「ねえええだから言ったじゃん!! だから俺言ったじゃんんん!! なんでそうなんの!? なんでそんなことになっちゃうのおおお!?」 「いや、ハハ……」 さて、恩を仇で返すような報告をしたその翌日、球団のトレーニングルームで山田と二人、エアロバイクを漕ぎながら御幸は乾いた笑いを浮かべる羽目になった。 「確かにさ? ちょっとそんな気はしたけど? ちょっとしてたけどもな? ついこの間言ったばっかじゃん!! すぐじゃん!! すぐ手のひら返したじゃん!! お前の手のひらドリルかよお!」 「……返す言葉もない、す」 と言いつつ、御幸に大した罪悪感はない。確かに止めとけと釘を刺されはしたが、山田は彼女の親でも保護者でもない。互いに成人した社会人であり、倫理に反するような感情でもないからだ。とはいえ、恩人でもある山田がこうして大反対しているので、一応しおらしくしておく。 「……い、一応聞いとくけど、気のせいではないんだよな?」 隣でエアロバイクを必死に漕ぐ山田が、じろりとねめつけてくる。器用な人だと思いながら、首を振る。そうであれば、どれだけよかったか。 「なわけないでしょう」 「いあ、ほら、だってさ。世話されたら、こう、庇護欲? あれ違うな、加護欲? 逆か、とにかくそういうのでさ、勘違いしちゃってんのかなとか……」 「ないっすね」 「ないっすかあ……」 はあー、と重々しい溜息を吐き出しながら、山田は天井を仰いでいる。何がそんなに彼を悩ませるのだろう。いくら従兄妹だからといって、流石に過保護すぎやしないだろうか。 「何がそんな困るんですか」 「えー……だってそんな……インモラル……」 「どこがっすか」 「流石に選手とマネはまずいって……!」 山田は声を落としてその一言を零す。この場合、社内恋愛になるのだろうか。紹介した手前、山田としても揉め事を起こされるとまずいと思っているのかもしれない。 全く、そんなこと起こるはずもないのに。 「まずいも何もないでしょう」 「なんでさ」 「何も、起こらないっすから」 「……へ?」 「何もしませんよ。何も」 自覚はした。きっと、彼女を好いているのだと。有能なマネージャーとしてではなく、一人の女性として。けれど、それだけの話だ。御幸が自分のマネージャーを好きになっただけ。それで別に、何が変化するわけでもない。そう告げる御幸に、山田は狐に抓まれたような表情を浮かべる。 「……何も、しねえの?」 「やー、厳しいっすよ。望み薄じゃないすか」 「おま──あれ? そんな自己評価低いタイプだっけ……?」 邪魔したいのか応援したいのかどっちなのか。訝しげな山田は、やはり人の好さが滲み出ている。本当にどいつもこいつも、と笑みが零れる。 「だめなんですよね、俺」 「な、なにが」 「妥協できねーっつか、強欲っつーか」 正直なところ、ただ付き合うだけならそこまで難しくはない、ような気はする。少なくとも彼女に嫌われているわけではないし、互いにとって物理的に一番近くにいる異性である。付き合っている相手もいないようだし、時間をかければまだ希望はあるかもしれない。ただの恋人になるだけなら、と御幸は思う。けれど。 「俺、男としても選手としても、あいつの一番じゃなきゃ満足できなくて」 恋人の座は、可能性がある。それこそ、世間の目を鑑みても評価はそれなりに高い方だと思う。こんな特殊な仕事をしているのだ、決して良い恋人にはなれないだろうが、マネージャーとして働く彼女となら、ある程度歩幅を合わせられるだろう。けれど。もう一つの座は。 「(十年の憧れは──覆せねえよ)」 いつか、彼女は焦がれるように語っていた。中学の頃から、十年も憧れ続けた甲子園のヒーローがいるのだと。今尚焦がれるその選手には、御幸はどう頑張ったってなれない。その座はとっくに、真田俊平のものだ。彼を追いかけて薬師の野球部の戸を叩いたほどの情熱を前に、どうしてぽっと出の御幸が敵うだろう。その座は永遠に奪うことも、横入りすることもできない。 尊敬と恋愛は別物だ。当の本人もそう告げていた。