8

 翌日から、マネージャーとの真の意味での二人三脚がスタートした、わけだが。

「トータル睡眠時間が、三時間……!?」

 スマートウォッチが叩き出した数値に、早速彼女は仰け反った。大体その程度だろうと思っていた御幸だが、こうして数値化されるとやはり堪える。しかも三時間連続で眠っているのではなく、十五分〜三十分の間隔で目覚めているのだから手に負えない。常に浅い眠りのまま、起きては眠り、また起きての繰り返し。結局そのループに疲れ、ベッドから起き出してしまうのだ。

「これを一年も……!? なんで倒れないんですか!?」

「……高校時代につけた体力のおかげ?」

 信じられない、と目を白黒させながらタブレットに転送されたデータを睨みつけるマネージャーに、御幸は肩を竦めて告げる。

 プロ野球選手は──他事情は知らないので、あくまで体感だが──他スポーツに比べ、体力が要らないと言われている。何故ならサッカーやテニスのように、試合中ずっと走り回ることはないからだ。プロへ行くと高校時代のランニングや体力作りが嘘のように練習メニューから消えるので、あの地獄のような冬合宿は何だったのかと愕然としたものだ。だから他スポーツ界隈に比べて喫煙者が多いのだ。肺活量が衰えようと、試合にはさほど影響が出ない。コンディションを崩す方がよっぽど問題があるからだ。まあ、御幸は球界でも相当な健康志向なので、ベンチが禁煙になってほっとしているが。

 閑話休題。

「……まあ、そんな感じでよろしく」

「ぜ、全力尽くします……!」

 顔を引き攣らせながらも、彼女は力強く頷いてみせた。

 それから一週間ほどデータを取って御幸の、平均睡眠時間が三時間弱であることが判明する。その後、マネージャーはありとあらゆる睡眠不足解消方法を御幸にもたらした。自分でも試したことがある方法もあったが、『データが取りたいので』という強い希望により、改めて様々な療法を試すことになった。病院や薬は使えない。診察履歴が球団にバレたら一大事だからだ。プライドや恥の問題ではない。御幸の捕手として積み上げてきた信頼に関わる。メンタルに支障のある捕手を信頼する投手などどこにいるのか。故に、病院だの薬だのには頼れないのだ。

 なので療法は比較的シンプルかつ、どこでも聞くようなものばかりだった。寝る前に湯船に浸かるだとか、ホットワインを飲むだとか、寝る前にスマホは触らないようにするだとか、特定のツボを押す、寝る前のヒーリングミュージック、食事メニューを変える──ネットで調べたら出てくるような手法を全て試しては、睡眠時間に影響を与えるかどうか逐一データを取った。

「遠征先も自宅も、そう変化ないんですね……」

「だな……」

 遠征先でもデータ収集に余念はなく、帰りの車でここ三週間のデータを振り返りながら御幸は嘆息する。一長一短で解決しないとは分かってはいても、あれこれ試して結果が伴わない──努力は実らないのだと突き付けられたような気分になる。いい気はしない。ただ、マネージャーにとっては許容範囲内らしい。表情はまだ明るい。

「コタさんの時もそうでした。あれを試してもだめ、これを試してもだめ、しまいにはアルコールに逃げようとするから、何度説教とビンタをしたことか」

「酒、ねえ……」

「御幸さんはその辺理性的で助かります。人の身体に過ぎた物に手出ししないよう、あなたはちゃんと理解してくれている」

「……じゃなきゃ今頃薬に頼ってるっつの」

 それは、人としても、スポーツ選手としても、当然のことだ。合法だろうが非合法だろうが、その一線だけは越えたくない。それだけは、絶対に。耳の内側から囁く声を振り払いながら力強く告げる御幸に、彼女はご尤もと頷く。

「そもそもメンタル起因ですからね。一番は時間が解決してくれることなんですが……」

「二年経ってもこれだからな……」

「それだけ深い傷ということです。本来なら五年、十年と時間をかけて解決していくものですが──」

「っ、それじゃ意味ねえだろ!!」

「……そうですね。無遠慮な発言でした。申し訳ございません」

 きゅ、とハンドルに力を籠める彼女の顔はとても辛そうだ。その顔を見てますます、大人げなく怒鳴ってしまった自分の余裕のなさが嫌になった。でも、五年十年かかるようでは意味がない。その傷が癒える頃には、プロ野球選手としての人生が終わっている。それでは、意味がないのだ。もう中堅選手である御幸に残された時間は、あと僅か。一分一秒を無駄にしたくない。

