9

 はっと息を呑んだ瞬間、意識が覚醒した。がばりと体を起こし、アイマスクを剥ぎ取る。カーテンの隙間から差す光は明るい。記憶が、ない。まるで夢の中にいるように、意識が覚束ない。なのに、眠気が消えている。身体が軽い。そんな感覚を、一体いつぶりに味わっただろう。

『……ああ、おはようございます』

 すると枕元から、そんな眠たげな声が聞こえてくる。素早く眼鏡をかけて熱を持ったスマホを手にする。左上に表示される時刻は、六時半を指し示している。

『大体、三時間半程度、でしょうか。時間として大きな変化はないですね。ただ、この三週間一度も見れなかったノンレム睡眠状態が観測できています。小さな一歩、大きな前進と思いたいですね』

 欠伸を噛み殺したようなのんびりとした口ぶりで、電話越しのマネージャーが語る。まさか、でもそんな。だが、頭は驚くほどスッキリしてて、目は輝くほどに冴えている。その身体が、答えそのものだった。

「俺──寝てたのか、三時間以上……?」

『はい。三時頃からうとうとと』

「お前、何したんだ──俺は、何も……」

『何もしてない、そうですね。私だってそうですよ。ただあなたが眠るまで永遠と喋ってました。あなたの興味なさそうな、どーでもいい話を、ずっと』

「……それだけ、で?」

 信じられない。たったそれだけで、夜中何度も目覚める羽目になった浅い眠りが、一切無くなったというのか。どんなカラクリでそんな芸当ができるというのか見当もつかない。目を白黒させる御幸に、電話越しのマネージャーがくすりと微笑む声がした。

『理由は分かりません。ホワイトノイズ──というほどホワイトさもないですしね。コタさんは『授業中、興味のない先生の話は眠くなる現象』とか呼んでましたが』

「そんな……ことで……?」

『曰く、私のあの話し方は非常に眠くなるそうです。声のトーンが同じで、淡々と喋ってて、しかも内容のない話。……これでコタさんが寝たのは、偶然の産物だったんですがね』

 彼女が言うには、その昔、不眠に悩まされた山田のためにあれこれ奔走したが、解決の糸口は見えなかった。そこで眠れぬ山田に付き合って夜通し語り明かしていたという。とはいえ、山田はともかく彼女は特に不眠症でも何でもない。眠気を押さえながら語る話に面白みもなく、声の抑揚は徐々に失っていき、当然夜中なので控えめな声量になる。そうして出来上がったあの事務的な喋りを聞いているうちに、いつの間にか山田は眠りを誘われたのだという。

『正直、科学的根拠がないんですよ。人間の脳は理解できない・つまらないものを延々と聞いていられない──つまり集中力が欠けるという記述も見かけましたが、やはり裏付けとなるようなデータがあるわけでもなく。だからあまり試したくなかったんです。再現性があるとは、とても思えなかったので』

「……でも、実際効果があった」

『ええ。小さな一歩ですが、本当に良かった』

 眠たげな声が、ゆっくりと耳に流れ込んでくる。確かに、彼女の言うように変化はまだ小さい。それでも、この一年で初めて夢も見ずに眠ることとができたのだ。あの連中の影も、気配も、一切感じなかった。ならば──。

「──治るのか、俺は」

『可能性は十分かと』

「また、眠れるようになるのか?」

『このまま続けて、身体に思い出させましょう。この家は安全なのだと、眠るにふさわしい場所なのだと。……まだまだ時間はかかりますが、改善の兆しにはなるかと』

 その言葉が──その一言が、どれほど御幸にとって待ち望んでいたか。長い夜、明けることない暗い空を一人で乗り越える都度、身体が朽ちてボロボロになっていくようだった。もうあんな連中とは手を切ったはずなのに、ふと気付けば枕元に立っているかのような恐怖。いっそ幽霊程度であればよかったのに、と思う。どう考えたって、生きた人間の方が厄介なのだから。