事実、彼女には過去何人もの恋人がいたようだし、尊敬を諦めれば、まだ可能性はある。そうすれば御幸の人生はほんの少しだけ、穏やかなものになる。けれど、御幸一也ほどの選手にその妥協はできなかった。してはならなかった。 プロ野球選手としてのプライドが、妥協を許さないと叫ぶのだ。 「妥協するぐらいなら、最初から手は出しません」 だから──だから、手に入れようとは思わないことにした。一生かかっても届かないものに焦がれ続けるのは、馬鹿だ。ただ運が悪かった。既婚者を好きになってしまったようなものだ。そう割り切ることにした。どうせ、彼女とはビジネスの関係。あれだけ優秀なのだ。御幸の不調が回復すれば、いくらだって他の選手の元へ向かわされるだろう。そうしていつか、選手としてのプライドよりも愛情を優先する男と巡り合い、御幸の恋はまた終わるのだ。それでいい。きっと傷は、浅くて済む。 「……お前ほんと、ずりぃよなあ」 御幸の考えを最後まで聞き届けた山田は、エアロバイクから降りてタオルで顔を拭う。苦虫を噛み潰したような顔をした男は、深々と溜息を零した。 「そういうの言われっと、応援したくなっちゃうだろ」 タオルの山の一つを御幸に投げ寄越し、シャワー室へ向かう男の背中はどこか哀愁が漂っていた。どこまでお人好しなんだか、そう思いながら御幸もその背中に続くのだった。 *** 「……御幸さん、何か元気ないっすね?」 そう思うと、好いた女が自分の部屋で夜通し過ごすというこのシチュエーションはなかなかどうして、こう、なかなかである。流石に所構わず発情するほど若くはないが、警戒心の欠片もないこのツラには色々思うところがあるわけで。思えば当初から家の鍵をベランダに投げ込まれたり、真夜中にも関わらず互いの家を行き来したり、男としては全く見られていなかったのだろう。まあ、あの頃の御幸は傷心真っ只中、『女嫌い』とまで称されていた男に対し、警戒心も何もなかったのだろう。その信頼に頭を悩ます羽目になるとは思わなかったが。 「あの……御幸さん? 聞いてます?」 しかし、流石にそろそろ『一緒の部屋はちょっと』ぐらい言うべきか。いやでも遠征先のホテルで──不可抗力とはいえ──自分の部屋に連れ込んだのは、つい先月のことだ。突然そんなことを言い出すのは不自然すぎる。意識しているのが丸わかりだ。じゃあどうするか。手出しするつもりはないとは言ったが、魔が差す可能性はなるべく潰しておきたい。いや、手出しする気はない。する気はないのだが──。 「御幸さん? おーい!!」 「うおっ!?」 突如、警戒心ゼロの惚けた顔が目の前に現れた。ぎょっとして仰け反ったせいで、ごつんとベッドボードに背中をぶつける羽目になった。どくどくと心臓が喧しく早鐘を打つ中で、彼女は全く意に介さない様子で椅子に戻る。 「びっ、くりした……」 「そりゃこっちのセリフですよ……目ぇ開けて寝てんのかと思いました」 よっこいしょ、と女は何事もなかったかのように座りながら勉強を再開する。その澄ました顔すら可愛い、なんて思ってしまうのだから、自分が想像しているよりもずっと重症だ。やばい、手出ししないと言った手前滅多なことはしたくないが、本当に魔が差しかねない。こういう時は気を落ち着けて眠るに限る。体を横たえ、天井を見上げる。そうしてアイマスクをしてしまえば、少なくとも彼女の顔は見なくて済む。 「寝ます?」 「ああ」 「分かりました。んん−、今日は何話そうかなー……」 けれど不思議なもので、何も見えないはずなのに不思議と彼女の表情が手に取るように分かる。御幸の頭の中にはしっかりと、唇を突き出したままぼんやりとした表情で話題を探す姿が見える。フ、と無意識に笑みが浮かぶ。 「……なあ、お前の高校の頃の話して」 「え……な、なんでスか」 「なんとなく」 傷になると分かっているのに、気付けばそんなことを口にしていた。或いは傷を深くすることで、その痛みを伴って諦めようとしているのだろうか。健気なものだと、自分で笑い飛ばしたくなる。 「な、お願い」 せめて、そんなことを考えている余裕があるうちに、心が離れてしまえばいい。