17

 九月になった。ペナントレースもいよいよ終盤戦である。とはいえ、攻守共に主軸である御幸が──回復の傾向ではあったにしろ──随分とピーキーな成績を残してしまった。そのため今期は日本シリーズどころか、クライマックスシリーズへの進出も危ぶまれている。だが、諦めるにはまだ早い。マネージャーの熱心なサポートにより、御幸の睡眠時間はほぼ平時と変わらないぐらいには回復した。最後まで食らいつくぞ、監督の言葉に御幸たちは走り出したのだった。

「──睡眠改善から三か月、随分回復しましたね」

「だな。……ほんと、順調すぎて怖いぐらいだ」

「寝れないよりマシっすよ」

 それもそうか、と御幸は零しながら、今日も彼女の運転する車の後部座席で足を組む。眠れなかった日々を思えば、体調は何倍も良い。

「でも、そろそろ私無しでも寝れるようになりたいっスねー」

「……、そりゃあ、欲を言えばな。コタさんの頃はどうしてたんだ?」

「残念ながらこれといった策はないんですよ。気付いたら一人でグースカ寝るようになったんですよ、あのオッサン」

「気付いたらって……それまでずっと話してたんだろ?」

「いやほんとなんですよ。ある日、いつもみたいに通話しようと思って電話したのに出なくて。一晩明けて何してたんだって聞いたら、『やっべ、寝てた』とか抜かすんですもん」

 そんな間の抜けた山田の声が容易に想像できる。運転する彼女は未だ理解できないとばかりにかぶりを振っている。

「そっから突然私なしでもぐっすり眠れるようになって……何が良かったのか、全然分からないんスよ……」

「ふーん。まあいいだろ、お前がいるんだし」

 そりゃあいつかは治さなければとは思う。とはいえ、今はこの忠犬マネージャーがついている。なので御幸は急いでマネージャー離れをしなければ、とは考えていなかった。それよりも、御幸にとっては来る試合に一つでも多く結果を残せるかどうかの方が重要だった。

 けれど、そう告げると彼女は表情を曇らせた。

「……なに?」

「いや、その……」

 非常に歯切れが悪そうに言葉を詰まらせている。まさか、と御幸は無意識に身を乗り出す。

「まさか、退職予定でもあるのか?」

「と、とんでもないっ!」

「じゃあ何だよ」

 とす、と背もたれに身を預ける。焦って損した、と胸を撫で下ろしながら答えを待つ。するとバックミラー越しに、申し訳なさそうな目がちらりとこちらを向いた。

「いや……統轄マネから、次はヤマさんに付かないか打診されてまして……」

「ヤマさん?」

 突如飛び出す球団のエースの名前に、御幸は目を丸くした。彼は三十代のベテランで、年齢を感じさせない球威は未だ強い武器ではあるが、如何せんコントロールに難がある。おまけに性格も気難しく、投手陣には珍しく無口な職人気質。山田ぐらいにしか心を開いていない、御幸にとっても御しがたい投手であった。最近は確かに四球が目立ち、だいぶ荒れているようだったが……。

「ほら、私がついてから御幸さんの調子が戻ってきたじゃないですか。それ見た統轄マネが、なんか、こう、そういう、人を元気にするパワーでもあるんじゃないかって……」

「……んだよ、それ。俺の断りもなく」

 そういうのはまず、彼女の立場上の雇用主である御幸に通すべきではないのか。勿論、雇用形態で言えば彼女は球団所属のマネージャーだ。人員を配置する権限は球団側にある。本来御幸が口を挟むところではないが──。

「お前は、俺のマネージャーだろ」

「ええ、当然です」

「だったら、俺の許可なく他所行くなよ」

「あなたが手放さない限りは、絶対に」

 力強く頷く横顔に、ならいい、と御幸は外の景色に目をやる。確かに、エースの不調はチームの士気に関わる。チーム全体の勝利を考えれば、エースの調子を取り戻すのは決して悪手ではない。だが、そうはいっても彼女がいるから選手の調子が良くなる、という保証もない。そもそも、御幸だって完全に回復したわけではない。それこそ、彼女の声無しではろくに眠ることすらできないのだ。こんな状況でマネージャーを取り上げられては敵わない。

「じゃ、俺からも統轄マネに話しとく」

「分かりました。……助かります。ヤマさん、ちょっと苦手で」

「あの人が得意なのはコタさんだけだろ」

「確かに」

 こくりと頷いて、彼女はいつもと変わらぬ様子でアクセルを踏み込む。本人に他所に行く意思もなく、御幸もこのマネージャーを手放すつもりもない。話はそれで終わりだ。何も焦ることはないはずだ。なのに。

『──あいつは仕事なら誰にだって、そうするんだからな』

 先日の山田小太郎の声が蘇る。分かってる、そんなこと。彼女の仕事は、“選手”のサポート。御幸一也“個人”ではない。だから必要とあらば、どんな選手にだって献身的なサポートを行う。最初はオドオドと様子を見るように、次第に慣れていくのだろう。軽口を叩いて、料理をして、話をして、笑って、じゃれ合って、そして──。

