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 それから御幸一也の生活は一変した。或いは、元に戻りつつあった、とも。

 毎晩毎晩、マネージャーが子守歌代わりの雑談を夜通し行う。御幸はそれを耳にしながら、緩やかに眠りに落ちる。どこにいても、何をしていても、彼女の取るに足らない話は安眠導入剤に最適だった。確かに昔のように長い時間は寝ていられない。それでも、一か月近くこんな生活を続けていくうちに、睡眠時間はほんの少しずつではあるが長くなっていった。例え五分、十分の差であったとしても、それが積み重なればいつか不眠症解消に繋がると、御幸は確信していた。

 徐々に睡眠時間を確保し始めた御幸の戦績は面白いぐらい上向きになる。『御幸・完全復活』『これはポジ』などとネットや新聞でも取り上げられるようになった。勿論、未だに睡眠時間は四時間少々、全盛期には程遠い。それでも質の良い睡眠はしっかりと結果を手繰り寄せた。それにチームメイトが、何よりも山田が大喜びし、シーズン中だと言うのに胴上げせんばかりのムードとなった。ベンチの空気が良いことに越したことは無いが、喜ぶには早すぎる──時は七月。胴上げには、時期尚早だ。

 だというのに、御幸は今、自宅の机に紙とペンを手に頭を抱えていた。

「んだよ、これ……」

「こんな早く調子を取り戻すとは、上も思わなかったんでしょうね」

 そう言いながら、正面に座るマネージャーがきびきびと告げる。目の前にはとあるテレビ番組の出演に際し、『いくつかアンケートを取りたい』という話だったが、目の前の紙にはまるで高校の頃のテストのように文字がびっしりと埋まっている。どこが『いくつか』だ。これを埋めるだけでも夜が明けそうだだ。おまけに野球やプレーに関するアンケートならまだしも、内容はどれも私生活について。最近買った高価な物、お気に入りのアクセサリー、休日の過ごし方から恋人の有無、果ては次の出演者のうち好みの女性はいるか──。

 要は成績が低迷する御幸に、『だったら広告塔らしく地上波で顔を売ってこい』と上がメディア出演の予定を組んでいたのだろう。それも仕事の内だ、嫌々ながらに理解はできる。野球選手は良くも悪くも球団の商品だ。ディーラーがどのように商品を売り込むかは、球団の方針次第。特にこの一年は成績の揮わなかった御幸に、拒否権などない。ただ、しばらくは試合に集中したいので、ペナントレース中の取材・メディア出演は全て断ったが。

「さ、あと半分。今日中に仕上げてさいね、先方に送らないといけないので」

 そうしてマネージャーは御幸のアンケートを今か今かと待ち続けている、というわけだ。広報との橋渡しも、今や彼女の仕事。この仕事に忠実なマネージャーは、御幸の仕事が終わるまで梃子でも動かぬとばかり。御幸がこの手の質問に弱いことも承知の上で、だ。

「……こっから下、全部『特になし』じゃだめ?」

「広報にプロフィールをでっち上げられたくなければ、埋めるのが吉かと」

 そう言いながら、相変わらず彼女は自前のパソコンやらタブレットにしきりに何かを入力しており、御幸の苦労は素知らぬ顔である。助け舟を寄越す気はないらしい。はあ、と溜息を吐いて半分以上空欄のアンケートに目を落とす。ペンが止まって、どれくらいの時間が流れたか。今日の試合を振り返りたくとも、真面目なマネージャーがそれを許さない。こうしている間に夜はどんどん更けていく。ちらり、と時計を見る。もう二十時を回っている。明日は月曜で休みとはいえ、これ以上長引かせたくない。試合後の疲弊した身体にはまだ、軽食すら入れていないのだから。

