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 プロ野球選手として、メジャー行きを考えなかった日はない。

 ただ、メジャーに対して不安や迷いを抱くのは何も御幸一也に限った話ではない。自分の実力が海外で通じるかだけではない。生活の質も様変わりするし、言語の問題もある。更には年老いた父親を一人残して海を渡るという決断を、御幸はずっと踏み切れずにいた。本人は『好きにしろ』と言うだろうが、父への恩返しを胸に球界に踏み入れた御幸には、どうしてもできなかったのだ。

 とはいえ、ライバル兼幼馴染はその才覚を認められ、ポスティングシステムで一年前に海を渡っている。朝流れてくるニュースを見て、その活躍に刺激されなかった日はない。御幸も来シーズンには海外FA権を得る。遅れれば遅れるだけ少ないチャンスが潰れるのは分かっているのだが、日本でもまだまだやりたいことはある。それに、今はシーズン終盤。自分のことにかまけていては、日シリどころかCSも逃しかねない。首位とは二ゲーム差。まだ巻き返せると、御幸は今日もマスクを被って球場へと足を踏み入れたのだった。

「……ん?」

 試合終了後、クラブハウスへ戻る。日付は二十一時過ぎ、投手戦となった今試合は延長までもつれ込んだ。けれど投手陣のふんばりにより、最後助っ人外国人のサヨナラ球が敵陣のスタンドに叩き込まれて、ゲームセットと相成った。試合後はさっと汗を流して捕手陣で試合の振り返り、それから明日の先発との打ち合わせが入っていたのだが、物珍しい人間からの着信に買ったばかりのスマホを手に取った。

「ミーティングの前にちょっと電話していい?」

「オー、イイよイイよ! オレも家族、デンワ、する!」

「悪いな、アレックス」

 明日の先発である外国人投手のアレックスがにこやかに快諾する。磨き上げた高速スライダーが武器の彼は、今やチームには欠かせない存在だった。おまけに日本語も堪能で──言い方は悪いが──助っ人外国人とは思えないほど穏やかな性格だ。いい投手に恵まれる人生に感謝しながら、御幸は電話に出る。

「お前なー、こっち何時だと思ってんだよ」

『ハァー!? どうせ試合終わってんだろ、こっちこそ何時だと思ってんだよ!』

「電話かけてきて逆ギレすんなよ、鳴」

 電話の相手は幼馴染にして御幸一也にとっては色々な意味で因縁の相手。今や海を渡ってメジャーリーグでも名を上げる、成宮鳴その人だった。去年メジャー行きを決めた彼とこうして話すのはほぼ一年ぶりだ。だというのに、彼は全く変わらない。相変わらず自分本位で、我儘な男である。

「で、珍しいな。何の用だよ」

『ん−……いや! そっちはどうかなー、と』

「は?」

 一般的には夜中と言われる時間──尤も、向こうは朝のようだが──に訳の分からないことを言い出す成宮に、御幸は片眉を釣り上げる。唐突に意味の分からないことを言い始めるのは成宮の専売特許のようなものだが、今日は輪をかけて様子がおかしい。そもそも、問いかけの意味が分からない。

「どうって何? 意味分かんねえんだけど」

『なんだよその言い方!』

「いやこっちのセリフ」

『ただ状況聞いただけ! 球団の!』

「球団の……? 今首位と二ゲーム差で──」

『そうじゃねえよ! なんか、こう、変な奴とか、いないかって聞いてんの!』

「はあ?」

 ギャイギャイ騒ぐ成宮が、まるで意味の分からないことを言い出す。一年にも満たない海外生活で日本語すら忘れてしまったのだろうか。忘れるほど英語が堪能だった記憶もないが。