「(……いいだろ、それくらい。別に)」

 けれど、いつか彼女がいなくなる日を思うと胃がズキリと痛んだ。その理由が分かるからこそ、御幸はただ拳を握り締めて耐える他なかった。それを素直に認めてしまうには、男はあまりに深い傷を負っていたから。

 『喪失』の孔は、未だ御幸の心臓を穿ったままだから。



***



 そんなわけで、有言実行とばかりに御幸は早速統轄マネージャーに直談判を行うことにした。今日はホームでの試合だったので、試合後のミーティングの合間に統轄マネージャーに声をかけた。今の統轄マネは初老の男性だ。年齢は上だが、それなりに物分かりのいい相手である。

「というわけで、あいつはまだ手放す気はありませんので」

「……そうですか。まあ、他でもない君がそう言うなら」

 なのでようやく慣れてきた有能マネージャーを手放す気はないと告げれば、彼は険しい表情を浮かべはしたが、素直に頷いた。よし、これで彼女が勝手に配置換えされることも無いだろう。そもそも御幸も数多のマネージャーや付き人を数日経たずにクビにしてきた、球団の問題児のうちの一人である。ようやく自分と歩幅の合うマネージャーを取り上げられては、敵わない。

「そもそも、あいつはコタさんから託されたんです。勝手にどっかにやられたら俺も困ります」

「過去はまだしも、今は球団に──会社に所属する一社員です。彼女の配置は、基本的に人事部に権限があることをお忘れなく」

「……本人たちの意思を無視しても、ですか?」

「いいえ? 本人の希望は尊重しますとも。ですが、急を要する場合は、その限りではないとご承知おき下さい。あまり、楽観視できる状況ではない」

「ヤマさん、ですか……」

 確かに、それも無視はできない。とはいえ、正捕手としてバッテリーを組む立場として、彼の不調は私生活がどうこういう問題ではないと見ている。元々コントロールに難のある投手だ、多少の不調は織り込み済みだし、それを直すのは『ハチ公』の仕事ではない。正捕手の仕事だ。

「ヤマさんは俺が──俺たちが見ます」

「……なるほど、投手のことは捕手が一番分かっている、ということですか」

「ええ。それが俺らの仕事なので」

「では、お任せします」

 頷いて、統轄マネージャーはどこかに電話し始めた。話はこれで終わり、ということだろう。軽く会釈をしてから、御幸もその場を立ち去ろうとする、と──。

「御幸さん。あの子の優秀さを買っているのは、何もあなた方だけではないんですよ」

「──」

「それだけは、ゆめ、お忘れなきよう」

 ちらり、と背後を見やる。厳めしい顔のままだったが、どこか得意げに頷いてスマホを耳に当てて喋り出した。どういう意図か、訊ねるまでもなかった。なんだ、御幸があの女を買い殺しているとでも思っているのだろうか。とんでもない、彼女の良さは十分に引き出せているはずだ。御幸の元で錆び付かせているのなら、まだその言い分も分かるが……。

「(別に錆びてねーだろ、あいつ)」

 錆びてるわけがない。寧ろ、輝いているほどだ。毎日忙しなく走り回って、毎日笑っている。そりゃあ、出会った当初はいつも怯えた様子だったが、今は違う。今は、正反対だ。あんなに朗らかに、笑ってくれてるじゃないか。

 足早に、マネージャーの元へ向かう。ミーティングは終わったし、統括マネにも話を付けた。いつもなら空き部屋で仮眠をしている時間だろう──何せ彼女はほぼ毎日夜通し起きているので、試合時間やミーティング中は足りない睡眠時間に充てている──。スマホを見ると、違うフロアの使用してない取材部屋で仮眠していると連絡が入っていた。すぐに向かうと告げて、御幸は取材部屋に向かって、扉を勢い良く開けた。

「わり、遅くなった──」

「んぎゃっ!?」

 扉の向こうには、マネージャーがいた。ただ、いつものように寝てはいなかった。普段は机に突っ伏して、警戒心の欠片もないような顔ですぴすぴと寝息を立てているのに、今日はちゃんと起きて、椅子に座っていた。そして御幸が入るなり顔を真っ赤にしてバンッと机に叩き付けるように何かを隠したのだ。

 一瞬の沈黙。物言えぬ御幸に、彼女はハッとしたように目を瞬かせた。

「えあっ、いや、すみません、寝起きでぼーっとしてて……」

 すぐ支度します、と彼女は慌ただしく荷物を纏めだす。その中で、手元に隠したそれをキーケースにこっそりしまう姿を、御幸は確かに見た。そうだろうなと思った。それぐらい、その顔を見ただけで分かった。そんなの、ずっと前から知っていたはずだ。なのに、どうして。

「(ああ、クソ──)」

 胸が痛い。ジクジクと、まるでナイフで抉られたように痛む。まるであの女に裏切られた日のようだ──いや、このマネージャーと元カノを一緒くたにするなんて無礼千万にも程がある。彼女は裏切者たちとは違う。決して御幸を裏切ってなどいない。だって最初から、彼女はずっと『あの人』だけを見ていたのだ。それこそ、十年も前から、ずっと。

