天城凪沙は、その日も御幸に声をかける。 「御幸さん。今、少しよろしいですか?」 「ん? いいけど」 というのも、御幸から先日本を借りており、それを返そうと思ったのだ。基本的に欲しいものはすぐに金を出す凪沙だったが、たまたま読みたい本が廃版になっていたのだ。なので申し訳なく思いながらも御幸から本を借り──内容は元プロ野球選手の配球論についてだ──、一晩で読破したので返却することにしたのだ。 頷く御幸に、凪沙はそそくさと鞄から本を取り出す。隣の席になってから、いちいち席を立たずに話せるようになったのは非常に楽だ、と思いながら御幸に本を差し出す。 「ありがとうございました。とっても面白かったです!」 「だろ? コレ、俺のバイブル」 「くううっ……廃版に……廃版にさえなっていなければ私だって……っ!!」 「こういうのってすぐ出回んなくなるよな」 「分かります分かります。仮に運良く見つかったとしても、定価の何倍にもなってたり……」 そんな経験はこの本に限った話ではなく、くっと悔しげに呻く凪沙。転売であれば死すべしと言えるところも、プレミア価格となると途端に強く出れないのが悲しい。数年、ともすれば数十年前に出版されたベストセラーでも何でもない実用書など、存在するだけでも奇跡である。 そんな話をしながら授業の支度をしている時、御幸の傍に寄ってくる男子生徒がいた。クラスメイトで御幸と同じ野球部の倉持である。 「御幸」 「ん? なんだよ」 「呼んでる」 手短にそう言って親指で教室の外を指し示す倉持。御幸と、凪沙も釣られてそちらを見れば、数名の女生徒が熱っぽい視線で御幸を見つめていて。思わず御幸と凪沙は互いに目を合わせる。そして。 「御幸さん、ファイトです」 「……他人事だと思ってさあ〜」 「ええ、他人事ですから」 さっさと行ってこい、とばかりに澄ます凪沙に御幸は重々しい表情で立ち上がる。がたり、と椅子が鳴る音と共に廊下に向かう御幸を、倉持はケッと吐き捨てながら見送る。 「なんであんなヤローがモテてんだか」 「いけめん──らしいですからね、彼」 「……やっぱ、女子からはそう見えんの?」 「部の後輩や先輩まで名前知っていたぐらいですから」 納得がいかないとばかりの倉持に、凪沙は淡々と客観的情報を述べる。いくらかっこいいとの噂でも、他学年にまで知られているなんて相当だ。あれはよっぽど異性の気を引くだけの容姿なのだろう。凪沙にはあまり、理解ができないが。 「……まあでも御幸さん、優しいですしね」 そうだ、人気の理由は容姿に限った話ではない。凪沙の我儘に嫌な顔一つせず付き合ってくれるあの少年は、とても優しい人だ。先日は防具も見せてもらい、スケッチまでさせてもらったほどだ。代わりにテストの対策ノートを作るという取引なのだが、その程度凪沙にとって何の代償でもない。その程度であんな素晴らしいものを見せてくれるなら、ノートの十冊や二十冊差し出しても悔いはない。 「……や、優しい? 御幸が?」 けれど、凪沙の言葉をまるで別世界の言語の様な顔で咀嚼する倉持がそんなことを言うので、思わず首を傾げた。 「優しく、ないですか?」 「……どっちかっつーと、性格わりー部類だと思うけど」 「そうなんですか?」 倉持の話が凪沙にはどうにも理解できず、今度は反対側に首を傾げる。少なくとも凪沙にとっては──或いは異性限定なのか──優しい人に見えた。いい人過ぎる、と皮肉を告げる程度には。だが、倉持から見る御幸はどうやら違うようで。 「それはきっと、お二人がチームメイトだからですよ」 「……そーいうもんかぁ?」 「それぐらい、御幸さんと倉持さんは仲がいいということでしょう」 気の置けない仲、チームメイトとは得てしてそう言うものなのだろう。微笑ましいものである。推したちもこんな関係だったりするのだろうか。球児ではなくただの高校生でいる間は、こんな風に軽口を叩いているのだろうか。やばい。尊い。お布施したい。そんな日常の一コマが見れるなら大金積んだって良い。 ありがとうリアル高校球児、とは言わないで菩薩の様な笑みを湛えていると、そんな二人の元に辟易した様子の御幸が戻ってきた。 