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 そうして『龍』の躍動は物の数分で幕を閉じる。

「う、うそだ……相手はたった、一人だぞ……っ!」

 何十人もの屈強な男たちは、龍を背負った瑠夏がたった一人で全てなぎ倒した。残ったのは、部屋の隅で震える──恐らく、何も知らないであろう──同窓会に来ただけの蒼炎会の人間と、唖然と瑠夏を見上げて腰を抜かす蒼葉ただ一人。逃げる暇も、余裕さえも奪い取るような、そんな暴力だった。蒼葉の絶望も無理はない。床に転がる男たちはナイフだのバットだの手にしているのに、瑠夏は出血すらしていない。ほぼ無傷である。

「フン、所詮はガキだな。獲物の扱いがなっちゃいねえ」

 瑠夏は一仕事終えたとばかりにスーツを羽織る。躍動していた龍の姿は隠され、まるで封印されているようだと御幸は思った。

「舐めるなよ、半グレども。俺らはな、あの時代[・・・・]を生き残ったんだぜ」

「喧嘩売る相手は選んだ方が身のためってことね。……さて」

 そうして二人の探偵は腰を抜かす蒼葉に目を落とす。びくり、と大袈裟なまでに肩を震わせる蒼葉に対する同情は、ない。人を殺せと豪語するような男はもう、御幸の知っていた気のいい先輩ではない。道を踏み外した、反社会的勢力の一部である。

「や、やめ──殺さないでっ……し、死にたくない……っ!」

 けれど、所詮は暴力をただツールとして使うだけの一般人でしかなかったらしい。大の大人がみっともなく泣いて、喚いて、腰を抜かして後ずさりする様の何と情けないことか。人を殺してまで、御幸に汚名を被せてまで正捕手の座を奪ったくせに、先ほどまでの怒りや憎しみはどこかへ失せてしまった。今はただ、ちっぽけな蟻を見下ろしている気分だ。

 そんな蒼葉に、凪沙は人のよさそうな顔でニッコリと微笑む。

「殺すわけないじゃない。私たち、正義の味方なのよ?」

「は、はあ……?」

「あなたには色々と聞きたいことがあるの。この人の冤罪についてね」

 どの面下げて正義の味方か分かったものじゃない、と顔を顰める御幸の肩を、凪沙はぽんと叩く。蒼葉は呆けた顔で御幸と凪沙を交互に見やるばかり。

「この場で話すようなことじゃないと思うけど──証人は多い方がいいし、このまま話しちゃいましょうか。瑠夏、雑魚は片付けて来たでしょうね?」

「ええ、先ほど裏から潜入した時に、ちょちょいと」

「結構。蒼葉優斗の大スキャンダルだもの。邪魔者に横槍入れられないよう、一人でも多くの人に聞いてもらわなきゃね」

 会場の隅には未だガタガタと震える一般人がいる。このまま蒼葉の悪事を暴くつもりらしい。連中が味方かどうかは御幸には判断が付かないが、彼女たちにとってはこのまま事を進める方が都合がいいらしい。凪沙は周囲を確認する瑠夏を背後に配置してから、しゃがみ込んで蒼葉の顔を覗き込む。

「あなた、どうして部下に御幸一也の尾行を命じていたの?」

「え──あ──」

「ああ、ごめんなさい。証拠があるって嘘なの」

「は」

「スマホを撃っ──壊したのは、私の部下。自作自演だったの。ごめんなさいね?」

 一般人がいるからか、小声でそう囁く凪沙を馬鹿みたいな顔で蒼葉が見上げている。やはり自演だったのか。瑠夏が携えている細長いジュラルミンケースに何が入っているのか、御幸は深く考えないことにした。

「でも、おかげであなたが交渉事に暴力を行使するような人間だって分かって良かったわあ。良い映像がバッチリ撮れてるもの、ほら!」

 そうして彼女は当然のような顔でポケットからもう一つスマホを取り出した。いくつか携帯を携えているのは知っていたが、自作自演で壊した方はダミー機だったのだろう。凪沙がスマホを操作すると、聞き覚えのある声が流れてくる。

