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 とはいえ、此処ではアレだから、と男はシニカルに肩を竦めた。

「ちょっと行きたい店あんだけど、車出してくんねえ?」

「……なんで、俺が」

「まーまー、いいからいいから」

 何か含みを持たせた真田にそう言われ、御幸は仕方なく車に真田を乗せて自宅を出発した。『ハチ公のことで話がある』とわざわざ自宅まで押しかけてきたのだ、真田は絶対に彼女の居場所を掴んでいる、という確信があった。なので下手に逆らわない方が情報を出してくれるかもしれないと踏んで。今日は酒を飲まなくて良かったと思いながら、御幸は久々に自らの車のハンドルを握った。

 そうして車を走らせることわずか数分。会話が始まるよりも先に、御幸たちはとある居酒屋に辿り着いた。車を降りて真田が慣れたように暖簾を潜ると、いらっしゃいとはつらつとした声が四方から飛んでくる。常連なのだろう、真田は店の主人と思しき初老の男に話しかけている。

「ちわっす。おっちゃん、今日は上、空いてる?」

「おおっ、なんだなんだ。込み入った話か?」

「まあ……そんなとこ?」

「そうか! 他でもない俊ちゃんの頼みだ、遠慮なく使いな!」

「サンキュー! 一番奥の部屋借りるわ!」

 そう言って軽く会釈をして、二階に続く階段に向かう真田の背中を御幸は追う。一応マスクと帽子で誤魔化してきたが、どうやらこの店主は野球には明るくないようだ。そうして階段を上ると、狭い廊下にいくつかの扉があった。真田は迷いなく廊下の突き当りの部屋の戸を開ける。中は至って普通のテーブルと椅子、それから注文用のパネルのみ。

「まあ、座れよ」

 コートをハンガーにかけながら、真田は席を促す。どういうつもりか分からないが、此処まで来てただのお食事会とはならないだろう。御幸は向かいの席に座り、タッチパネルを手に取る。

「何飲む」

「んー、ハイボール」

 言われた通り、御幸はハイボールとウーロン茶を選択して注文した。席に座った真田は、元に戻されたタッチパネルを操作して適当に注文を始める。

「苦手なもんある?」

「甘い物以外は、特に」

「オッケー。じゃあ俺のオススメ適当に頼むわ」

 そうして待つこと数分、飲み物と食事が続々と個室に運ばれてくる。たこわさ、水餃子、ほうれん草と卵のサラダ、よだれ鶏、ゴボウのからあげ、春巻きなど、いかにも居酒屋らしいメニューが運ばれてくる。それらを眺めながら男二人は何をするでもなく沈黙を続ける。

 先に静寂を破ったのは、真田の方だった。

「あ、この店の連中はみんなサッカーのサポーターやってるから、顔隠す必要ないと思うぜ」

「……あ、そ」

 どうでもよかったが、食事が運ばれてくるまでマスクと帽子を取るつもりがなかった御幸はそこでようやく顔を晒す。ほんの少しだけひんやりとした空気に触れ、冬の到来を肌で感じる。

 そんな御幸を見ながら、真田は運ばれてきたジョッキを掲げる。

「あー、それじゃあひとまず乾杯でもしとくか?」

「いや……別にそんな間柄じゃねえだろ」

「まあまあ、お互いハチに世話になったモン同士ってことで」

 乾杯、と真田は勝手に御幸のウーロン茶にジョッキをぶつけた。そうだ、何も接点のない男同士で飲み会をする為にここに来たわけじゃないのだ。冷たいグラスを握り締めたまま、御幸は真田をねめつける。だが、目の前の美丈夫は旨そうに酒で喉を潤すだけ。

「すげーよな。御幸一也と飲んでるなんて、普通じゃありえないのに」

「……」

「ま、俺にとってアンタは未だに、青道の御幸一也、なんだけどさ」

「回りくどい。何の用だよ」

 昔話に花咲かせるほど仲が良かったわけでもあるまい。単刀直入に御幸が切り込むと、割り箸を割りながら真田は面白いくらいケロリと用件を述べた。

「用だけで言えば、ハチの家の鍵回収しに来たんだけど」

「……なんで、お前が」

「そりゃあ、家出したあいつを俺んちで面倒見てるから」

 ぴくり、と瞼が震えた。だが、思考は思ったよりも冷静だった。これが信頼か、なんて考えがよぎって笑いそうになるのを堪えて、冷静な振りをしてウーロン茶に口を付ける。

「下らねえホラ吹きに来たなら帰るけど」

「流石に騙されてくれねーか」

「あいつはそこまで馬鹿じゃないだろ」

 そうだ、確かに男を舐めてるのか、と思うような言動は無いわけではなかった。それでも、真田に好意を寄せられていることに気付いている彼女が、その男の家に泊まりに行くなんてありえない。なあなあで済まそうと振る舞っていたあの女が、そんな愚策を取る訳が無い。