「変な奴……?」

『そう! パワハラしたりセクハラしたりさ! そういうの!』

「お前、何聞こうとしてんの?」

『いーから!! そういうヤバいのいないだろうなっ!?』

 言葉は理解できるも、何故成宮が他国の球団のセクハラ事情を聴きたがるのかまるで分からない。御幸の知る限りそんな悪名高いスタッフや選手はいないはずだが、仮にいたとしてもスタッフが集まるクラブハウスで言えるわけがない。

「セクハラにパワハラぁ……? ねえと思うけど……」

『ほんとにぃ!?』

「多分……」

『多分じゃ困るんですけど!?』

「内情完璧に把握してる奴なんかいねーだろ……」

『何のための捕手だよオマエ!』

「投手の球捕るためですけど」

 ひとまず成宮の聞きたいであろう情報を答える、やいのやいのと反撃が飛んでくる。めんどくさい。朝っぱらから酔ってるのだろうか。スピーカーからはキャンキャンと成宮の声が響いてくる。隣のアレックスは電話をしながら神妙な表情をしており、あまり馬鹿馬鹿しい会話に付き合うのも申し訳ない。

「一体何なんだよ、鳴。さっきから意味分かんねえんだけど」

『……別に! ちょっと気になっただけ!』

「気になるからってそんな──」

『あ! やべ! 移動の時間! 俺もう行かなきゃ!』

「聞けよ!」

『じゃあな一也! 早くこっちこいよ!』

 ドタドタと慌ただしい物音を最後に、成宮からの通話はプツンと切れてしまった。振り回すだけ振り回して、一体何なのか。ただ、『早くこっちこい』──その一言に、燻っていた悩みが今一度浮かび上がって来てしまい。どうにも複雑な気分のままスマホをポケットに滑り込ませると、ちょうどアレックスも電話を終えたらしく立ち上がった。

「メイ?」

「そう。とりあえず元気そうだった。そっちは?」

「ンー、家族! 前、アメリカで銃乱射事件、あったダロ?」

「ああ……」

 銃社会とはいえ、他国にまで轟くほどの事件はそう多くない。それでも、一年ほど前にショッピングモールで銃乱射事件が発生した。通行人や観光客合わせて二十六人が死傷した事件から一年経過したと、ニュースで大々的に報道されていたのは記憶に新しい。あれからもう一年経ったのか、と時の流れの早さに驚く。それがメジャー行きを渋らせたわけではないにしろ、やはりいいニュースとは言い難い。暗い顔をするアレックスに、まさかと御幸は顔を引き攣らせる。

「アレックスの知り合いも?」

「オレはヘーキ! でも、友達の友達、撃たれて、ケガした」

「……辛いな」

「ウン……平和に野球できる、日本いいトコ、って話した!」

 そう語って、ウキウキと笑顔を浮かべるアレックス。身長二百メートル近い巨漢が、今は大型犬のように見える。家族や友人が無事でよかった。シーズン中に抜けられたら──いや、流石に不謹慎だ。そうだな、と頷いてから御幸も立ち上がる。野球選手の夜は長い。ミーティングに向かうべく、二人で歩き出したのだった。そうして御幸は、成宮からの不可解な電話の内容を都合よく忘れることにした。

 その会話の意味を思い出す出来事は、僅か三日後に起こった。



***



「さて、クライマックスシーズンまで僅かだが、今日は新規トレーナーを紹介しようと思う」

 ホームでの練習前、一軍メンバーを集めてのミーティング中に監督がそんなことを言い出した。そうして現れたトレーナーの姿に、誰もが驚き、ざわめいた。強面と名高い監督に紹介され、一歩前に出たその人はまだ若い女性だったからだ。

「初めまして、天城凪沙です。よろしくお願いいたします」

 凛とした声は、動揺する男たちのざわめきを一刀両断した。年の頃は御幸と同じぐらいだろうか。薄化粧だが結構な美人だ。すらりと背は高く、長い髪を一つにまとめている。ただ、表情は硬く、ニコリともしない。緊張しているのだろうか。