「あ、お疲れ様です」 「どーも」 「ケッ、いい気なもんだな」 「できるなら代わってやりてーよ」 「そうですよ。結構大変なんですからね!」 倉持のぼやきに反論する御幸と凪沙。よく羨ましいだのなんだのと言われるが、代わってやりたいと何度思ったことだろう。分かり合える二人を他所に困惑する倉持。御幸はともかく、凪沙には強く反論できないのだろう。 「まあでも、今日はマシだったな。目当て俺じゃなかったし」 「と、言いますと?」 「うちの先輩、結構人気でさ。今度いつ試合やるのかって聞かれただけ」 「だったらわざわざ御幸さんを呼び出すことないでしょうに」 「倉持、女子には怖がられてるしなー」 「うっせ!」 倉持にも自覚があるのか、苦々しげに御幸に噛みつく。凪沙にはとても怖い人には見えないが、人の外見に限って言えば自分の目は節穴にも程があるようなので、何も言わずに頷いておくことにする。 「つか、先輩って誰だよ、哲さん?」 「そ。さっすがキャプテン」 「まあ、男から見てもかっけえからなあ、哲さんは」 「お前は亮さん派だろ」 「そういうお前はクリス先輩派だろーが!」 少年たちは二人してやいのやいのと言い始める。なんだかよく分からないが、彼らの尊敬すべき先輩たちの話のようである。なるほど、上下関係のある部活は厳しいばかりではない様子。また一つ推しへの造詣が深くなり、凪沙は密かに両手を合わせてお礼を述べている、と──。 「そういや、天城さんは来ねーの?」 「えっ……何が、ですか?」 急に倉持から話を振られ、思わず目を瞠った。何の話だろうかときょとんとしていると、倉持は少し言いづらそうに頭をかいた。 「だから試合だよ、試合。ルール覚えたんなら、球場来ればいいだろ。これから夏始まって、ウチの試合も増えるしよ」 倉持の提案は、まさに目から鱗であった。そうか、試合を見に行くなんてアプローチもあったのか、と。身近に高校野球の強豪チームがある。ルールも覚えてきた。ならば配球だの防具だのに熱を上げるよりも先にやるべきことがあるではないか。 「失念していました……そっか、試合、見に行けるんですよね」 「まあな。あちーし場所によっては遠いかもしんねえけど、プロの応援行くには敷居低いだろ。応援席は生徒も多いし」 「つーか、野球ハマったんなら真っ先に試合見るもんじゃねえの?」 「一応プロ野球の中継は何度か見たんですが、正直そこまで入れ込まなかったので……」 これでも何度もプロ野球中継を通しで見たことはあった。ルールをある程度把握するのには一役買ったが、漫画で読んだ時ほどの興奮はなかったのだ。もともと三次元には強い思い入れがないため、プロ野球にしてもそういうものかもしれない、と凪沙の中に『野球観戦』という選択がなくなってしまったのだ。 「ま、贔屓の球団とか選手いねーと面白みねーか」 「そもそも、プロと高校野球じゃ全然違うしな」 倉持と御幸も同意見なのか、うんうんと頷いてくれる。プロ野球は凪沙にとってあまり食指は動かない。だが、高校野球なら。甲子園の切符をかけ、たった一度の勝敗で全てを決するあの舞台であれば、また違うのだろうか。いや、違うはずだ。だって推したちは彼らと同じ、高校球児なのだから。 「大会って、七月からですよね?」 「ん? ああ、大体な」 「でも、応援席って日陰ねえしすげー暑いぜ? 無理には──」 「行きたい!! 絶対!! 行きます!!」 「……ま、天城さんに『無理』はあってないようなもんか」 鼻息荒く頷く凪沙に、御幸はまた始まったかとばかりの表情だ。そうだ、目の前には高校球児がいる。それだけでも色々な感情がまろび出そうなのに、実際の試合なんか見てしまったら興奮のあまりひっくり返ってしまうかもしれない。それは絶対に、『学び』に繋がるはずだ。 「……ほんとに大丈夫かよ」 「熱中症対策だけ気を付けてもらえば、いいんじゃね」 「それから友達連れてくる、とか?」 「友達もいいんですか!?」 「そりゃ、応援なんか多いに越したことねえし」 どうやら友達まで連れて行けるらしい。引きずってでも瑠夏を連れて行こうと、凪沙は一人決心する。見に行ける。