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 爆弾発言一言でその場の空気を一変させたことで一躍名が知れたメジャー帰りのS&Cトレーナー──天城凪沙が着任して数日。意外にも、練習風景にはさほど大きな変化はなかった。確かに若い女性が入り込むことで男たちのモチベーションに変化はあった。良い意味でも、悪い意味でも、だ。しかし、相手は美人とはいえ婚約者を銃殺されたような女である。誰もが腫物を扱うような、余所余所しい態度になるのは当然といえば当然だった。けれど、男たちの気遣いや戸惑いを吹き飛ばすように、彼女の手腕は早々揮われた。

 シンプルかつ明快。彼女の提案する練習は、とんでもなく厳しかったのだ。

「き、きっつ……!」

「ごふん、五分休憩を……っ!!」

「足……棒になる……死……!」

 ベースランニングだけでこのザマである。とはいえ御幸もまた息を切らせているうちの一人なのだが。不思議と、やっていることは先週とさほど変わらない。ただ、注文が多いのだ。座り込む選手たちを前に、無表情のまま凪沙は冷たく言い放つ。

「理論上は平均コンマ五十七は縮むはず。もう十本お願いします」

『『『げっ……』』』

「それから、沢村さんは走塁時の姿勢が悪いです。重心が前に四・七度と少し傾きすぎています。バランスを崩すと守備妨害として取られかねませんので、修正しましょう。山田さんは二年前に怪我した足を庇い過ぎです、右足を出す速度が左足に比べてコンマ八秒も遅れています。完治しているのですから控えてください、他の部分が故障しかねません。それから田中さんは──」

 そうしてつらつらとあれがダメだここは直せと列挙していく凪沙。機械の如き精密なジャッジが下され、選手たちは重たい身体を引きずって再びホームベースへと戻っていく。彼女は暗に告げる、メジャー基準なのだと。二メートル級のアスリートたちの面倒を見てきた凪沙ならではの言い分である。だが、それを日本人に要求するな、西洋人の肉体と一緒にするなと誰もが声を上げると、凪沙は不思議そうに首を傾げるのだ。

「でも、向こうでレギュラー取るためには、これを難なくこなす選手を押し退けて活躍する必要がありますよね?」

『『『……』』』

 アメリカ帰りの正論パンチが飛んできて、若い選手の誰もが言葉を失った。だが、ベテラン勢はそうもいかない。体力的に厳しい、メジャーに志望を出す気はない、そう声高に反論する者たちに、凪沙は心底驚いたように目を丸めて見せたのだ。

「なるほど、それは想定していませんでした。少々メニューを考え直します」

 そうして表情一つ変えずに淡々と告げて、その日の練習メニューはいつも通りに切り替わった。けれど翌日、練習前の全体ミーティングの最中に彼女は一枚のアンケート用紙を選手全員に配った。QRコードの書かれた、メモ用紙のような紙だった。

「アンケートです。IDはご自身の背番号を、PWは入団時にサインした年棒を入れてください。今後練習メニューを厳しくするか甘くするか、希望を書いてください。回答内容を以て、個別対応を行っていきます。ああ、回答内容は監督・スタッフ以外には極秘としますのでご安心を」

 そんな説明を聞きながらスマホでアクセスしたアンケートサイトは、実に簡素なものだった。質問項目は、『希望する練習メニューを選んでください』のみで、選択肢は三つだ、メジャー流、日本流、そしてのんびり流。それからどういったメニューを組んで欲しいのか希望を書いて欲しいという自由項目が一つ。

 御幸は迷いなく『メジャー流』を選択した。自由項目には『先シーズンの下腿部挫傷から打撃に違和感あり、バッティング中心のトレーニング希望』と記載した。故障が付きものの職業とはいえ、ちょっとの違和感が命取りになる。正捕手でありながらクリーンナップを任されている今、『代打で機用しろ』だの『捕手は捕手だけやってればいい』など言われるような成績は残したくない。何より、海の向こうでは成宮鳴が同じメニューで研鑽を積んでいるのだ。負けてはいられない。

「回答が終わり次第練習に入ってください。今日中に集計して、明日からはアンケートの回答を反映したメニューを組むつもりです。よろしくお願いします」

 きびきびと告げてから、凪沙は颯爽と去っていく。そんな背中に、入団時の年棒いくらだっただの、メジャー流って答えた奴いるかなど、そんな下らない雑談を始める選手たちを他所に、御幸は言葉を失っていた。明日から──明日から、だと。いくら優秀だといっても、一軍には二十人以上の選手がいて、個別メニューをたった一日で組めるはずがないのに。

 ──計算の内だったのだ。最初から、全て。メジャーレベルのベースランニングから、アンケートまでの流れも、全部。そして恐らくだが、彼女はアンケートの回答もある程度予想していたのではないか。そうでなければメニュー作成なんて間に合うはずがない。凪沙の目はとっくにメジャーに通じる選手か否か、選定を行っているのかもしれない。ぶるりと身震いする。手強い相手だ。トレーナーとしても、別の意味でも、だ。