 球界に従事する女性スタッフは少ない。トレーナーに至っては前代未聞、というレベルだ。目を丸くする男たちを他所に、監督は嬉しそうに彼女の背をバシバシと叩く。

「今後は一軍でS&Cトレーナーとして従事することになる。彼女すごいぞ、まだ若いが、あのワシントン・ネイチャーズの一軍で二年もトレーナーとして活躍してきた実績があるんだからな!」

 ワシントン・ネイチャーズという名前で、御幸はようやく先日の成宮からの電話の理由が分かった。ネイチャーズは成宮鳴が所属する球団だったからだ。セクハラパワハラはないか──なるほど、彼女が無事に日本で働けるかどうか、心配していたのだろう。同じ日本人同士、懇意だったのかもしれない。あの意味不明な電話の意図がようやく分かって、御幸はスッキリとした気分で熱心に語る監督の話に耳を傾ける。

「専攻はスポーツ心理学だそうだが、天城さんはNATA認定トレーナーでもあらせられる。ストレングスやコンディショニングだけじゃなく、アスレチックトレーナーとしても、幅広い知識でサポート頂けることだろう!」

 商品を説明する販売員のように高説する監督に、何人かの選手が「おお……」と感嘆する。NATA──全米アスレティック・トレーナーズ協会とは、世界最高峰のトレーナー資格とされている。これを取得するだけで日本だけでなく、世界のプロスポーツトレーナーとして引く手数多な存在となる。

「そんな本場仕込みの凄腕トレーナーさんだ。日本に戻るのも久々らしいし、若い女性ということもあって苦労も多いだろうが、お互いサポートし合える関係を築いて欲しい!」

 まるで釘を差すような監督の口ぶりに、女遊びの激しい選手の何人かが身じろいだのが分かった。女性であろうと相手はメジャーでの実績を持つ立派なトレーナーだ、手を出すような馬鹿がいないと信じたい。

 しかしまあ、若いとはいえメジャーリーグでの実績を持つ凄腕トレーナーを引っ張ってくるなんて。しかも九月という中途半端な時期に。首脳陣はそれぐらい今シーズンの優勝に賭けているのだろうか。勿論、ここにいる誰もが自球団の勝利を望んでいるが……。

「それじゃ挨拶も済んだことだし、何か質問なければ練習再開するが──」

「はいはーい! 天城さんって結婚されてるんですかー?」

 そういって勢いよく手を上げたのは外野手の一人、ベンチのムードメーカー的な存在だ。確かに、と御幸は天城凪沙の下腹部の前で綺麗に揃えられた指先を見る。年齢はそう変わらないはずだが、薬指に指輪を付けている。ただ、右手の薬指だ。しかし、ただのアクセサリーとは思えない。ウェーブがかった三連リングに、青緑色した宝石が輝いている。どう見ても結婚指輪、もしくは婚約指輪だろう。

 そんな質問を聞いて、どこか含み笑いを浮かべる男たち。既婚者じゃなければあわよくば、そんな意図が透けて見えるだけにあまり気分はよくない。現に監督も、少し困ったような表情を浮かべる。

「お前らなあ、そんなマスコミみたいな質問じゃなくてだな──」

 だが、その言葉は途中で途切れる。まるで監督を抑えるように、凪沙の手がすっと挙げられたからだ。静かな表情をぴくりとも動かさぬまま、女は一歩と前に進み出る。

「結婚はしていません。……ただ、このエンゲージリングは大事な人に貰った物なので、こうして身に付けています。トレーニング中は外しますので、ご心配なく」

「えーっっっ、その大事な人ってカレシすか? アメリカに置いてきたの?」

「コラ! いい加減にしろ!」

 監督の諫めるような声に、お調子者はヘラヘラ笑みを浮かべるばかり。確かに、若い女性というだけでこういう声に耐えねばならないのか、と思うと心底同情する。メジャーに居た方がよっぽど幸せだったのでは──そんなことを思った時だった。どこか不思議そうな表情を浮かべたまま、ああ、と頷いて彼女は人差し指を上に向けた。

