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 御幸と凪沙は高速を飛ばして、真っ直ぐ探偵事務所のあるタワーマンションに戻ってきていた。ひどく警戒した様子の凪沙のゴーサインと共に、御幸たちは転がるようにマンションのエレベーターに飛び込み、事務所に戻る。事務所は特に荒らされたり侵入されたりした様子はなく、それでも凪沙は念入りに侵入者がいなかったかチェックしていた。そうして戻って一時間もした頃に、ようやく凪沙は事務所のソファに腰を下ろした。

「大丈夫そうね。この場所は割れてないみたい」

 流石に困憊しているのか、凪沙はソファにもたれかかったまま天井を見上げた。そんな凪沙に、御幸もまた頷いて向かいのソファに腰を下ろす。

「ひとまず、このマンションは安全よ。亜門だろうがFBIだろうがMI6だろうが、このマンションで事を起こすことはできないわ」

「なんでそう言い切れるんだ?」

「言ったでしょう、このマンションには要人が住んでるのよ。それなりにね」

 そう言いながら、凪沙は立ち上がってキッチンの冷蔵庫から缶コーヒーを二本取り出して、うち一本を御幸に放った。ぱしり、とコーヒーをキャッチする御幸を身ながら、彼女はすぐさまプルタブを立てた。いつもコーヒーを淹れる瑠夏がいないせいだろう。

「政治家、世界に名立たる研究者、相談役、大企業の社長、皇族華族に連なる者、世界有数のホワイトハッカーなんてのもいたかしら。とにかくまあ、それなりの身分の人間が住んでるの」

「……ここに?」

「ええ。正確には、住まわせている、のだけど」

 妙に引っかかる言い回しに、御幸は自然と首を傾げる。そんな御幸の疑問をくみ取ったかのように、凪沙は言葉を続ける。

「このマンションはね、うちに依頼してきたクライアントたちを住まわせてるの。それなりのセキュリティを保証してね」

「住まわせてる……って、何で?」

「こういう仕事柄、あれこれ恨まれがちだもの、ミレニアムタワーみたいに吹っ飛ばされたら敵わないでしょう? だから、要人を住まわせることで、マンションに被害をもたらすと世間の目が向くようにしてるの。有名人著名人が住むマンションが吹っ飛ばされて山ほど死んだら、世間が大騒ぎするでしょう?」

「……すげーこと考えるな、お前」

 そういうことか、ようやく事情が呑み込めた御幸は半笑いを浮かべる。ここの住人は元は客であり、マンションに住まわせることで、お互いがお互いの安全を保証し合っているのだ。もしこのマンションが平安僂のように火の手が上がったら、マスコミは著名人の住むマンションとして殺到するし、世間の目も向く。

「ただでさえ各々がセキュリティを頑強に固めているのに、世間を騒がすような事を起こしたら、いらぬ注目を集めてしまう。裏社会に生きる者にとっては、陽の目が向くと仕事がし辛くなるわ。特に、亜門みたいな暗殺者集団にはね」

 グイッとコーヒーを一気に飲んだ凪沙はそう語る。暗殺集団がどういうものか分からない御幸には、「そうか」と零す他ない。

「……なあ、その亜門って奴はそんなにヤバいのか?」

 凪沙の表情は暗い。この事務所に足を踏み入れてから、こんなしおらしい彼女は見たことがない。つまり、瑠夏が相対した相手はそれほどまでに厄介な相手ということ。そう訊ねれば、凪沙はきゅっと顔を顰めた。

「正直……よく分からないのよね」

「は?」

「だから、怖いのよ」

 意外にも、凪沙の答えはそんな曖昧なものだった。その恐怖を知っているからこその態度だと思っていたのに。そんな御幸の疑問に答えるように、彼女は疲れたようにかぶりを振る。

「この世界で分からないのに名を馳せているということはね、生き残った証人が少ないということよ」

「──」

 言葉が出なかった。実にシンプル、故におぞましい『解』だった。確かにそうだ、相手は暗殺者集団なのだ。ターゲットは悉く暗殺されているのなら、その活躍を知る者はいないはず。なのに『亜門』という名前だけは広く知れ渡っている。それが何を意味成すか、御幸はようやく理解した。けれど、そんな知りたくもないカラクリに、何を言えばいいのか分からない。

 つまり瑠夏は、そんな相手を、たった一人で──?