「(……負けねえよ)」

 どちらの意味かは、御幸はあえて考えないようにした。



***



 それから本格的に天城トレーナーのしごきが始まった。選手一人一人に個人メニューを与え、時に厳しく、時に手厳しく、選手たちに喝を飛ばす。ただ、誰よりも厳しいトレーナーである凪沙だが、決して怒りを見せたことは無かった。例え言われた練習をサボろうとも、目標回数や数値に達しなかったとしても、他のコーチやトレーナー陣のように怒ったり叱ったりすることはなかった。けれど。

「沢村さん、昨日のストレッチですが──」

「え、ええと──す、すいやせん!! 忘れてやした!!」

 そして今日も、馬鹿の謝罪が球場に響き渡る。

 高校時代にバッテリーを組んでいた一つ下の後輩の沢村とは、四年ぶりに同じ球団で相棒となった。大学野球を経験して一回り大きく成長した彼は決して練習に不真面目な方ではない。稼げればいい、モテたい、そんな邪な理由でプロ野球選手を続ける者も決して少なくない中で、野球を楽しみ、自らを高めようと努力する沢村は御幸にとってもいい刺激になる。ただ、如何せん馬鹿である。言われたことを『うっかり』で、しかも何度も忘れるようなタイプなだけに手に負えない。御幸も何度沢村を叱りつけたか分からないほどだ。

 真摯に謝る沢村に、悪意がないことは分かっているのだろう。だが、彼女は怒るでも叱るでも、ましてや呆れるでもない。ただ、普段変化に乏しい表情が、ほんの少しだけ動くのだ。

「そう、ですか……忘れて……」

 眉を下げて、しゅんとしたように視線を地面に向ける。そう、彼女は怒るでも叱るでも呆れるでもない。メニューをサボると、ちょっとだけ悲しそうに落ち込むのだ。露骨ではなく、あくまでほんの少しだけ傷ついた素振りをするのだからまたニクい。演技なのか本心なのかは御幸の目を以てしても判断できなかったが、若い女──しかも美人のそんな顔に、勝てる男がいようはずもなく。

「すいやせんでした!! 今日はメニューを五倍、いえ十倍こなしやすんで!!」

「いえ、そこまでやられると身体を痛めてしまうので」

「ウ、ウッス!! じゃあ今日は普段の三倍念入りにストレッチします!!」

 そう言ってベンチを飛び出していく沢村を、彼女と共に見送る。ちらりと横目で盗み見た彼女は、いつものように澄ました顔でタブレットを覗き込んでいる。やはり演技だったのだろうか。何にしても、あの手は良い。あれは若く美人で愛想のない、彼女ならではの技だ。

「……何か?」

「あ、いや──」

 見つめていたせいか、怪訝そうな顔が御幸に向けられる。こんな表情でさえドキリと心臓が跳ねるのだから、厄介なものである。まさかこの年になって一目惚れだなんて。しかも、相手は鬼のように厳しい球団のトレーナー。おまけに大事な人を喪ったばかり。麻雀なら一体何点付くか分からないレベルの役満である。

「俺のこのメニュー……『右打席に立ってバッティング二十本』が意図がよく分からないんスけど……」

 ひとまず、用があった体で話を始める。事実、よく分からないメニューだと思ったのも事実だ。御幸は右投げ左打ちだ。なぜわざわざ右打席で、と指定したのか。

 コーチやトレーナー陣のメニューに異を唱える選手も多い。自分の身体のことは自分が一番分かっている、とメニューを跳ね除ける者もいるし、単に練習がめんどくさいと文句を言う者もいる。勿論沢村のようにひとまず言われたことは何でもこなす選手もいるが、生憎御幸はそこまでコーチ陣に信頼を寄せているわけではない。他人の方針で怪我を負っては敵わない。だが、これは信頼やら何やらの問題ではない。単純に、意図が読めないのだ。

「ああ、これですか」

 凪沙は思いのほか素直に頷いて、近くのベンチに座る。一人分の席を空けているところを見ると、隣に座れと言っているのだろうか。遠慮がちに彼女の隣に腰を下ろすと、手元のタブレットを見せるように肩を寄せてくるものだからギクリと身じろいだ。

「御幸さん右利きですけど、左打ちはいつから?」

「え──ええ、と……シニア時代、っスね」

「どなたに矯正されたんです?」

「いや、自分で、見よう見まねで……」

 右打者左打者理論はどちらが有利か不利か、何十年の時を経ても答えは出ない。ただ、左打席の方が単純に一塁に近い。御幸が利き腕とは反対の打席に立つようになったのは、そんなシンプルな理由だった。ただ、当初は本当に慣れずに、何度打席を変えようと思ったことか。それでも鏡を見ながら何度も何度も矯正し、高校に入る頃には違和感なく打てるようになったのだが、この有能トレーナーの目には何か引っかかっているのだろうか。