 渋い顔の御幸を前に、マネージャーが呆れたように真っ白なアンケートをちらりと見る。

「……この手の仕事が苦手なのは分かりますが、今回ぐらいは堪えてください。その代わり、以降のメディア出演はシーズンオフまで断ったじゃないですか」

「分かってる……」

「女性誌の取材、断るの結構大変だったんですからね」

「はいはい、物分かりのいいマネージャーと優秀な広報がいて助かってるって」

「だったら、少しくらい私たちの苦労に報いてほしいもんです」

 彼女は冷たく突っぱねる。じっと澄ました顔を見つめるも、表情一つ動かさない女に、御幸は再び溜息を吐いた。以前までの、どこか怯えた表情はここ一か月は全く見せなくなった。御幸に慣れたのだろうか、心を開かれたと言えば聞こえはいいが、徐々に化けの皮が剥がれてきたような気さえする。山田小太郎に見せていたあの慇懃無礼さを、徐々に御幸にも見せるようになったのだ。

「(最初はあんな可愛げあったのにな……)」

 話しかけるたびにビクビクと怯える姿はやり辛かったので、慣れてくれたのであればそれに越したことは無い、とは思う。事実、自分だってこのマネージャーに対して──所謂、『信頼感』のようなものを抱いていることに、否定はできなくなっていた。ほぼ毎日顔を合わせており、それなりに会話をして、夜の寝入るその瞬間まで通話をしているほどだ。仲が深まらないわけがなかった。そうやって他人を信頼して痛い目を遭った御幸にとって、この状況はあまり芳しくはない。また裏切られたら──また手痛い傷を負ったら──そんな恐怖が、何度も脳裏を過る。なのに。

 彼女は──山田が念を押すこのマネージャーは、大丈夫だと、信じたくなる。

「……わり、手ぇ離せないし、今日の夕食作ってくんね?」

「ああ、はい。昨日の豚肉ありますよね、なら──ええっ!?」

 いつものようにメニューをつらつらと提案しようとした口から、驚嘆の声が飛び出す。静かな面持ちが嘘のように、目は飛び出さんばかりに見開かれ、唇はわなわなと震えている。まるで天変地異でも起こったような顔で、御幸の方が居た堪れなくなってさっと目を逸らす。

「よ──よろしいんですか?」

「……良くなきゃ、頼まねえよ」

 驚きの中に、歓喜に満ちた声色が混ざる。まるでその一言を、百年待ち侘びたかのような表情。数秒の沈黙が、こんなにも気恥ずかしくなるなら言わなければよかったと思った。

『──よく知らない人の作った料理食えって、私でもキツいですよ』

 数か月前、当の本人がそう言ったことを、未だに覚えている。つまり御幸にとって、彼女は少なくとも『よく知らない人』ではなくなったと言っているようなものだ。いや、だって、仕方がないだろう。文字通り、おはようからおやすみまで見守られているのだ。もはや御幸にとって、このマネージャーは『よく知らない人』な訳がない。であれば何なのかと聞かれると、それはそれで困るのだが──。

 その瞬間、がたりと椅子が跳ねて、マネージャーが立ち上がった。

「お任せください! マネージャーとしての初めての任務、全うさせていただきます!!」

 顔を輝かせてそう叫ぶや否や、彼女はすぐさまキッチンへと飛んでいった。

 ……そうだ、別段、こだわる必要はない。彼女は『マネージャー』なのだ。それ以上でも、それ以下でもない。今までのマネージャーよりも、多少は信頼できるというだけ。そんな彼女に、ほんの少し仕事を渡しただけ。ただの、野球選手とマネージャーという関係に進んだ──或いは戻っただけだ。此処に至るまでのアプローチが、複雑だっただけで。

 何故か自分に言い訳を始める御幸を他所に、マネージャーがひょっこりとキッチンから顔を覗かせる。

「キッチン、色々触っちゃって大丈夫ですか?」

「……使ったモン元の場所に戻してくれれば、好きにして」

「はい、かしこまりです!」

 にこりと笑う彼女は、まるで少女のようにはしゃいでいる。そこまで仕事がしたかったのか──そういえば彼女は仕事好きのきらいがあった──、変な奴だと思いながらもう一度アンケートに目を落とす。と、またもやマネージャーがキッチンから顔を出した。