その唇で、どれだけ真田を慕い、愛し、尊敬しているか語ってほしい。そうすれば、『魔』なんて差さずに済むから、きっと。 しばらくの沈黙の後、パソコンを閉じる音が聞こえた。 「えー……高校の頃って言ってもなあ、フツーの女子高校生でしたよ」 「真田を追いかけて野球部に入ったような奴が?」 「……せ、選手として、尊敬してただけです!」 「毎日写真に挨拶してるって相当だろ」 「それは──ほんとのほんとに、尊敬してるってことですよ!」 「けど、真田とは仲良かったんだろ? 何かなかったのかよ」 「仲良かったっていうか……あの人かっこいいでしょう? ぜひともお近づきに、みたいな人が多くて、よく取り次ぎしてただけで……」 「ふーん」 前言撤回。やはりその口で真田を賛辞する言葉を耳にするのはだいぶ心臓に悪い。あたかも気にしてませんという素振りをするのがやっとだ。落ち着けと自分に言い聞かせながら、ひたすら耐える。耐える他、ないのだから。 「あー、でも、一回だけ二人で出かけたことありますよ」 「やっぱデートしてんじゃん」 「行き先は球場ですけどね」 「球場?」 聞き返すと、暗闇の向こうで彼女が笑う気配がした。軽く息を吸って、くすくすと空気が揺れている。 「ええ、ウチを負かした市大三高が負ける試合をね」 「……それ、まさか」 「はい。青道VS市大三高──ナーダ先輩たちの引退後の試合です」 昔話をそらんじるように語るその声に、記憶が昨日のことのように蘇る。夏の炎天下、甲子園出場をかけた準決勝、エース沢村の完投、それから耳慣れないヒッティングマーチ。尊敬する先輩の背中に続けとばかりの声援。バットがボールを捉えた時の感覚は、今尚この手に残っていた。 「……あそこに、お前も居たんだな」 「市大三高に負けてナーダ先輩が腐ってたんで、背中蹴っ飛ばして試合見に行ったんですよ。せめてウチに勝った市大三高が勝てば、少しは気が張れるかと思って」 「じゃ、お前の目論見は完全に外れたわけだ」 「ですね。王者青道の名は伊達ではなかったと思い知りましたよ」 ──不思議な気分だ。まるでこの部屋だけが、十年の時を逆巻いたようだった。当時のことを昨日のことのように語る、女子マネージャーの声。その話を聞いているうちに、自分も高校球児に戻ったような気分になる。 「懐かしいです。観客席にもいかずに、二人でずっとグラウンドを見下ろしてて。先輩、珍しく怖い顔してて、すんごい気まずかったなあ……」 「……へーえ」 「その甲斐はなかったんですけど、まあ色々あって先輩も元に戻ってくれました。その間ずーっとパシられてたので、ほんと面倒でしたけど!」 そう言いつつ、彼女の声は嬉しそうに弾んでいる。そう意識するだけで、胃の奥辺りがずっしりと重たくなる。自分でそう仕向けたはずなのに、どんなマゾだと自己嫌悪で死にたくなった。 「先輩たちが卒業してからも大変だったなあ。三島先輩たちは喧嘩ばっかだし、轟親子は煩いし、三年になってもほんと毎日忙しくて……」 「……」 「でも、実りある三年でした。……ご期待されてたようなロマンスはありませんでしたが、誰に対しても胸を張って誇れる日々を過ごしたつもりです」 「……そうかよ」 「ええ……ご不満なんですか……」 「別に」 「ご不満じゃないですか……そっちが話せって言ったのに……」 別に、不満ではない。別に。楽しそうに過去を語る声を耳にするたびに、気が滅入るだけだ。どんなにあの頃を思ったところで戻れやしないし、彼女が薬師高校に青春を捧げた事実に変わりはない。彼女に背を向けるように寝返りを打つと、困ったように狼狽える声が聞こえてきて。 「ええ……そんな面白恋愛話なんか──あー、いや」 「……なに?」 「そういや最近、真田先輩からめっちゃデートに誘われるんですよね」 「は?」 「これって、やっぱそういう意味なんですかね……」 聞き捨てならない一言に、思わずアイマスクをはぎ取って起き上がってしまった。意外にも照れた様子はなく、女はどこか困ったように視線を宙に漂わせている。 「デート? 