『こ──こいつらを取り押さえろ!! 誰一人ここから出すなッ!!』

『殺せ──この女も、御幸も、全員殺せッ!! 殺せ殺せ殺せッ!!』

『俺はもう、戻れねえ……戻れねえなら、突き進むしかねえんだよっ!!』

 蒼葉の声だ。何なら動画を撮っていたようだ。蒼葉がつい先ほど、輩系の男たちに指示している姿がバッチリ激写されている。

「殺人教唆に監禁、反社会的勢力との関与は『暴対法第五条』に該当するかしら? 懺悔はぜひ裁判所で行ってもらうとして、あなたには色々聞きたいことがあるの」

「ハ──ハメやがったな!?」

「最初に御幸一也をハメたのはあなたでしょう?」

 くすり、と笑みを零す凪沙に、蒼葉は怒りに顔が真っ赤になっている。けれど、この映像は決定的だ。冤罪の裏付けにはまだ足りないが、蒼葉優斗を球界から追放するには十分すぎる。

「さあ、取引の時間よ、蒼葉優斗。私たちは今この場でこの動画をインターネット上にアップロードすることもできるけど、あなたの態度次第では提出場所は裁判所限定にしてあげてもいいわ」

 中々の交渉材料に、御幸は唖然とした。どちらに転んでも、蒼葉のやらかしは世に広めると言っているようなものだ。流石の蒼葉も理不尽だとばかりにかぶりを振る。

「な、なんだそれ!? お──お前たちが動画を押さえていることには、か、変わりないだろう!! 俺に何のメリットがあるって言うんだ!?」

「分からない人ね、言い訳を考える時間をあげると言っているのよ。御幸の冤罪を晴らしたら、あなたが転げ落ちるのは時間の問題。けれど私たちに情報なり証拠をくれるなら、それが公になる前に高跳びするなり、言い訳を考えるなりできるでしょう?」

「な、な、な──!!」

「こちらとしても、情報源のあなたにはある程度泳いでおいて欲しいのよね。証拠は多ければ多い方がいいし、どーもあなたの背後はきな臭いから、埃が出るならいっぱい叩いておきたいのよね。こういう情報はいざって時に役に立つし?」

 なるほど、奇妙な交渉だと思ったが、こちらにも利点はあるらしい。交渉が成立したら蒼葉は荷物を纏める時間が作れるし、裏切りを知った蒼葉の背後にいる誰かが動き、こちらは情報が手に入る上にそれ以外の情報を拾えるかもしれない。あくまでこちらの目的は御幸一也の冤罪を晴らすことであって、蒼葉優斗を球界から追放することではない。いずれはそうなるとしても、今日明日なのか、一週間後なのかでは、蒼葉にとっては大きな差があるはずだ。

 故に、凪沙の猛攻は止まらない。

「安心なさい。御幸一也の冤罪証明は天城探偵事務所が責任を以て果たします。我らが関わった以上、道を踏み外したあなたが今ある地位にしがみつくのは不可能と思い知りなさい」

「ふ、ふざけ──」

 叫ぶ男に、女は静かにスマホの画面を突きつける。世界的にも有名な動画投稿サイトのロゴに、ヒッと男は息を呑む。


「お前に残された道は二つに一つ。獄中生活か、海外での逃亡生活よ」


 準備が整う前に日本中から非難を浴び、御幸のように訳も分からず地位を追われるか。それとも逃げだすか、或いは罪を償うか。何にしても、この動画が凪沙の手元にある時点で、蒼葉は言い逃れはできまい。であるならば、少しでも逃げる時間を稼げる凪沙の提案は、確かにメリットがある。あるが、しかし──。

「俺に──あの連中を、売れってか?」

 そう、それはすなわち、蒼葉の背後にいるであろう後ろ暗い連中の情報を、見ず知らずの女に売り渡せと言っているわけで。それは明確な裏切りであり、それがどんな背信行為かは先日蒼炎会の情報を漏らした男の姿を見れば、一目瞭然だ。

 けれどその抵抗も織り込み済みらしく、女は薄ら寒くなるような笑みを湛える。

「裏切りは怖い?」

「あ──当たり前だ!! あいつらを裏切るなんて──い、命がいくらあっても、足りねえ!! きっと、俺の命だけじゃすまない! 友人も──家族も──お、お、俺の、娘だって──ま、まだ、あの子は、三歳になったばかりなのに、なのに──ッ!!」

