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 ホテルに帰ると、ぐでんぐでんの山田は他スタッフに担がれて部屋に運ばれていった。マネージャーは車を戻してくると言うので、御幸は車を降りて部屋に戻ろうとする、と。

「御幸さん、いつもの時間に待機しててくださいね」

「……いけんの?」

「お任せください、秘策がありますので」

 ぐっと拳を握り締める女のなんと逞しいことか。遠征先でも安眠雑談ができる秘策とやらはいまいち考えつかないが、このマネージャーが言うのだから間違いはないだろう。頼む、と告げて御幸はホテルに戻ってシャワーを浴び、寝る準備をする。こういう時、二軍落ちしなくてよかったと思う。もう相部屋生活には、戻りたくない。

 さて、数時間後。枕元のスマホが振動する。着信相手は言わずもがな、だ。

『ハイこんばんは』

「おお。……今更だけど、こんな時間に大丈夫か?」

『ええ。誰にも迷惑の掛からない場所を見つけましたので!』

「……ふーん?」

『さあさあ。明日も早いんですから、さっさと[はなし]ましょう』

 きびきびとした声と、電話の向こうから相変わらずパソコンを叩く音が聞こえてくる。いつもの音だ。ほっと肩の力が抜ける気がした。本当に重症だ。この肉声がなければ、眠ることができないなんて。それでも、あの頃に比べたら、きっと、ずっと、マシだ。

 いつものように、下らない話が始まる。以前はただ聞くだけだったが、時折御幸から話を振ることもあった。話題はもっぱら、先ほど山田から聞いた話だ。

「お前さ、税理士の資格持ってるってマジ?」

『ゲッ、なんで知って──ああ、コタさんっスか……』

「すげーな、コタさんのために取得したわけ?」

『そうすね……というか、最初は暇つぶしだったんです』

「暇つぶし?」

『ほら、夜は長いでしょう? 寝ないようドラマ見たり仕事したり色々してたんですけど、勉強が一番捗ることに気付いて、色々資格取るようになったんです』

「へーえ、普通は逆じゃねえ?」

『なんだろ、結局この時間も仕事なわけじゃないですか。余暇に使うより、仕事のために時間を使う方が『仕事してる!』って感じがして……なんか妙に目が冴えるんですよ』

「ふーん、じゃあ今もなんか勉強してんの?」

『はい。今はアスリートフードマイスターを』

「あー、メンターさんが持ってる奴?」

『ですです、まあ、まだ三級程度ですが。管理栄養士もあるので民間資格は不要と言われたんですけど、取って損はないのかな、と』

 普段の態度からは些か信じられないことに、彼女はとんでもないぐらい勤勉だった。毎晩仕事が忙しそうだと思っていたそれは、資格勉強だったらしい。通りで毎晩毎晩何時間もパソコンに向き合っているわけだ。俄然興味の湧いた御幸は、暗い天井を見上げたまま話を続ける。

「いいね。他には何持ってんの?」

『えーと、管理栄養士と、フードコーディネーター、税理士、柔道整復師、あん摩マッサージ指圧師、アスレティックトレーナー、あとは──』

「待て待て待て、え、そんなあんのか!?」

 軽く話題を振ったつもりだったのに、彼女の口からはつらつらと驚くほど色んな名称が飛び出してくる。もはやマネージャーというよりスポーツトレーナーの域である。これを運転手程度に縛り付けていたなんて勿体ない、という後悔よりも驚きの方が勝る。

「す、すげーな……税理士とかマッサージ師って国家資格だろ?」

『国家資格、と言うとハードル高く聞こえますけど、実態はそうでもないですよ? 運転免許だって立派な国家資格ですしね。それより、海外の資格のがよっぽど面倒でしたよ』

「いやいや……お前なんでトレーナー転向しないんだよ。そっちのが待遇いいだろ」

『んー、あんま性に合わないんですよ、大勢の人をお世話するの。……薬師の野球部は人数少なかったですからね、その影響かもです』

「……ふうん?」

『私は一人をずーっとサポートする、ってのが肌に合ってるようです』

 そう語るマネージャーの声は弾んでいる。顔を見なくとも分かる、慈愛に満ちた笑みを浮かべていることが。彼女の人生を決定付けた選手と共に駆け抜けた青春が、今も燦然と輝いているのだろう。それは理解できる。だが、そう考えるとどうも胃のあたりがざわざわする。胃もたれだろうか、焼肉なんて久々に食べたし、その影響だろうか。彼女の言う通り、身体はもう若くないのかもしれない。認めたくはないが。