「……あの、差し支えなければ、なのですが」

「なに」

「どうして夜中、目覚めるのか。お心当たりはありますか」

 それは疑問というか、ほぼ確信に近い一言だった。思わず背筋が伸びる御幸に、一瞬だけ彼女の視線がミラー越しに刺さる。心当たり──そんなの、誰よりも御幸が理解しているから。けれど。

「言いたく、ねえ」

「──失礼しました。出過ぎた発言でした。忘れてください」

 車が進む。窓に反射するマネージャーは、しまったと顔を顰めている。そう言いつつ、口を噤む彼女の対角線上に座る御幸は、密かに『心当たり』に思いを馳せる。

 何故眠りが浅いのか。何故、いつも夜中に目覚めてしまうのか。答えは明白だ。形のない、記憶の定かではない、そんな得体のしれない『何か』が原因ではないからだ。御幸は『それ』が何かはっきり覚えているし、しっかりと認識しているからだ。ただ、それを口に出したくはない。思い出すだけでも気が滅入るだけでなく、単純に恥ずかしい。こんなことで不眠に悩んでいるなんて、他人に知られるだけでも恥だ。

 ──ああ、でも。彼女には、山田には、もう恥という恥を晒しているのだ。今更、恥の一つや二つ増えたところで何だというのか。興味や好奇心半分で訊ねているわけではない。彼女はちゃんと、御幸を理解しようと、御幸の病を治そうと、懸命なだけだ。ならば、御幸の正しい選択は『沈黙』なのか。答えは、否だ。

「……誰か、居るような気がするんだよ」

「!」

「勿論、誰もいねえよ。なのに、ふとした瞬間に、あいつが戻ってきたような気がする……あいつが、俺に──」

 そこまで言いかけて、口を閉じた。それ以降はご法度だ。ただ、何となく理解できたのだろう。マネージャーはショックを受けたように、言葉を詰まらせた。何か言おうとしているようだが、言葉が出ない。躊躇いがちな瞳に、ほんの少しばかり肩の荷が軽くなったような気がした。そういえば、この話を人にしたのは初めてだ。悩みは人と共有すべし──なんて心理療法本を読んだ。その時は気休めだと鼻で笑ったが、文字通り気は休まるようだ。

「……」

「……」

 結局、かける言葉は見つからなかったのだろう、車内には珍しく重たげな沈黙が流れる。気遣うような無言でも、安い慰みよりはよっぽどマシだと思った。しばらく、無言のまま車が進む。マンションの近くで右折をしたその時、御幸はふと思い出した。

「……そういや、さ」

「あ、はい」

「コタさん、結局何やって不眠症が改善したんだ?」

 ここ数週間はあれはどうだこれはどうだと提案された療法を、特に抵抗もなくそのまま試していた。そのどれもが今のところ効力を示していない。ただ、結果としてこのマネージャーは山田の不眠症を解消したのだ。であれば、彼には何が効果があったのか。恐らくいくつもの療法を複合的に組み合わせて、長期的に改善を重ねたのだろうが、結局何と何が効果があったのだろう。山田と御幸は別人だ。同じ方法が効くとも限らないし、きっと今はそのデータを集めている最中なのだと思っていた。だから、先人はどうだったのかと、御幸は何気なく訊ねた──そのつもりだった。

 窓ガラスに反射する。彼女の険しい顔を見るまでは。

「……え、なに? そんな変なこと聞いた?」

「い──いえ、その……」

「結果的に改善はしたんだろ? だったら、最初にその方法を試すべきなんじゃねえの? それとも、そういう簡単な問題じゃねえってこと?」

 自分にしては気兼ねなく訊ねたつもりだった。だが、マネージャーの顔は徐々に曇る一方だ。何が彼女の機嫌を損ねたのかまるで理解できない御幸は不思議に思い訊ねると、険しい顔をした女は重々しい溜息を吐いて、こう言ったのだ。

「……簡単かどうかで訊ねられれば、否と答える他ないですが……確かに、明らかに効果が出た方法が一つあったんです……」

「──っ、あったのか!?」

 それは初耳だ。てっきり、複合的な両方を長々続けてようやく──という話だと思っていたのだ。まさか、けれど自分にも効果があるとは、でも。そんな焦りと興奮が、全身を支配する。

