6

 それから、御幸の家にたびたび凪沙が訪れるようになった。無論、本人の言うような『肉体関係』は一切ない。彼女の杜撰な食生活を少しでも彩るためである。同じマンションに住んでいることが幸いしたか、マスコミに張り込まれることなく行き来できるため、凪沙も気軽に足を運んでくれるようになったのだ。或いはそれほどまでに自炊が面倒なのか。何にしても、御幸にとっては最大限のチャンスだった。これで彼女の気持ちが、ほんの少しでも自分に傾いてくれれば御の字だ。

 毎回毎回家にノコノコとやってくるような無防備さには頭が痛くなる思いだが、気は長い方だ。事情も事情だし、御幸にはいくらでも待つだけの鋼の精神が備わっていたので、トラブルが生じることも無い。ただ時折一緒に夕食を食べ、ぽつりぽつりと雑談をして、凪沙が食器を片付けて帰宅する。これが一連のサイクルとなり始めていた。

「……あれ? 凪沙さん、電話鳴ってますけど」

「誰からです?」

 その日も、いつものように御幸が料理を振る舞い、凪沙が皿を洗っている時だった。テーブルに放置された彼女のスマホがさっきから震えて止まらないのだ。遠慮がちにディスプレイを覗き込むも、電話番号が表示されているだけだった。

「……表示されてないっすね。番号だけ」

「では、間違い電話でしょう」

 当の本人がきびきびとそう告げるので、御幸も深く追及はしなかった。それから皿を洗い終わるまで、凪沙のスマホはひっきりなしに同じ番号を表示し続けたが、彼女がその電話に出ることは無かった。

 片付けが終わると、僅かな時間だが食休みと称して彼女は家に残って雑談に応じるようになった。食後のコーヒーを飲みながら、話題は凪沙の高校時代へと移ろっていた。

「そういや、凪沙さんって稲実出身だったんですか?」

「ええ。成宮の一世代上でして」

「やっぱ野球部のマネージャーを?」

「まさか。あんな我儘の面倒見るなんて、冗談じゃない」

 たった二週間のささやかな交流ではあるが、凪沙もまた徐々に御幸に気を許すようになってきた、と思いたい。時折口調も砕けるようになってきたし、ほんの一瞬ではあるがふわりと笑うようになった。それが嬉しくて、御幸の日課にはスコアのチェック以外に『料理サイトの巡回』が加わるようになった。

「高校の頃は、ソフト部だったんです」

「え、選手だったんすか。ポジションは?」

「キャッチャーです。元々、ソフトを続けたくてアメリカに渡ったんですよ」

「へー、意外」

「あまり言いたくはなかったんです。故障で辞めた身なので」

「え……」

 意外なその一言に、無意識のうちに言葉が詰まった。ただ、御幸ほど凪沙は気に病んでいないのか、シニカルに肩を竦めるだけだった。

「自分は怪我で選手人生を閉ざしたのに、人に怪我するなとか何とか言っても説得力が生じない、と思いまして」

「そういうもんスかね。選手が怪我でトレーナー転向なんてよくある話でしょ」

「なるべく隙を見せたくないんです。ただでさえ、女の言うことは聞けない、と言う男は多いですから」

 彼女も苦労しているようだ。御幸の目にはそんな舐めたことを言っている選手はいないが、言葉や態度の節々にそういった『棘』を感じることもあるのだろうか──けれど、そんな話を御幸にしているというだけで、得も言われぬ優越感に浸れてしまう。

「へーえ。俺にはそういう話していいんスか」

「この程度じゃ済まないほど隙見せてますからね」

 確かに、と御幸は喉の奥で笑った。今や凪沙の血肉の半分は、御幸の手料理で形作られていると言っても過言ではない。何度言っても頑なに栄養食品生活を直さない凪沙に、最近じゃ作り置きしたおかずをタッパーに入れて持ち帰らせているほどだった。これを機に、彼女が食事の楽しさを思い出してくれればいいのだが。少なくともまだ、御幸に甘えることにしているらしい。

「そういや怪我って、やっぱ膝ですか?」

「腰です。悲しいことに、死球を受けてそこから崩れまして」

「元々悪かったとか?」

「良くはなかったのですが、とどめを刺されましたね。それからトレーナー転向しまして……その頃でしたね、アレックスと会ったのは」

 そう言いながら右手薬指の指輪を撫でる凪沙。過去を懐かしむその表情には、やはり深い愛情が籠められている。先ほどまで浮ついていた心臓は、途端に岩でも入れられたかのようにズドンと沈んだ。出会ってたった数か月で、彼女の心が変わるとは思っていない。思っていないが、今尚褪せることのない思いを見せつけられたような気がして、思うところがないわけがない。

