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 天城凪沙トレーナーが就任して早一か月。たった一人のトレーナーがチームの勝率を大きく動かすことは無い。けれど、明瞭な変化はもたらされた。

 まず、明らかに若手の質が変わった。御幸を始めとする『メジャー流』を選択した者たちの打率が、目に見えて向上している。走塁意識も高くなり、何としてでも一軍に齧りつく、という気概が現れ始めたのだ。メジャーという誰もが憧れた場所で鞭を振るっていたトレーナーの教えを受けられるのだから、刺激にならないはずがない。一方でベテランたちは、もうメジャーを見据えるほど若くも体力もないが、そんな後輩たちには刺激を受けていた。ここから下がり目とされるベテラン勢は、スタメンの座を守れなければ待っているのは戦力外通告のみ。この座は明け渡さんと、メジャー流ほどではないにしろ練習に打ち込むようになったのだ。その結果が、僅か一か月で現れ始めたのだ。

 勝率はさほど変化していない。急激に打線が繋がり出すわけでもないし、突如として防御率が良くなることも無い。けれど、明らかにチームの意識は変わっている。今までのチームが嫌いだったわけではないが、いつかいつかを見据える御幸には今の雰囲気の方が肌に合っていた。それに、空気がピリついているわけではない。凪沙はトレーナーとしてはとんでもなく厳しいが、怒ったり叱ったりしない。まるで真夏の涼風のようにさらりとした気風は男社会でも違和感なく溶け込んでいたし、さりとて踏み込まれないよう最低限の愛想と敬語と鬼のような厳しさは、いい意味でも彼女の身を守っているようだった。何より先の爆弾が効果絶大で、早々に球団に重宝され始めた彼女にちょっかいをかける不届き者はいなかった。

 ──ただ一人を除いては。

「此処、座っていいスか?」

 野球選手は移動も多い。西へ東へ、バスだの新幹線だので大移動する日もそう珍しくはない。当然、一軍付きのトレーナーである凪沙もまた帯同している。大体選手は選手同士で座り──席順は選手同士の関係性を鑑みたマネージャーによって、綿密に決められている──、スタッフはスタッフ同士で座ることがほとんどだ。そんな中で、わざわざスタッフが集まるエリアに赴く御幸には、当初誰もが驚いた。お世辞にも人当たりがいいとは言えず、交友関係の狭い御幸がわざわざスタッフに話しかけるなんて、と付き合いの長い沢村でさえ目を丸くしたほどだ。

 パソコンから顔を上げ、御幸を見上げてくる凪沙の目は普段と変わらない。嫌悪もなければ好意もない、静かな目だ。窓側に座る彼女の隣には誰もいない。元々個人行動の多い彼女は、移動の際もパソコンと睨みあっていることが多い。これ幸いとばかりに御幸はその席に座り込んだ。

「まだ何も言ってないのですが」

「まあまあ、いいじゃないスか。凪沙さんの話聞きたいんで」

「……仕事しながらで、よければ」

 チームメイト曰く気味の悪いほどにこやかな御幸に、彼女は少し考えるそぶりを見せてから頷いた。相変わらず愛想の欠片もない。表情一つ変えず、視線一つ寄越さずに仕事に集中する彼女の横顔を見ながら、先日の失言を思い出した。

『……つまり御幸さんは、私と個人的な交流を希望している、と』

『まあ……概ねそういうことっすね』

 何故週末の予定を聞くのかと、怪訝そうな顔で問われた御幸は正直に答えることにしたのだ。凪沙に好意を抱いている、と。

『その、忘れられない人がいるのは聞いてますし、まだ会って日も浅いし、全然、すぐ、答えとかいいんで……ただ、その、そういうこと、とだけ』

『……私の記憶では、そこまでの親交はなかったと思うのですが』

 思えば格好悪いにも程がある、情けない告白である。それを信じたか信じてないかはさておき、照れるでも焦るでもなく不思議そうに尋ねる凪沙の疑問も尤もだ。だが、自分でも上手く説明できないその疑問を、御幸は苦し紛れに答える他なく。

『……一目惚れ、っつって信じます?』

『人の印象はファーストインプレッションで九割決まると言いますからね。理論上ありえなくはないだろう、とは』

 一応告白されたはずなのに、凪沙は五分前と何ら変わらぬ態度だった。やはり御幸の想いを信じていないのかもしれない。ただ、馬鹿にするでも否定するでもなく、真剣に向き合っていることだけは確かだった。彼女の目は真っ直ぐと、御幸の姿を捉えていたからだ。

