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 十月に入り、ペナントレースは終わりを迎えた。結局今シーズンはBクラスに留まることとなり、選手それぞれが悔いを残す結果となった。だが、ぐずぐずと立ち止まってはいられない。来年こそはと決意を新たに、御幸たちは秋季キャンプに挑むのだった。

 そんな中で宣言通り、山田小太郎は現役引退を発表した。

『悔いの残る結果となりましたが、まあそれも人生!』

 数多のインタビューにそう答え、これからは家族とゆっくり過ごしたいと語る男を惜しむ声は方々から届けられた。球団からもコーチやOBスタッフとして残らないか打診があったようだが、山田は全て跳ね除けていた。家族との時間を邪魔するな、と。

 さて、大先輩が引退しても、キャンプインしても、御幸の日常は大きく変わらない。毎日野球をして、毎晩好いた女の声をBGMに眠る日々。幸いにも、キャンプインすればホテル生活が続く。つまり、愛しのマネージャーと同じ部屋で一晩過ごす必要はなくなる、ということだ。御幸が別料金を払うという名目で、彼女はずっと個室生活を満喫している。おかげで、夜中まで電話していようが勉強をしていようが誰にも迷惑が掛からないのだから楽なものだ。色々と気分が落ち着くまで、ぜひホテル生活を続けたいほどだった。

『ヤマさん引退かあ……ほーんと、寂しくなりますね?』

「人目もはばからず泣き叫んでたくせに、よく言うぜ」

『あ、あれはちょっと、感極まっただけですよっ!!』

 今晩もハチ公ラジオを聞きながら、御幸は柔らかなベッドにごろりと横たわる。彼女は山田の引退会見を号泣しながら見届け、選手たちよりもその引退を惜しんでいた。彼女と山田の付き合いの長さは折り紙付きだ。いい歳した成人女性が声上げて泣くのも、まあ頷けるというもので。

「結局、マネージャーになって何年になるんだっけ?」

『十八の頃からですから……大体、七年ぐらいになりますかね』

「七年か。まあ、長いな」

『ええ、長いですよ。友人たちが遊び倒していた日々全てを、コタさんに捧げたんですから』

「お前の人生そんなんばっかだな」

『そうですね……まあそれも人生、ってやつです』

 スポーツ紙にも大々的に取り上げられた山田のセリフを口にして、一人でくすくすと笑う。滅私奉公、とばかりに他人の輝きのために奔走してきた彼女の人生は、御幸から見たら信じられないほど犠牲的だ。それを好き好んで行うのが、甚だ信じられない。それでも毎日、彼女は笑っている。

「……まあ、毎日楽しそうだし、いーんだけど」

『そんなに楽しそうに仕事してますかね、私』

「おー。毎日ニコニコしてるだろ」

『ええ……そおですか……?』

 自覚はないらしい。御幸の目には仕事中もにこにこと笑顔で駆けずり回っているように見えるのだが。すると、不思議そうに唸る声が、あっと息を呑んだ。

『あれかな、取材入ってるからかもしれません』

「取材?」

『なんか今回スタッフにも取材入ってるんですよね。トレーナーさんとか、ほら、こないだ新しく入ってきた人とか』

「あー、そういやそんな話してたか……え、じゃあお前も?」

『いやいや、私なんかただのマネですから……でも、誰に見られてるか分からないから、とりあえず人当たり良さそうな顔でもしとこうかな、と』

 なるほど。確かに、笑顔でてきぱき仕事をしているスタッフがいれば、それだけで雰囲気が華やかになる。彼女ほど若いスタッフは数えるほどしかいないし、報道陣受けも良さそうだ。

「お前もなんか声かけられたりしてな」

『まあいつもみたいに一言二言、みたいなのはあるかもですが』

「……いつもみたいに?」

『女のスタッフ自体珍しいみたいで、画面映えするからと。コタさん付きの頃なんか、女マネの一日密着取材、とかあったんですよ』

「うわめんどくせ。その手の取材は全部断ってくれよ」

『ええ、ええ。つつがなく。御幸さんはコタさんと違ってメディア嫌いだから、スケジュール管理が楽で助かります』

 嬉しそうにそう語るマネージャーに、そうかよ、と御幸は投げやりに返す。

 メディア露出を控える選手は案外多い。練習の邪魔になると断る者から、人目に出せない人間性故に球団側からNGが出ている者まで、様々だ。とはいえ、全てが全て断れる仕事ばかりではない。特に御幸はそのルックスで、野球とは全く関係ない女性誌の取材依頼すら舞い込むほどだ。これからオフシーズンになるにつれて、そういった仕事も増えるだろう。気が滅入るばかりだ。