 新聞の切り抜きに閉じ込められた、十年前の真田俊平の姿を。

「(なんで、クソ、こんな、こと)」

 予兆はあった。或いは、予感も。山田も、それこそ真田本人にまで釘を刺されたのだ。彼らも彼らなりに、御幸の兆候を察していたのだろうか。答えはない。けれど、皮肉にもそんな釘をきっかけに、御幸も徐々に自覚してしまったのだ。それをずっと、気付かないふりをしてきた。見て見ぬふりをしてきた。だって、そんな感情のせいで御幸は人間不信に陥ったのだ。もう二度と──なんて誓ったわけではないが、それでも向こう十年はいいやと、思っていた。なのに。

 真田の写真を見つめる、彼女の表情に全てを奪われた。

「(反則だ、こんな──ちくしょう)」

 毎日写真に挨拶していると豪語するほどだ、『憧れ』や『尊敬』では済まない感情なのだろうとは思っていた。けれど、だとしたらあれはなんだ。一瞬しか見えなかった。けれど、確かに見たのだ。溜息交じりにぼうっと写真を眺める眼差しは、胸を焦がす少女そのもので。思い出に浸るような柔らかな口角は、この数か月御幸も目にすることのなかった笑顔。

 あれが『恋』でなければ──きっと、この世の全てが嘘だ。

「お、お待たせしましまっ!! さあ、行きましょうか!!」

 荷物を整理したマネージャーが、頬を上気させて外を指差す。ああ、と曖昧に頷いて、先を歩く彼女を後をゆるりと追いかける。ああ、くそ、こんなことなら彼女に出会わなければ──否、出会えなければ、プロ野球選手の御幸一也は此処で終わりだったかもしれない。ならばこれは、御幸がこの先も歩き続けるためには、ある種必然の出来事だったのだろうか。にしたって、これはない。せめてもっと見込みがあれば、多少は手放しで喜べたのかもしれないのに。

 どうして、幸福になれない道ばかり歩む羽目になるのだろう。

「……わり、ちょっとコタさんと話がしたいから先行ってて」

「え? ああ、コタさん、もう帰っちゃったと思いますけど……」

「いーよ、電話すっから」

「はあ……分かりました。車に居ますね」

 不思議そうに首を傾げながら、小さな背中が遠のいていく。その姿が見えなくなったことだけを確認して、御幸はスマホを引っ張り出して山田に電話をかける。数コールの後、電話の向こうからは元気な声が聞こえてきた。

『よお、珍しいな、お前が電話なんて。なんかあったか?』

 御幸の胸中など知る由もなく、暢気な山田の声。長々と話をするつもりのない御幸は、手短にその一言を告げる。

「コタさん」

『おお、なんだ。ヤマのことか?』

「──すみません、何でもなくなかった[・・・・・・・・・]です」

 そう言って、耳からスマホを離す。電話の向こうからは「はあ!?」「待てこらぁ!!」「そりゃねえだろ!?」と必死に叫ぶ山田の声が聞こえてくる。相変わらず、察しの良いことだ。笑いもせず、御幸はそのまま通話を切ってスマホをポケットに滑り込ませる。そうして何でもないふりをして、御幸は駐車場へと歩き出す。

 ズキン、歩くたびに胸が痛む。じくり、歩を進めるだけで血肉が滴っているような気分だ。胸の中は痛々しいぐらいぐちゃぐちゃで、目も当てられない。現実を思えばあまりに悲惨な傷だ。だというのに、駐車場でのんびり鼻歌を歌っているマネージャーの間抜けな顔を見るだけで、そんな痛みは溶けてなくなるのだ。「あれ、早かったっスね」、そんな明るい声を聞くだけで、一時の甘い夢に身を委ねられる。

「じゃあ帰りま──あの、御幸さん? スマホすげえ鳴ってますけど……」

 車に乗り込むと、静寂を引き裂くようにスマホが振動しているのが嫌でも分かる。誰からの着信なのか、見るまでもない。だから御幸はへらりと笑みを浮かべる。

「いや、いい。あとでかけ直すつもりだから」

「……まあ、御幸さんがそう仰るなら」

 彼女は深く訊ねることなく、車を発進させる。道中はいつものように夕食の話だったり、下らぬ雑談だったり、或いは今日の試合の話だったり、そんな取るに足らないもの。最初は気を紛らわすだけの存在だったのに、いつの間にかなくてはならないものとなり、ついにはじくじくと痛む傷を癒す時間にまでなった。

 何故ならこうしている間は、彼女は御幸を見ている。御幸と言葉を交わし、御幸のために仕事をして、御幸と一緒に笑っている。

 『写真の真田』では、ない。

「(──こんなので、満たされてるつもりかよ)」

 それでも、彼女と真田の間に入れると思うほど、御幸は自惚れてはいない。

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