『……すみません。やはりすぐには答えが出せません』

 だが、意外にも答えは全面否定ではなかった。事故で愛する人に先立たれ、思い出の残るアメリカには居られないとメジャーでの職を手放してまで帰国したのだ。てっきり『もう恋愛をする気はない』ぐらい言われるものだと思っていたのだ。一年経って吹っ切れている、とも思えないが……。

『意外、すね。困るとか何とか言われるかと』

『困りはしますが、否定はできません。人が人を懸想すること自体を止めることはできませんし、少なくとも御幸さんは分別のある方とお見受けしますので』

 だから考えてから答えたいと、彼女は真面目な表情で仰視してくる。御幸の想いに対して真面目に受け止めてくれること自体は嬉しいが、一切動揺を見せないその物言いは、どこか他人事のようにも聞こえる。御幸のことは考えてくれているが、凪沙自身の気持ちがまるで介入していない。良いとも、嫌だとも告げない彼女にどこか危なっかしさを垣間見てしまい、御幸は慌てたように付け足す。

『だ──だから、さ。えーと、その気になってもらえるよう、努力するんで……あー、真剣に考えてもらえると、まあ、嬉しい、デス』

『構いませんが、あまり人目に付くような場所は控えて頂けると助かります。入団早々トレーナーが選手を誑かせたと広まるのは、あなたにとっても不本意でしょう?』

 ──やはり、彼女にとってはどこまでも、御幸の好意が他人事だ。一目惚れでも何でも、思いを寄せていると御幸は告げているのに、彼女の口から好きだとか嫌いだとかいう話が、まるで出てこないのだ。心ここにあらずというか、関心がないというか。御幸の向ける行為に対して否定しないが、肯定する気もないような口ぶり。

 やはり、彼女の心はとっくに天国に連れていかれたのだろうか。

「(だからって、諦める気はねーけど)」

 口説いてもいいのだと、チャンスは貰ったのだ。それを無駄にする気はない。心が此処に無いというのなら、取り戻せばいいだけの話。勝利にはとことん貪欲に。それが御幸一也という男だった。

 幸か不幸か、御幸は昔からメジャー行きについて言及をしていた。ただ、捕手というポジションで、メジャーリーグに乗り込んだ選手はここ数十年存在しない。その困難さは先人たちが証明しているからこそ、天城凪沙の存在は渡りに船だった。トレーニングだけではない、生活から言語、外国籍の捕手として越えねばならない数多の壁──元々話したいこと、聞きたいことは山ほどあるのだ。なのであくまでトレーナーと選手として、御幸は何度も何度も凪沙に話しかけ続けたのだ。

「やっぱ言語の壁ってきついすかね。サインじゃダメ?」

「最近じゃサイン盗対策で、インカムでサイン出すことも検討してますからね」

「それ噂じゃ聞いたことあるけど、マジで実用化するんすか?」

「まあ、ベラベラ喋ってるようじゃ打者に筒抜けですからね。すぐにとはいかないでしょうが……そもそも向こうは配球組み立てるのはベンチですからね。捕手はベンチからの指示を受信するだけなら、という声もあるそうで」

「なんだそりゃ、捕手は球捕ればいいってことかよ……」

「私はそうは思いません。配球は組めても、ベンチではリードまではできません。ダイアモンドの中で投手の顔を見れるのは、捕手しかいないんですから」

 これまた幸か不幸か、凪沙は仕事には熱心だった。そんな御幸の声を突っぱねることなく、真摯に応対する。こうした話ばかりからか、周囲も『ああ、メジャーに興味があるからか』と納得し、御幸の邪な感情に気付かれることは無くなった。こうなると、色々な物事が御幸の都合のいい方向に転がっているような気さえしてくる。凪沙本人を除いて、だが。

 凪沙の睨むパソコンには、目が痛くなるほど細かな数字がビッシリと並んでおり、英語で何か熱心に打ち込んでいる。言語も学ばねばと思いながら、背もたれに身を委ねる。轟音と共に進んでいく新幹線の揺れに、ほんの少しばかり眠気が湧いてくる。欠伸を噛み殺しているが、徐々に意識が薄らいでいく。一方で凪沙は気にも留めずにパソコンに集中している。今日はこの程度で良いだろう。好いた女性を口説き落とすなんて、慣れないことをしているのだ。焦らず、急がず、だ。そう思いながら目を閉じて、眠りに身を委ねようとしたその時──。

