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 天城凪沙トレーナーの影響か、それともツキが巡ってきたのか、球団はその年首位とのゲーム差を見事に引っくり返し、クライマックスシリーズでの戦いを制した。日本シリーズでは惜しくも敗北を喫したが、来年こそはいけると──そんな確信を得られるほどのチーム力が向上したと分かった。誰もが来年こそはと決意を新たに、オフシーズンへ向けて秋季キャンプに挑むのだった。

 一方で、天城凪沙は変わらない。いい意味でも、悪い意味でもだ。相変わらず最低限の愛想のまま選手たちをサポートしてくれている。誰に対しても、だ。例え彼女を口説こうとする御幸であっても、だ。そう、彼女と出会って、一目惚れをし、密かに言い寄り始めて、早二か月。二人の関係に変化はない。ただの選手とトレーナーでしかない。一応連絡先は知っているが、気軽にデートに誘えるほど暇はないし、マスコミの目もある。おかげで進展のないままキャンプを終え、オフシーズンを迎えようとしていた。

「天城さん、ちょっと相談があるんですけど」

「はい、なんでしょう」

 そんなある日の基礎トレーニング中。一人の選手が凪沙に声をかけていた。一軍に帯同しているが、若い選手だ。まだ身体造りもできていないような青年に、彼女は無表情のまま頷いた。

「実は来月から寮を出ることになりまして……」

「ああ、おめでとうございます」

「ただそのー……メシとかどうすればいいのか分かんなくて……」

「なるほど。寮は寮母さんがいらっしゃいますからね」

 寮暮らしの一番の利点は、料理に不慣れな男たちの食生活が守られるところだろう。アスリート生活において食はトレーニング以上に重要だ。身体作りに直結するし、栄養バランスは健康的生活を送る上では欠かせない。早々に寮を出て一人暮らしを満喫する御幸は幼少期から料理に慣れていたのでさほど苦労はしなかったが、独身の選手のほとんどが一人暮らしに際し、乱れる食生活に頭を抱えていた。最近一人暮らしを始めた沢村も、何度御幸が世話をしてやったか分からない。捕手は投手の健康管理までしなくてはならないのか、と文句を言いつつ面倒見る御幸だからこそ頼られてしまうのだが。

「一応、カレーぐらいはできるんで自炊頑張るつもりだったんですけど、どうしても献立とか栄養バランスとかが分かんなくて……メジャーの選手とか、その辺どうしてたのか、参考にしたくて」

「おや、食に関してはあまりお教えすることはないんですがね」

「そうなの!?」

「皆さん子どもの頃に『赤の食べ物、黄色の食べ物、緑の食べ物』ってやったでしょう?」

「うわ懐かし!」

 そんな反応に、凪沙は緩やかに口元を緩める。横で懸命にケーブルマシンを引っ張る御幸もまた、小学生の頃の給食の時間を思い出す。

「日本の食育は数少ない世界に誇れる文化ですよ。フライドポテトを野菜だと言い張る人間の何と多いことか。それに比べて日本人の食へのこだわりと言ったら、尋常ではありません」

「そうなんですか?」

「ええ。そもそも、美味しく食べようと心がけることはいいことなんですよ。美味しい食事は日々の生活の癒しであり、モチベーションにも繋がります。金銭と栄養価が許すなら、アスリートには贅沢の限りを尽くすことを推奨しているぐらいです」

 確かに、相撲取りやボディビルダーなんかは無理矢理体重を増やすため、食事すら『才能』が必要と言われている。野球選手だって筋肉を増やすために無理矢理食事量を増やす者もいる。それを気軽に行えるのは、確かに美食文化の日本の美点なのだろう。御幸だって不味い物よりも美味い物を食べたい。多少面倒でも、日々の食事には手間をかけて作っている。ただ、それを不慣れな人間にやれと言われても難しいのだろう。青年は困ったように肩を落としている。

「で、でも……実際、何したらいいか……」

「カレーを一人で作れる。つまり、素材を切って炒めて煮込むことができるということ。それだけできれば恐るるに足らず、ですよ」

「本当ですか!?」

「それができるということは、レシピを読めるということに他なりませんからね。それすらできない人間が多いのなんの……とにかく、簡単に、かつ栄養も身体作りもカバーできるようなメニューを一か月分ご用意しますね」

「天城さんが献立を?」

「一応、アスリートフードマイスター検定一級ですので」

 助かります、と青年が嬉しそうに頭を下げる。優秀なトレーナー様は、食事のメニュー作りもお手の物らしい。今度自分も参考までに聞いてみよう、なんて考えながら御幸もまたトレーニングに精を出す。