「そうだ、御幸さん」

「今度は何?」

「夕食、ご希望は?」

 その一言をずっと温めていたとばかりに、柔らかく笑う女は本当に活き活きとしていた。本当に変わった奴だと思いながら、数秒考える。調理の工程を全く気にしない食事なんて、一体何年ぶりだろう。

「……なんかさっぱりしたやつ。けど、腹減ってるからがっつり食いたい」

「ふむふむ。好き嫌いやアレルギーは特にないんですよね?」

「ああ、甘いもん以外は何でも」

「お任せを!」

 そんなざっくりとした注文も、笑顔で承るマネージャー。そうしてキッチンから野菜を切る音、何かを茹でたり炒める音、何かを探して戸を開け閉めする音が慌ただしく聞こえてくる。家に人がいるのも、キッチンから物音が聞こえてくるのも、もう数年ぶりだ。慣れない人の気配に落ち着かない──そう思っていたはずなのに、目の前のアンケートをノロノロと書き始めた頃には、そんなそわそわした気持ちは溶けてなくなっていたのだった。



***



「はい、おまちどお!」

 ホクホクとした表情で、キッチンから戻ってきたマネージャーは、他人のキッチンとは思えないほど完成度の高い料理が運ばれてくる。紫蘇と蒲鉾の春巻き、きゅうりとわかめの酢和え、生姜焼きにほうれん草の付け合わせ、筍とキノコの炊き込みご飯、卵とニラの味噌汁──冷蔵庫の中身を全て使い切ったのではないかと思うほど、多彩なメニューが出てくる。

「……流石、だな」

「元々これが仕事ですからね」

 事も無げにテーブルに皿が並ぶ頃には、流石にアンケートも全て埋まり切っていた。久々に自分以外の手料理に抵抗がないと言えば嘘になるが、それよりも腹の虫は正直だった。どれもこれも食欲をそそる匂いに、忘れかけていた食事への『愉しみ』が湧き上がってきた。

「さあ、どうぞ!」

 こくりと頷いて、御幸は差し出された箸を受け取る。ウキウキとお茶を淹れるマネージャーを前で、御幸は両手を合わせた。

「──いただきます」

 久しくしていなかったその行為に、マネージャーが身じろいだのが見えた。だが、何を言うでもなくコップを差し出してくる彼女に軽く会釈して、生姜焼きに箸を伸ばす。生姜の利いた匂いに、自然と唾液腺が緩む。

「……うまい」

 一口運んで、その旨味にただ驚いた。言っては何だがそこまで手の込んだ料理ではないはずなのに、美味しすぎて箸が止まらない。消化に悪いと分かっていながら、がつがつ食い進める御幸をマネージャーは穏やかな視線で見守る。正面に座る彼女の視線に気付いた時には、皿はほとんどカラになっていた。まるで母親のように慈愛に満ちた視線がどうにもこそばゆくて、御幸は箸を止める。

「どうかしましたか? もしかして、おかわり──」

「いや……お前は食わねえのかと思って」

「……わ、わた、し?」

 きょとんとした顔を向けられ、御幸はますます居た堪れないような気分になる。そっちが言ってきたんだろ──なんて内心毒づきながら、御幸はボソボソとした声で告げる。

「お前、コタさん付きの頃は自分の分も作ってたんじゃねえのかよ」

「そりゃあ……コタさんと御幸さんは違いますよ。そんな厚かましくできませんて」

 遠慮がちにはにかむ女に、それもそうだと頷く自分がいた。けれど同時に、どこかモヤモヤした気分になった自分もいた。こっちはあらゆる恥を曝け出したというのに、未だ一線を引くマネージャーに──勿論、御幸の為を思ってのことだろうが──どうしても、物申したかったのだ。