「大丈夫、瑠夏は生き残る」

 最悪の展開が過る御幸に、凪沙は力強く言い切った。けれど、悲しげな表情は、やはり自分に言い聞かせているようにも見えて。そんな御幸の訝しむような視線に、凪沙はハッとしたように目を瞬かせた。

「……ごめんなさい。お客様を不安にさせるなんて、探偵失格ね」

 困ったように微笑んでから、凪沙は空になった缶コーヒーをコトリとローテーブルに置いた。それからぐっと伸びをして、少しわざとらしい笑みを浮かべた。

「大丈夫。それよりも、蒼葉優斗から引き出した情報を洗いましょう」

「蒼さんから──でも、スマホは壊されてただろ?」

「ふふん、舐めてもらったら困るわ。蒼葉優斗のスマホから入手した情報は、このマンションのサーバーに自動的に転送していたの。まあ、転送完了する前に壊されちゃったんだけど……何かしらの情報は拾えると思う!」

 逞しい限りだ。或いは、空元気なのかもしれないが。こいつはいくつスマホを持っているのだろう。と思いながら御幸もようやくコーヒー缶を開ける。

「それまでは待機か?」

「ええ、あなたはゆっくり休んで、英気を養っておいて。命を狙われていると分かった以上、休める時に休んでおかないと」

「……分かった」

 残ったコーヒーを一気に呷り、御幸は立ち上がる。確かに、今日はもうへとへとだ。さっさと風呂に入って、ベッドで眠りたい。そんな御幸を他所に、彼女は柔らかく微笑むと、スマホやらタブレットやらパソコンやらを広いデスクに広げて、まだまだ仕事をするつもりらしい。

「……お前も、ほどほどにしておけよ」

「ん、ありがとう。私たちなら、大丈夫だから」

 彼女は御幸の顔も見ずに告げる。一日出ずっぱりで、荒事にもなって、その上でまだ仕事を続けるのか、この女は。けれど、この仕事が遅くなればなるだけ御幸の現役復帰が遠のくと、よくよく分かっていた。だから御幸は大人しく凪沙に任せる。彼女たちには彼女たちの、御幸には御幸のやるべきことがある。だから、少しだけ身体を動かそう。感はすぐ鈍る、せめて己のスイングだけでも忘れないようにしなければ。そんな思いで御幸は四十階のフィットネスジムへと向かうのだった。



***



 それから数日経過した。少なくともこのマンションに火を付けられたり、爆撃されたり、或いは窓から狙撃されるなんてことはなく。先日の平安僂での騒ぎが嘘のように、穏やかな日々だった。朝起きて、シャワーを浴びて、身体を動かして、食事をして、一日過ごす御幸とは裏腹に、凪沙は日々ドタバタ駆けずり回って、どこかに電話したり、パソコンと長時間向き合ったりしていたが、少なくとも平和ではあった。凪沙は壊れたスマホから転送されかけたデータの復旧に専念しているようで、顔を合わせてもほとんど会話をしなかった。強いて言えば、蒼葉の行方が分からないか、と聞かれたぐらいだ。

「……駄目だな。公示は出てるけど、抹消されてるだけだ」

 球団のSNSで公示情報が出るので見たが、蒼葉優斗の名前が抹消されただけだった。怪我もなく、不調もない正捕手が突如として抹消されたことにより、ファンはインターネット上であることないこと噂している。けれどその噂に、平安僂だの蒼炎会だのというワードは見つけられなかった。凪沙も残念そうに肩を竦める。

「平安僂の火災発生も、さほど大事にはなってないわね。巻き込まれた人たちも、あまり大した情報は残してないわね。『ヤクザが暴れた』だの『暗殺者が現れた』だのと証言はしてるみたいだけど、一酸化炭素中毒で幻覚を見たのだろうと片付けられてるわね」

「……そうか」

「消されなかっただけ温情と見るべきかしら。或いは、事を大きくすまいと警察や病院相手に根回ししたのか。何にせよ、どちらも極道とズブズブなケースも多いし、あまり宛てにはできなさそうね」

 一つ収穫があったとしたら、平安僂火災発生事件で死体は上がらなかったぐらい。つまり、亜門にしろ瑠夏にしろ、その場では逃げおおせた可能性が高い、と凪沙は判断した。逆にそれ以外の情報はまるでない。凪沙が蒼葉のスマホから拝借したデータが復元できなければ、身体を張った意味がなくなってしまう。故に御幸は、朗報を待つばかりだ。あの戦いは、無駄ではなかったと信じるために。

 瑠夏を囮にした負い目でもあるのか、凪沙はマンションに帰って来てからずっと仕事に奔走していた。いつ見ても、朝も昼も夜も、自分のデスクにパソコンやら資料やらを広げて、椅子の上に座していた。眠る姿も、食事を取る姿も、何なら風呂に入っているかどうかも怪しくて。デスクの周りには、飲み終わった缶コーヒーの空き缶が、まるで壁のように積み上がっていく。