 自分でも、理由は分からない。彼女たちが言うようにあの話し方に効果があったのか、それともその声が『一人じゃない』と教えてくれたからか。御幸の憂いを払うように、あの声は一晩中傍に在った。それが、よかったのだろうか。音楽やラジオでは意味がない。真に御幸を案じ、傍にいてくれる生きた人間が──味方が、すぐ傍にいるという事実に、安堵できたのか。

 それぐらい、このマネージャーを信頼していたという事実に、御幸は純粋に驚いた。

『……すみません、ちょっと眠いので仮眠させてください』

「あ──ああ」

『今日もお昼過ぎにお迎えに上がります。では……』

 よほど眠かったのか、彼女はそれっきりすぐに通話を切った。おかげで部屋には、何時間かぶりの静寂が広がる。だが、恐怖はない、憂いもだ。睡眠時間はさほど変化していないが、明らかに質の違う眠りだった。これが『兆し』でなくなんだと言うのか。

「──っし!!」

 拳に力が入る。長い夜に、ようやく光が見えた。それだけで、叫び出してしまいそうだった。これほどの歓喜を味わったのは、一体いつぶりだろうか。人がここにいなくてよかった。衝動のまま、抱き着いてしまっていたかもしれない。それほどまでの感謝と、歓喜が体の内側から湧き上がってくる。『兆し』に導いてくれた山田とマネージャーの顔を思うだけで、じわりと視界が滲むほどだった。

 だが、安心するにはまだ早い。彼女は言っていた。科学的根拠もなければ、再現性もないのだと。彼女の声の効力は認めるが、長続きする保証もない。大体、この先ずっと彼女の声を子守歌にするわけにはいかない。どこかで独り立ちしなければならなくなる。それでも──ああ、それでも! 夢を見なかった、影を感じなかった、気付けば夜が明けていた。この瞬間を、御幸は一年も待ち望んだのだ。

 このチャンス、必ず物にする──御幸は覚悟を新たに立ち上がったのだった。



***



 それから一週間ほど自宅でマネージャーの子守歌と共に夜を越えた。ものの見事に彼女が話続けている間は、御幸は目を覚まさなかった。決して長い時間眠り続けているわけではないにしろ、ノンレム睡眠が取れるだけで身体の調子が大きく変化した。常に澱んでいた思考はクリアになり、霞んでいた視界は輝きを取り戻した。加えて、元々睡眠以外の体調管理は常日頃から気を遣っていた御幸だ。その些細で大きな変化は──すぐに、結果として現れた。

「──お」

 いい当たりだった。手ごたえもあった。ただ、ここまで飛ばす力が自分に眠っていたことを、御幸はようやく思い出したような、そんな感覚だった。振り抜いたバットは、高く高く、伸びに伸びた白球を容易くスタンド席に運んでいった。

『入った──っ!! 逆転スリーランホ──ムランっ!! 御幸、今シーズン第一号だ──ッ!!』

 客席からの歓声と、実況・解説者の叫びが他人事のように響く。どこか不思議な思いで御幸はゆっくりと球場を駆ける。ベンチも大盛り上がりで、誰もが両手を挙げてハイタッチを求めている。のろのろとハイタッチして、御幸はぼんやりとした表情でベンチに腰を下ろす。

「なんだよ御幸、急に調子上げやがって!」

「やっぱあれスか、ハチか! ハチメシのおかげなんスか!」

「お前っ、心配かけてんじゃねえよ〜〜〜!!」

 チームメイトたちが口々に御幸を迎えてくれる。そんな光景でさえ、奇妙なものに見えた。そうか、ホームラン。今季一号。一体いつぶりだったか、考えるのも気が遠くなる。その御幸が、多少甘く入ったとはいえ、あの変化球をスタンドまで運べるなんて。それが誰の──何のおかげかなんて、言うまでもなく。

 仲間たちの冷やかしやら声援を受け流し、無言で水を飲み干す。冷たい水が体内に流し込まれた反動のように、興奮が今更じわりじわりと湧き上がってきた。こんな気分も、随分久々だ。打球を捉えた時の喜び、これ以上ないぐらいの当たり、手応え。震えが止まらなくなりそうだ。