「ああでも、一応メンターさんに相談してみます。私が口出せる領分か判断できかねますので」

 きびきびとそう告げて、凪沙は颯爽とトレーニングルームを後にする。そんな背中を見送って、男たちは恍惚とした溜息を零す。

「はあ……天城さん、マジで良いよなあ……」

「美人でクールで仕事出来ておまけに料理も得意とか、完璧すぎるだろ!」

「あれで未亡人じゃなきゃ……」

「そもそもトレーナーさんに手ェ出すのはまずいだろ」

「これが職場恋愛の辛さって奴かあ」

 しみじみと頷く選手たちにとっても、凪沙は随分好意的に映っているらしい。それで手出しをしてこないのは彼女の職種と、婚約者を喪ったばかり、という二枚看板のせいだろう。或いは、それを物ともしない御幸がどこかおかしいのかもしれないが。

 何にしても、天城凪沙トレーナーによってチームはどんどん良い方向に伸びている。あとは彼女が心を開いてくれれば言うことは無しなのだが、壁は分厚い。そもそもスマートに女性を口説くほど経験豊富でもない。打者を手玉に取るのは得意でも、女心はそうはいかない。何かきっかけがあれば、それを手に近づけるのに──。

 そしてそんな『きっかけ』は、意外なところから転がってきた。



***



「あ」

「げ」

 自宅に戻る直前、コーヒーが飲みたくなった。ただ、家のインスタントコーヒーは既に使い切ったことを思いだした御幸は、マスクにキャップ姿で近所のスーパーにやってきていた。時刻は日付が変わるギリギリ。そんな時間帯でも人気のないスーパーには明かりが灯っているのだから、ありがたい話である。

 せっかく来たのだし、スーパーで食材を調達するかとウロウロしていたその時だった。見慣れた顔が、籠を片手に同じスーパーにいたのだ。

「凪沙さん、何でこんなとこに……?」

「……私、家がこの辺なので」

 そう告げる彼女は相変わらず無表情だったが、心なしか声色が硬い。どこか逃げたそうに視線を逸らす凪沙を不思議そうに思いながら、何気なく買い物かごに目を向けて──御幸はフリーズした。

 籠の中身は、全て栄養食品だったのだ。ブロックタイプもゼリータイプもあるが、全て同じ味、同じメーカーの物が籠一杯に詰め込まれている。被災地への差し入れのような買い物に、何事かと言葉を失った。

「これ、なんスか……」

「……私の、食事ですが」

「食事!?」

 非常に言い辛そうに告げるその一言に、御幸は人目も憚らずに声を上げた。いやまあ、確かに栄養食とは言われているが。とはいえこの量、三食全て栄養食で済ませるつもりでなければ説明がつかない。そんな御幸の驚きに、凪沙はますます気まずそうな表情で視線を逸らす。

「わ──私は、アスリートではありません。食事よりも優先すべきことがありますから、素早く、気軽に、なおかつ安価で栄養バランスが最低限考慮された食品での経口摂取は非常に効率がいいのです。だから、その……」

 そんな尤もらしい言い訳をまくしたてる凪沙だが、流石に無理があると分かっているのだろう。だんだん言葉が尻すぼみになっていく。栄養食品とはいうが、毎日三食それではどう見ても健康的な人間の食事とは言いがたい。そうして、彼女は籠を抱えたまま軽く頭を下げてきた。

「すみません、このことはどうか内密にお願いします」

「え……」

「選手たちにあれだけの高説を垂れておきながら私生活がこうでは、選手たちに示しがつきませんから」

「それは──まあ、そうか……」

 どうやらこの私生活を直す気はサラサラないらしい。御幸が口を滑らせなければ問題ないと判断したらしく、彼女は真面目な顔で頼み込んでくる。無論御幸とて、思い人の意外な一面を人様に吹聴する気はない。だから一も二もなく頷いた。

「分かりました。このことは二人だけの秘密ってことで」

「……助かります」

 あまりこの言い回しはよくなかったのか、凪沙の表情は曇るだけだった。まあいい、これは弱味だ。彼女に一歩踏み込むための、カードである。せいぜい大事に使うとしよう。

 そうして凪沙と別れ、適当に食材を買い込んで会計を済ませ、エコバックに食材を詰め込んで帰路に付いたその時、前方数メートル先に先ほど目にした後姿を見つけた。そういえばこの辺に住んでいると言っていたか。意外と近所に住んでいたりして、なんて思いながら、追いかけるでも話しかけるでもなく歩くこと五分。