 凪沙は御幸の話を聞いて、表情一つ変えずになるほどと頷いた。

「えーと……なんか不味い、です?」

「いえ、よほど優秀な指導者がいたのかと思っていたのですが……なるほど、幼少のみぎりより天性のセンスが芽生えていたということですか。素晴らしい」

 しみじみと言いながら、指を何度もスワイプさせる凪沙。一応、褒められているのだろうか。ムズムズとした感覚に表情筋が緩まぬよう律しながら、真面目な顔した凪沙の話に耳を傾ける。

「さて、こちらの動画を見てください」

 そう言いながら、タブレットを差し出す凪沙。画面には御幸がバッティングをしている姿。それに上から薄っすらとフィルターをかけるように、知らない選手のバッティングも映し出されている。

「この選手はあなたとほぼ同じ身長・体重です。筋肉量・骨量・体水分率もほぼ同レベルなのですが──ホラ、ここ、見てください」

 すらりとした指がぽんと画面をタップする。バットが打球を捉えたその瞬間が停止される。だが、同じバッティングフォームの二人の影が、ほんの少しだけズレている。

「これは私がプログラミングした物理演算ソフトで、御幸さんと同じフォームでバッティングさせたときの体幹や体重移動を可視化することができるのですが──」

「え、自分で? 物理──え?」

「はい、向こうで組んで持ち帰ってきました。インターネットはオープンソースソフトウェアの宝庫ですからね、自分で組めば著作権は球団の物ではなく私の物になりますし」

 そう語る凪沙は涼しげな表情ではあったが、どこか自信に溢れる物言いだった。優秀優秀とは聞いていたが、プログラミングまでできるなんて一体何者なんだ。メジャーの選手はこんなレベルのトレーナーに囲まれてるのか。そりゃあ本場と言われるだけはある。半ばカルチャーショックを受ける御幸に、彼女は再び淡々と説明を続ける。

「それで、この動画──筋肉の負荷が高い部分ほど赤が濃くなるよう設定しているのですが、御幸さんのこのフォームは、右下腿部に負荷が強くかかっているんです」

「つまり、フォームが歪んでるってこと、ですか?」

「フォーム自体は矯正するほどのものではないかと。ただ、先のシーズン負傷したとの話もありましたし、ぶり返す要因は可能な限り潰しておくべきかと」

「それで、右打席に入れ……というのは?」

「ストレッチ感覚で行って頂ければ。普段行っている動きと反対の動きをすると、いかに自分が歪んでいるか自覚できますからね。その『歪み』を軽く体に覚えてもらいます」

 なるほど、そういう意図があったのか。長い説明にようやく納得のいった御幸は、深々と頷いた。そんな御幸に、凪沙もどこか得意げに瞳を細めた。

「とはいえ、人の身体は千差万別。何が合う、合わないかは御幸さんにしか分かりません。メニューを取り入れるかは、自己責任でお願いします」

「……すげーこと言うんスね」

「そうですか? 何を取捨選択するかなんてその人次第でしょう? メニューはあくまで選択肢の一つです。責任を以て怪我もリスクも低い練習を組みますが、選ぶ選ばないは選手の自由であり、責任でもある」

 そうか、だから彼女は怒りも叱りもしないのだ。メニューを取り入れないという選択さえも、踏まえた上での提案だったのだ。そういう個人主義らしい取り組みも、メジャー流なのだろうか。やはり日本とは勝手が違う。だが、悪くない。どちらかというと個人主義気味の御幸の肌には、合っている気がする。

「他に質問は?」

「い、いや、特に」

「かしこまりました。では」

 そう言ってゆっくりと立ち上がる凪沙。さらりと髪が揺れ、物静かな表情はどこか憂いているようにも見えて、目を奪われる。こんな思い、真面目に仕事をしている彼女の妨げにしかならないのに、理屈や道理では済まない激情が全身を駆け巡る。

「ま、待った!」

「はい?」

 そんな思いが、ぽろりと口から飛び出してしまった。しまったと思ったが後の祭り。不思議そうな顔をした凪沙が足を止め、くるりと振り返った後だった。

「何か?」

「い──いや、その、」

 何でもない、と言い出すには変な間を開けてしまって。ますます不思議そうな顔で近付いてくる凪沙に、一歩、二歩と後退る。そんな御幸に不審に思ったのか、足を止める凪沙。すっと瞳を細めて、観察するように御幸を仰視する。

 その鋭い眼光に、『歪み』以上の物まで見透かされそうで。

「……しゅ、週末、空いてます?」

「はい?」

 見透かされるぐらいならと、零した一言は果たして御幸たちにどんな変化をもたらすのか、凍り付いた空気の中では、正常な判断できなかった。ぽかんとした呆けた顔で御幸を見上げる凪沙を見下ろしながら、その顔は初めて見るな、なんて現実逃避じみたことを考えたのだった。

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