「新しい仕事て……コ、コレェ!?」 「嫌ならいーけど」 「い──いえ、滅相もない!! ありがたく頂戴しますとも!」 有言実行、早速マネージャーに『新しい仕事』を任せることになった。胸を張って命令を下す御幸に彼女は困惑した表情のまま、籠を抱えて洗面所に消えていく。御幸はそれを満足げに見届け、ソファに身を預ける。しばらくして洗濯機がゴウンゴウンと回転する音が聞こえてきた。 「え、ええと……乾いたものは、横の籠に入れる感じでよろしいですか……?」 「ああ、それでいーよ。どうせタオルばっかだし」 「えあっ、あの、下着とかは……」 「嫌なら頼まねーけど、コタさんのは大丈夫だったんだろ?」 「い、嫌というか──御幸さんこそ、ヤじゃないんですか……?」 「別に。嫌ならそもそも頼んでねえし」 「さ、左様で……」 御幸の返答に、彼女は曖昧な表情で頷いた。そうしてすごすごとキッチンへ向かう背中は、どこか落ち着きない。頼んだ仕事は彼女にとっては別段重くも面倒でもない、ただの洗濯と掃除だ。山田付きの頃も、何度となくこなしていたタスクの内の一つ、今までは任せていなかった数少ない家事である。任せていなかった理由は依存を避けるためだが、今更依存も何もないと意地を張るのは止めた──そう、これは依存ではない、協力だ。お互いが心地よく互いの仕事を全うするために、手を取り合っているだけなのだ。 それも全部が全部任せるわけではない。彼女がキッチンで仕事をしている間、御幸は軽く掃除をしてからお勤めを全うする。彼女が夜通し睡眠を監視してから仮眠を取る間、御幸が朝食を作る。そんな風にプロ野球選手・御幸一也を支えるために最も効率のいい方法を取るだけだ。ただ、それだけ。 そう、彼女の言う『ラクをする』の、極地まで辿りついただけ。 「……あの、御幸さん」 「んー?」 キッチンから、どこかムズムズとした表情のマネージャーが顔を出す。食事ができるにはまだ早いと、タブレットから顔を上げると、抑えきれない嬉しそうな笑みを見た。 「──いえ、なんでも!」 弾けるような笑みを浮かべて、彼女は再びキッチンに引っ込んだ。何を言いたかったかは分からないが、その笑顔は不満や不平があれば出てこないであろう。仕事が増えて、こんなにも喜ぶ人種は珍しい。まあ、こういう作業が好きでなければこの仕事は務まらないのだろう。本当に、山田からは良いマネージャーを斡旋してもらった。一時は人の巡り合わせに失望していた御幸だったが、それを打ち消しにはできなくとも、他人もそう悪いものではないと思えるようになったのは、紛れもなく山田と彼女のおかげだった。 *** そんな生活がしばらく続く。生活に大きな変化は、やはりない。彼女は御幸を支えるために全力で奔走し、御幸はそれに報いるべく試合で結果を出し続ける。おかげで絶好調とまではいかないが、打率も防御率も盗塁阻止率も、数か月前とは比べ物にならないほど回復した。 「今日もいい感じっスね」 「つっても、今日からしばらくはホテルだからなー」 「あー……」 不眠からの回復は順調だ。私生活周りも、彼女に仕事を任せてからずいぶん楽になった。強いて言えば、遠征で家ではなくホテルで寝泊まりする時が厄介だった。御幸は基本的に一人部屋が宛がわれるが、所属上は球団スタッフである彼女はそうはいかない。二軍選手すらツインなのだ、たかだかマネージャーである彼女が個室を割り当てられるはずもない。これには困った。夜通し語明かす彼女がいなければまともに眠れないのに、語り部は複数人部屋にいるのだ。夜通しペラペラ喋っていては、同じ部屋のスタッフに怪しまれる。 「コタさんの時は、録音した雑談で何とかなってたんですけどねえ……」 ちらり、と隣を歩くマネージャーがこちらを見上げる。何でお前は違うんだと言わんばかりの視線に、俺が聞きたいと御幸は零す。そう、遠征中は夜中に直接会話するわけにも、通話するわけにもいかないので、彼女の雑談を録音した声を夜聞きながら眠っていたのだが、ほとんど効果がなかったのだ。