 迷いなく言い切った御幸に、だよなあ、と真田は相変わらず人懐っこそうな笑みを浮かべる。

「冗談だ。ただ、ハチから連絡がきたんだよ。御幸の家に鍵を置いてきたけど、帰れないから代わりに取りに行ってくれってさ。御幸の家知ってるの、俺らぐらいしかいないしな」

「あっそ。それで、あいつはどこに?」

「さあ、その辺のカプセルホテルを転々としてるって言ってた。鍵が貰えたら駅で落ち合う予定だったけど……まあ、タダじゃ渡しちゃくんねーよな」

 当然だ。内ポケットの奥にしまった鍵を渡してしまえば、今度こそ彼女に逃げられてしまう。それではだめだ。あの憎きも愛おしき隣人には、言いたいことが山ほどあるのだから。

「別に、鍵を盗んだわけじゃねえよ。あいつが取りに来るなら返す、そう伝えとけ」

「そうしたいのは山々だけど、はいそうですか、ってわけにもいかねえわけ」

「なんでだよ」

「そりゃお前、可愛い後輩がポッと出の男に取られそうになってんのに、指咥えて見てらんねーだろ」

 さらりと真田はそう告げて、ポリポリとゴボウのからあげを咀嚼している。都合のいいことだと、御幸も箸を進める。

「つい半年前まで『ただの後輩』だったんじゃねえのかよ」

「いや、今でもただの後輩だと思ってるさ。概ねな」

「はあ?」

 御幸が邪魔しなければ何度となくデートに誘っていたくせに、どの口が言うのか。どう見てもただの後輩相手に見せるアプローチではないくせにと睨めば、真田は淡々と事情を述べる。

「確かに、あいつのこと好きだったことはある。でも、今はそういうんじゃねえんだよ。ほんと……なんつーか、あいつはずっとそうなんだよな、可愛い後輩」

「じゃ、なんで今になってデートに誘ってんだよ」

「決まってるだろ、御幸にだけは取られたくなかったんだ」

 そう言って箸を止め、顔を上げる真田はいつか見た日のように人一人殺してしまえそうな眼光だった。まるで親の仇でも見るような目に灯る感情を、御幸は誰よりも知っている。まさに同じ目を、御幸は真田に向けていたのだから。

 しばしの沈黙。けれど店員が鉄板焼きを運んできたタイミングで、そんな空気が崩れていく。じゅうじゅうと肉の焼ける音と匂いに、再び話が滑り出す。

「高校の頃は、マジでハチのこと好きだったよ。実際いい雰囲気にもなってたと思うし、告ればイケるとも思ってた。……けど」

「……けど?」

「ずりぃよな。俺さ、男としても選手としても、あいつの一番じゃなきゃ気が済まなかったんだよ」

 呼吸が上ずった。まるで懺悔するように語る真田は視線をテーブルに向けていて、御幸に気付かない。だってその感覚は、御幸もまた抱いたもので。でもまさか、そんなことが。

「ハチにとって一番の選手は御幸、アンタだった。神宮のヒーローだとか何とか、いつも楽しそうに敵校の親玉を褒め称えるんだから、よく三島たちにドヤされてたんだぜ」

「あいつが……?」

「そ。薬師の勝利を祈りながら、あいつは一切自分を曲げなかった。……そんなハチが好きだった。でも、どうしても告れなかった。恋愛感情だけじゃ、俺は満足できないと分かってたからさ」

 同じだ、まるで思考をトレースしたかのような真田の語り口に心臓が鷲掴みされたような気分になる。一歩間違えば逆だったかもしれない男に抱くこの感情は、『同情』なんて可愛い一言では言い表せないもので。

「だからハチに男を紹介し続けたんだよ。好きだから、こんな下らねえプライドに囚われずに、あいつのこと幸せにしてくれる奴と結ばれてくんねーかなって。そうしたら、俺、スッパリ諦められるって思ってたのに──」