『とはいえ、資格だけで実務経験はほとんどありませんから。知識があるってだけなので、フィジカルやトレーニングに関してはトレーナーさんに任せてください』

「あ、ああ……」

『お株奪うほど経験はないですし、揉め事の原因になりますので』

 なるほど、爪を隠していたのは球団内で波風を立たせないためか。選手の身内をきっかけに球団スタッフとして就職したのだ。おまけに、若い女。以前、身の振り方には気を遣うと言っていた。仕事が出来すぎても、色々と問題はあるのだろう。

『まあ、私の話はいいでしょう。そろそろ寝ないと、ホテルの朝食を──』

 そう言いかけて、彼女は電話の向こうでハッと息を呑んだ。次の瞬間、明らかにおかしな音が聞こえてきた。ブウン、というエンジンの嘶き。キキッ、とタイヤが床を擦る悲鳴──どう考えても、ホテル内に居るならこんな鮮明に聞こえてこないはずの、音。

「……お前、今どこにいるんだよ」

『え──えへ?』

「どっかの空き部屋にいるんじゃねえのか」

『あ、空き部屋といえば空き部屋のような……』

「どこに、いるんだ、今!」

 一言一言区切りながらドスの利いた声で凄めば、電話の向こうで「あの」だの「ええと」だの言い訳を探す声が聞こえてくる。どうして失念していたのだろう。球場に近いホテルはファンも押さえているし、何より選手たち団体がいるのだ。今は夏休みのシーズンだし、急遽空き部屋が出るはずもなく。だから御幸はてっきり、共有スペースのような場所を押さえているのだと思っていた。けれど、この女、まさか。

『え、ええと……ち、地下駐車場の……車に……』

「こンの──馬鹿マネージャーッ!!」

 ホテルの壁が厚くてよかった。いつもそれなりの金額のホテルを押さえてくれるスタッフ陣に感謝しながら、御幸は容赦なく怒鳴りつけた。電話の向こうではヒィッと悲鳴が聞こえる。

『だだだだって、仕方ないじゃないすか!! 他に場所なんてないんです!!』

「だからって駐車場!? 馬鹿かお前、一晩車で過ごす気かよ!!」

『だって鍵掛かるし、冷房も効くし、意外と快適だったり……?』

「車内だぞ!! 防犯意識舐めてんのか!?」

『ヒイイインだから言ったじゃないスか誤魔化しだって!!』

 流石に危険性ぐらいは理解していたらしい。だからって、分かっててやるのだからなおのこと性質が悪い。いくら鍵のかかる車内だからって、若い女が夜一人で地下駐車場にいるなんて、何があってもおかしくはない。

「馬鹿、早く戻ってこい!!」

『戻って、って──戻れるわけないでしょ!! あなたまだ寝てないのに!!』

「どっちが大事だと思ってんだッ!!」

『言うまでもないでしょうがッ!!』

 迷いなく叫ぶ声に、思わず呻き声が漏れた。彼女が数多の人間に幸せを胃の割れるほど不幸な人間だとは思っていない。寧ろ毎日元気で、楽しそうに見える。ただ、自分よりも他人を優先するこの精神だけは、確かに身を案じてしまいたくなる。御幸とて、本人が良しとするなら黙っていたが、流石にこればっかりは見逃せない。

