってちっとも当たり前のことじゃないのよ。それを『当たり前』だと言える人間性は、こっちの世界で育まれない」

「……」

「いえ、例え育まれていたとしても、多分、きっと、どこかで折れてしまうのよ。この世界は、人間からそういう『善性』を奪ってしまうんでしょうね……」

 しみじみと、悲観するように凪沙はそう告げて端に寄せた皿を手に取る。何も言えない御幸に困ったように肩を竦めてから、片付けようと立ち上がろうとした時に、もう一人店員が通りかかった。

「お客様、お済のお皿おさげしますよ」

「あ、すみません、ありがとうございます!」

 ──けれど、そう語る彼女もまた、見知らぬ誰かの親切に『ありがとう』と自然に返す。凪沙の言う『善性』は、まだ損なわれていない証拠だろう。そう思えば、御幸がまず頼った探偵事務所が、天城探偵事務所で本当に良かった。手際よく皿を片付ける店員に御幸も会釈して、すっかり綺麗になったテーブルを前に二人は立ち上がる。

「さ、腹ごしらえもしたし、行きましょうか。一日はまだまだ長いわよ!」

「だな」

 そうして二人は、結城夫妻に少し遅れて席を立ったのだった。

 広いテーマパークを行ったり来たり。普段から運動をしている御幸ですら、疲労が徐々に足に溜まっていく。日も傾き始め、あたりが徐々に暗くなり始めると、隣を歩く凪沙の表情が強張っていくのが分かった。流石にはしゃぎ疲れたのかと思ったが、どうやらそうではないようで。

「視界が悪くなるもの。変な奴らが近付いてくるかもしれない」

「……なるほどな」

 だが、御幸は正直それどころじゃなかった。というのも、尾行している──フリではあるが──結城が、こちらの尾行に勘付き始めたのだ。元々野生の勘が鋭い人だ、凪沙ほど手慣れた探偵ならまだしも、御幸はド素人である。何時間も周りをウロついていたら、そりゃあバレもする。故に御幸は息を潜めるのに必死だった。結城は尾行中何度も振り返るようになり、そのたびに屈んだり人混みに紛れたりオブジェクトに隠れたりと必死だった。

 アトラクションの行列に並びながら、凪沙もフウと溜息を零す。

「中々鋭い人ねえ」

「昔っから野生の勘が鋭いんだよ……なあ、もう切り上げないか? もうこの尾行自体に意味ねえんだろ?」

「んんー、できればもう少し暗くなってから、切り上げたいのよね」

「……仕掛けるのか?」

「ええ。だから、暗くなるまで粘りたいのよね。闇に紛れる方が、お互い都合がいいもの」

 そう、本来の目的は御幸たちを尾行している連中を引きずり出すこと。運営会社の資本力のおかげで、このパーク内で派手な流血沙汰は起こらないだろうと凪沙は踏んだ。故に、罠にかかったふりをして──逆に、連中の正体を暴く。一般客も多く溢れるのだから、暗いに越したことは無いのは御幸にも分かる。

「だから、もうちょっとフリを続けて時間を稼ぎましょう」

「別にフリは止めて、普通に遊んだっていいだ──」

 そう言いかけた御幸の言葉が突如詰まった。というのも、前方をゆっくりと歩いていた結城が突如振り返ったのだ。それまで何度もそういう仕草をしていたが、今ハッキリと、御幸と目が合ったのだ。いくら誰とも分からぬ変装を施されているとはいえ、まずい、と反射的に思うのは自然の摂理だった。そしてその後ろめたさは、自然と顔に出てしまう。結城の顔が、怪訝そうに歪んだのが見えた。その時だった。

「チッ!」

 バレる、そう思った瞬間に、横から舌打ちが飛んできたかと思えば、首からぶら下げられたジャラジャラとしたネックレスを思いっきり引っ張られた。がくん、と首ごと引っ張られたかと思えば、凪沙の小さな唇が『がまん』と形作った。そして。