「……お前、飯食ってんのか?」

「んん?」

 ついに我慢のできなくなった御幸は、そう声をかける。凪沙はソファに寝そべったまま資料をガサガサと読み漁りながら缶コーヒーを口付けており、眠たげな目が御幸を振り向く。

「めし……メシ──……んん……面倒だから、いい……」

「面倒だから抜くモンじゃねえって」

「大丈夫よ……飲み物は飲んでる……」

「コーヒーしか飲んでないだろ、お前」

「……」

 全く話にならない。まるで駄々を捏ねる子どもである。どうやら、仕事に熱中するあまり、私生活を疎かにするタイプらしい。呆れたように溜息を吐く御幸に、凪沙は不思議そうに首を傾げた。

「どうかしたの? もしかして、臭う……?」

「そのセリフが出るほど風呂入ってないってことはよーく分かった」

 男だ女だ以前に、人として問題発言過ぎる。異臭が出るほど風呂に入らないなんて、どうかしてる。仕方なく、御幸は凪沙が握り締めている紙束を取り上げる。

「あっ、ちょ──何すんのよ!」

「風呂入ってこい。あと飯も」

「……めんどくさい」

 やることがある、ではなく、めんどくさい、な辺り、彼女の困った一面が丸見えだ。一体どうやって生活していたのだろう。そんな疑問の回答は、顔を顰めた凪沙の口からもたらされる。

「いつもは瑠夏が……準備して……お風呂入れって言ってくれて……洗濯も掃除も……だから、自分でやるの……面倒なの……」

 ぶうぶうと文句を言いながら、ソファから一歩と動かない凪沙。そういえば、甲斐甲斐しくコーヒーを淹れていたのも、御幸に食事や生活用品を用意していたのも瑠夏だった。早く帰ってこいと思いながら、御幸は仕方なくソファの前に腰を落とす。

「なーに?」

 不満げな表情のまま唇を尖らせる凪沙。御幸は黙って凪沙の身体を抱き寄せると、そのまま横抱きに持ち上げる。身長の割に重い気がしたが、持てない重さではない。凪沙はぎょっとしたように御幸にしがみつく。

「ちょっと!? なに!?」

「面倒なんだろ。俺が連れてくから、さっさと入れって」

「い、いいわよ別に! 出かける時に入るもの!」

「毎日入るんだよ、普通は!」

「普通じゃなくていい!」

 ジタバタもがく凪沙を、御幸は無視して事務所の奥のシャワー室に運んでいく。シャワー室はごくごく普通の広めの風呂場で、洗濯機も脱衣所も清潔に保たれているが、きっと瑠夏の努力の賜物だろう。シャワー室に押し込んでやろうとそのまま進むと、凪沙は益々駄々を捏ねるように身を捩る。

「だ、第一、私の仕事が遅れれば遅れるほど、あなたの冤罪を証明するのに時間がかかってしまうでしょ!! それでもいいの!?」

「だからって自分を蔑ろにしていい理由にはならねーよ」

 御幸の一言に、凪沙はぎょっとしたように顔を強張らせた。その反応の方が理解しがたい。こっちは衣食住困らぬ生活を送っているのに、家主はろくに食事もせず仕事をしているなんて。しかも、御幸の頼んだ仕事だ。そういう契約とはいえ、見ていて心地いいものではない。だが、信じられないとばかりに凪沙はたじろいだ。

「蔑ろにしてないわよ! 別に、ちょっとぐらい……死ぬわけでもないのに……」

「俺が気になるんだよ。いいからさっさと風呂入れ、ほら!」

 そう言って、凪沙を風呂へ放る。凪沙はムスッとした顔で御幸を睨んだが、鼻先でぴしゃりとドアを閉めてやった。衣類籠には衣服やタオルも詰まっているし、素っ裸で出てくることは無いだろう。しばらくしてシャワーのコックを捻り、ざあざあという水音が聞こえてきたので、荒療治は成功といったところか。残された御幸はふと、キッチンの方に目をやる。そして、そのまま冷蔵庫を開けた。

 数十分後、ようやく凪沙はシャワールームから出てきた。ホカホカ湯気を立てながら戻ってきた彼女は、シャツにハーフパンツというラフな格好で、心なしか顔色もいい。濡れた髪をそのままにタオルを頭に乗せて、彼女はキッチンを覗き見る。

「何してるの?」

「メシ作ってる」

「めし?」

「どーせロクに食ってないんだろ。すぐ出来るから、待ってろ」

 とはいえ、普段ルームサービスで済ませているのだろう、冷蔵庫にはロクな食材が入っていなかった。米と卵と調味料があるだけマシだったのだろうか、なんて思いながら御幸は火から鍋を上げる。自分で用意するのが面倒なら、御幸が用意すればいい。どうせ、トレーニング以外にやることがないのだ。これで彼女の作業効率が上がるなら、御幸にできる最善策と言えよう。