「──上手くいったみたいだな」

 そんな御幸に、そっと話しかける男が一人。いつの間にかチームメイトたちは、御幸に続けとグラウンドに注目している。そんな中で声をかけてきた山田は、我がことのように嬉しそうに笑っている。

「まだ本調子じゃなさそうだけど、まあ上向きぐらいにはなったか」

「……ええ、おかげさまで」

「お礼はハチに言えよ」

 あくまで恩を着せるつもりはないらしく、山田はさり気なくそう告げる。かつては御幸のせいで苦しんだというのに、迷いなく手を差し伸べられるその器の広さに圧倒される。まだまだこの人には敵わない。もっとたくさん教わりたいことがあったのに、と色々言葉が過る。けれど、全て理解しているとばかりに笑い飛ばす男の笑顔を前にすると、どうしても何も言えなくなってしまう。

「あ、言っとくけど、別にお前だけのためじゃねーからな。御幸が腑抜けたままだったら、いつまで経っても隠居できねえだろ? お前にゃ、球団背負ってもらわねえと俺が困る、ってわけ!」

 こっそりと耳打ちして、ガハハと笑う山田。そんなことを言って、結局やることは人助けなのだ。安心して引退したいのは、彼が見守ってきた投手たちのためであり、彼が人生を捧げてきたチームを守るためでもある。全部全部、誰かのためではないか。底無しのお人好し。一生勝てる気がしない。だからこそ御幸はお礼やら何やらを堪え、さっと一礼した。

「必ず、自分のプレーを取り戻します」

「おおっ、よく言った。それでこそ、御幸一也だ!」

 ばしん、と力強く背中を叩かれる。こうして自分を見守ってくれる人がいる。血の繋がりもなく、寧ろ同じポジションを奪い合うライバル同士。なのに、彼は自分の可愛がっているマネージャーを差し出してまで支えてくれる。世界中が山田のようなお人好しで溢れてくれればいいのに、御幸はそんなバカげた妄想をした。

「──あ、それと、ハチの『雑談』はほどほどにしてやれよ」

「……?」

 急にそんなことを言い出す山田に、御幸は素直に首を傾げた。現状、御幸はそれがなければろくに眠れない。遠征先ではどうしようかと互いに額を突き合わせるような状況だ。そりゃあいつかは一人で眠れるよう訓練する必要があるが、向こうしばらくは『雑談』をほどほどにするつもりはなかった。

 けれど、山田から告げられた事実に、流石の御幸も絶句した。



***



 その日も、マネージャーの運転で自宅へ向かう。県を跨ぐと帰宅まで時間がかかるから面倒だ。運転してもらっている身で言えたセリフではないが。いつかこの時間も睡眠に充てられるようになれば、と思いながら、いつものように夕食と朝食メニューについて語る。それが終われば、彼女はいつも口を閉ざす。無駄なお喋りをしないのはこの付き人の美点である。御幸自身喋る方でもないし、普段であれば車にはいつもエンジン音だけが響くのだが。

「……今日のこと、聞かねえんだな」

「え?」

 逆転スリーランホームラン、明らかな『変化』が試合の結果に表れた。だというのに、彼女は一切それに触れない。そこから話を広げようと思っていたのに、鼓舞するでも祝うでもなく、話題にすらしないとは思わなかった。なのに当のマネージャーはといえば、運転しながら不思議そうな顔で首を傾げている。何の話か、まるで理解できないとばかりだ。だから、と御幸は妙な気恥ずかしさを押さえて続ける。