普通に数十分ごとに浅い眠りから目を覚まし、結局三時間少々しか眠れなかったのだ。その理由は御幸本人にも分からないが、彼女は『話云々ではなく、人が傍にいること自体に意味があるのでは』と述べていた。何にしても、睡眠時間はパフォーマンスに影響する。遠征中の御幸は驚くぐらい調子が悪く、ピーキーすぎるその性能に誰もが首を傾げた。 「ただ、勘の良い人はそろそろ気付きそうですよね」 「遠征時の最終日は決まってボロボロだからな……」 安眠雑談が始まって一か月以上経過した。ホーム圏内では絶好調なのに、遠征行くと途端に成績がガタ落ちするのだ。この因果関係は、パークファクター──所謂、得意不得意の球場に依存すると監督たちは思っているようだが、いつまでも誤魔化せる訳ではない。 「そろそろ対策しないとですよね……」 「なんか策でもあんの?」 「無くはないですが、誤魔化しにしかならないっスよ」 「誤魔化さないよりはマシじゃねえ?」 「そうですよね……了解、ちょっと準備します」 「分かった。あ、あとで迎えも頼むわ」 「承知しました。いってらっしゃいませー」 そうしてホテルから出た御幸は、適当にタクシーを拾って目的地に向かう。十数分後、目的地の個室焼き肉屋に辿りついた。店員に案内されるがまま部屋に通されると、そこには先客が既にビールを呷っているところだった。 「おう、早いな御幸」 そこにいたのは山田小太郎だ。有能マネージャーを派遣した本人にして、血縁者。今日も変わらずニコニコと、人の良い笑みを浮かべている。こういう顔を見ると、彼女に似ているような、そうでないような、だ。 「……コタさん、明日も試合なんでほどほどにしてくださいよ」 「わぁーってるって。無理はさせねえよ」 そう言いながら座敷に手招く男に溜息交じりで御幸も座席に上がる。今日は遠征初日。明日から試合もあるというのに、移動早々飲み歩くなんて。それでも、尊敬する大先輩の──何よりも恩のある山田小太郎の呼び出しに応じない選択肢はない。大人しく参上し、適当にビールを頼んで座す。 「何食う?」 「とりあえず冷奴とサラダを」 「焼き肉屋来てとりあえず頼むメニューがそれかよ」 「そりゃまあ、脂肪吸収を抑えないと」 「カーッ、真面目だねェ」 「コタさんも気を付けないと、幸せ太りえぐいっスよ」 皮肉には皮肉を。結婚してから明らかに肥えてきた男の腹を見ながらそう告げれば、山田は簡単に言葉を詰まらせた。ロースだハラミだホルモンだと届く中、黙々とサラダや冷奴をかき込む御幸に、山田はハアと呆れたように溜息を零した。 「お前も相変わらずだなあ」 「おかげさまで」 「オイコラ褒めてねーぞ。……まあ、いいことなんだろうけどさ」 ジュウジュウとレバーだか黒ハツだかを焼きながら、山田は胸を撫で下ろす。その一言にピタリと箸を止める。彼が御幸を呼び出したのは、そういうことだったらしい。 「順調か?」 「そうっすね。ハチ公様様です」 「よかったよかった。俺も安心して隠居の準備できるぜ」 「コーチとか声掛かってないんですか?」 「うーん、今はいいや。しばらくは家族と過ごしてーし」 トングを手に、白米に肉を盛りつける男の表情はどこまでも穏やかだ。かつては御幸と同じように不眠に苦しんだとは思えないほどに。 「……あいつから聞きました。コタさんも不眠症だったんですね」 「おうよ。お前のせいで戦力外通告来るんじゃないかって、震え上がってたんだぜ。これでも、な」 男は何でもないようにケロリと告げる。不眠症に陥るほど悩み抜いただろうに、このように開き直れるその器は純粋に尊敬する。五年以上前の話とはいえ、まだ傷は癒えていないはずだ──何故なら御幸はこの五年、正捕手の座を誰にも明け渡していないのだから。 「恨んでくれても、よかったんですよ」 「ハチがいなきゃそうしてただろうな」 「そこは包み隠さず言うんすね」 「誰に恨まれても気にしねえくせにー」 「気にしてたらこの商売やってけないっすから」 「そりゃそーか。