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 蒼葉優斗が『ユウキ』という人間に御幸を尾行した情報を流していた。すなわち、その『ユウキ』という人間が黒幕、或いは蒼葉の共犯者である可能性が高い、というのが凪沙の見解だった。

「そもそも、亜門が出てくる時点でおかしかったのよ。蒼葉優斗の目的は、恐らく御幸の追放による正捕手の座の奪取。だったら、こんなまどろっこしいことはせずに、最初から直接御幸を殺せばよかったはず。なのに監督を自殺に見立てて殺して、追放してから殺し屋を差し向けた。非効率すぎる」

「それは──そう、だけど!」

「だから、『一度追放してから殺す』メリットがある共犯者がいるはずなのよ。或いは……亜門の言うように、ただの『復讐』が目的か」

「……復讐?」

「ええ、それならこの非効率的なやり方にも説明が付くわ。利益も効率も何もない、ただ御幸一也憎しで球界追放という汚名を被せて絶望させ、そして殺す──理屈はなくとも、筋は通るわ」

「──っ」

 言い分は、分かる。少なくとも一人は死んでいる。そんな連中が背後にいて、何故『球界追放』なんか面倒な手を取ったのか。それこそ、事故でも自殺でも見せかけて御幸を殺せば、スパローズの正捕手の座は容易く空席になる。ならば何故、暗殺者を差し向けた癖に一度球界を追放させたのか。理由は憎悪だとしたら。人殺し、失望した、そんな誹謗中傷で御幸の心を腐すことが真の目的なら、理解はできる。できる、が──。

「勿論、亜門のでまかせって可能性もあるわ。球団の名誉を傷つけること株を落としたいとか、逆に球団側が名誉棄損だと御幸を訴えて慰謝料ふんだくりたいとか……野球界のことあんまり詳しくないけど、そういう線も追えなくはない」

「だったら──」

「でも、その線を追うには、動いてる金に対して利益が少なすぎる気がするのよね。いくらプロ野球選手だからって個人の資産なんかたかが知れてるし、球団の株を落としたところ野球選手なんか所詮個人事業主。もう与り知らぬことと言ってしまえばそれまでだし……」

 凪沙の言うことも尤もだという理性はある。凪沙の見立てでは少なくとも六人の人間が消えていて、数億単位の金が注ぎ込まれている。御幸の資産なんかどう多く見積もったところで数十億。球団の株が下がることで集客率が悪化し、親会社も損益を被ることはあれど、会社が傾くほどではない。

 昭和の時代より、野球と反社会組織とは切っても切れぬ、というイメージは少なからずある。言ってはなんだが、世間が大注目『し続ける』ほどのスキャンダルではない。数年も経てば、御幸の名は過去に葬られ、親会社も球団も滞りなく運営を続けるはずだ。その仄暗い昭和時代を経てきた野球界が、何よりもそれを証明している。一時的に社名を傷つける為だけに、何億も投資するだけのメリットはあるのだろうか?

「だから怨恨の線が強いと私もに睨んでる」

 凪沙はハッキリと言い切った。ぐ、と唇を噛む御幸に、凪沙は意外にも「でもね」と否定の言葉を告げる。

「蒼炎会は半グレ組織とはいえ、手広い事業を持つ集団じゃないのよ。せいぜいカツアゲとか、転売とか、そういう下らない小銭を稼いでる。数億動かせるような連中じゃない──だから、その『ユウキ』という人が相当な金を持っている、或いは金を持つ組織の一員で、御幸を恨んでいると推測するけど、どう?」

「でも──ありえねえよ──哲さんは、そんな人じゃ、ない」

「蒼葉優斗だって黒だったでしょう。ありえないでは、理由にならないのよ。それとも、そのユウキ先輩以外に『ユウキ』という人に覚えは?」

「……」

 その問いに答えるなら、『ない』だ。けれど、必死に記憶のノートを捲る。誰か、誰かほかにいないか。あの人以外なら誰でもいい。誰か誰か。けれど、検索はヒットしない。そんな御幸に追い打ちをかけるように、凪沙の鋭い言葉が続く。

「目的が本当に『復讐』なら、あなたにゆかりがある人のはずでしょ。勿論、偽名という可能性もあるし、ただのヤクザのフロントの一人かもしれない。でも──名前を聞いて覚えがあると言うのなら、やはり、容疑者位置に入れるべきだと思う」

