一日経っても、三日経っても、そして一週間経っても、彼女は自分の家に戻らなかった。当然だ、自宅の鍵はキーケースごと御幸が持っているのだ。家に戻るには御幸と顔を合わせなければならない。だというのに、彼女は戻らない。ほぼ身一つで飛び出したのに、一体どこで何をしているのかも分からない。方々へ連絡するも誰も『ハチ公なんか見てない』、と首を振るだけ。ただ一人を除いて。 「どういうことだ、御幸。ハチが帰ってきてないって」 その日、御幸は山田家へ呼び出されていた。奥さんは仕事のようで、広いリビングには山田一人しかいなかった。ありがたい、これで腹割って話せるというものだ。お高いソファに腰を下ろし、御幸は事の経緯を話し始める。 「電話で言った通りですよ。あいつが何か勘違いして鍵置いて家飛び出して、それっきり連絡がつかないんです。てっきりコタさんとこにいるのかと……」 「勘違いって、なに。なんでだよ」 「コレ、見たんです」 事が事だけに険しい表情の山田に、御幸はマネージャーのキーケースからラミネート加工された新聞の切り抜きを出した。中途半端に戻されたそれは、真田ではなく御幸の背中が映されている。それを見て、山田はしまったとばかりに顔を顰めた。 「……見た、のか」 「不可抗力です。別に、無理矢理見たわけじゃ──」 「そうか……だから持ち歩くの止めろっつったのに……あいつ、わざわざフィルム剥がして中身をひっくり返して使ってたんだぜ……いつかバレんじゃねえかとは思ってたけど……」 ハア、とカウチに腰を下ろして頭を抱える山田。その姿に、やっぱりか、と苦い思いで御幸は言葉を続ける。 「知ってたんですね。あいつが尊敬してる選手が、ほんとは誰なのか」 「知らねーわけねーだろ、十年前からお前のファンなんだぞ、あいつ!」 半ば怒り任せにそう叫ぶ男に、御幸は確信した。やはり──やはり、そうだったのか。全部分かってたのか。肯定されたこと自体はじわりと喜びが溢れるが、それ以上に不信感が勝ってしまう。 「なんで黙ってたんですか。俺の気持ち、知ってて」 「尊敬と恋愛は別だろ。『尊敬』を利用して手籠めにされたら敵わねえからな」 「しませんよ、そんなこと」 「俺は男の性欲ほど信用できないものはねぇと思ってる」 「……自分も散々遊んでたくせに」 「だ、か、ら、信用できねえって分かるんだろうが」 「だからって、一緒にしないでくださいよ」 「ヤだね。俺はあいつのこと実の妹みたいに可愛がってきたし、野球選手としての人生を全うさせてくれた恩もあるからな」 大の男が二人して睨みあう。けれど、こんなことに何の意味があるだろう。もしもの話をしたところで、結果は常に今だけだ。元々山田は御幸の好意に対してあまり肯定的ではなかった。協力するかしないかは山田の自由である。そう考えると冷静になれたようで、頭を軽く下げた。 「……すみません。出過ぎたこと言いました」 「いや──俺も、卑怯だった。ハチを派遣したのは俺なんだ、ちゃんとケアしてやりゃよかった。個人的に応援はできねえけど……そうだよな、当人同士の問題だ、邪魔する方が野暮だ」 そう言いながら、山田は立ち上がってガラス棚からウイスキーとグラスを取り出した。グラスを傾けられたので首を振ると、彼はそうかと呟いてグラスに一つだけウイスキーを注いだ。飴色の液体が満ちるのをぼんやりと眺める。 「……前も聞きましたけど、何でそんなに嫌なんすか」 「全部言った通りさ。野球選手の女癖を信用できない、尊敬と恋愛をごっちゃにされたらあいつも大変だと思った、個人的にあいつにゃ普通の男と結婚して欲しい、以上」 「その普通の男と結婚して欲しい、ってのがよく分かんないんすけど……」 「大事な妹分だぜ? 仕事よりも何よりも、愛する人を優先する男と結ばれて欲しいと思うのは、そんな変なことか?」 仕事よりも──その一言が全てだった。そう、御幸にとって人生で最も大事なことは仕事、野球だ。どんなに彼女を愛していたところで、その優先順位は変わらない。同じ野球選手としてその責任感が分かるからこそ、山田はずっと釘を刺してきたのだろう。こればっかりはぐうの音も出ない。