そんで今や、そんなお前がハチの世話になってんだから、世の中どうなるか分かったもんじゃねえな」 「……ですね」 誰に恨まれても、気にしなかった。それこそ、シニア時代からずっと。このポジションを奪って、恨まれなかったことがないほどだ。そんなの御幸にとっては日常茶飯事だ。だからこそ、この程度で不眠に苛まれる自分が嫌で仕方がなかった。恥辱とさえ思っていた。そんな汚点を隠すように他人を拒絶して、自分を守るように殻に籠り、長い長い夜に囚われていた。 それが今や、有能マネージャーに支えられることに、何の違和感も抵抗も無くなってきた。仕事を任せ、常に彼女が傍に居るのが当たり前、おやすみからおはようまで、あの声がなければ満足に眠ることもできないのだから、些細な変化は随分と大きくなってきたものだと思う。 「そんでよぉ、御幸。一個聞きたいことがあったんだけどさ」 「なんすか?」 そう返しながら、ようやく網の上の肉を少しずつ取り分け始めた御幸。そんな御幸を半ば睨むような目付きで、男は神妙な顔でこう言った。 「──お前まさか、ハチに気があるんじゃねえだろうな」 かちん、とトングが空を切った。網から顔を上げると、馬鹿みたいに真剣な顔をした山田の顔がある。まるで娘をやらんと守る父親のような、鬼気とした表情である。 「……なワケないでしょ」 どいつもこいつも、と言いかけたワードをグッと飲み込む。山田には与り知らぬ話である。確かに気を許したし、色々と仕事を任せたりもした。それがどうして恋愛感情云々に繋がるのか。発想の飛躍にも程があると呆れ顔の御幸だが、山田の表情は険しい。先日見た、真田のようだった。 「ほんとか?」 「……コタさん、誰の何のせいで俺がこうなったと思ってるんすか」 「失恋の傷を癒すには新しい恋っていうだろ?」 じろりと睨みつけてくる男は、『人たらし』の名を欲しいままにした人格者とは思えないほど険しい顔をしている。真田に凄まれるのは、百歩譲って理解できる。可愛がっている、ただの後輩と言ってはいたが、無自覚で牽制してきた可能性があるからだ。だが、山田の場合は別だ。いくら可愛がっていても、彼にとって『ハチ公』は従兄妹だ。おまけに彼は既婚者である。だから釘を刺される理由が分からず、御幸は肩を竦める。 「……逆に聞きますけど、百歩譲って俺があいつのことどうこう思ってたら、どうなるんすか?」 「えっ──い、いや……別に……」 深い意味もなく逆に訊ね返せば、山田は突如しどろもどろになる。目を泳がせ、顔を隠すようにさささっと白米をかき込み始めた。明らかに不審な動きに、御幸はドリンクメニューにさっと手を伸ばす。この状況で隠し事ができるとは、思わないことだ。 ──で、一時間後。 「だからさぁああ……俺ぁハチに幸せになってほしいんだよぉぉお……」 「はいはい」 「あいつさあ……若いころからずっと、ずっと俺の世話ばっかでさあぁあ……」 「なるほどなるほど」 「まだ十代の小娘がさぁああ……親戚のおっさんの世話ばっかで……遊んだりぃいい恋愛したりぃいい……すればよかったのにさぁあ……お、おれ、あいつに、あまえっぱなしでぇえ……!!」 顔を真っ赤にしてテーブルに突っ伏す山田。相変わらず酒は好きだがめっぽう弱いようで、御幸の勧めるがままにビールを数杯呷っただけでへべれけと化した。そんな彼に先ほど言いよどんだ言葉の続きを促すよう突けば、あっさりと白状した。 「し──しあわせ、に……なってほしいだけ、だよぉお……昔っからかわいがって……きたんだ……あいつとはよく、きゃっちぼーるして……」 「はいはいなるほど」 「やきゅうせんしゅ、なんか──くそ、だろ……よめさんにくろう、かけまくる──あいつはもっと、ちゃんとした、いいおとこと、いっしょに……!」 