「……っ」

「その人はどんな人なの? 野球選手なの?」

 よほど苦しげな表情をしていたのだろう、凪沙は気遣うように優しく問いかける。けれど、御幸は答えられなかった。酷い裏切りのような気がしてならない。そんな御幸に、凪沙は努めて明るく振る舞う。

「あくまで『容疑』よ。クロの可能性があるかどうかなんて、事前調査である程度見えてくるわ。あなたの知るユウキ先輩がシロだと分かれば、他の線も当たれる。見えない部分が多すぎるんだもの、可能性は一つ一つ潰しておきたいのよ」

 諭すような、柔らかな声。確かに、それ以外手がかりがないのだ。御幸の知る結城なのか、それとも全く知らない誰かなのか、それが分かるだけでも調査としては一歩前進、ということらしい。

 御幸はゆるゆると、結城哲也の情報を口にする。高校時代の先輩であったこと、彼からキャプテンの座を引き継いだこと。明神大学で野球を続けながら教員免許を取り、今は高校の教師をしながら野球部顧問として子どもたちを指導しているということ。親しい先輩ではあったが、私生活で交流することはほとんどなく、年に一度の高校のOB会で挨拶する程度。最後に会ったのは彼の結婚式、大学の後輩と共にゴールインした偉大な先輩を、御幸は心から祝福した。やや天然な人だが圧倒的リーダーシップで人々を背中で導く漢気溢れる先輩で、裏表もなく、野球を愛する剛健な人だ。半グレだのヤクザだの、そういった人種とは正反対の存在である──御幸は矢継ぎ早に、そう答える。

 最後までじっくりと聞き終えた凪沙は、不満げに片眉を跳ね上げた。

「……確かに、聞く限りでは、怨恨の線は薄そうね」

「だろ? 絶対人違いだって!」

「でも、他にユウキって人に覚えはないのでしょう?」

「それは──」

「まあ、一応金持ってそうな著名人は粗方洗っておくわ。聞くにその勇気先輩は一般人なのでしょう? 一般人に暗殺者を雇えるような財力があるとは思えないもの」

 静かに言葉を加える凪沙に、御幸はハッと息を呑んでから頭を下げた。『ユウキ』が何者かは不明だが、少なくとも何億もの金を動かせる、或いは動かす組織に所属しているのだけは確かだ。有名人・著名人の可能性の方が高いはずだ。

「俺も家に帰れたらな……中高のアルバム引っ張ってこれんだけど」

「瑠夏がいない今、あまり歩き回らない方がいいわね」

「分かってる。亜門みたいな奴見て、出歩きたいなんて──あ」

 目を瞠った。こんな目に遭って、御幸は雲隠れするように身を隠した。ろくに家にも戻らず、真っ直ぐこの事務所にやってきたのだから。というのも、御幸は今独身だ。パートナーもいない。身軽に動ける身分でよかったと思っていたが──唯一。そう、唯一この世界においてただ一人、御幸には守るべき血の繋がった家族がいる。

「家、帰らねえと──」

「話聞いてた? 帰るなって言ってるの!」

「違う! 実家の方だッ!!」

 母親を早くに失くし、親戚付き合いもなく、祖父母も他界している。そんな中で、唯一御幸一也の血縁者であり、男で一つで育ててくれた人がいる。父親だ。自分も会社の経営に苦労しているであろうに、何一つ不自由なく育ててくれたこの人に恩返しするために、御幸は球界に足を踏み入れたのだ。

 御幸がこうして暗殺者に狙われている今──父は、父の無事は?

「親父が人質に取られたら? 俺を炙りだすために、亜門とかいう奴が──蒼炎会が──実家に、向かった、ら」

 御幸の実家は自営業である。苗字の珍しさから、調べれば素人でさえ御幸の実家を探し当てることができるだろう。そんなプライバシーも何もない状況でも、父は気にするなと笑ってくれた。その人は今、無事なのか。生きているのか。謂われなき批評が父にも刃を向かぬよう、身を隠したことが仇となったか。慌てて立ち上がる御幸だが、凪沙はふわりと笑って見せた。