「そこまで言うなら、場所なんかどこだっていいだろ」

『……み、御幸さん?』

「お前、今すぐ俺の部屋に来い」



***



「無理無理無理無理無理ですってまずいですって!!」

 部屋の入り口で顔を真っ青にして小声で抵抗するマネージャーの手を掴み、無理矢理部屋に引きずり込む。確かに、誰かに見られたらだいぶまずい絵面だ。けれど、車内で一晩過ごすよりは遥かにましである。嫌です無理です非道徳と訳の分からないことを喚くハチ公には必殺、『雇用主命令』をぶつけた。すると面白いくらい素直に、彼女は御幸の部屋まで来た。パソコンや分厚い本を抱え、見慣れたジャージ姿のまま、顔面蒼白のままバスルーム前で右往左往してる。

「まずいまずいまずいですって……統轄マネにバレたら懲戒モンですよ……!」

「あのさあ、別に疚しいことしてるわけじゃないだろ」

「だとしても他人はそうは思いませんよ……!!」

 頭を抱えたままウロウロしている。言わんとしていることは分かるが、それ以上に車内泊の方がよっぽどまずいだろうに。

「要は見つからなきゃいいんだろ?」

「そういう問題ですかね……」

「もし何か言われたら正直に言えばいいだろ。『御幸に頼まれた仕事片すために車内泊しようとしたら怒られた』ってよ」

 ハチ公の名は伊達ではない。そう聞けば『ああ、あいつならやりそう』と誰もが思うはずだ。事実、疚しいことなど一切ないわけだし、仮に文句を言うのなら、彼女に個人部屋を用意させるよう統括マネージャーを説得するのも手だ。

「そしたら何か対策立ててくれるだろ。何なら個室取るよう調整付けてくれよ。代金は俺が出すから」

「いや──流石に、それは……」

「何でだよ。飛行機でも別料金出せば席取ってくれるだろ、それと同じだって」

 どうせこんなことになってるのは御幸のせいなのだ。御幸が自腹を切る分には球団も文句はないはずだ。揺るぎない怒りと説得力を前に、彼女はオロオロと目を泳がせる。

「いや……でも、ウウ……」

「ホテル取るのはお前らの仕事だろ? もう一部屋抑えるぐらい、できるだろ」

「でも、だって、二軍の選手たちさえ相部屋なのに……」

「じゃあ相部屋で夜通しずっと仕事するけどいいのか、って通せばいいだろ」

「強引ンン……」

 完全には納得はしていない様子だった。けれど、此処まで来て今更帰る、なんて無駄足は踏むつもりはないらしい。しばらく唸ってはいたが、彼女はやがてホテル備え付けのテーブルにパソコンと参考書を広げ始めた。

「……分かりました。今後このようなことがないよう、統轄マネージャーに申請通しておきます」

「真面目だな、お前も」

「私のせいで御幸さんの名誉に傷つけるわけにはいきませんから」

 ぴしゃりと答えて彼女は椅子に腰を下ろし、御幸に背を向けるように手を動かし始める。その背中を見ながら御幸もようやくベッドに潜り込んだ。ぴんと背筋を伸ばし、パソコンのバックライトに照らされてぼうっと影が見える。球団ロゴがでかでかと張り付けられたジャージを見ていたい気もあったが、明日も試合が控えている。大人しく、アイマスクを被って深く深呼吸をする。

「……悪いな、色々」

「いえいえ。これが仕事ですから」

 独り言のように零した謝罪を、気にも留めない様子でそう返してきた。全く、頼もしいものである。けれど、頼もしいはずのその一言が、どうにも引っかかる。理由も見つからないままに、御幸はそろりと忍び寄ってくる眠気に身を委ねる。

「そうですね……せっかくですし、資格の話でもしましょうか。色々勉強してきましたけど、やっぱアスレティックトレーナーがダントツでだるかったですね。海外の資格試験ってなんであんな不自然な日本語なんでしょう──」

 そうして紡がれる、実に下らぬ千夜一夜物語。歴史に残るはずもないその雑談は、実際のところ御幸も全てが全て覚えているわけではない。けれど、その物語は確かに、御幸一也の救いとなっていた。