「(……ん?)」

 肘置きに置かれた彼女のスマホが、ブーブーと震え始めた。その振動に少しばかり目を開けると、凪沙がスマホの画面を眺めながら怪訝そうな表情を浮かべているのが見えた。ちらりと見えたその電話の主に、御幸はゆっくりと意識を浮上させる。

「……」

 だが、凪沙は電話を取ることなく拒否のボタンをタップする。一瞬静かになるスマホ。けれど秒で再度着信が飛んできて、彼女はますます眉を顰めてスマホを睨みつけた。

「……そいつのことそれなりに知ってますけど、無視したらもっと面倒っすよ」

「そう……よねえ……」

 呟く声は、ほぼ独り言のようなものだった。敬語が取れたのは、よほどこの電話の主に思うところがあるからだろうか。はあ、と溜息を吐いて立ち上がろうとする彼女を、御幸が片手で制する。

「ここでいいっすよ」

「え、でも、たぶん煩いですよ……?」

「誰も気にしてませんて」

 新幹線二両はまるまる球団スタッフや選手たちで埋め尽くされている。寝ている者もいるが、あっちもこっちも基本的に賑やかだ。仲間同士でゲームをしている者、間食している者からがっつり食事をする者、周囲も憚らずに酒を飲んで騒いでいる者もいる始末。誰も座席で電話して困る者はいないだろう。凪沙も周囲を見回してから、こくりと頷いて席に座り直す。そうしてスマホを耳に当て、肩で挟む。

「いつまで起きてるんですか、あなたも」

『ちょっとォ!! 何勝手に切ってるんだよ!!』

「成宮、Language!」

 そう、スマホに表示されていたのはつい先日も電話してきた男。メジャーリーグで活躍中の成宮鳴その人だったのだ。元々彼女は成宮の所属するワシントン・ネイチャーズのトレーナーだ。知り合いでも何ら不思議ではない。不思議ではないが、不思議と親しそうな口振りに聞こえてしまい。寝たふりをしながらも、耳はしっかりと二人の会話を盗み聞く。成宮の高い声は、スピーカーモードでなくともよく聞こえた。

『何がランゲージ、だよ! 別にもう関係者じゃねーし!』

「おや、それでは原田君に言っておきますね。稲実野球部は先輩に敬語を使うことも忘れるような世間知らずであった、と」

『何かあると雅さんにチクんのやめろよ! どんだけ叱られたと思ってんの!?』

「叱ってくれる人がいるだけありがたいと思いなさいな。天狗になっていてはいつか足元掬われるという、先人の教えですよ」

『あーあー聞こえない聞こえない! 俺のこと捨てて日本帰っちゃった凪沙さんの言うことなんか聞こえなーい!』

「拾ってもない落し物が、随分とまあ大口叩くことで」

 ポンポンと軽口が飛び交う。心なしか凪沙も楽しそうに聞こえる。表情としては一切変わらず、ニコリともしないが。成宮も成宮でギャンギャン怒っているようで、その実楽しそうな声色だ。男女の仲とは思えない。思えないが、御幸は眠ったふりをしながら「マジで!?」と声を出さないよう必死だった。

「(この人、稲実生だったのかよ……!?)」

 成宮はともかく、原田の名前が出るなら確定だろう。あの成宮が『雅さん』と呼び、未だに懐いている男は世界でただ一人。年齢も同じぐらいだろうとは思っていたが、成宮の口ぶりから一つ、せいぜい二つ年上と見た。そんな御幸の驚きなど知りもせず、凪沙は静々と仕事を片付けながら成宮の会話に付き合っている。

「それで、何の用ですか」

『なんだよその言い方! 人がせっかく心配して電話してやってんのに!』

「もう子どもじゃないんですから、心配は無用と再三伝えたでしょう」

『だって!! そっち一也いるじゃん!!』

「だから何ですか」

『凪沙さん黙ってりゃ美人なんだから、気を付けろって言ってんの! 一也とかぜってータイプだよ、凪沙さんみたいな一見美人で仕事デキるダメ人間!』

「分かりました、喧嘩なら喜んで買いましょう。さっさと帰ってきなさい、成宮」

 早口で告げられる宣戦布告に、スピーカーからギャーという叫びが聞こえてくる。一方で聞き耳を立てていた御幸は、思わぬ飛び火に無意識のうちにギクリと身じろいだ。どうしてそういうところは鋭いのだ、あの男は。まさか本当に一目惚れして、こうして密かにアプローチしているなんて知ったら、どんな顔をするだろう。彼女も他人に知られたくないと言っていたし、ペラペラ喋るようなことはしないだろうが……。