高校球児が、野球をする姿を。あの広い球場に。 「あの! 試合の日が決まったら球場と日程教えて貰えますか!?」 「それはまあ、いいけど」 「大体、トーナメント表はググれば出てくるだろ」 「ほお、なるほどなるほど……」 どうやら凪沙が思っている以上に高校野球は世間に注目されているらしい。念のため青いメモ帳を取る凪沙は、高鳴る胸をそのままにニカリとはにかんだ。 「試合の日、楽しみです!」 きっと彼らは、凪沙に素晴らしい何かを教えてくれるに違いない。早く七月になればいい、暗い雲から雨が降り注ぐ空を見上げながら、凪沙はそんなことを思った。 *** 「というわけで瑠夏ちゃん、野球見に行こ!」 「えー……なんでよー……ヤダー……」 早速部活中に友人に頼み込むも、案の定渋い表情をされた。元々は瑠夏から野球漫画を勧められたのだから、野球だって知らないはずもない。ただ、彼女もまた興味があるのは漫画であって現実ではない。おまけに炎天下で熱中症と戦いながら応援しなければならないなんてと、苦い顔をする。 「大体、あんた三次元興味ないじゃん。やっぱ御幸に惚れたの?」 「まさかあ。でも、リアル高校球児の頑張りを間近で見られるチャンスなんだよ!」 「べっつに私はなあ……正直ここまでハマるなんて思ってなかったし」 「瑠夏ちゃんが私をこんなにしたんだよ、責任取って」 「先パイそのセリフえろいですね」 横で漫画を描いている後輩が茶々を入れてくる。もう、とその小さな肩を叩きながら、凪沙は頬を膨らます。 「一緒に行こうよ! 絶対楽しいよ!」 「暑いのヤダ〜……別に一人で行けばいいじゃん〜……」 「一人でもいいんだけど、やっぱ誰かとこの興奮を分かち合いたいし!」 瑠夏はあまり外出が好きではない。日々の登校ですら辟易した様子なのだ、休みの日に炎天下に連れ出そうなどと至難の業である。それは凪沙も十分理解している。ただ、そんな出不精の友人の性も凪沙は織り込み済みである。 「へーえ、そんなこと言っていいのかなあ、瑠夏ちゃん」 「な、なに」 「これでも私、瑠夏ちゃんに多大な恩があると思うだけど」 この友人はどうしても物忘れが激しく、何度となく凪沙に物を借りに来た。おまけにテストの時は必ず赤点回避のために面倒を見てきた。学校生活において、瑠夏は凪沙におんぶにだっこの状態であることは、誰の目から見ても明らかだった。 「ひ、ひでぇーっ!! ここぞとばかりに恩着せがましくこいつゥ……!」 「私は別にいいんだよお? 本来勉強は一人でやるものだし、忘れ物だってする方が悪いよね?」 「そんなん言われたらあたしもう凪沙の奴隷になるしかないじゃない!」 「瑠夏先パイ、そこは自分で努力するって選択肢ないんですか」 ないのである。 「あ、それかA組の梅本さんや夏川さん紹介してくれるならいいよ?」 御幸から『A組にマネージャーがいる』と教えてもらったので、その子たちに取り次いでもらえるならこの無茶ぶりも取り下げようと凪沙は思った。だが、人見知りの瑠夏はますます顔を青くして首を振った。 「いや無理無理勘弁してよ!! あんな『陽』の人間に取り次げなんてっ!!」 「……同じクラスの女の子相手でしょ、瑠夏ちゃん」 「生きてる世界が違うわ馬鹿。つーかあんた一人で凸ればいいじゃん」 「流石に見ず知らずの子に突撃するのも失礼だし……」 「御幸には一人で凸ったくせによく言うよ!」 「御幸さんはクラスメイトだったから」 「その差そんなに重要?」 とにかく、凪沙は取り次ぎなしに見ず知らずの他人に声をかけるほど無礼さは持ち合わせていなかった。瑠夏が取り次いでくれないなら御幸に頼む他なさそうだ。はあ、と溜息を零す凪沙は「それで、どうするの」と友人をせっつくと、瑠夏はびいびいと文句を垂れながらも素直に白旗を上げたのだった。 「分かったわよぉ……甲子園でも花園でもどこでもついていくからぁ……」 「よろしい。試合の日決まったら御幸さんから聞いておくね!」 「ウウ……御幸一也なんぞ紹介した私のアホ〜……」 大人しく白旗を振る友人に、凪沙は得意げに鼻を鳴らした。全く、持つべきものは理解の早い友達である。 |