「……」

「なのになんで、よりによって御幸一也のマネージャーなんかなるかなー……」

 悔しそうに、けれどどこか寂しそうに呟く男は本当に彼女を慈しんでいたことが分かる。一人の女性としても、可愛い後輩としても。だから、だからこそ、分かる。真田が動いた理由が。

「あいつを俺に取られるのは、そんなプライドよりも我慢ならねえかよ」

「ああ、ならねーな。いいか、他の誰だって俺は手ェ叩いておめでとうって言ってきたし、これからもそのつもりだった。けどな、御幸は嫌だ。そんなの──ずりぃだろ」

「……ずりぃ、か」

「ハチのヒーローはずっとアンタのもんだよ。これまでも、これからもな。けど、それで終わっとけよ。なんで、こんな……」

 それ以上の言葉は、理性が飲み込んだのだろうか。真田は追加で頼んだソルティドッグを一気に呷った。ドン、と軽いグラスをテーブルに叩きつけて、今度は真田が御幸をねめつけた。

「で、実際のところどうなんだよ」

「何が」

「結局、ハチとはどういう関係なんだ?」

 それは、数か月前に問いかけられた言葉と、同じだった。どういう関係、か。たった数か月前が、何十年も昔に思える。あの頃はマネージャーと雇用主と、色気の無い答えを返したっけ。それが今やどうだ、ただのマネージャーは今や誰よりも欲する人となった。けれど。

「マネージャーと雇用主。関係なんて、変わんねえよ。変わっても、ねえ」

 そう。結局互いにどういう感情を抱いてようと、今の御幸と彼女の関係を表すなら『マネージャーと雇用主』以外にない。それ以上の関係になるのかどうかは、本人次第だ。そうだ、何一つ事は進んでいないのだ。それを彼女が、勝手に終わったと思っているだけで。

「──だから、変えるんだろ」

 御幸も同じだった。ちっぽけなプライドに邪魔されて、一番傍にいて欲しい人を諦めようと必死に目を背けてきた。けれどチャンスがあると分かった。なら、行動あるのみだ。ただの『マネージャーと雇用主』に留まるつもりはない。何としてでも山を動かす。

 覚悟の決まった御幸の顔を見て、真田はすっかり空になった皿をぐるりと見回す。それからテーブルに身を乗り出して、ずいっと顔を近づけてきた。

「じゃあ、好きなのか。ハチのこと」

「……」

「世話係ってだけじゃなく、恋愛として、ちゃんと好きなのか?」

「……」

「答えろよ、御幸!」

 鬼気迫るとはまさにこのことか。至近距離で吠える男は、平静であれば御幸も驚き、飛び上がっていたかもしれない。けれど、今の御幸にとってそんなもの何でもない。川のせせらぎ程度でしかない。だから御幸は、真っ向からその声を受け止めて、こう告げた。


「言うべきことはある──けど、お前にじゃねえよ」


 その返答に、真田は虚を突かれたように目を丸くした。そうだ、彼女が好きだ。許されるのならばその腕を掴んで、抱き締めて、愛を囁きたい。だが、それを告げるべき相手は、この世に置いてただ一人。それは断じて、目の前の男ではない。だから分かり切った答えを敢えて尋ねる真田に、御幸は沈黙を返してやる。

 どれくらいそうしていただろうか。真田はどこか崩れ落ちるように椅子にどかりともたれ掛かる。天井を仰いで溜息をついて、真田は──驚いたことに、笑いだした。

「へっ……意外と激アツなんだな、アンタも」

「そうか?」

「ああ。女なんか掃いて捨てるほどいるだろ、ってツラしてんのに」

「俺の顔って、そんな遊んでそうに見える?」

「職業柄ってのもあると思うけどな」

 そう言って、真田はおもむろに立ち上がった。そしてコートを羽織って伝票を手に取るので、反射的に声を上げた。

「おい、話はまだ──」

「あと五分もすればハチは此処に来る」

 一瞬、頭が真っ白になった。呆ける御幸に、真田は悪戯が成功した子どものように、ニッと笑みを浮かべて見せる。何故そんなことを、と戸惑う御幸の表情を読んだのだろう、真田ははっきりとこう言った。