『あ、そうだ一也に代わってよ! 俺からもクギ差しとく!』

「結構です。大体、あなたたち連絡先ぐらい知ってるでしょう」

『かけ直すのめんどくせーもん。どーせ近くにいるんでしょ?』

 そんな御幸の焦りなど露とも知らず、やいのやいのと言い始める成宮。聞き耳を立てたままぴくりとも動かない御幸を横目に、凪沙は何を思っただろう。彼女は重々しくため息をついてから、がやがやと騒がしい新幹線の車内でしれっとこう告げた。


「御幸さんなら、今私の隣で寝てますが」


 ぶほ、と吹き出さないよう必死で耐え忍ぶ必要があった。けれど、前後左右の座席から、何故か同じタイミングで吹き出す男の声が聞こえてきた。どうやら、聞き耳を立てていたのは御幸だけではなかったらしい。状況を見れば新幹線で移動中であることは分かるが、言葉だけを聞いた成宮が何を考えるかは想像に難くない。

『はあああああッ!? 凪沙さん何してんの!? 何血迷っちゃってんの!? しかも、よりによって一也ぁ!? なんでさ!! アンタどこまで捕手狂い──』

 案の定大騒ぎする成宮の声がブツリと途切れる。涼しい顔をした凪沙が、スマホの通話を切ったらしい。そうして電源を落とし、再びパソコンに向き合って、何事もなかったかのように仕事を始めたのだった。そんな姿をコッソリ観察、或いは盗み見ていた男たちは、曲がりなりにもメジャーリーガー相手に涼しい顔でおちょくる凪沙の豪胆さに、畏敬の念を抱いたのだった。

 一方で、寝たふりを止めた御幸は、恐る恐る凪沙に話しかける。

「……真顔ですげーこと言いますね」

「別に嘘は言っていませんから」

「そりゃ、まあ、そうなんスけど……」

 仮にも好意を寄せているのだ。他人に誤解させるような発言をするのはいかがなものか。いやこれは満更でもない、というサインなのだろうか。流石に逸りすぎか。いやでも、勘違いもしたくなる。何だその物言いは。アメリカではみんなこうなのだろうか。

「……」

 御幸は仕方なくスマホを取り出し──案の定、成宮から鬼のように着信が来ているが、全部無視した──、メッセージアプリを開く。先日交換した凪沙の連絡先に、『そういうこと言われると勘違いしたくなるんですけど』と打ち込んだ。これは忠告でもあり、警告だ。男はそんな、優しい生き物ではないのだというメッセージ。好きな女相手ならなおさらだ、と。

 そういえば携帯の電源を切っていたな、と気付いた御幸はその画面を送信することなく凪沙に見せつける。ちら、と御幸のスマホを一瞥する凪沙の表情はやはり変化はない。照れも恥じらいもなく、小説を読むような顔でメッセージを見ている。この人は自分がどう見られているのか分かっていないのだろうか。そう思っていた、その時だった。

「(──マジ、この人……っ!)」

 笑み一つ浮かべることなく、けれどまるでいたずらっ子のように、べ、と舌を出す。赤い舌が御幸をかどわかすようにするりと蠢いて、心臓がドクドクと煩いぐらい鳴り響く。そんな御幸を尻目に茶目っ気たっぷりに肩を竦めてから、彼女は再び視線をパソコンに戻した。まるで何事もありませんでした、とばかりに。

 遊ばれている。完全に。成宮と同じで、いいようにおちょくられているのだ。それが分かるだけに腹が立つし、けれど同時に、そんな茶目っ気を迂闊にもときめいてしまった御幸の負けで。くそ、と心の中で悪態をつきながら前のめりで頭を抱える。仕事に生きる真人間じゃないのか。大事な人を喪ったばかりじゃないのか。御幸のこと、どうでもいいわけじゃないのか。ぐるぐると疑問が駆け巡るも、単純な脳みそはただ一つのことしか考えられなくて。

「(くそ、可愛いな……!)」

 恋愛は惚れた方が負けというが、今日ほどそれを痛感した日はない。隣で黙々と仕事を続ける女を横目に、絶対に口説き落とすと震えの止まらぬスマホを握り締めながら誓ったのだった。

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