「別に、一緒に食えばいいだろ。家戻って作るんじゃ二度手間になるし」

「いやあ、まあ……それは……」

「ただでさえ一晩中起きてんだから。それぐらい、気にしねえよ」

「え、あ──いや、その……」

「ラクしろっつったの、お前だろ?」

 家に上げ、キッチンを任せ、夜通し子守歌代わりの話を聞かせて、彼女はまだ、御幸に対して一線を引くのか。食事さえ共にできないほど、壁があるのか。それが単純に──そう、腹が立ったのだ。彼女は立派なマネージャーだ。それ以上でも、それ以下でもない。でも、御幸は彼女と食卓を共にしても問題ない、と思うぐらい信頼し始めたのだ。それと同じだけの信頼が返されないと分かると、どうにも不公平に感じてならないのだ。

「……それとも、俺とは飯食うのも嫌?」

「ま、まさかっ!」

 自嘲気味に笑えば、とんでもないとかぶりを振る。なら何が不満なのか。じっと見つめる御幸に、彼女は数秒言いよどむ。そしてどこか困ったように眉を八の字に曲げると、とても言い辛そうにこう告げたのだ。

「すみません……一人分しか作ってないんです……」

「……」

「す、すみません……あの、お気持ちだけは、そのっ、ありがたく頂戴しますので、はい……」

 申し訳なさそうに項垂れるマネージャーを前に、数十秒前の言葉が取り消せるなら億単位である資産全て譲渡しても構わない、とさえ思った。信頼も遠慮も何もない、単に一人分の食事しか用意していなかっただけなのだ。だというのに、勝手に早とちりして──その上彼女のにパワハラまがいの言動をするなんて、心底死にたくなった。

「あ、あのっ! 次回から、ご一緒させていただいてもよろしいですか!」

「いや……悪い、変なこと言った……忘れてくれ……」

「ノ、ノーセンキューとさせて頂きます!!」

「ノーセンキューって、お前ね……」

「わ、私だって暇じゃないですし!! 食事と片付けを一まとめにできるなら、これ以上ない時短ですし!! あの、だから、こちらこそよろしくお願いいたします!!」

 そんな御幸の気まずさを打ち払うような大声を張り、きっかり四十五度腰を折って頭を下げる。分かった分かったと諫めて、少し冷えた味噌汁を啜った。食費は払うだの光熱費はどうしようなどとキャンキャン騒ぎながら、カラになった食器を片付けだす女に、流石にそこまでは、と御幸の理性が待ったをかける。

「いいって、片付けぐらい自分でやる」

「勘弁してください! 雇用主にそんなことさせられるわけないでしょう!」

「いや、でも──」

「そんな暇があるなら試合でも振り返っててくださいよ!! 二回で七失点なんて、ヤマさん次の試合も荒れますよ!!」

 『ヤマさん』とは球団のエースだ。かつては山田小太郎と組んで球界を代表する黄金バッテリーだったが、やはり年には勝てないのか、今日は特に酷かった。負け試合を挟んだ休みは、大体次の試合のコンディションに影響する。確かに、球団の正捕手として、そっちのフォローもしなければならない。だが、あれもこれもマネージャーに頼むのは気が引けた。なんというか、それこそ戻れなくなりそうで。

 だが、やるべきことがあると言われてしまえば、引くしかなくなって。

「……じゃあ、今日は頼む」

「今日以降も、ですよ! 料理任せるより先にやらせることあるでしょうに!」

 何故かプリプリ怒りながら食器を片付けるマネージャー。お言葉に甘えて、御幸は今日の試合を振り返るためにテレビを見るためソファに向かう。背後で軽快な水音が聞こえてくる。確かに、これは『ラク』だ。何も言わずとも好みの食事が出てきて、後片付けまでしてもらえる。それが仕事なのだから当然と彼女は言うが、どうして山田小太郎ほどの人格者が私生活はまるでダメ人間になったのか、なんとなく分かるような気がした。

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