「メディア露出好きな選手の方が珍しいだろ」

『そりゃそうなんですけど、全部が全部断り切れないのでご承知おきを』

「多少はな。いーよ、バラエティと女性誌じゃなきゃ」

『ほんとその辺嫌いですよね、御幸さん』

「野球選手なんだから、せめて野球に関する話させろよ」

『残念、大衆が求めるのは野球選手の人間性ですから』

 頭では分かっていても、貴重な時間を割くのならせめて野球の話がしたい。御幸がメディア出演するのは、減少傾向が嘆かれる野球人口を何としてでも増やすためだ。ただでさえ少子化が嘆かれている中で、あらゆる娯楽がインターネットを介して閲覧できる数少ない若者を奪い合わなければならないのだから、酷な戦いである。プロスポーツ選手なんてファンがいなければ成り立たない仕事である。故に、このオフシーズンのメディア出演が重要な仕事であるとは、理解しているのだが……。

「俺のファンが増えても意味ねーだろ。野球のファンを、増やさねえと」

『えー、顔ファンでもいいじゃないですか。野球見るきっかけにはなりますよ』

「顔ファンは長続きしねーって言うだろ」

『そんな、統計があるわけでもあるまいし』

「……なんだよ、そんなに俺に仕事させたいわけ?」

『まさかまさか。ただ、スポンサー様のCM出演を断るのは惜しかったな、と』

「CMは撮影長いし疲れるしヤなんだよ」

 その分練習時間が削られるのだから、御幸の言い分も理解して欲しいものである。ただ、マネージャーとしてはこの大きな案件を断る尤もらしい大義名分が欲しかったようで、事あるごとにこうして恨み言を言われる。コバエを振り払うように、御幸はハイハイと雑な相槌を打つ。

「その代わりあっちの仕事は受けてやったろ」

『あれは──あれ断るとか、恩知らずにも程があるでしょう……』

「まーな。とはいえ、今季の成績を思うとほんとは嫌なんだけどさ」

『じゃあ来年も再来年もお受けすればいいんですよ』

「来年再来年が好成績って保証もねえだろ」

『なんの。私がついてますから』

 冗談交じりにかけられる言葉に、すっと体温が上昇するのが分かる。そりゃ、手放す気はないのだ。来年も、再来年も、御幸の傍には彼女がついている。多分それは、誰にとっての当たり前のこと。御幸だってそのつもりだ。それでも。

「……だな。これからも頼む」

『ええ、勿論です』

 当然だと語る彼女の言葉が、今はこんなにも、嬉しい。



***



 とはいえ、禍福は糾える縄の如しとはよく言ったもので。

「あ、そうだ、御幸さん」

 数週間にわたるキャンプを終え、久々にマネージャーと共に自宅に向かう。これからこの顔を見ながら眠る日々が続くのかと思うと、嬉しいような困るような。とはいえ、彼女がいなければ眠ることもできないので、しばらくは理性との戦いになるのだが。

 そんな帰りの車の中で、何も知らない女は暢気にこんなことを言う。

「家帰ったら、ちょっと真田先輩に会ってきます!」

「──はあ?」

 人の気も知らないでそんなことを言い始めるのだから、御幸の心中は穏やかではいられない。自分でも驚くほど低い声が飛び出し、彼女はぎょっとしたように目を見開く。

「え、なんで」

「なんで、て……」

「デートか?」

「ち、違いますよ……お土産渡すだけで……」

「お土産?」

「キャンプは沖縄って言ったら『紅芋タルト買ってこい』とお達しがありまして……そんな日持ちするもんじゃないし、仕事帰りに近くまで来てもらおうと……」

 おずおずとそう語る女に、手にしたペットボトルがミシリと音を立てた。そんなもの、わざわざ頼まなくても手に入るだろう。ということは、理由を付けて彼女に会いたいだけではないのか。先輩命令には逆らえないと後輩ワンコは肩を竦めるので、御幸は我慢ならずにこう言った。