「──、」

 下から、唇がぐっと押し付けられた。要は、キスされている状況である。ただ、唇にではない。唇からほんの少しだけ横にズレた場所だ。だが、周りからしたら熱烈な口付けを交わしているようにしか見えないだろう。経験が無いわけではないが、それでも人の往来が激しいこんな場所でキスをされたことは無く、御幸は物の見事にフリーズした。それからきっかり三十秒ほどそうして、列が動き出した頃に凪沙はようやく離れた。結城はとっくにこちらから目を逸らしており、奥さんと雑談をしている。

「何とか誤魔化せたわね」

 列に並びながら、凪沙は何でもないように言う。恥ずかしいやら呆れるやらで物も言えずに震える御幸に、彼女はきょとんとしたように目を丸くする。

「人がキスしてるところを凝視する人はいないでしょう?」

「そ──そりゃ、そうかもしれねえ、けど!」

「あら? そういうの気にする人? 好きな人も恋人もいないって聞いたから、いいかなって思ったんだけど」

 こっちの狼狽が恥ずかしくなるほどに、凪沙は普段通りだった。探偵として、これぐらいの『擬態』はお手の物なのだろう。こっちにしてみれば堪ったものではないが。火が点いたように熱くなる顔をそのままに視線を逸らすと、彼女は申し訳なさそうに笑った。

「ごめんなさい、そこまで動揺されるとは思わなくて」

「……フツーは、するだろ」

「フツー、そうね、フツーだわ。あなたの反応が、きっと正しいのでしょうね」

 自分に言い聞かせるように頷いて、凪沙は再び結城夫妻に目線を投げる。そうして会話は途切れ、ファンシーな音楽に導かれてアトラクションに乗り込む。映画をモチーフにした乗り物に乗って施設を一周する。ただそれだけのこと。けれど、横に乗り込む凪沙は、周囲を警戒しつつも眼にするもの全て、耳にするものに全てに、表情を綻ばせていた。そんな彼女に、視線が吸い寄せられていることに、御幸はようやく気付いた。

 信じられない。まさか誤魔化しのキス一つで絆されてしまったのかとかぶりを振る。ありえない、馬鹿馬鹿しい。何のためにこの女の元を訪れたのかと、自分を律する。全ては、自分の冤罪を晴らすためだろう。まかり間違っても、恋に愛に浮かれるためではない。確かに彼女は良くしてくれているし、自分を守ってくれるし、生活力は皆無だが、寧ろこういう年相応な一面もあるところが──。

「(じゃなくて!!)」

 凪沙から目を逸らす。だめだ、変なことを考えてしまう。絆されているかはともかく、完全に意識している。変なことするからだと、彼女にキスされた口元を撫ぜる。早く終われと念じながら、御幸は必死に試合中の光景を脳裏に描くのだった。

 それから十分としないうちに、人混みに流されるようにアトラクションから出る二人。たった数十分建物の中に入っていただけなのに、外は驚くほど暗くなっていた。ぐっと伸びをする凪沙を横目に、夫妻の行方を捜す御幸。

「二人とも、城の方に向かうみたいだな」

「そろそろパレードが始まるものね。私たちも行──」

 すると、伸びをしたまま凪沙が凍り付いた。御幸もだ。背後に、誰かいる。いや、この人混みだ。それ自体は珍しくもなんともない。けれど、明らかに背中に何か冷たくて硬い物を押し付けられているのだから、声も出なくなるというものだ。

「御幸一也と、天城凪沙だな」

「ちょっと俺たちと来てもらおうか」

 耳元で囁かれる男の声に、御幸は凪沙と目を合わせた。まさかこんなに早くお出ましとは。驚きはしたが、恐怖はそこまでない。力強く頷く女の横顔は、先ほどまでの愛らしさはどこにもない。ただ、緊張したフリをして、瞳の奥に闘志を燃やす『あちらの世界の人間』の顔を、していた。



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