「あー、はいはい、そういうことですか」 「あいつは、さあ……すごいんだ……おれなんかの、ために……ずっと、いろんなべんきょーして──て……ぜーりしも……えーよーしも……おれの、ために……」 半分夢の世界に片足を突っ込みながら、そんなことをぐちぐち言いながら管を巻く大先輩。なるほど、嫌に食って掛かると思ったらそういうことか。自分が選手だからこそ、プロスポーツ選手の嫌なところは痛いほど分かる。そりゃあ全員が全員とは言わないが、ゴシップ誌を騒がせるほどに遊ぶ選手だって少なくはない。故に、可愛い従兄妹が選手に食われるのは我慢ならないのだろう。自分だって大物女優と結婚したのにどの口が、と思わないではないが。 完全に快眠モードになった山田を尻目に火を止め、店員を呼びつけてお会計にする。先輩に奢るのは気が引けるが──基本的にこの業界は上が下に奢るのが常識である──、ほぼ意識のない人間の財布からカードは出せない。仕方なく自腹を切って待つこと数分、店員に連れられて見慣れた顔が現れた。件の敏腕マネージャーである。惨状を見るや否や、彼女はウワッと顔を引き攣らせる。 「ちょ、コタさんに酒飲ませたんすか!?」 「この人明日はベンチ外だろ」 「御幸さんはスタメンでしょうが!」 「俺は一杯しか飲んでねえし」 「はいはい左様で!」 二人で巨体を肩で担ぎながら、店の駐車場まで向かう。山田は完全に出来上がっており、ほぼ自分の足で歩いていなかった。どうにか後部座席に押し込む頃には、二人して汗だくだった。荷物の関係で後ろに山田を乗せてシートベルトで固定してから、御幸は助手席に乗り込む。 「なんか新鮮スね、御幸さんが横にいるの」 「──、そーだな」 にこにこと楽しそうに笑いながら、運転席に座るマネージャーがアクセルをそっと踏み込んだ。心地よさそうに眠る山田を起こさないよう、丁寧な運転を心がけているようだ。 「珍しいっすね、明日もあるのに二人して飲みに行くなんて」 「コタさん、俺の状況聞きたかったみたいでさ」 「ああ、なるほど。いい経過報告ができて何よりです」 穏やかな微笑みを前に、まさかお前との仲を疑われていた、とは言えない。ぐっと口を噤む御幸に、彼女も会話の終了を察したのか口を閉じ、一瞬奇妙な沈黙が流れる。背後から山田のふごふごという寝息が聞こえてくるだけ。隣の敏腕マネージャーは澄ました顔で運転するだけ。 『──お前まさか、ハチに気があるんじゃねえだろうな』 そんな戯言が耳元で蘇ってきて、思わず背筋がぴんと伸びる。馬鹿馬鹿しい。どいつもこいつも、恋愛恋愛と。彼女とはそういう関係じゃない。野球選手と、それを支える有能なマネージャー。それだけだ。第一、御幸はこの手合いで心身を蝕むほどの傷を負ったのだ。たかが二年──けれど、されど二年前。未だおぞましい女の呪怨に悩まされる御幸が、たかだかその程度で重い腰を上げられるわけがないというのに。 前の信号が赤になり、車がそっと止まる。ちらり、と薄暗い車内でもはっきりと分かる大きな左目が、御幸に向けられた。 「な、なんすか。私の顔、なんかついてます……?」 「……別に、必要最低限のもんはついてるぜ」 「不必要なもんがついてたらホラーっスよ!!」 「あー、そういう映画、昔、高校の先輩に見せつけられたなー」 「いーっっ!! やめてくださいそういうの! 夢に出るタイプなんで!!」 「へー、良いこと聞いたわ」 「だあぁあ──っ!! 言わなきゃよかった!! 言わなきゃよかったぁあ!!」 ハンドルを握り締める彼女は、何も言ってないのにもう涙目だった。からかいがちに高校の先輩に無理矢理見せられたホラーの冒頭をそらんじれば、キャーではなくギャアと野太い悲鳴を上げる。その声だけで大笑いする御幸に、彼女は目を三角にしてぎゃんぎゃんと噛みついてきた。その顔は怒りを浮かべてはいるものの、ただはしゃいでいるだけにも見える。 幸せを願われるのは、きっと彼女の人徳のなす技だろう。それでも、願われるほど不幸には見えないが、と、御幸は滲む涙を拭いながら思ったのだった。 |