「言ったろ、俺はハチに幸せになって欲しいんだって」

「……俺は『嫌』じゃ、ねえのかよ」

「嫌に決まってるだろ」

「だったらなんで、こんな」

「他の奴らじゃダメだったからな。あいつのワーカーホリックをどうにかできんのは、もうアンタぐらいしかいねーだろ?」

 そう言い残して、お膳立てをするだけして、男は一人部屋から出て行った。言いたいことはある、山ほどだ。けれど、逆の立場だったら御幸は同じことができただろうか。笑って、この場を去れただろうか。そう思うと、潔く退散する真田にかける言葉など、御幸一也が持ち合わせているはずもない。彼がずっと求めてきたヒーローの座に居座り続けた、御幸にだけは。だから御幸は、静かにウーロン茶を飲みながら、座して待った。転がり込んできたチャンスだ、絶対に無駄にしないと決めて。

 時は、ぴったり五分後に訪れた。軽い足音と共にドアがパッと開かれる。そこには、御幸も見覚えのないニットワンピースに身を包んだ彼女がいた。一週間ぶりに見たその顔は、変わりなく元気そうだった。

「ナーダ先輩遅いっスよ! それで、鍵は──」

 けれど、部屋に居るのが誰なのか視認した瞬間、有能マネージャーは蛇に睨まれた蛙のように凍り付いた。すぐさま踵を返すも、二度も同じ轍は踏まない。彼女の手がドアノブを握るより先に、御幸の大きな手のひらがか細い腕を掴んでいた。

「待てよ!」

「は、離してください!!」

「離したら逃げるだろ!」

「当たり前じゃないですか!!」

 身を捩って御幸から逃げようと、顔を真っ赤にして必死に抵抗する。本当に話を聞かない女である。御幸はただ、落ち着いて話がしたいだけなのに。個室とはいえ、ここは出先である。せめて場所を移動したい、絶対に盗撮も盗聴もされない場所で、二人に──。

「──そう、か」

 ようやく、分かった。何故真田がこの店を選んだのか。たかだか徒歩数十分もかからないこの店に来るのに、どうしてわざわざ車を出させたのか。ここまで含めて『お膳立て』とは、恐れ入る。全く、食えない男だ。

「……いいのか?」

「い、いいって──何、が、ですか」

「お前が帰ったら、俺どうやって帰ればいいんだよ」

「どうって、くるまっ、」

 と、言いかけて、彼女は思いっきり顔を顰めた。そう、仮にもプロ野球界のスター選手、移動日じゃあるまいし、公共機関を使う訳もなく。おまけにここは、居『酒』屋だ。

「俺、飲んでるんだけど?」

「なっ──!!」

 当然、嘘だ。車で来ているのに、アルコールを口にするわけがない。けれど、これが狙いだったのだ。案の定、彼女は驚くぐらい青ざめた。

「だ、だったら、タクシーでも、何でもっ」

「それで車置いてけって? あの車、わりとするんだけどなー」

「な、な、な……っ!!」

 プロなんだからそれなりの車に乗らないと、なんて先輩たちのお節介な後押しもあって購入に踏み切った車は、世間一般では高級車の類。銀座だの麻布辺りならまだしも、ごくごく普通の繁華街のコインパーキングに留めた高級車だ。防犯上、あまり長らく放置はしたくないものである。

 けれど、有能なマネージャーも中々に手強かった。

「だ、だったらっ、私が運転してお返しします! だから、御幸さんはタクシーにでも何でも乗って──」

「で、鍵は? まさか後日ポストに入れる、なんて危ないことしねえよな? あの車も修理したばっかだし、何かあったら俺としても困るんだけど?」

「……っ、屁理屈!!」

「何とでも」

 そう、屁理屈だ。こんなの、子どもじみた言い訳を並べているだけだ。けれど、そうまでしなければ彼女は容易く御幸から逃げ出してしまう。初手を誤ったせいで、一週間も姿を消してしまったのだ。次は間違えてなるものかと、御幸も必死なのだ。

「逃げるなよ」

「に、にげて、なんか……っ!!」

「お前の仕事だろ」

 有給? 何とでも言え、だ。もはや半泣きになった女の眼前に、御幸は車の鍵を突きつけた。この期に及んで、逃げ出すなんて許さない。小枝のような腕を掴んだまま、御幸はただ追い求める。彼女が自分の意志で、御幸と向き合うまで、ずっとだ。

 顔を赤くしたり青くしたり、眼下の女の顔色はくるくると変化する。薄らと開かれた唇からはたびたび「騙された」「こんなのってない」「一生恨む」など、中々物騒な独り言が漏れ出している。けれど、しばしの沈黙の後、半泣きの忠犬は震える手で御幸から車の鍵を受け取ったのだった。

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