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 彼女が薬師高校出身と分かってしばらく、御幸はたびたび『真田』の名前を聞くようになった。それは仕事中にかかってくる電話だったり──もっとも、真田にしてみれば業務後なのだろうが──車内や眠る前の雑談だったり、とにかくその名は御幸にとっても馴染み深いものとなった。

「いやだから忙しいから無理なんですって!! というか、彼氏とかもう大丈夫なんですって!! 私はもう仕事一筋に生きて──あれおかしいな私の話聞いてないっスよね!? だからあっ、ちょっとお!?」

 今日もキッチンから彼女の馬鹿でかい話声が聞こえてくる。電話の相手は今日も真田だ。『幸せになってほしい』が、彼にとっては『彼氏ができること』だと信じて疑わないらしく、たびたび男を紹介してやるだの合コンをセッティングしてやるだのと連絡が来る様子。連絡が来るたびにマネージャーは突っぱねているようだが、真田は聞く耳を持たず、何度となく連絡を入れてくる。良くも悪くも彼女も体育会系の縦社会に生きる者、先輩のお節介をどういなすかで頭を抱えていた。

「私ってそんな『恋人いないとダメ』みたいな人間に見えます?」

「いやあ……わりと一人でも生きていけそーだけど」

 真田との通話が終わった後、彼女が作った冷麺を啜りながらそんな問いかけに御幸は静かに返す。此処毎日は本当にそればっかりだ、流石の『ハチ公』も辟易した様子だ。

「先輩そんな恋愛脳じゃないと思うですよね……なのになんで私には男だ彼氏だって言ってくるんだろ……いらないよお……てか絶対上手くいかないのに……」

「上手くいかないって?」

「いっつも同じ理由で破局するんです」

 彼女は傷ついた様子もなく、味付け卵を頬張る。どうして恋人とうまくいかないのか、その一部始終を見ていた御幸は何の気なしに話を続けた。

「仕事のせい?」

「そんな感じです。優先順位一位は選手なので」

「まあ、俺らだいぶ変則的なスケジュールだもんな」

「ええ。なもんで、いつも『俺のことほんとに好きか分からない』とか、『一緒に居れないのに付き合う意味がない』だとか、そんな理由でサヨナラするんです。……先輩の紹介だけあって、みんな良い人だったんですけどねぇ」

 確かに、揉めた様子なく別れられたのは彼女の人柄もあるのだろうが、一番は相手の器に依るものだろう。恨み辛みなくこれまで築いた交際関係をリセットする──言うは易し、である。ほーん、と他人事のように聞きながら、ほんの少しだけ羨ましく思う。

「まあ、恋人が入院してる最中にコタさんの奥様の要望で料理教えてた時は、流石に『仕事ですから』と言い訳し辛かったですけどね……」

「うわー」

「でも、私にとって雇用主の命令は絶対です。私情を挟む余地はありませ。それを理解されないのであれば、恋人がいなくても、幸せになれなくても構わないんですよ」

 真っ直ぐな瞳は、本心であることが分かる。分かるからこそ、御幸も強く言い出せないのだ。この愚直なまでの献身を危ういと、真田はきっと考えているのだろう。だからあれこれと世話を焼きたがる。傍に居れないのなら、せめて信用に足る人間を傍に置いてやりたい──そんな考えなのだろうと、御幸は読んでいる。

「それに、セルフマネジメントはできているつもりです。先輩もコタさんも心配しすぎなんですよ。自分に余裕がなきゃ、人のサポートなんかできるわけないのに」

「……と、言うと?」

「持論ですがね、人は余剰分しか他人に与えることができないと思うんです。優しさも、自分の生活に余裕があるから分け与えられる。ゆとりもなく優しさを切り分けて歩いている人がいるとしたら、それは『献身』ではなく『犠牲』です」

 なるほど、分かるような気がする。自分の余裕があってこそ、他人に気を配れる。御幸にとってこの数年はその『余裕』は欠片もなかった。自分のことで手一杯で、周りに目を向ける暇もない。けれど、ひとたび自分の抱えた問題が解消する方向に向かい、心身ともに余裕が出てくれば、生活が一変した。何より、他人に──目の前で湯呑を呷る女に、自分のリソースを渡せるようになったのだ。それを『優しさ』と呼ぶのか『信頼』と呼ぶのかは定かではないにしろ、彼女を懐に入れるようになったし、仕事も色々任せるようになった。こんあ取るに足らない会話を続けるのもまた、『余裕』があってこそだと思う。

