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 世話好きが高じているのか、はたまた御幸が舐められているのか。御幸の部屋にはよく後輩が──主に自炊とは無縁な沢村が──食事をたかりにやって来る。そのため、常に家はある程度片付いている。それが女性を連れ込むのに役立つ日が来ようとは、夢にも思わなかったが。

 お邪魔します、と涼しい顔をした天城凪沙が家に上がり込む。重たげな栄養食品を玄関に下ろし、リビングのソファにちょこんと腰を下ろす凪沙に、ぞわぞわとした得体の知れない感覚が過る。好意を伝えている男の家に上がり込むなんて、脈があろうがなかろうが不用心にも程がある。説教の一つでもしたいところだが、これを『チャンス』だと捉えている御幸には何も言い出せず。結局、彼女のための夕食の準備を始めるのだった。

「凪沙さん、好き嫌いあります?」

「いいえ、特に」

「アレルギーとかも?」

「はい。何でも食べます」

 キリッとした顔で告げる凪沙。良からぬものを混ぜられたらどうするんだ、という忠告を飲み込んで御幸はキッチンへ向かう。とはいえ、凝った手料理を振る舞えるほど材料もなければ腕もない。得意料理でお茶を濁すかと、御幸はチャーハンと中華スープの準備を始める。

「おお……」

 暇なのか、凪沙はカウンターテーブル越しにキッチンを眺めている。手際よく材料を切って炒める姿を、興味津々とばかりにじいっと見つめてくる。やり辛いことこの上ない。沈黙に耐え兼ね、御幸は雑談を振ることにした。

「凪沙さんは、料理しないんすか」

「しないですね。買った方が早いし美味しい。実に効率的です」

「効率的、って……」

「アスリートと違って、経口摂取で栄養を摂る必要はありませんからね。ビタミン剤と出来合いがあれば世は事もなし、です」

 きびきびと答える凪沙に、そういうことじゃないと肩を落としたくなった。彼女は自分で言っていたはずだ、『美味しい食事は日々の癒しになる』と。その口振りでは、自分にはそういったものは必要ないと、公言しているようなもの。御幸だって特別料理が好きではないが、ゼリーで栄養を摂取するよりは、食材を切って炒めて作った方が好きだし、美味しいと感じる。

 効率──食事を『効率』だなんて、そんな機械的に表現する彼女に危機感を覚えた。覚えた危機感はこれ一つではないが、とにかく彼女は自分自身に頓着が無さすぎる。彼女の言動を見ていると、まるで心が此処にないような、そんな気分になるのだ。それが、何よりも嫌だった。だから。

「よし、これで完成」

 ささっと得意料理を仕上げて、火を止め、チャーハンとスープを皿に盛りつける。それを見る凪沙の表情は、大きく変化していない。けれど、まるで美しい光景を見つめる時のように、瞳の奥がほんの少しばかり煌めいていて。

「──」

 その瞳に、心臓がドクンと高鳴った。やはり、彼女が好きだ。一目惚れでも何でもいい。例え凪沙が御幸に対して何の感情も向けていなくとも、例えもう此処にはいない人を思い続けていたとしても、今はただ、彼女が傍に居るだけで、嬉しかった。

 必死に冷静を装いながら、御幸はダイニングテーブルに料理を並べる。料理を挟んで、凪沙が正面に静かに座る。そうして淑やかな仕草で、そっと手を組んだ。まるで、神にでも祈りを捧げるかのように。