「大丈夫よ」

「大丈夫──って、何を根拠に言ってんだよ!!」

「あなたがうちに電話した日に、お父様にはとっておきの護衛をつけたから」

 澄ました顔で缶コーヒーを手に──お粥を食べながらコーヒーを飲むなんて、どうかしてる──優雅に微笑む凪沙。一瞬、何を言われたか分からず呆ける御幸に、凪沙は一枚のメモ差し出した。英数字が描かれている。

「神室町には、うちに負けず劣らずの武闘派探偵がいてね。御幸スチールの社長さんを、ずっと護衛するよう頼んでるの。心配なら此処に連絡してみて」

「は──え?」

「あの二人なら亜門相手でも──まあ、負け越すことは無いわ。腕もあって、機転も利くし、義理堅い上に、万年貧乏探偵。言い値で依頼しておいたから、安心して?」

 にこにこと、自分の計画を語る凪沙に御幸はただ茫然とした。まさかそこまで根回ししていたとは、思わなかったのだ。

「おまえ──なんで、」

「たった一人のご家族だもの。調べはすぐについたし、あなたが若くして球界に乗り込んだ理由でもあった。連中が付け狙わないわけがないから、先手を打たせてもらったの」

「さ、先に言え、そういうことはっ!」

「護衛してる探偵から毎日無事の報告貰ってたから、わざわざ共有するまでもないかなって……」

 便りがないのは元気な証拠とは言うが、護衛を依頼してまで守ってくれているのだから、御幸にも共有しておくべきでは。いやまあ、結果として彼女の選択は最良であり、護衛の探偵の連絡先も貰えた。まさかヤクザが関わっているなんて夢にも思わなかっただけに、父の身の安全を今の今まですっかり忘れていた自分が恥ずかしい。項垂れる御幸に、凪沙は焦ったようにスマホを差し出す。

「ほら、見て! 探偵からの定期報告! ちゃんとご無事でしょう?」

 スマホの画面には、今日の日付で父が仕事場のトラックに乗り込む姿が映し出されている。嘘偽りないとは今更疑っていない。ただただ、自分が情けない。自分だけが世界で一番不幸なわけでもあるまいし、被害者ぶってる暇なんか、なかったはずなのに。

「……よか、った」

 肩の力が抜けていく。父は今も無事で、仕事に専念している。それが分かって、本当によかった。この人に何かあったら、御幸だってどうするか分からないほどに。この世に生きるたった一人の、大事な家族なのだから。

「大切なのね、お父様のこと」

 迷わず頷く御幸に、くすりと凪沙が微笑む。からかっている様子はない。寧ろ、嬉しそうに顔を綻ばせている。

「私も母親がいなくてね、父一人に育てられたの。だから、あなたがお父様を思う気持ちは、すごく分かる」

「……お前も?」

「ええ。あなたと違って、経営難による倒産で離婚、なんて美談にできないケースだったけどね」

 シニカルに肩を竦めて、懐かしそうに語る凪沙。

「それでも、父は懸命に働いて、私を育ててくれた。……立派とは言い難いし、ずっと貧乏で苦労続きだったけど──大切な人だったの」

 過去を語る口ぶりから、その人はもういないと分かり、御幸は少しばかり視線を逸らす。その気持ちが分かるからこそ、凪沙は迷わず父を守るための護衛を雇ったのだろう。頭の下がる思いだ。

「父も小規模な会社を経営していたけど倒産してしまってね。母にも逃げられ、借金取りに追われるような生活の中で、父はちっぽけな探偵事務所を立ち上げたの」

 ふと、凪沙はそんなことを言い始めた。そういえば、出会ったとき彼女は『二代目所長』と言っていた。このマンションの住所が書かれた名刺を思い出しながら、なるほどそういうことかと、御幸は頷いた。

「で、親父の跡継ぎか。立派だな」

「ありがと。でも、あなたは? 家を継ごうとは思わなかったの?」

「親父には申し訳ねえと思ったけどさ、先がねえからな、この業界。だったら少しでも俺が稼いで、親父にラクさせてやろうとしたんだ」

「いいわね。それもまた立派な親孝行じゃない」

「どーだかな。俺が何億稼いでも頑なに仕事辞めねーんだよな、あの人」

「仕事が好きなタイプなのかしら?」

「かもな。だから倒産しないよう、色々設備整えるのが関の山だったわ」

「素敵。そっか、そういう親孝行もあったのね……」

 今日何本目か分からぬコーヒー缶にプルタブを立てながら、凪沙は穏やかな表情でそう語る。結果として、こんな事態に巻き込むなら大人しく父の後を継いでおくのもまた正解だったのかもしれない。それでも、御幸一也という一人のプロ野球選手の誕生を喜んだのは、父親だった。お前を誇りに思うと、涙ながらに語る父の声に泥は塗れない。今尚誹謗中傷に苛まれているかもしれない──早く、事件を解決しなければ。