「……俺も行く」

「はい?」

「つーか、このまま行けばいいだろ。車なんだし」

「え、いや──流石に申し訳ないですよ。私用ですし……」

「いい。大体、あっちこっち出歩くような時間でもねえだろ?」

 尤もらしいことをそれとなく圧強めに言えば、彼女は身じろぎしながら「では、お言葉に甘えて」と、ハンドルを切り始める。それでいい。下手に目の届かないところでよろしくやられるよりは、ずっといい。

 それにしても、いよいよ真田も手段を選ばなくなってきた。たびたび連絡を入れてはデートのお誘いをしているようだが、そもそも彼女は丸一日オフというものがほとんど存在しない。デートに行く暇はないといつも断っており、今のところ出し抜かれた様子はない。だが、気を抜くとすぐこれだ。油断も隙もありはしない。

「大体お前もさあ、好意向けられてる男とよく会えんな。付き合う気もないくせに」

「やー、お土産渡すぐらいならいいかなって」

「その土産も会うための口実だろ」

「う、うう……やっぱ、そうなんですかね……」

「当たり前だろ。そんな土産、東京でも買えるし」

「そっかあ……そうですよね……」

 気まずそうに運転席で身じろぐ女の顔色は、今のところは変わらない。これで照れたり恥じらったりするようであれば話は別だが、少なくとも今は真田の好意に応えるつもりはないらしい。

「あのなー、嫌ならさっさとフればいいだろ」

「いやいや、告白されてもないのに、そんな失礼なこと言えるわけないじゃないですか……仮にも先輩相手に……」

「それが出来なきゃ会うなって。どっちつかずなんだよ、お前」

「エエン……そんなマジトーンで怒らないでくださいよお……」

「別に怒ってねえよ」

「怒ってんじゃないですかあ!」

 怒っていない。イラついてはいるが。そんな子どもじみた言い訳を返すわけにもいかず、御幸は無言で窓の外に目を向ける。そうだ、彼女も彼女で優柔不断なのだ。付き合う気もないのに、言われるがままにへこへこと呼び出されて。全く、見ていてイライラする。

「うう……いいじゃないですか、なあなあにしたって……」

「うるせーな。青春ごっこ見せつけられる方の身にもなれっての」

「色々お世話になった先輩なんですよ、無下にできないの分かるでしょ……!!」

「俺、先輩相手にも手加減しねーし」

「しまったこの人、慇懃無礼代表だった……」

「お前が言うな、お前が!」

 こうして山田や御幸には平気な顔でド失礼な口を利くというのに、やはり特別な相手には違うのだろうか。そう考えるだけでますます胸がムカムカしてくる。そんな苛立ちの理由など想像だにしないだろうお惚けマネージャーは、情けない顔でべそべそと文句を垂れる。

「いいじゃないですかあ……御幸さんには関係ないでしょうに……」

「──」

 ……そうだ、全く以てその通り。彼女が真田とどういう関係になろうと御幸には関係ない。なあなあでやり過ごそうと、どうでもいいことだ──尤も、そう思っているのは、彼女だけ。けれど、どうでもいいことに口出しし続けるのは、不自然だ。この女は馬鹿じゃないし、特別鈍くもない。だから、あまり下手なことは言えない。もしもバレたら。

 もしも、この感情がバレてしまったら。

「……そう、だな。俺には関係ない話だった」

「で、でしょう……?」

 バレたら、どうなるのだろう。真田にするのと同じように、なあなあで好意を交わし続けるのだろうか。それとも、きっぱりと断ってくるのだろうか。そもそもバレたら、この仕事は続けてくれるのだろうか。他の選手の元に行きたいと、上に泣きつくだろうか。想像したところで、答えはない。どれもそれらしい反応な気もするし、違和感しかないような気もする。一つ確かなことは、そうなってなお、御幸は彼女を求めないということ。どうあっても選手としてのプライドが、それを許すなと声を荒げるのだから。

 しばらく無言のまま車が走り、とあるコインパーキングに車が止まる。すぐ終わりますので、と彼女は車を降りて電話を始める。すると十分とかからず、一台の車がパーキングに入ってきた。車からはスーツ姿の真田が下りてきて、人懐っこそうな笑顔で後輩を出迎えていた。二人が何を話しているのか車内に残った御幸の知る由はない。それでも、気の置けない仲であることは一目瞭然だ。彼女は真田に紙袋を渡して、真田はそれを笑顔で受け取る。子どものように頭を撫でまわす真田に、キャンキャンと吠えて抵抗して、頬を膨らませて、笑って、話して──。