「凪沙さん?」

「あ、そっか」

 呼びかけるのと、彼女がハッとしたように息を呑んだのは同時だった。凪沙は手のひらを合わせて「いただきます」と告げた。

「こっち、でしたね」

「そういうの映画でしか見たことないっすけど、マジでやるんすね」

「今では日常的にやる家庭の方が珍しいですけどね。アレックスのご家族は敬虔なクリスチャンだったので、そう教え込まれていたようです」

「……そう、ですか」

「私もあまり、こういう習慣はなかったのですが、郷に入っては郷に従えと言いますし。一緒に暮らしていくうちに、感化されたようです」

 古き思い出を語るように、瞳を伏せて語る彼女の物憂げな顔に釘付けになる。不運な事故で亡くなった婚約者の習慣が、ふとした瞬間に出てしまう──ああ、だから彼女は、あんな杜撰な食生活なのだろうか。思い出の多いアメリカで暮らせなくなったからと、メジャーリーグでの仕事を投げ捨ててまで日本に帰ってきたほどだ。彼女の傷は、見た目以上に深いものなのかもしれない。本人が気丈に振る舞っているから、そう見えないだけで。

 そんなことを考えながら押し黙る御幸の前で、凪沙はスプーンでチャーハンを掬って口に運ぶ。その瞬間、彼女の目がぱっと見開かれる。

「美味しい……!」

「そ──そう、すか。よかった、です」

「はい! こんなに美味しい食事、久しぶりです!」

 練習中ぐらい通る声で、ハッキリと告げる凪沙。そうしてパクパクとチャーハンを食べ進める#凪沙には、先ほどまでの儚げな未亡人の影はどこにもない。まるでわんぱくな少年のように、スプーンを手にしているのだ。そのギャップに驚き半分、ときめき半分なのだから全く以て恋愛とは厄介なものである。

「御幸さん、本当に料理上手なんですね……」

「まあ、子どもの頃やらやってたんで」

「すごい、です」

「凪沙さんほどじゃないっすよ。フードマイスター持ってるんですよね?」

「知識があるのと実践できるのとは、天と地ほどの差がありますよ」

「知識あれば何とかなりません?」

「……めんどくさい」

「ぶはっ」

 ぽつりと呟かれたその一言に、御幸は思わず吹き出した。それもまた、彼女の本音だったのだろう。咽ながら笑う御幸に、凪沙は不思議そうにこてんと首を傾げた。

「……そんな、おかしなこと言ったでしょうか」

「いや──ちがっ、すんませ──なんか、意外で」

「意外、ですか?」

「凪沙さん、何でもできそうなイメージだし」

 成宮も言っていたが、仕事も真面目で熱心で、物静かで大人しく、きびきびと選手たちに指示出しする姿を見ていると、私生活もキッチリしていると思いがちだ。実際はあの買い物籠が全てを物語っていたが。そんな御幸の指摘に、凪沙はどこかめんどくさそうに顔をきゅっと顰めた。

「成宮にも言われましたが……私はそんな完璧な人間ではありませんよ。料理は嫌いですし、掃除もあまり好きではありません。ハウスクリーニングがなければ、我が家は今頃どうなっていたことか」

「そうみたいっすね」

「……軽蔑、しませんか?」

「いや、寧ろ可愛いとこあるんだな、と」

 理由はどうあれ、完璧人間だと思っていた彼女の意外な欠点だ。それを愛おしく見える程度には惚れ込んでいるわけで。口説くチャンスと思って告げれば、凪沙は一瞬身じろいだ。けれどすぐに、スプーンを握り直してチャーハンを口に運ぶ。

「……悪趣味、ですよ」

「それほどでも」

 ツンと澄ました表情は、無理をして取り繕っているようにも見えた。照れているのだろうか。押しても引いても反応はないと思っていたが、意外にも手応えありなのだろうか。だとしたら、強引にでも家に連れ込んだ甲斐がある。いや、そういう意味で連れてきたわけではないのだが。

 それからささやかな談笑と共に食事は進み、凪沙はスープもチャーハンも綺麗さっぱり平らげた。ご馳走様でした、と立ち上がって洗い物を始める凪沙に待ったをかけるも、彼女は涼しい顔で食器を片付けるだけだった。