そう告げる山田は確かに女遊びが派手だったが、今の奥さんと付き合ってからは本当に誠実だった。そして、そんな彼が結婚をしたのも、御幸たちに引退を告げるわずか数か月前の話だった。 「あー……そっか。引退するから、コタさんは結婚したんスね」 「おお、私生活を大事にするのは引退後って決めてたからな、ほんとはもう一年待ってもらう予定だったんだが、向こうさんの仕事の兼ね合いでな」 家族を、愛する人を大事にしたい。それが彼の愛であり、誠意だった。暗にお前にそれができるのかと問われているようで、背筋が伸びる。分からない、そもそも彼女と付き合えると決まったわけじゃない。いや逃がす気はないのだが。 ──そうだ、御幸や山田の考えは、二の次だ。一番大事なのは、彼女の気持ち。 「あいつ、どこ行ったんですかね……俺てっきり、コタさんが匿ってんのかと」 「来てねえなあ。新婚だし、気ィ遣ったのかも」 「じゃ、今どこに? 実家は?」 「さっき連絡したけど、ここ二年は顔も見せてないらしいぜ」 「じゃあ、どこに」 「まさか──なんか、事件に巻き込まれてる、とか?」 「や、それはないです。メッセージ送ると、既読は付くんで」 「……ったく、律儀な奴」 そう、一週間も姿をくらませているなんて異常だ。警察にも、なんて考えは何度も過った。だが、メッセージを送ると既読は付くし、電話をかけると応答はするのだ。ただし、何も話さないし、メッセージに返事はしない。ただ無事であることだけを発信する。事件には巻き込まれたわけじゃないけど、御幸とは話したくないのだ、と言わんばかりに。 「コタさんに何か連絡は?」 「いや、何にも。失踪したのもさっき初めて知ったし」 「……コタさんから電話したら、あいつも出ませんかね」 「ああ、そうか。気まずいのはお前とだけだもんなあ」 連絡してみっか、そう言ってスマホを出して電話をかけ始める山田。けれど、微かなコール音が響くだけで、応答はしない。珍しい、御幸がかけると大抵電話には出るのに。まあ、すぐ切られるのだが。 「そもそも、何で逃げたのかも分かんないんすよ……」 「そりゃ、あいつにしてみればこの一年嘘を吐き続けたわけだからな。十年前から尊敬してる人がいる、それは御幸一也でも何でもない人です、ってな」 「気にしねえよ、大歓迎だよ……!」 「今は、な。出会った当初は女嫌いで有名だったお前に、どうして十年前からファンでしたなんて言えるんだよ」 そうだ、だからあのマネージャーは嘘を吐くしかなかった。聞かれたことは誠実に、隠し事せずに答えてしまう彼女だからこそ、たった一つ嘘を吐く必要があったのだ。あの日あんなことを聞かなければ、嘘を吐かせる必要もなかったかも、しれない。 電話をかけ続けながら、山田は当時を振り返るように語る。 「お前に付いてしばらく、そらもう毎日のように電話が来てたんだぜ。御幸さんのマネは嫌だ、早く別のところに異動させてほしい、ってな」 「……それは、初耳です」 「ただのファンじゃいられなくなったからな。女ってだけで、マネージャーってだけで嫌ってくるのが辛かったんだと。傍に居なければ、嫌われることは無かったのに、ってさ」 そんな思いを飲み込んで、毎日毎日御幸と共に過ごしていたのか。ああ、そうか。だからあんなに怯えていたのか、彼女は。あれは、女嫌いの御幸を恐れていたわけではない。女嫌いの御幸に嫌われることを、恐れていたのだ。 「最近は仲良くなったカモ、っつってたから安心した矢先に、お前がハチのことが好きだとか言い出すんだもんさ……そりゃ、お前も色々あったしさ? ある程度の不仲はしゃーないとは思ってたけど、だからってそんな好転する? 俺もう最近の若者分かんない……」 「……そんだけ、魅力ある奴ですから」 「俺が育てたからな、当然よ」 何故か山田は誇らしげだった。彼女はきっと『コタさんに育てられた覚えはないっス』と険しい表情を浮かべるだろうが。 想像しただけで、思いが募る。彼女に会いたい。逃げ出すことなんか、何もないのだと。寧ろ嬉しいのだと。その尊敬がずっと欲しかったのだと、伝えたい。ただの誤解なのだ、話せばきっと分かり合える。