「──……」

 じくじくと、傷が痛む。この思いを自覚した時から、この痛みと付き合っていくと決めたはずだった。それでも、幸せそうに笑う二人を見ていると、叶わぬ欲が出てくる。どうして、あそこにいるのが自分ではないのだろう。どうして、彼女のヒーローは自分ではないのだろう。どうして、この欲のために妥協ができないのだろう──そんな、どうしようもない疑問ばかりが浮かんでは消える。答えは決まっている。何一つ、今更どうにもならないからだ。

 だから痛みに耐えるしかない。耐えろ、耐えろ、耐えろ。あの日々を思えばこんな痛み、何でもないはずだ。少なくとも今は、二年前に比べればずっとましだ。失意と絶望に満ちていたあの頃を思えば、なんと甘やかな痛みだろう。だから耐えられる、耐えられるはずだ──。

「お待たせしました、御幸さん!」

 そんな快活な声に、はっと目を瞠る。いつの間真田と別れたのか、マネージャーが車内に戻ってシートベルトを締めているところだった。

「……もう、いいのか?」

「言ったじゃないスか、お土産渡すだけだって」

 時間にして、十分あるかないか、ぐらいか。御幸にしてみれば数時間にも感じられたが。頻繁に連絡を取り合っているとはいえ、直接顔を合わせるのは御幸が知る限りでは数か月ぶりのはず。積もる話もあるだろうにと零せば、まさかと女はかぶりを振る。

「大体、私は今、仕事中ですよ、長話するわけにはいないでしょう」

「まあ……そうか……?」

「ですです。さ、帰りましょう。食材も買ってかないとだし!」

 一仕事終えた、とばかりに晴れやかな顔で彼女は意気揚々と告げる。仕事中、尤もである。彼女は今仕事をしていて、これで日銭を稼いでいるのだ。だから何一つ特別なことはない。けれど、一瞬でも歓喜してしまった自分を、御幸は見て見ぬふりはできなかった。真田よりも、御幸を優先した。たったそれだけのことが、指先まで熱が灯るほどに──こんなにも、嬉しくて。

「……だな。腹減った」

「冷蔵庫空っぽですしね」

「たまにはどっか食いに行くか?」

「冗談きついっすよ、すっぱ抜かれたらどーすんですか……」

「分かってるって」

 冗談──冗談、か。先ほどまでの喜びはどこへやら、胃に大岩でも流し込まれたような気分だ。冗談のつもりはない。ただ、下心があったわけでもない。純粋に、腹を満たすために言っただけだ。けれど彼女にとって、これは『冗談』でしかない。これが真田となら、彼女は頷いていたかもしれないのに。無論、彼女の気遣いは理解しているし、これもまた御幸が自ら選んだ道だ、今更悔いるつもりはないとはいえ、埋められぬ『差』を見せつけられたような気分になった。

 人知れず一喜一憂する御幸を乗せて、車が動き出す。ゆっくりとコインパーキングの出口へ向かう。ふと窓の外に目をやると、自分の車に乗り込んだ真田とフロントガラス越しに目が合った。その時だった。ぞわり、と背筋が震えた。

「(な──なんだよ、その顔)」

 鋭い眼光、なんて生易しいものではない。まるで親の仇でも見るような目付きで、真田俊平がはっきりと御幸を睨んでいたのだ。人の良い笑みはどこへやら、空気すら凍らせるほどの目に、かつてマウンドの上に立っていた少年を思い出した。だが、何故そんな目を向けられなければならないのか理解が追い付かず、一瞬虚を突かれた。けれど、車が動き出してその視線は物理的に途切れ、車は道路を滑るように走り出した。そうして冷静さを取り戻すにつれて、だんだん怒りが湧き上がってきた。

 可愛い後輩を取られたからか。或いは、仕事で彼女を縛り付けている御幸が憎いのか。全く、下らない、そっちの方がよっぽど恵まれているのに、よくまあそんな顔ができたものだ。真田は、御幸にないもの全てを持っているというのに。御幸が手を伸ばせない何もかもを、掴み取れるというのに。

 その上で、この場所まで欲するか。

「(……やらねえよ)」

 真田にはだけは、奪わせない。他の誰に奪われても拍手して笑顔で送り出す自信はある。けれど、真田は嫌だ。真田はだめだ。そんな権利も立場もないのは百も承知だが、ただただ嫌だった。それこそまるで、子どものような我儘。けれど、それだけは嫌なのだ。どうしても。

 この場所は──まだ、御幸のものだ。

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