 なんと凪沙は御幸の住むマンションのエントランスに入ったのだ。

「凪沙さん此処に住んでるんすか!?」

「はい。それが何か」

「え、いや──俺も此処に住んでるんですけど」

「存じております」

「じゃあなんで言ってくれなかったんすか」

「必要性を感じませんでしたので」

 さらりと告げられたその一言に『脈無し』の文字が脳裏を過るが、かぶりを振る。オートロックの自動ドアを潜り抜け、ポストを確認して二人してエレベーターに乗り込む。両手いっぱいに栄養食品の入った袋を抱える凪沙に、御幸は訊ねる。

「何階っすか?」

「では、六階を」

「りょーかい」

 そう言って六のボタンと、十四のボタンを押す。光るボタンに、凪沙は意外そうに目を瞬かせた。

「もっとお高い部屋に住んでいるのかと」

「ろくに帰ってこねーのに、広い部屋とか必要ないでしょ」

「ご尤も」

「凪沙さんこそ、もっといい部屋押さえられたでしょーに」

「仕事ができて眠れる部屋であれば多くは望みませんから」

 仕事第一の彼女らしい言葉に、御幸は笑みを零す。やっぱり、この人が好きだと思った。例え忘れられない人がいても、傍に居たいと強く思う。けれど、先に降りる彼女が御幸の前に立つものだから、あまりの無防備さに眩暈がした。好意を告げている男と同じエレベーターに乗り込んで、背中を見せるなんて、危なっかしすぎる。このまま背後から襲い掛かることだってできるのに。誰にでもこんな態度を取っているのだろうか、だとしたらますます放っておけない。

 そして何より、身体作りではなく家族のために幼い頃から料理を続けていた御幸にとって、その両手の食料を見過ごすことはできずにいた。

「それでは、また後日」

 がらり、と開かれたエレベーターから降りようと、凪沙が後ろを向いて軽く会釈をする。そうして歩き出すよりも先に、御幸は『閉』のボタンを押した。ドアが閉まります、というアナウンスと共に扉は閉じ、御幸の部屋までエレベーターはぐんぐんと上昇していく。

 下り損ねた彼女は、不服そうに振り向いた。

「何するんですか」

「凪沙さん、俺、自炊得意なんですよ」

「はい?」

「だから今から凪沙さんのために、メシ作ります」

 下心はある、大いにだ。けれどそれ以上に、偏り過ぎた食事を良しとする彼女を見ていられなかった。自分だって言っていたはずだ、美味しい食事は日々の生活の癒しである、と。少なくともこういった食事では『癒し』は得られない。それは──何か、不味い気がしたのだ。何が、と言われたら上手く説明はできない。けれど、何か、ダメなのだ。このままでは、きっと。

「一緒に、食べませんか」

 まさかこんな形でデートのお誘いをするとは、思わなかった。しかも初手で自宅に誘うなんて、あまりスマートとは言えない。狙っていますと言わんばかりだ。一般的にそれが悪手であることぐらい、自分でも分かってる。それでも、不思議とそれが最良の選択だと天才捕手の頭脳が判断したのだ。理屈だけでは説明のつかない、まるでリードを組み立てているかのような気分だった。

 がらり、と十四階に辿りついたエレベーターの扉が開いた。凪沙は何も言わずに御幸を見上げたまま。ビー玉のような瞳にはどのような感情が灯っているのか、まるで分からない。流石に引かれただろうか。すぐさま家に呼ぶような品のない男だと、思われても仕方がない。けれど、言い訳はしなかった。ただ、凪沙の言葉を強く待った。

 再び扉が閉まる。こんな時間だ、呼ばれることのないエレベーターはその場を動くことなく、箱の中身は沈黙を守り続ける。がさり、とどちらかのスーパーの食材が揺れる。その時、再びエレベーターのドアが開いた。

「!」

 凪沙が、肘で『開』のボタンを押している。目を丸くする御幸を他所に、彼女はスタスタとエレベーターを降りる。慌てて追いかける御幸を、凪沙は不思議そうに振り返った。

「凪沙さん、どこに──」

「ご馳走、いただけるのでは?」

「は?」

「え?」

 何を言ってんだ、とばかりに首を傾げる凪沙に、御幸の方が言葉を失った。彼女は、言葉の意味を理解しているのだろうか。手料理を振る舞うのだ。つまり、自宅に招くと言っているのだ。男の一人暮らしの家に、だ。無論、手出しをするつもりはない。まだ。けれど、御幸以外の男だったら勘違いしても何ら不思議ではないその状況に、喜び以上に危機感の方が勝った。

 けれど、栄養食品を抱えたまま、凪沙は御幸の部屋まで歩いて行く。

「それでは、お言葉に甘えて」

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