「……」

 彼との思い出話まで掘り起こす気にはなれなかった。指輪の煌めく赤い宝石が、今はほんの少し憎く見え──。

「……あれ?」

 赤い、宝石だっただろうか。以前そのエンゲージリングを見た時は、青だか緑だか、そんな色をしていたはずだ。けれど今、リングに嵌められた宝石は赤紫色に輝いている。こんな色だったか首を傾げていると、凪沙もまた御幸の視線に気づいて首を傾げた。

「何か?」

「あ──いや、その指輪、そんな色だったかな、と……」

「ああ、これは受ける光によって色が変わるんですよ」

「色が変わる?」

 オウム返しに訊ねる御幸に、凪沙はまたくすりと柔らかく微笑んだ。そうしてするりと指輪を外して、白い手のひらの上に乗せて見せた。部屋の明かりを受けて、宝石はますます美しく煌めいた。

「アレキサンドライト──これは太陽光を受けると青緑に、人工光を受けると赤紫に変色するんです」

「へえー……」

「エンゲージリングを互いに購入することになった時、アレックスは迷わずこの石を選びました。自分の名を冠する美しい宝石だから、と」

 そう言って、彼女は再び指にリングを嵌める。自分の名を冠する、で一瞬よく分からなくなったが、同じ名前を持つ助っ人投手を思い出した。アレックスとは愛称だ、恐らく本名はアレキサンダーだろう。自分と同じ名前の宝石を恋人に贈るなんて、キザなことをしてくれる。

 おかげで彼女の心はまだ、囚われたまま。

「……綺麗、ですね」

「ええ、本当に」

 それでも、彼女の美しい思い出を汚すことはできずにいて。御幸は上っ面のお世辞だけを述べるしか、できなかったのだ。



***



 冬場の練習は厳しい。クラブハウスで基礎トレーニングをするぐらいしかできない。故に、アスリートたちはみな沖縄やらグアムやらに飛ぶのだ。今年は自分も行くべきか、そんなことを考えながら今日のトレーニングを終えてシャワーを浴びる。

「御幸先輩! メシ行きましょ、メシ! 先輩のオゴリで!」

「お前、外食すら俺にたかるのかよ……」

 とはいえ、上が下に奢るのはこの業界の通説である。後輩に奢って痛む財布は持ち合わせてないため、仕方なく御幸は着替えて沢村を連れてクラブハウスを後にする。

「それじゃ、俺ら先に上がりますんで」

「おつかれっしたー!!」

「はい、お疲れ様です」

 入り口付近でパソコンと向き合っていた凪沙が、ちょこんと頭を下げた。騒ぐ沢村を先に行かせて、御幸は凪沙に話しかける。

「凪沙さん、まだ残るんスか?」

「はい、まだ仕事があるので」

「……今日、何か用事あるって言ってませんでした?」

 今日も凪沙を夕食に誘ったのだが、珍しく『用事がある』と断られたのだ。言っては何だが、あまり友人と遊んでいる姿を見たことがないので、失礼ながら日本に知り合いがいたのかと心底驚いたものだ。

 現在十八時を過ぎており、まだ出発しないのかとお節介半分で訊ねると、凪沙はこくりと頷いた。

「これが終われば向かいますので、ご心配なく」

「あんま遅くならないようにしてくださいよ」

「あなた私の保護者か何かですか?」

 凪沙は呆れ半分、けれど込み上げた笑みを抑えられないようなムズムズした表情で御幸を追い払う。最近、彼女は本当によく笑ってくれるようになった。主に、御幸の前で。指先で光る赤紫の宝石はまだ目につくが、それでも気分よく御幸は沢村の元へ向かう。二人でオフの過ごし方について語りながら駐車場へ歩いていくと──そこには、見覚えのある、けれどこの場所では決して見ることのない男の顔があった。

「……原田、さん?」

「あ?」

 御幸の肥えに、ぶっきらぼうな男がこちらを振り向いた。そこにいたのはリーグは違えど敵陣の正捕手。高校の頃はついぞこの男と成宮のバッテリーを打ち崩せなかった苦い思い出が、そのツラを見るだけで蘇ってくる。初めての敗北を喫した沢村も原田が苦手なようで、ムムッと目を三角にしている。