「傲慢ね。人一人の人生を壊しておいて」

 彼の家族には同情の余地があるのかもしれない。けれど、凪沙の声は冷たいままだ。細い指がするりと男の頬を撫でるだけで、蒼葉は痙攣したように震える。

「仲間を裏切れないという矜持もなく、さりとて悪を貫くこともできず、か。おぞましいことね、この手の人間は」

 そう吐き捨てて、凪沙はゆっくりと立ち上がる。ふと、その左手にはどこか見覚えのある黒いスマホが握られていることに気付く。彼女は自分の身体の後ろにスマホを隠すと、器用に自分のスマホとコードで繋ぎ合わせていた。何をしているのだろう。

「あなた、ろくな死に方死ないわよ」

「じゃ、じゃあ、お前らが俺を殺すか? できないよな、できるはずないよなあ! 俺は『情報源』なんだろう? お前らは正義の味方なんだろう? あいつらの居る前で、俺を殺せはしないよなあ!?」

 形勢逆転とばかりに、蒼葉は一般人を指差しながら激高する。蒼葉は愚かな男だったが、損得勘定はできているようだった。全てを投げ打ってでも、どちらの方が生存確率が高いのか、凪沙を見て判断したのだ。ちゃんと理解したのだ。一般人を前にして、凪沙たちは暴力に暴力で訴えるわけにはいかないのだから、名声を喪って獄中や海外で暮らすよりも、身の安全を守る方が最優先という蒼葉の判断もあながち間違ってはいない。腐っても捕手。人を見抜く目だけは、まだ健在だったらしい。

 けれど──成金探偵の方が、一枚上手だった。

「そうね。私たちはあなたに手を下すつもりはないわ。だから、情報をくれないあなたとこれ以上お喋りするつもりはないから、そろそろ失礼させてもらうわ」

 その前に、と女は緩やかに口角を釣り上げる。

「これ、落とし物」

 そう告げて、男の目の前に黒いスマホぶら下げた。たちまち蒼葉の表情がビシリと凍り付く。ああ、やはり。あのスマホは蒼葉の物だったのか。どこか見覚えがあるわけである。

「お、おま──ぬ、盗ん──」

「人聞きの悪いことは言わないで。落ちてたから、拾ってあげただけじゃない。ああ、でも」

 そうして、膝をついて男の耳元に唇を寄せる凪沙の、なんとあくどい微笑みか。


「尻ポケットに大事なものを入れるのは、止めた方がいいかもね?」


 恐ろしい。凪沙は蒼葉と取引をしているふりをして、ずっとスマホを盗むチャンスを見計らっていたのだろう。先ほど、意味もなく蒼葉の頬を撫でていた時だろうか。これが敵じゃなくてよかったと、御幸は心底ほっとした。

 放心状態の蒼葉を放置し、くるりと御幸と瑠夏を振り返る凪沙はとんでもなく爽やかな笑みを浮かべていた。自分のスマホを掲げて、怖いくらい清々しい顔をしている。

「情報ゲット!」

「スマホ、返してよかったのか?」

「平気よ。さっき交渉するふりしてデータを同期してたの」

 そう言いながら、黒いコードが刺さったスマホをひらひらと揺らす凪沙。交渉を見守っていた御幸でさえ気付かなきのだから、その手癖の悪さには言葉も出なかった。

「所長、一旦戻りやすか?」

「そうしましょ。そもそも蒼葉優斗にとって、御幸が追放された段階で事件の手は離れているはず。なのにわざわざ御幸一也を尾行するなんて、絶対に何か理由があるわ。そういう指示のメールなり通話記録が残っていれば──」

 そう言って、息を呑んだのは凪沙が先だったか。瑠夏が先だったか。次に起こったことが衝撃的過ぎて、気にしている余裕はなかった。

 まず、御幸の目が捉えたのは、凪沙が掲げていたスマホに銀色の物体が突き刺さった瞬間。バリン、というガラスの割れるような音と共に、凪沙は無残な姿になったスマホを投げ捨てて御幸を押し倒すように飛び掛かり、瑠夏はそんな凪沙の盾になるように覆い被さって。