「どうやったんだ!? もう俺には試したのか!?」

「い、いいえ、まだ──」

「じゃあなんで試さないんだよ!?」

「御幸さんには絶対に効果ないと思っていたんです!!」

 逸る御幸を抑えつけるような声に、面食らった。御幸には、絶対に。そう確信するだけの材料が、あったのか。そんな療法全く思いつかない。訝しげに訊ねれば、彼女は答えない。ただ、どこか神妙な顔でコクリと頷いていた。

「……でも、そうですよね。試す前から無理だと諦めても仕方ないです、よね」

「お前、一体何の話を──」

「分かりました。試しましょう、コタさんの不眠症を改善した方法を」

 そうして、彼女は車を止める。だが、此処は自宅のマンションではない。マンション近くの、どこにでもあるスーパーのこじんまりとした駐車場だ。

「準備のため、ちょっと物資を調達してきます」

「ま、待てって! 何するんだよ、俺は何をすれば──」

「……強いて言うなら、何も」

「は?」

 そう言って、彼女は御幸の止める間もなく車を降りてさっさとスーパーに駆け込んでいく。一体何だったのか。御幸にはまるで話が見えない。御幸には絶対に効果がない方法なのに、御幸は何もしなくていい──その方法を鈍った頭で悩むより先に、彼女は袋を抱えて車に戻ってきた。助手席に雑多に置かれたその袋は──。

「……マスク?」

 数枚入りのマスク、のど飴、それからいくつもの缶コーヒー。彼女曰く『物資』は、どこにでも売っているようなそんな物。まるで話が見えない御幸を他所に、彼女は再びアクセルを踏み込んだ。そして。

「今夜二時。寝る支度だけしてお待ちください」

 何故かゲッソリとしたマネージャーが、そう言ったのだ。



***



 結局その療法も方法も知らされることなく、深夜二時。時間ぴったりに、マネージャーから電話がかかってきた。

『こんばんは。寝る準備はできましたか』

「あ、ああ……」

 開幕早々何が起こっているのか分からぬまま、御幸はひとまず電話を取ってベッドに腰を下ろす。寝る一秒前の準備をしておけと言われたので、訳も分からぬまま従った。普段であれば懐疑的になるところだが、『山田小太郎の不眠症を解消した』と言われれば、従いたくもなる。この一年ろくに眠れていない御幸は、本当に限界が近い。若さや体力では、もう補えない領域まで来ている。藁にも縋りたくなるというものだ。

「で、俺はここまま何すればいいんだ?」

『ベッドに入って、横になって、目を閉じてください』

「……それで?」

『通話を繋げたまま、スマホは枕の横にでも置いてください』

 言われた通り、ベッドに入って布団にくるまり、スマホの画面を下向きに置く。光漏れる端末から目を逸らし、御幸はいつもの通り眼鏡を外してアイマスクを装着する。一人で暮らすようになって、アイマスクなどしなくとも光を気にする必要はなくなった。それでも、高校三年間染みついた習慣が今も抜けないのだ。

 耳元からは、パチパチというキーボードを叩く音と、マネージャーの唸り声が流れ込む。なんだこれ、御幸は暗闇を見上げながら思う。

「……それで?」

『今ちょっと準備にてこずっていまして……少々お待ちを……』

 カチカチ、パチパチ、キーボードがリズミカルに鳴る。煩さは感じない。それから彼女が何かを啜り、コトリとそれが置かれる音。布が擦れる何とも言えない物音、他人の息遣い。御幸にとっては全てが全て、聞き慣れぬ波ばかり。奇妙な気分のまま次の指示を待つも、マネージャーは低く唸るだけ。

『うーん、ちょっと時間かかりそうなので、しばし雑談にお付き合い頂けませんか?』

「雑談……?」

『といっても、会話する必要はないです。私が勝手にペラペラ喋ってるので、適当に相槌でも打って頂けたら、それで』

「……何で、俺が」

『いいじゃないですか。夜はまだ長いんですから』

 確かにこんな時間にやることはないし、彼女の言うようにさっさと寝付くこともできない。何をさせられるのかは知らないが、御幸のために仕込んでいるのは間違いなさそうだし。ただ、親しくもない女のお喋りに付き合うほど暇でもお人好しでもない。だが、そんな不満は敏腕マネージャーにはお見通しだったようだ。

『目を閉じて身体を横たえているだけでも、体力回復の一助となりますよ。少なくとも人の話を聞いている間なら、あれこれ余計なことを考えずに済みますし』

「……」

 なるほど、確かにそうかもしれない。めんどくさいと思ったそれは、今の御幸にこそ必要な措置だった。長い夜の何が嫌かって、することもなく、眠れもせず、ただじっとしているだけで、思い出したくもない記憶が何度も何度も脳を過るからだ。その都度微睡んだ意識は吹き飛び、心臓は早鐘を打ち、とてもじゃないがリラックスして眠るなんてできなかった。そういう意味じゃ、興味のない雑談でも、ないよりはマシかもしれない。