「ホームランのことだよ。……調子、戻ってきたみたいだから」

「え? ああ、そっか、そうですよね……!」

「そうですよね、って……」

「すみません、球場離れたらなるべく仕事の話はしないでくれ、ってコタさんによく言われていたので、あまり試合の結果とか話したことなくて……」

 思いもよらぬ答えに、御幸は一瞬言葉を失った。その言いつけを御幸相手に守る彼女もそうだが、山田のその考え方が意外だった。

「コタさん、そういうの気にするタイプなのか。や、確かにオンオフハッキリする人だとは思ってたけど……」

「そうですね、休む時は休む! って人なので、勝った試合でも話題に出すと嫌がるんですよ。だから車内ではしょっちゅうゲームやドラマの話してました」

「へえ──って、そういう話がしたいんじゃなくて……!」

「?」

 信号が赤になり、車がぴたりと止まる。ミラー越しの彼女の顔は、やはり状況が飲み込めないとばかりの表情だ。

「調子、戻ったの……お前のおかげで、だから──」

「いえいえ。お礼なら、八時間以上眠れるようになってから言ってくださいませ」

 まだ平均睡眠時間の半分以下ですよ、と現実的な声が御幸を諫める。それは分かっている。現実として、御幸の睡眠時間は四時間足らず。まだまだ健康的な生活とは言い難い。だけど。

「……けど、そんな生活続けていいのかよ」

「んん?」

「コタさんに聞いたぞ。お前、俺が起きるまで眠らないって」

 確かに、本人も言っていた。『簡単ではない』と。確かに御幸が寝入るまでずっと喋っている必要があるのだから、それなりに大変なのだろうとは思っていた。だからマスクやらのど飴やら缶コーヒーやらを買い込んでいたのだ。だが、彼女の子守歌は御幸が眠って終わりではなかった。御幸が寝ている時間はずっと起きているはずだと、山田が苦々しげに語ったのだ。

『心配性だからさ、あいつ。夜中に突如目覚めないか、見張っときたいんだと。選手が起きてるのに、自分だけぐうぐう寝るわけにはいかないって』

『だ、だからって、何時間あると……!!』

『だろ? 確かに、おかげで俺は治ったさ。だけど、それと引き換えにあいつは今にもぶっ倒れそうなぐらい憔悴しちまった。今もそうかは分かんねえ。だけど、俺の時はそうだったから、今も無茶してんじゃないかって思ってよー』

 あいつが倒れない程度に使ってやれよ、とマネージャーすら気遣う男は本当に立派なものだ。山田ほど可愛がっているわけではないにしろ、自分の睡眠時間と引き換えに倒れて良いと思うほど無下にはしていない。涼しい顔してある日突然──なんてことになったら大変だ。自分のためにも、そして彼女のためにもそんな生活は認められない。そんな思いで告げるも、マネージャーは今まで見たことないほど眉を顰めていた。だがすぐに大きな溜息を吐いた。

「ご安心を。確かに夜中はずっと起きていますが、朝になったら眠っています。試合中なんかも仮眠に充てていますし、あの頃ほど無茶はしてませんよ」

「……本当か?」

「コタさんの頃眠れなかったのは、あの人が家事を一切しなかったからです。料理も洗濯も税金対策も、果ては奥様とのデートにまで付き合ってたんですよ、試合中しか寝る暇なくて……」

 まあそれが本来の仕事なんですが。そうやって肩を竦めて、再び車が発進する。なるほど、先ほどの顔は『お前のせいだろうが』という山田への恨みつらみが表に出ただけだったのか。本来はそれが仕事だろうに、余分な仕事を請け負ったせいで倒れてしまった、という訳か。

「……だとしても、俺が起きるまで付き合うことねーだろ」

「かもしれませんね。そこはただの自己満足ですので、お気になさらず」

「自己満足って……」

「見届けたいんです。今日もちゃんと、眠ってくれているって」

 それは、マネージャーとしての矜持なのか。はたまた、山田からの命令を忠実にこなしているのか。それともただの、お節介なのか。理由は定かではない。だが、どこか晴れやかな表情でそれを語る女の仕事を奪う気には、どうしてもなれなかった。

「体調に問題はないんだな」

「はい。おかげさまで、ゆっくり休ませてもらってます」

「……なら、いい」

 今後も夜中に目覚めないとも限らない。そこまで言うのなら、願ってもない話である。ただ、傍にいないだけでおはようからおやすみまで見守られるというのは──御幸の人生において、未だ記憶のない。御幸が眠るまでずっと傍で話をして、朝起きたらおはようと挨拶をする。

「(……母親、みてえ)」

 そんな記憶は欠片もないはずなのに、不思議とそんな言葉が過った。

*PREV | TOP | NEXT#