「「「──っ!!」」」

 ガシャン、バリーンッ、という耳を劈く音が続く。凪沙に瑠夏に覆いかぶされた御幸は何が起こっているか、まるで分からない。遠くから男女の悲鳴と、何かが壊れるような音。花火でも打ち上げたのかと思うぐらい、目の前がフラッシュする。

「瑠夏!」

「クソッ、どこのモンだ、野郎──」

 轟音の中、二人ががなりたてている隙に御幸はようやく辺りを見回すことができた。そして、文字通り言葉を失った。

 平安僂のパーティ会場は、今や火の海だった。豪奢な天井も頑丈な造りの丸いテーブルには火の手が回り、あちこちから爆音と黒煙を噴き上げている。部屋の隅に一般人の姿はなく、ガタガタ震える蒼葉の姿だけは確認できた。そしてその男を守るように、見知らぬ男が一人佇んでいた。黒いロングコートを羽織り、大きめの黒いサングラスで顔のほとんどを覆っている。縦にも横にも大きく、壁のような男だと思った。年の頃は瑠夏と同じぐらいだろうか、貫禄のある佇まいからは容易に想像できる。

 その男が、瑠夏の前同業者であることに。

「我が名は亜門──亜門、レイとでも名乗ろうか」

 男はゆらりと、己の身分を明かす。御幸を守るように覆い被さる凪沙も、体勢を立て直して拳を構える瑠夏も、ハッとしたように息を呑む。

「亜門だと──伝説の暗殺集団とかいう、あの?」

「なんでそんな連中が蒼炎会と関わってるのよ……っ!」

 瑠夏も凪沙も、悔しそうに顔を顰めている。いつも余裕綽々で、他人を手のひらの上で転がしているような二人が、ここにきて始めて焦りを見せた。此処まできたら『伝説の暗殺集団』がいたところで大して驚きに値しないが、この二人の様子を見るに、どうやら『驚きに値する』だけの相手らしい。

「俺の任務はただ一つ。復讐──だ」

 そうして、黒光りする銃口をそっと御幸に向ける。恐怖よりも不安よりも、ただ笑うしかできなかった。

 ハハ、と乾いた笑みがこぼれてしまう。殺し屋に銃を向けられるなんて、一体どれほどの恨みを買っていたのだろうか、と。プロ野球選手の正捕手の座は、そこまで重いのか、と。理不尽さも、此処までくれば笑うしかあるまい。

 そうして御幸は、笑いながら自分の運命を受け入れる──はずだった。

「「させるかあっ!!」」

 瑠夏と凪沙の叫びが轟くも、撃鉄が落ちるさまを、御幸はただじっと見つめていた。けれど、銃弾は御幸に届くことは無く。瑠夏が抱えていたジェラルミンケースが御幸を守るように立ちはだかるのと同時に、凪沙が御幸の腕を引っ張って立ち上がらせる。

「立って、御幸! 逃げるわよ!」

「逃げ、て──」

「亜門相手じゃ荷が重い! 一旦体制を立て直すッ!!」

「逃がすと思うか?」

 叫ぶ凪沙に銃口を向ける亜門とかいう男。けれど、その間には逞しい龍の背中が立ちはだかる。

「殺せるモンなら殺してみやがれ!」

「──龍の逆鱗か。下らんな、鱗一枚で何ができる?」

「その鱗に触れた連中がどうなったか、思い知らせてやるぜ!」

 そう言って拳を構える瑠夏を置き去りに、御幸は腕を引かれるままに燃え盛る平安僂を後にする。蒼葉も亜門も、瑠夏も追っては来ない。焼けつくような温度も、煤けた空気も、遠くに響くサイレンの音も、腕を引いて走る凪沙の姿も、みんなみんなぼんやりとした景色のように過ぎ去っていく。

 そうして御幸は凪沙たちの車に押し込まれる。そうして凪沙は瑠夏の戻りを待たぬままに、アクセルを踏み込んだ。

「あいつは──」

「御幸の殺害が目的なら、亜門はあの場に長居はしないはず。この程度の修羅場、何度だって潜ってきた。大丈夫、きっと大丈夫よ……ッ!」

 その言葉はまるで、自分自身に言い聞かせているようだった。瑠夏のような化け物相手でも敵わないのか、あの亜門という男は。そんな疑問や不安を置き去りにするように、車は駐車場を飛び出して御幸たちは横浜の地を離れていく──。



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