「これくらいはさせてください」

「お客さんにはさせられないっすよ」

「ご馳走になったのに、片付けまでさせられませんよ。ご安心を、嫌いなだけで、皿を割るほど不器用ではありませんから」

 そういう心配はしていないのだが。だが、頑固な彼女は御幸の皿をも奪ってシンクへ持っていってしまった。仕方ないので、洗い物はお願いすることにした。

 ジャージャーと水が流れる音と、カチャカチャと食器が擦れる音がする。飯をたかりに来る沢村にも片付けをさせることはない──何せ奴に任せたら皿が何枚あっても足りないからだ──ので、こうして他人がキッチンにいることは、御幸にとっては新鮮だった。思えば、子どもの頃からキッチンは常に御幸の城だった。こうして他人に任せるのなんて、いつぶりか。そもそも、女をこの家に招いたこと自体が初めてだ。恋人がいなかったわけではないが、あの頃は寮生活だった。あれはもう、何年前のことだったか──。

「御幸さん、終わりました」

 物思いに耽っていた御幸が瞼を押し上げると、手を拭いている凪沙の姿があった。皿の割れた音は聞こえなかったので、彼女の器用さは宣言通り最低限備わっていたらしい。助かります、と軽く頭を下げると、凪沙はかぶりを振る。

「とんでもない。久々に味のある夕食、とても楽しかったです」

「そう、ですか」

「はい。それでは時間も遅いですし、私はこれで」

 そう言いながら、玄関の方に向かおうとする凪沙の腕を、御幸は反射的に掴んでしまった。ぐ、と引っ張られるような感覚。けれど御幸は、その腕を放しはしなかった。

「……何か?」

「ノコノコ男の家に上がり込んで、ただで帰れると思ってんですか」

 ぐ、と細い腕に力を籠める。こんな腕へし折って、欲望の赴くままに押し倒して犯し尽くすことだって、決して難しくはない。無論、御幸にその気はない。あわよくば、合意であれば、という欲がないとは言わないが。けれど、それはあくまで御幸だからだ。他の男だったら、今頃どうなっているか分かったもんじゃない。その危機感を、彼女は理解しているのか。或いは、それすらもどうでもいいと、頓着しないと言うのだろうか。

「それとも、凪沙さんも期待してた?」

 小さな顔を覗き込んで訊ねると、凪沙はむっとしたように眉根を顰めた。けれどそれは、決して恐怖ではない。あるのはただ、不満だけ。

「……つまり御幸さんは、私に肉体的関係を求めている、と?」

 そうして紡がれた一言は、直球も直球すぎた。けれど、論点はそこではない。どうにも話の通じない凪沙に、御幸の表情も曇る一方だ。

「そりゃ好きなんですから、ゆくゆくはそうなりたいですよ」

「それが今だ、と?」

「……あんたが、俺のことを憎からず思ってるなら」

「憎いなら、部屋に招かれようとは思いませんね」

 挑発的に囁くも、彼女の湖面のような表情は大きく動くことは無く。ビー玉のような瞳が、じっと御幸を見つめ返すだけだった。

「じゃあ、今すぐ俺に抱かれてもいいわけだ」

「……まあ、構いませんが」

「は!?」

 少し考える素振りを見せたと思えば、そんなことを言い出すのだから御幸の方が虚を突かれた。もしや日本語すら通じていないのか、不安になってくる。そんな御幸に、やはり彼女は不思議そうに仰視するばかり。

「私もいい大人です。恋愛関係であろうがなかろうが、セックスをした経験ぐらいあります」

「……俺とも、していいって?」

「構いませんよ。ただ、これで恋愛関係になるつもりはありませんが、それでも良ければ」

 ご馳走にもなりましたし、そんな風に肩を竦める。いつの間にか掴んでいた腕は抵抗の素振りを止めており、さあどうぞとばかりに佇んでいる。それを据え膳だと叫ぶ本能がいて、心底自分が嫌になる。ここで無体を働いたところで、何も生まれないことを知っていながら、浅ましい欲に負けそうになる。