恋人だとか付き合うだとかは、二の次でいい。その気がないなら、させてみせる。だから早く戻ってきて欲しい。なのに、彼女は未だは姿をくらませたまま、山田の電話にさえも出ない。 「出ねーな」 「そうですか……」 「勘付いたのかもな、御幸が俺を経由して接触しようとしてるって」 ありえる。御幸にとって山田だけが彼女を繋ぐ唯一の人物だ。他の選手はそこまでマネージャーと交流があるわけじゃないし、薬師の連中は顔こそ知ってはいるが連絡先までは分からない。他に頼れる人はいないか、御幸もまたスマホを取り出す。すると、統轄マネージャーからメッセージが来ていることに気付く。 「──ん?」 珍しい人からの連絡に、つい今の状況も忘れてメッセージを開く。そして飛び込んできた文字に、御幸は思わずスマホを落としてしまった。そんな御幸に、ぎょっとした顔の山田が振り返る。 「ど、どうした!? ハチ、見つかったのか!?」 「み、見つかりはしたんですが……」 そう、メッセージには彼女が今球団の事務所に顔を出していると綴られていた。よかった、やはり無事だった。早く会いに行かねば。タクシーを。そんな安堵は、次の文字を読んで吹き飛んでしまったのだ。 『彼女、退職願を持ってきたのですが、どういうことか説明頂けますか?』 *** 御幸は山田と二人、タクシーを飛ばして事務所まですっ飛んでいく。統轄マネージャーの元へ向かうも、すでにそこに彼女の姿はなく。厳つい顔をした初老の男が一人、腕を組んで御幸たちを出迎えた。 「あいつは?」 「帰らせました。気が動転しているようでしたので」 そう言いながら、手元の手紙を御幸に見せてくる。彼女の字で綴られたそれは、どう見ても『退職願』と書かれていた。まさかを退職を考えるほど思いつめているなんて、どれだけ思い込みが激しいのか。早く説明しないと、何をしでかすか分からない。 「受理したんですか!?」 「その前にどういうことか説明してください。何を聞いても、あの子は『御幸さんに裏切られた』としか言わなくて……まあ、その様子だと彼女の早とちりのようですが」 「……実は」 蓋を開けてみれば下らないすれ違いなので恥ずかしさで言いよどむも、鬼のような形相で睨んでくる統轄マネージャーには逆らえず。事の経緯を説明する。といっても、『実は彼女は御幸の大ファンで、それを隠していたがバレた』だけなのだが。 「……なるほど、誠実な彼女らしい。それで一週間逃げ回っている、と」 「はい。だから早く捕まえて誤解を解きたいんですが……」 「誤解なんですか?」 「そりゃ──そりゃあ、裏切りでも何でもないでしょ、こんなの」 「女性嫌いの君の言葉とは思えませんね」 「あいつは別です」 反射的にそう答える御幸に、彼は何かに殴られたような顔で驚いた。そして数回の瞬きの後、大袈裟なぐらい溜息を吐いた。 「……ああ、そういうことか。山田君、だから私は反対したんですよ」 そう言って、御幸の横にいる山田を睨む統轄マネージャー。山田はぎょっとした顔でかぶりを振っている。 「いやいやいや!! 俺のせいってこたぁないでしょ!?」 「あなたが紹介したんでしょうが」 「結果的には成績は回復したんだからいいじゃないですか!!」 「副反応がこれでは文句も言いたくなります。選手がマネージャーに懸想しているなんて……困りますよ。ただでさえあの子は肩身の狭い思いをしているのに」 「お、俺だって反対しましたもん!! でもしょうがないじゃないですか!! 胃袋掴まれた御幸が悪い!! 俺のハチがいい女すぎてすみませんなァ!!」 「こういう可能性を見越して反対したんですよ、私は」 どうやらこの人も御幸の想いに否定的な感情を持ち合わせているようだ。別に祝福されようがされまいが気にしないが、こうも言われると悪いことをしている気分になる。ただ人を、好きになっただけなのに。 「……別に、悪いことしてるわけじゃあるまいし」 「悪いことですよ。言い寄られて困るのは、他でもないあの子だ」 「あいつにとって悪いようにならなければいいんですか」 「随分な言いようですね」 「実際そうでしょう。