 その瞬間、父の姿が映されている画面に、着信が入った。画面には『瑠夏』と表示された。

「瑠夏!」

 凪沙はコーヒー缶を叩きつけるようにテーブルに置き、着信を受けてスピーカーモードにする。

「瑠夏! 大丈夫? 無事なのね?」

『すみません、所長。連絡が遅くなりやして……!』

 情けないとばかりに項垂れる瑠夏の姿が見えるほど、声に覇気はない。それでも、電話ができるぐらい無事であるらしい。

「あなたが無事で何よりよ。それで今、どこにいるの?」

『亜門の野郎がしつこいもんで、今は古巣に帰って弟分たちの住まいを転々としてやす』

「(……大阪に、いるのね)」

 凪沙は御幸にしか聞こえない声量でポツリと呟いた。『古巣』というのは瑠夏の出身なのだろうか。ずいぶん遠くまで逃げたものだと御幸も内心舌を巻く。

「……亜門、撒けたと思う?」

『ええ。ですが念には念を、しばらくは事務所には戻らねえつもりです』

「分かった、指示は追々出すわ。盗聴の危険もあるし、スマホは都度変更すること」

『了解です』

 その声を聴いて、凪沙は瑠夏に気付かれない程度の声量でほっと溜息を零した。そして、スマホに前のめりになりながら、凪沙は声をグッと低くする。

「──亜門、どうだった?」

『……正直に言いやす。噂に違わぬ強敵でした。強ェなんてもんじゃねえ。組長[オヤジ]よりイカついですぜ、あいつ』

「それはまた、厄介ね」

『ただ、獲物以外は殺すつもりはねえようです。俺も一発ブッ刺された程度で済みましたし』

 とても『程度で済んだ』とは言い難いフレーズがかっ飛んできたが、凪沙も瑠夏もツッコまない。多分きっと、彼らの身体は岩か何かでできているに違いない。御幸はそう思うことにした。

『そっちはなんか進展ありやした?』

「ええ。ひとまずは次のステップに進めそう。あなたにも動いてもらうから、とりあえずこっちに戻ってきて頂戴」

『承知』

「……一応聞くけど、傷は大丈夫なのよね?」

 流石に心配はしていたのか、凪沙は訝しむように訊ねる。すると電話の向こうでハッと息を呑む声と共に、荒い息遣いが聞こえてきた。

『所長がチューしてくれたら元気に──』

「大丈夫そうね。あとでね、瑠夏」

 冷たく突っぱねて、凪沙は躊躇いなく通話を切った。迷いない応対に、それが彼らの普段のやり取りであると分かる。

「……変な奴だな、あいつも」

「とはいえ、亜門に接敵して逃げ遂せた功績は大きいわ。彼は間違いなく切り札になる」

「ああ。ってことは、瑠夏が戻るまでは哲さんの調査か」

「そうね。あなたの人脈が使えれば楽なんだけど……流石にこの状況下で一般人の手を借りるのは危険ね。護衛の手がいくつあっても足りやしない」

「じゃあ、どうやって調べるんだ?」

「探偵なんてね、この街には腐るほどいるもの、金でどうにかするわ。昔と違って、金は腐るほどあるんだから」

「……流石、成金探偵」

 皮肉めいた物言いに、御幸は半笑いで頷くことしかできなかった。

 この探偵に会って、思う。金は力だ。あれば傾きかけていた会社を継続させることもできたし、なければ家族仲は引き裂かれた。時には人を動かし、増やすこともできるし、消すことも、また。瑠夏が揮う『暴力』というシンプルな力も恐ろしいが、肉体だけでなく心さえも砕く金という『力』を、御幸は初めて恐れた。そして、自分がどれだけその力を行使しないまま温めていたのかを、思い知ったのだった。



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