「なので、私のことは今後もこき使って頂ければ」

「安心しろ、言われるまでもねーから」

「それは何より」

 とはいえ、彼女の私生活がどうだろうと御幸には関係のないことだ。本人が健康には気を付けていると言うのなら、余裕がなければ分け与えられないと言うのなら、御幸は気に留めない。そうして二人してカラになった食器を片しながら立ち上がった時、マネージャーは「そういえば」と呟いた。

「御幸さん、この手の話は超絶地雷だと思ってましたけど、案外イケるんですね」

「……あー、まあ」

「安心しました。おかげで雑談のネタが増えます」

 きびきびと食器をシンクに運びながら、彼女はそんなことを言う。そこまで気を遣ってたのかと驚く半面、確かに、と納得する自分もいた。一応恋愛事で揉め、痛い目に遭ったのだからもっと拒否反応があるのかと思ったら、彼女の言う通りそうでもないらしい。その理由を考えて、御幸はああと頷いた。

「自分のことじゃなきゃ、まあ別に?」

「なるほど、それは何より。恋愛にまつわる雑談ネタは山ほどありますので、乞うご期待」

「え、なに。お前そんな恋愛体質なの?」

「私じゃないですよっ!! なんでそんな恥晒さないといけないんスか!?」

「いやー、お前の恋愛話気になるわー」

「勘弁してくださいよ、大して面白くもないのにっ!!」

「じゃあ雇用主命令ってことで」

「どんだけ食い付くんですか! 女子高生かよお!!」

 キッチンの方から声が飛んでくる。顔を見なくても分かる、目玉は飛び出しそうなぐらい見開いて、ぎゃんぎゃん吠えるその表情が。テレビのリモコンとタブレットを手に、食器たちが水洗いされる音を聞きながら、御幸はくつりと笑みを漏らしてお勤めを開始するのだった。



***



 八月になっても、そんな賑やかな生活に変化はなかった。相変わらず御幸はマネージャーに生活の為の作業を八割ほど任せていたし、夜から朝までの下らない雑談も行っていたし、そんな彼女に茶々を入れるような真田の連絡も、特に変わりはない。強いて言えば、あれだけ御幸を悩ませてた睡眠時間は徐々に伸びていき、今や五時間ほど眠れるようになっていた。まだまだ短い方ではあるが、一時期に比べれば信じがたいほどの回復である。

「良いペースです、出来すぎなぐらいに」

「そーだな。この調子なら、シーズン終わる頃には七時間ぐらいは寝れるようになるかもな」

「普段ってどれくらい寝てたんですか?」

「ん−、六時間から七時間ぐらい」

「結構短いんですね」

「高校の頃の名残だなー。昔は五時起きで十一時過ぎに就寝だったし」

「そんな若い頃と一緒にされても」

「おーおー、口が減らねえなコイツ!」

「アダダダダダッ!!」

 慣れるどころか慇懃無礼さを隠さなくなってきた可愛いマネージャーには、低い位置にある頭を鷲掴みにしてアイアンクローをお見舞いする。ぎゃあぎゃあ騒ぎながら二人して控え室へ向かう。今日は球団のSNSだか動画投稿サイトの動画だかを撮影する日だ。外部取材よりは楽とはいえ、何年経ってもこの手の仕事には不慣れだ。気も重くなるものだ。

 ──それでも。

「それじゃ、私は上で別件対応してるんで、終わったら呼んでください」

「了解。……あ、今日のメシなに?」

「この間リクエスト頂いてた、ハンバーグ! おまけに、ホワイトソース掛けです!」

「お、いーね」

 彼女の腕によりをかけた夕食を思うだけで沈んだ気持ちが浮き上がるのだから、まだまだ若い証拠だと思った。まあ、口には出せなかったが。

 その後、広報との打ち合わせ後に数分ほどの撮影が入る。話題はもっぱら、調子を取り戻した秘訣についてだった。煙草も酒も嗜まない御幸の健康第一生活の裏側は、一時はコーナー化したほどの人気を博していたのだとか。

「食事以外にも何か変わったことってありますか?」

「……そうすね。睡眠方法を、少し」

「ほほう? 御幸選手の快眠の秘訣とは、ずばり?」

 テロップで差し替えられるであろう質問を受け、思わず笑みが零れた。まさか若い女の雑談を夜中永遠と聞いている、なんて言ったら首脳陣はどんな顔するだろうか。正直に告げるほど無能ではない御幸は、適当にでっち上げる。