二人でってこと?」 「はい……昔から飲みに行こうとはお誘い頂いてたんですけど、映画行こうとかドライブ行こうはちょっと初めてで……何で急に、って……」 「真田はなんて?」 「『何となく』と……」 あの野郎、何がただの先輩後輩、だ。めちゃくちゃモーションかけているではないか。数か月前に見た憎たらしい笑みを思い出しながら、無意識のうちに拳を強く握りしめてしまい、ハッとして冷静さを装う。 「……お前はどうなんだよ。ずっと憧れてたんだろ、思うとこないのかよ」 「そりゃ……まあ、いい人だしイケメンですけど……今更そういう目で見ろって言われても、そんな……」 「じゃ、試しに付き合ってみりゃいいだろ」 そうすれば、傷は浅くて済む。男としても、選手としても愛すべき人と一緒になるのだ。完膚なきまでの敗北だ、諦めもつくというもの。だが、そんな御幸の思惑など露とも知らず、彼女は眉を顰め、うんうんと唸るばかりだった。 「いやー……今更ナーダ先輩と付き合うなんて、うーん……」 「案外、印象変わるかもしれねーだろ?」 「十年もパシってきた上に、今まで色んな人紹介してくれた相手ですよ……歴代の彼氏の顔浮かんできそうで、ちょっと……」 ……確かに、彼女の抵抗は分かるような気がする。御幸の元カノも、知人からの紹介だった、だからその人に会うたびに、あの女の顔が過って、今でも気が滅入るのだ。思わずなるほどと頷いてしまった御幸に、でしょうっ、と強く同意を求められた。 「大体、なんで急に、こんな……」 「……さーな、年齢も年齢だし、結婚でもせっつかれてるとかじゃねえの?」 「あの顔なら引く手数多でしょうに、なんで私なんか……」 「そりゃ気心知れてて、十年の付き合いがあって、家事もできるし、交際相手としちゃこれ以上ない相手だから、じゃねえの」 「つっても十年も先輩後輩やってたんですよ……今更あの人相手に女見せろって、頭おかしくなりますよ……」 「女見せるって、お前ね……」 「だって付き合うってそういうことでしょ!! そりゃ、そういうのナシって付き合い方もあるでしょうけど、大体はアリでしょ!! 無理ですよっ!!」 「まあ、それは……まあ……」 恋愛感情と肉欲が一緒かどうかは人に寄るだろうが、多くの人間にとってそれはセットだろう。彼女にとっては長年良き先輩であった相手にキスだのセックスだのが耐えられないのだろう。生々しい話なだけに──おまけに相手の顔も見知っているので──つい想像してしまった。真田と彼女が、睦み合っているそんな姿を。貪るようにキスをして、ジャージの下の素肌を晒して、本人の言う通り『女』を見せて、そして──。 「……デート、行くなよ」 「そりゃ、そんな暇ないんで、行きませんけども……」 「絶対、行くな」 「えっ、なんですか急にそんな念押しして。さっきまであんな乗り気だったのに」 「男にうつつ抜かして仕事サボるようになったら困ると思ってさ」 「ンなことするわけないでしょ!!」 「分かんねーだろ、写真持ち歩くほど好きなくせに」 「だからそれとこれとは別って言ってるじゃないですかー!!」 ぎゃんぎゃん吠えるマネージャーの喧騒を横目に、御幸はムスッとしたままアイマスクを被り直し、ベッドに潜り込んだ。 前言撤回、前言撤回だ。真田はだめだ。真田だけは、嫌だ。ヒーローの座だけでなく、恋人の座まで射止めるなんて──そんなの、ずるすぎる。そりゃあ、御幸は手出しする気はない。ないが、せめて結ばれるなら他の誰かであって欲しい。選手としてのプライドなんかより愛を優先する、真田以外の誰かと結ばれてくれるなら潔く諦めがつく。けれど真田はだめだ、真田は嫌だ。十年も手出ししなかったくせに、今更御幸に見せつけるようにちょっかいかけだしたところも気に食わない。 「ご心配なく!! 私はお仕事一筋ですのでッ!!」 無論、背後から聞こえるその声は、信用できる。それでも、彼女をかどわかす男のニヤケ面だけは、信用できない。だから、釘を刺さなくては。そんな使命感に駆られる程度には、深々とした傷がついていることに、自覚できないままでいた。 |