『じゃあ、そうですね。この間のことなんですけど──』

 そうして、二人の長い夜が幕を開けた。

 いつもの淡々とした声で、彼女は何らかの作業を続けながら話す。山田に付いていた頃の苦労話から、家族のこと、仕事のこと、好きな食べ物のこと、見ているテレビのこと──とにかく何でも彼女は語った。話はあっちこっちに転換し、様々な情報が彼女の口から吐き出される。ただ、そのどれもが御幸にとっては死ぬほどどうでもいいことだ。親と喧嘩した、仕事は何度となく転職を考えた、最近コンビニスイーツにハマっている、最近のお笑いが分からない。山もなければ谷もなく、盛り上がりにも欠ける。そんな取るに足らない、文字通り雑な談話である。

『それで、高校の先輩が飲み会しよう合コンしようってもう喧しくて。二つ上の先輩なんですけどね、ほんとお節介と言うか世話好きっていうか』

「……ふーん」

『いや、勿論尊敬はしているんですけどね。ただどうにも、その……うーん、過保護というか……まあとにかく、ちょっと厄介な先輩ですね。いい人なのですが』

「……へえ」

『こんな仕事ですから、中々会えないんですが……久々に飲み会行きたいなあ……あ、そうだ飲み会で思い出した。先輩がおすすめしてくれたとこの焼き鳥屋がまあ美味しくて──』

 終始こんな感じだ。いつまで準備に時間がかかるのだという文句すら挟む暇がないほど、彼女は淡々としゃべり続ける。喋り始めて何分経ったか分からないが、よくまあ話題が尽きないものだと感心する。ただ、興味はない。本当にどうでもいい。だが、話は聞こうと努めていた。でなければ彼女の言うように、『余計なこと』を考えてしまいかねないから。ただ、そうはいっても全く関心のない話を延々とペラペラ喋られても、退屈である。おまけに彼女はこちらの相槌も反応も特に求めていないのだから、より暇を持て余してしまう。なんというか、彼女のそれはお喋りというか、ラジオに近いのだ。リスナー相手に、話題を広げて喋るラジオパーソナリティ。反応は求めない、そこにリスナー本人はいないから。問題は、パーソナリティが持ち出す話題が、御幸にとってさして面白くないことで。

 ふと、遠い日の記憶の蓋が開く。こんな日々を過ごしていたことがあったな、と。何年も、興味の欠片もない話をずっと聞いて、嫌々ノートに板書した。茹だるような暑い夏の日も、凍えるほど寒い冬の日も、日本に住む子どもたちのほとんどが経験したその日々を、御幸は思い返す。あの頃は野球の練習や部活でクタクタになった身体に鞭打って、居眠りしないよう必死で机に齧りついていたっけ。おかげで、『不眠』なんて言葉は世界で一番縁遠い存在だった。全く、人生儘ならないものである。

「(……あの頃は、気絶するように寝てたしな)」

 くあ、と欠伸を噛み殺しながら思いを馳せる。けれど、思い出は徐々にぼんやりと霞がかっていく。柔らかな布団の温もり、途切れることなく淡々と続く詰まらぬ会話と一緒に、カチカチ、パチパチ、キーボードがリズミカルに鳴る。彼女が何かを啜り、コトリとそれが置かれる音。布が擦れる何とも言えない物音、他人の息遣い。やはり、御幸にとっては全てが全て、聞き慣れぬ波ばかりだ。けれど、それは電話の向こうにいる隣人のものだ。

 あのおぞましい連中のものでは、ない。

『そんで友人ったら、ソシャゲに課金するためにリボ払いに手を出して──』

 取るに足らないそんな会話が最後だったことは、覚えている。けれど、何とか耳に入れていたはずのマネージャーの話は、それ以降全く記憶に留めておくことはできなかった。暗い暗い闇を見上げていたはずの御幸は、いつの間にか泥沼に沈むような感覚に包まれていく。それを何と呼ぶのか、今の御幸は思い出すことができずにいた。けれど、知っているはずだ。この懐かしい、何とも言えない、ふんわりとしたものに身を委ね、意識が薄らいでいく。

 これは、一体──なんと──呼んで──いたのだった、か──。

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