なんか球団にとって迷惑かかるんですか?」 「風紀的には賛成できかねますね。女性を採用すると『こう』なると上に文句を言われるのは、現場にいる彼女たちなのですから」 「……っ」 確かに、こういう時やり玉に挙げられるのはいつだって立場が弱い方だ。年棒億越えの選手と、その選手を支えるマネージャー。ただでさえ男社会の球界だ、どちらの立場が弱いかは言うまでもない。確かに、肩身が狭いと彼女も何度か語っていた。男をかどわかす女など球界に入れるべきではない、なんて古い考えを持つ人間は腐るほどいるのだから。 「──迷惑は、かけるかもしれません。彼女にも、他の女性スタッフ、にも」 結ばれようと、結ばれまいが、誰かは割を食うだろう。結局のところ、この道を進んだ御幸に普通の人たちのような恋愛は許されない。それもまた、夢を掴み取った者の責任であり、代償だ。この思いを秘めたまま、枯らせる方が御幸以外の人々全てのためになるのかもしれない。けれど、それでも。 御幸一也は、有象無象も、尊敬する先輩も、恩人の山田小太郎さえも蹴落としてプロ野球選手として花開いた、究極のエゴイストの一人である。 「でも、あいつを諦めるつもりは、一切ありません」 他の誰に何と言われようと、それを曲げるつもりは一切ない。手の届かぬ存在であればと思って諦めていたそれが、急に膝元に転がり込んできたのだ。どうして諦められるのか。御幸の脳内は、さっさと彼女をとっ捕まえて口説き落とす算段しかないのだから。 そんな御幸を前に、統轄マネージャーは険しい表情のままだった。山田はオロオロとしながら二人を見比べるも、両者一歩と譲らない。睨み合いがどれほど続いただろうか、先に視線を逸らしたのは向こうだった。 「……そうですか。これだけ言ってまだそんな厚顔を晒せるのなら、せいぜい彼女たちから恨まれることですね」 そう言いながら、男は手にした退職届をびりびりと破き始めた。見慣れた文字が花弁のように散っていくのを、御幸も山田も絶句して見届ける。 「ああ、こんなの受け取れるわけないでしょう。あんな優秀な人材を『御幸さんを裏切りました』の一言で手放すつもりはありませんので」 さらりとそう告げて、彼は紙屑となった退職願をゴミ箱に叩き捨てた。そうして振り返る男は、どこか柔らく微笑んでいて。 「あなた方のせいであの子の有給は溜まる一方でしてね、二週間ほど消化させることにしました。せいぜい頭を冷やすように、と」 その一言に、山田と二人でほっと胸を撫で下ろす。ひとまず、早とちりの上で早まった行動は止めてくれたようだ。とはいえ、事態が好転したわけではないのだが。 「それで、あいつはどこに行ったんですか?」 「さあ、そこまでは。有給に何をしようが、私には関係ないですからね」 結局、誰も彼女の行方は分からずじまい。間接的ではあるが、無事が確認できただけマシだろうか。そう思いながら、御幸はひとまず山田と別れて自宅に戻ることにした。夜も遅い、他の親戚にも確認してみるという山田の言葉に甘えることにした。こうした時、御幸は力になれない。彼女が頼れそうな友人知人を、誰一人として知らないからだ。 はあ、と白い吐息を吐き出す。やっと前へ進めそうなのに、どうしてこう上手くいかないのか。留守電でも何でも入れて、お前が好きだと言えば戻ってくるだろうか、とは何度か考えた。それでも、やはりこういうのは顔を見て伝えたい。こんな大事なことを、電話一本で済ませたくはなかった。いやでも、何週間も姿をくらませるぐらいなら、いやしかし。そんな迷いを胸にタクシーから降りてマンションのエントランスに足を踏み入れて──御幸は凍り付いた。 「お、やっと帰ってきた。どんだけ待たせんだよ、全く」 さみいさみいと、エントランスで震える一人の男。スーツにトレンチコートを羽織ったその男は、先日まで御幸が妬みに妬んだその人。向こうも向こうで思うところがあるだろうに、今は爽やかな少年のような笑みを湛えて御幸に手を振っている。 「俺らの『ハチ公』のことでちょっと話があるんだけど、いいよな?」 真田俊平は、輝かしい笑顔とは裏腹に有無を言わさぬ一言を振り下ろした。 |