「置いてきたといいますか、置いていかれた[・・・・・・・]といいますか」

「……え?」

 たった一つの所作、たった一つの言葉で、空気が一変した。凪沙は表情一つ動かすことなく、下卑た笑みを浮かべる男たちを見つめるだけ。察しのいい人間が、ひくり、と頬を引き攣らせるのに、時間はかからなかった。だって、その言葉が指し示す意味なんて、一つしかない。

「アレックス・ターナー──このエンゲージリングをくれた人は、一年ほど前、どこぞのヤク中が起こした銃火器乱射に巻き込まれまして」

「……え、ええ、と」

「向こうの方が働きやすいことも承知していましたが、あまりに思い出が多すぎまして、耐え切れずに帰国したんです。……本当はすぐにでも帰国したかったのですが、ネイチャーズからの引き留められまして。ようやく引継ぎが終わったのですが、ずいぶん時間がかかってしまいました」

 察することのできない馬鹿どもでさえ、その言葉の意味を真に理解したことだろう。一年ほど前に起こった凄惨な事件の犠牲も、こんな中途半端な時期にわざわざMLBからNPBに籍を移した理由も、愛おしそうに指輪を撫でるその視線の意味も、全部、全部、全部。

 今や誰もが言葉を失い、表情も空気も凍り付いていた。監督はある程度事情を知っていたのだろうか、オロオロと彼女と選手やスタッフたちを見比べている。そんな爆弾発言をさらりと投下した本人だけが、哀しげに指輪に触れる。

「──、」

 その眼差しに、全てが奪われた。

 思考も表情も凍り付く男たちを他所に、彼女はすぐに顔を上げた。先ほどと同じ、湖畔のような静かな表情だ。結婚を約束したような婚約者を失ったとは思えないほど、淡々と言葉を続ける。

「これが一番最初の教えになるとは思いませんでしたが──まあ、よく知りもしない他人のプライベートには、踏み込まないことをオススメしますよ」

 そうして凪沙は軽く頭を下げて、凍り付いた空気をそのままに、さっさと踵を返して数名のスタッフと共にベンチの方へと去って行った。颯爽と芝を切るその背中は、吹っ切れたようにも、強がっているようにも見えて。

「え、えーと……そ、そんなわけだから! 彼女には、優しく、な!」

 この空気を何とかしようと、努めて明るい声を出す監督だが、その程度で一変するはずもなく。選手たちは重々しい空気と足取りで練習を始めるのだった。

 ただ一人、御幸一也を除いて。

「ミ、ミユキ? どーした?」

 彼女が失った男と同じ名前を持つその人が、その場で俯く御幸の顔を覗き込む。一方で御幸は、身動きが取れずにいた。顔を上げたら、全てがバレてしまいそうで。

 信じられないぐらい、心臓が軋んでいる。顔は火が出そうなほどに熱く、瞼の裏にはただ一人の女の眼差しが焼き付いている。訳が分からない。けれど、『それ』を何と呼ぶのか知らないほど純情でも愚鈍でもない。だって、愛おしげにエンゲージリングを撫ぜる天城凪沙が、頭から離れないのだ。燃え盛る炎に手を伸ばすような感覚だ。火傷すると分かっていながら、そのぬくもりに焦がれて手を伸ばしてしまう。

 久しく野球以外の物事に向けなかったそれを──どうしてよりによって、彼女に。

「(死んだ人間には敵わねーって、俺が一番知ってるはずだろ……)」

 早くに病死した母への愛を貫き、頑なに再婚をしなかった父の背中を思い出しながら、御幸はタオルで顔を覆いながら天を仰いだ。そんな御幸を笑うように、空は高く秋晴れが広がっていたのだった。

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