「……そういえばあなた、料理得意だったわね」

「よく知ってんな」

「当然よ、御幸一也のことは出来うる限り調べたもの」

 そう言いながら、恐る恐る御幸の手元を除いてくる。警戒心の強い猫のようで、フッと笑みが浮かぶ。そろそろ頃合いかと鍋の蓋を取ると、食欲のそそる鰹節と卵の香りが上る。

「……おかゆ?」

「コーヒーばっか飲んでたしな、胃を痛めないよう作ったけど……食えそ?」

 アレルギーがあったら元も子もないが、幸いなことに凪沙はコクンと頷いた。茶碗一杯分の卵粥を次いで、凪沙に差し出す。

「これ食って、少し寝てろ」

「……復元、もうちょっとで終わるのに」

「結果は逃げねえよ。確かに時間がないとは言ったけどさ、自分を犠牲にし過ぎんな。傍で見てていい気はしねえんだよ、普通」

「むう……」

 凪沙は唇を尖らせたままだったが、反論はしてこなかった。コクリと再び頷いて、凪沙は茶碗を受け取る。アツアツの卵粥を、物珍しそうに眺めている。

「美味しそう……」

「いや、普通の卵粥だけど」

「ルームサービスにお粥ないから、珍しくて」

 頂きます、と凪沙はどこか嬉しそうにスプーンを携えて事務所の方へ戻っていく。たかだかお粥にそこまで期待されても、と思いながら御幸も自分の分のお粥を次ぐ。たまにはこういう、質素な食事も悪くない。お椀を手に事務所に戻ると、両手でお椀を持ち上げた凪沙がほぅと溜息を吐いてた。

「おいしい……」

「大袈裟な」

「ほんとよ! すごく美味しい……!」

 ウキウキとそう言いながら、スプーンでお粥をかき込む姿は、小さな子どものように見えた。先日は半グレや暗殺者相手にも一歩と引かず、身体を張って御幸を守ろうとした女傑とは思えない。そんな彼女に思わず頬が緩みそうになるのを堪えながら、御幸も黙って粥を腹に収める。二人して向かい合って、黙々と粥を啜る様は何とも言い難い奇妙な空間だった。

 その時、ブーブーとテーブルの上のスマホが鳴る。御幸のものではない。であれば、凪沙の物だろう。案の定、凪沙はお粥を素早く書き込むと、茶碗を投げるようにテーブルに放り、スマホを手に取る。

「あぶねーな!」

「復元完了! やーっと分かったわ! 蒼葉優斗が誰の指示で御幸の情報を流していたのか!!」

 食い入るようにスマホの画面を見つめる凪沙に、御幸も息を呑んだ。そもそも、蒼葉の様子を見るに御幸を追放すれば彼の目的は達成したようなもの。なのに、わざわざ半グレの兵隊を使って御幸の動きを探っていたということは、何か理由が──或いは誰かしらの指示があったはずだと、凪沙は読んでいた。故に、蒼葉のスマホ情報を洗い、誰の指示で、何のために尾行していたのか調べていたのだ。尾行した情報は、必ず親元に流れるはずだと、凪沙は確信していたからだ。

 そうと分かればゆったり食事なんかしている場合ではない。御幸も慌てて身を乗り出す。

「だ──誰だったんだ!?」

「んー、詳しくは分からない。でも、依頼人の名前は分かったわ。どうやら、蒼葉優斗はずっと『ユウキ』という人に御幸の情報を流していたみたい。心当たりある?」

「──は?」

 その響きを耳にして、ガンッと頭を殴られたような気分だった。その響きに心当たりがあるかどうかと聞かれれば、御幸はイエスとしか言えない。だって、その名前は、ずっと昔に憧れた背中だったのだから。けれど。まさかそんなことが。

「冗談、だろ。字は? 下の名前は!?」

「分からないわ。カタカナで『ユウキ』と。でも、その様子だと心当たりがあるんでしょう?」

 確かに、心当たりはある。けれど、ありえない。絶対にありえない。はずだ。けれど、先日鬼のような形相で叫ぶ、道を踏み外した男の顔が過る。絶対にありえないなんて、どうして言えるのだろう。付き合いで言えば蒼葉の方がずっと長かった。なのに──或いはそれ故に、男は道を誤った。あの人もそうでないと、どうして言い切れるのだろう。

「……嘘だろ、哲さんが、まさか──」

 結城哲也。高校時代の先輩。御幸の人生において『ユウキ』と名を冠する人間は、彼以外知らない。



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