「御幸に沢村か。お前らオフも一緒なのかよ」

 御幸と同じくチームの中軸を担う原田雅功は、唸るような低い声でそんなことを零した。相変わらず、一つ違いとは思えないほどの貫禄である。閑話休題。球場で見かけるなら珍しくはないが、ここは敵陣のクラブハウスの駐車場だ。気軽にうろつけるような人間ではないはず。

「何してんすか?」

「敵情視察っすか!!」

「なわけねーだろ。人を待ってる」

「「……こ、ここで?」」

「ああ。安心しろ、許可は取ってるからな」

 許可は取ってる。そんな言葉に、沢村共々顔を見合わせる羽目になった。人を待っている。誰を。というか許可って誰が。そんな疑問が矢継ぎ早に浮かんでくるも、その答えは計らずとも自ら転がり込んできた。

「原田君!? 何してるの、こんなところで!!」

 そんな焦った声が背後から飛んできて振り返る。聞き覚えのありすぎる声がその名前を呼ぶのは、不思議でも何でもないことを御幸はよくよく知っていた。稲実生──成宮の一つ上──そんな情報を聞かされたのは、ついこの間。であれば、この男と知り合いでもおかしくはないわけで。

「おせーぞ、天城。こんなとこで待たせんな」

「なんで! 原田君が! 迎えに来てるのかって聞いてるの!」

「うるせえな。だから前もって電話してやったのに、お前が無視するから」

「電話って──待って、原田君。ここ数年でスマホ壊したりした?」

「……あ」

「やっぱり! しつこいぐらい電話してくる奴がいるなと思ったのよ!」

 親しげなやり取り、まるで駄目な夫を叱りつける妻のような口ぶりだ。そんな姿を見て、モヤモヤとした何かが胸の中に湧いて出てくる。そんな御幸の暗い表情など見向きもせずに、二人は話し続ける。

「それで、なんで原田君が迎えに来るのよ」

「知らねえ。鳴が迎えに行けってうるせーんだよ」

「成宮──どうせ、例の『お節介』でしょ」

「だろうな」

「分かってるならなんで素直に言うこと聞いてるのよ!」

「たまたまこの辺で用事あったからな、ついでに拾いに来ただけだ」

「全く……」

 苛立たしげに腕を組む仕草でさえ、普段の仕事人間である凪沙を見知っていたら信じがたい光景である。それほどまでの絆が、この二人にはあると如実に物語っていた。御幸たちには──このチームで一番親しいであろう御幸にさえ見せない、彼女の素の姿が、そこにあった。

「そもそも、なんで稲実野球部の同窓会に私が呼ばれるのよ」

「それも鳴の要望だ」

「え? 成宮、帰ってきてたの?」

「聞いてねえのかよ」

「初耳だわ」

「山ほど文句があるって息巻いてたぞ」

「……やっぱり、今日行くの止めようかしら」

「逃がすか」

 くるりと背を向ける凪沙の肩を、原田は迷いなくがしりと掴んだ。そうして彼女は諦めたように肩を落とし、原田の車に乗り込んだ。そうして二人はこちらなど気にも留めずにさっさと駐車場を後にする。そんな姿を見届けた、沢村は不思議そうな顔で呟いた。

「天城さん、原田さんとイイ感じ、なんスかね」

「……さあな」

 否定したかった。彼女はずっと、思い続けている人がいるからと。けれど、あんな親しげな姿を見せられては、それを気のせいだと嘘を吐くこともできずにいた。親しげな姿もそうだが、成宮が『お節介を焼いた』という二人の会話も気になった。そういえば以前、成宮が凪沙に言っていた。どこまで捕手狂いなのか、と。まさかと思うには、十分すぎるだけの材料がそろっていて。

「(──別に、あの人が誰とくっついても良いはずだろ)」

 死者を思い続けるよりはずっと良いはずだ。笑って、食事を楽しんで、幸せに生きてくれるなら誰だっていいと、思ったばかりではないか。いや、その気持ちに嘘はない。けれど、あの指先に光るアレキサンドライトを見るたびに思うのだ。あの深い愛情を、手放して欲しくはない、と。

 御幸が初めて見惚れたあの眼差しを、失いたくないのだと。

「……身勝手だな、ほんと」

「今更じゃないっスか?」

「うるせーよ!」

 馬鹿面が事情も分からずそんなことを言い出すので、その軽そうな頭をパーンと叩いて自分も車に乗り込む。原田に成宮、加えて故人。これほどまでに上手くいかない恋愛は、全く、生まれて初めてだ。

*PREV | TOP | NEXT#