「ラジオですね。今まで無音で寝る主義だったんすけど、意外と人の声や雑音がいい感じに眠くなるんですよ。無音派の方にもおすすめです」

「なるほど! ちなみに、おすすめのラジオは?」

「いや、特にはないですね。聞いてるというか、流してるだけなんで」

「こだわりのない、御幸選手らしい回答ですね!」

「いやあ、ハハ……」

 なお、実情はこだわりまくりである。試しにラジオやヒーリングミュージックなどを試してはみたが、全く効果はなかった。なのでチャンネルは常に『ハチ公ラジオ』に合わせたまま、二か月ほど経過した。勿論、そんなことは口が裂けても言えないが。

「じゃあ、今日はこんなところで」

「ああ、分かりました」

「お忙しい中、ありがとうございました!」

「はい、お疲れ様です」

 そうしてスタッフに一礼して、御幸は部屋から出る。いい時間だし、すぐに帰ってハンバーグを堪能しようとマネージャーに電話をかけるも、通話中と音声が返ってくる。誰と通話しているかなど聞くまでもない。懲りない──ここまでくるとしつこい男だと、御幸はマネージャーの元に向かう。

「──ハ? 私とナーダ先輩でオショクジカイ? なんで?」

 すると、廊下から素っ頓狂な声がしたのでそちらへ向かう。案の定、真田と電話しているのであろうマネージャーの後姿が見える。

「たまにはって……何かあったんスか? そしたら行きますけど──いや、何となくって……つーか先輩カノジョいま──し、失礼しましたッ! いやあ、先輩ほどイケメンが──ちがっ、違います! 嫌味じゃないですって!!」

 マネージャーの声しか聞こえないが、相変わらずズケズケと失礼かましているようだ。彼女のあれは親しい相手にのみ見せる顔なのだろう。山田だけではなく、真田もまたその対象らしい。まあ、未だに交流のある高校時代の部活仲間、親しくて当然なのだろうが……。

「えー、次のオフなんか秋終わりますけど──はいはい分かりました、ナーダ先輩の奢りなら──え、マジすか先輩太っ腹ァ! スケジュール確認しますねっ!!」

 めんどくさそうな表情を一転させ、スマホを肩で押さえながら大慌てでタブレットに指を走らせている。まさにエサに釣られるとはこのことか。先ほどまでの渋り様はどこへ行ったのだ。何だか面白くなく、御幸はそろりとその背後に忍び寄る。

「ええっと……あ、来週の月曜なら何とかなるかもです! 場所どこにします? 前言ってた焼き鳥屋の──」

「──悪い、真田」

 特に、何も考えていなかった。御幸は背後からスマホを握るその細腕を掴むや否や、自分の口元へと引き寄せた。


「こいつ、しばらく忙しくなるから」


 そう言って、通話終了ボタンをタップする。『ナーダ先輩』と表示される画面から目を逸らすと、口をあんぐり開けたまま固まるマネージャーのアホ面が見えた。細腕から手を離し、御幸は大袈裟に溜息を零した。

「お前なー、餌くれる奴なら誰にでも尻尾振るんじゃねえよ」

「しっ──失礼な!! そこまで意地汚くないです!!」

「奢りって分かって手のひら返した口でよく言うぜ」

「人の金で食う肉ほど美味いものはないんで」

「肉ならいくらでも奢ってやるっつの」

「……え、や、な──なんで?」

 引き笑いを浮かべる、女の目に灯る感情は困惑だった。思わず敬語も取れるほど、真っ当な疑問に御幸は一瞬言葉が詰まった。けれどすぐに、その問いの回答が見つかった。

「そりゃ、お前を労わるため?」

「い、労わるって、そんな──なんで急に……」

「いやー、来週から忙しくなりそうでさ」

「え、待ってください、なに、え!? 何か変な仕事貰ってきたんスか!?」

「それは……まあ、近々分かると思うぜ」

「イヤーッ!! また広報が変な思いつきでなんか始めたんでしょ!! 何させるつもりっスか!! そしてそのために私は何をさせられるんですかー!!」

 ショック受けたり怒ったり、彼女は忙しない。駐車場に歩き出す御幸に、「信じられない」だの「せめて事前に相談を」だの、ぐちぐちと文句を投げつけながら女は追いかけてくる。何も答えないままスタスタと歩けば、ぎゃあぎゃあ騒ぎながら彼女は小走りで追いかけてくる。

 その足音に、その不平不満に、意味もなく笑みが込み上げる自分がいた。

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