 ──けれど、それではダメだ。彼女が御幸に対して何一つ感情を抱いていないのは分かった。嫌われていないのは確からしいが、だからといって好きという訳でもない。好きな相手から一夜の相手でもいいと言われることが、これほど悲しいこととは思わなかった。

 けれど彼女が、御幸の悲しみを理解することは無い。

「……御幸さん、泣いているのですか?」

 泣いてはいない。泣きたくなったけれど。御幸は凪沙を見下ろしたまま、静かに首を振る。悲しいのは本当だ。けれど、御幸自身が悲しいのではない。食事さえ楽しむことをせず、自らの肉体でさえその処遇を頓着しない凪沙の『生きる意志の無さ』が悲しかった。何よりも、その悲しみを凪沙自身が自覚していないことが悲しくて、痛々しかったのだ。

「御幸さん……あの、そんな顔、しないでください……」

 凪沙は初めて、動揺したように声を震わせていた。表情は普段通り静かなものだが、視線をあちこちに漂わせ、どうしたらいいのかとあたふたしている。

「そんな顔を、させたいわけでは……すみません、御幸さん……私、メンタルに響くようなことを、言ってしまったのでしょうか……?」

 恐る恐るといった体で、俯く御幸の頬に凪沙の手のひらがそっと触れる。冬場とはいえ、凍るような指先に肩がびくりと震えた。冷たい手だ。死人のようだ。やはり、心はもうとっくに死んでしまっているのだろうか。だからこんな風に、自分の身体さえも無頓着なのかもしれない。

 頬に添えられた手を、そっと握る。対する御幸の手は、燃えるほどに熱い。好きな女がこんな傍に居て、こうして触れてくれているのだ。それも、御幸を慮って、だ。先ほどまで冷え切っていた心臓が、今は煩いくらいに早鐘を鳴らしている。おかげで汗ばむほど代謝が良くなっているのだから、単純というかなんというか。

「あつい、ですね」

「こんな状況で余裕でいられるほど、紳士じゃないんで」

「……紳士ですよ、あなたは」

 そう言って、凪沙は緩やかに口角を上げて──笑った。初めて見る、天城凪沙の柔らかな微笑みだった。今まで燃え盛ってた心臓は、途端に温かな春の風に包まれた。激しい感情に支配されていた心が嘘のように、目の前の女が好きだと思った。健やかに笑って、食事をして、その人生に幸あれと願ってしまいたくなるほど、凪沙が愛しいと思った。

「……頼みますから、もっと自分のこと大事にしてくださいよ」

「ぜ、善処、します」

「メシなら俺が作りますから、ちゃんと食って」

「可能な限り……努力は……します」

「──だから、もっとちゃんと、笑って生きてくれ」

 願いを込めて冷たい指先を握り締めると、凪沙が息を呑んだのが分かった。この笑顔が続くなら、彼女の隣にいるのが御幸でなくてもいいとさえ思った。凪沙が笑って、当たり前のように美味しい食事を食べて、好きな人と過ごして、幸せでいられるのなら、それでもいい。


「あんたの、笑った顔が好きです」


 願わくば、その笑顔を間近で見つめる存在になれたら、言うことは無い。けれど、この柔らかな笑顔がこの先の未来にも咲き続けるのなら、何でもよかった。こんなにも他人の幸せを願う日が来ようとは、思いもしなかった。

 それほどに、今はこんなにも、天城凪沙が愛おしい。

「……初めてですよ。あんな話をして、食い下がらない頑固者は」

 凪沙は呆れたようにそんなことを零した。けれど、それを告げる表情は、手のかかる子どもをあやすように微笑みを浮かべていた。こんな穏やかな表情の凪沙を見るのは初めてだった。その表情を引き出したのは、他でもない御幸と、御幸の選択と、御幸の言葉。それが分かるからこそ、やはり簡単に諦められなかった。

 いつの間にか、彼女の指先は御幸と同じぐらい熱が灯っていた。この熱のように、凪沙の思いも御幸と同化すればいいのにと、そんならしくないことを思った。

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