***



「──あ、おはようございます」

「おー、おはよ」

 で、翌日。おかげさまでぐっすりと眠れた御幸は、朝日と共に目を覚ます。やはりハチ公ラジオの効果は抜群だ。ゆっくり伸びをしながらシャワーを浴びていると、部屋から彼女のどでかい声が飛んできた。

「おはようございます。今日も一日、頑張ります!」

 バレたくないとはどの口が言ったのか、と言いたくなるほど元気な声だった。そういえば、真田の写真に挨拶するのが日課とか言っていたか。所構わずやるとは思わなかったが。はあ、と無意識のうちに零れる溜息をそのままにバスルームから出る。着替えて、濡れた髪をタオルでガシガシと拭きながらベッドルームに戻る。

「あっ、お帰りなさい」

「おー」

「そんじゃ私、これから着替えて統轄マネのとこに行ってきますね」

 きびきびと荷物をまとめて彼女は立ち上がる。そうして去っていく背中に手を伸ばしかけ、引っ込める。何をするつもりだったのか、何を言うつもりだったのか自分でも分からなかったからだ。それではまた後で、と部屋を出るマネージャーを、御幸は立ち尽くしたまま見送る他なく。ぽたりと、髪から滴る雫が、床のカーペットを柔らかく濡らしたのだった。

 で、その後。有言実行とばかりに彼女は統轄マネージャーに昨晩のことを洗いざらい話したらしい。結果、こんなことが続くぐらいなら、とホテル代を別途請求することを条件に今後の遠征では個室を抑えてもらえることになったらしい。

「お前なあ、腐っても女だって忘れたのか?」

「失礼な!! 勝手に腐らせないでくださいよ、コタさん!!」

 事情を又聞きしたらしい山田が、従兄妹をからかって笑っている。黙って車内泊しようとした奴が何言ってるんだか、と思いながら御幸はバスに乗り込む。ぞくぞくと選手やスタッフたちバスに駆け込んでくる中で、御幸の横に遠慮なしにどかりと座る男が一人。山田小太郎その人だ。

「……なあ、ほんとに何でもないんだよな?」

「え?」

「いや、ほら、お前らのことだし大丈夫だと思うけどさ? 一応、な? 疚しいことあったらそもそも言わねえだろうし、あの馬鹿に限ってそんな間違いないと思うし、お前もお前でそういうのしばらく良いって言ってたし、そもそもお目が高いだろうし、いやでもずっと一緒に居るわけだし? なんか間違い起こったら紹介した俺としても気まずいし? オッサンとしては心配というか、気がかりっつーか、な? な?」

 小声とはいえ、ノンブレスでまくしたてられて御幸も目を丸くした。どんだけ心配性なんだか。何度も同じことを言う気にもなれず、否定の意味を込めてかぶりを振ると、山田はあからさまにほっと胸を撫で下ろした。

「よかったー……ならいいんだ」

「そうっすか」

 そう言いつつ、件の女がバスに乗り込んできたので目をやる。荷物を肩にかけ、統括マネージャーと真面目な顔をして話している。だが今日はほとんど寝ていないはずだ、どこか眠そうに眉間を押さえている。

「……なあ、御幸。忘れてくれるなよ」

「何を、ですか?」

「あいつのあれはさ、あくまで『仕事』だってことを」

 どす、と胸を突かれたような感覚。はっとして胸を見下ろすも、当然胸に穴など空いていない。今更過ぎるその言葉に動揺した意味も分からず、御幸はひたすら平静を取り繕う。

「あいつは仕事なら誰にだって、そうするんだからな」

「……そりゃ、当然でしょう。マネージャー、なんですから」

「分かってれば、それでいーんだ」

 そう零して、山田は会話を終わらせる。当たり前のことだ。わざわざ指摘されるまでもない。山田は心配性すぎるのだ。何も起こるはずはないし、何を起こすつもりもない。彼女がどれほど有能で、真面目で、信頼に足る人物であっても、それとこれとは全く別の問題だ。本人も言っていたではないか。『それが仕事なのだ』、と。だから何でもない、何ともない。なのに。

 その一言はささくれ立った棘のように、いつまでも御幸の胸に残った。

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