7.one's nature

 御幸一也はその日、黙々と防具を洗っていた。

 じゃばじゃばと、ホースでポリバケツに水を溜めていく。右手にはブラシ、左手に洗剤、そうしてバケツにプロテクターやレガース、マスクやヘルメットを放り込む。夏の夜も遅くに何を良しているのかと一瞬冷静さが戻るも、そういう約束だとかぶりを振る。

「あれ、御幸。今日防具洗う日だっけ?」

「だからってわざわざ夜遅くにやることねーだろ」

 そんな御幸に、先輩たちが不思議そうに声をかける。防具を洗う日は大体みんな一緒だ。なのにわざわざ一人、しかも練習の終わった夜にせっせと防具を丸洗いする御幸に疑問をぶつけるも、御幸はへらりと笑うだけ。

「やー、なんか内側に泥が固まってたみたいで、変なとこ当たって痛いんすよ」

「ほーん。今から洗って明日乾くかね?」

「まあこんだけ暑ければイケるだろ。じゃ、頑張れよー」

 そう言いながら去っていく先輩たちを見送って、はあ、と溜息を零す。当然嘘である。本当のことは口が裂けても言えない。絶対にからかわれるのが目に見えているからだ。まさか、この防具を人に見せる為にこの悪臭を何とかしようと悪戦苦闘しているなんて、どうして言えようか。しかもその相手はクラスでも評判の美人の女の子なのだから、バレたら最後、一生先輩たちのおもちゃにされる未来しか見えない。

 なんでこんなことに、とブラシを手に御幸は今一度嘆息した。時は数時間前に遡る。

『御幸さん!! 折り入ってお願いが!!』

『……い、一応聞くけど、なに?』

 この少女のテンションが振り切れている時は、大抵ぶっ飛んだ舵取りをしている時だ。一人で盛り上がるのは大変結構だが、それに巻き込まれるとなると身構えたくなる。普段静かな面持ちが嘘のようにきらきらした表情は、近くの席の男子がちらちらと意味ありげな視線を寄越すほど。御幸には初めてボールとグローブを与えられた五歳児にしか見えないが。

『防具を!! 見せて欲しいんです!!』

『えー……ヤだ』

 そうして聞いてみれば、想像していたよりも常識の範疇ではあったが、だからといってそれを良しとするかは別問題だった。シンプルに、他人にあの異臭漂う防具をお披露目したくない。いくら女の子にどう思われようと気にしない御幸でも、流石にそれはきつい。自分たちでもあの悪臭に辟易しているのに、他人にそう思われるのはあまりいい気はしないのは至極真っ当の感覚である。相手が異性だとか同性だとか関係ない、人として当たり前の羞恥心であった。

 だが、この行動力の塊がその程度で引くはずもなく。

『どうしてですか!?』

『逆に聞くけど、天城さん俺に体操着見せてって言われて見せられる?』

『洗えば余裕です!! 御幸さんになら!!』

 いい例え話だと思ったのだが、どうもこの変人には通用しないらしい。御幸になら、という信頼はありがたいが、今に限っては非常に厄介だ。

『あれ洗うの結構めんどくせーんだけど……』

『そこをなんとか! 私にできることであれば何でもしますので!!』

 この通り、と頭を下げる少女に、御幸は困惑したように視線を宙に漂わす。誰にも敬語を使うような警戒心の強い彼女は、誰彼構わずこんなことは言わないだろう。御幸相手だから、変な下心のない御幸だから、『何でもします』なんて年頃の男には垂涎物のセリフを真顔で言ってのけるのだ。そこまでは理解できる。理解できるが、だからって彼女にお願いしたいことなんて──。

『……次の期末テスト』

『はい?』

『対策ノートが欲しい、全教科』

 ふと、そんな無茶振りを思いつく。そろそろテスト期間である。御幸はさほど勉強が不得手ではないが、それでも対策なしで挑んで赤点回避はできる自信はない。ただ、夏が近い今、勉強にかまけて練習が疎かになるのも勿体ない。だから要点を押さえたテスト対策ノート、なんて夢のような物があれば助かる。そんな思いで口にした。いくら頭の良い彼女でも、流石に全教科網羅したノートを用意するなんて不可能だろうと、高を括って。

 けれど、御幸が思う以上に、目の前の少女は秀才であった。

『なあんだ、そんなこと!』

『……エ』

『お任せください! テスト前の駆け込み寺とは私のことです! 何ならマンツーマンでお教えしますとも!』

『え、いや、マジ?』

『ええ、ええ。大マジですよ。小学生相手とはいえ、私は他人に勉強を教えることで賃金を得ているのですよ。対価としては十二分かと!』

『お、おお……』

『もともと友人の為に何教科は要点まとめたノートを作っているんですよ。ご安心ください、天城印の対策ノートを以てして赤点を取った友人は、この一年で一人としておりませんので!』

 思ったよりも心強い言葉が返ってきてしまった。ただ、彼女の成績は御幸も嫌ってほど知っている。大袈裟でも何でもなく、彼女のまとめたノートにはそれだけの価値がある。

 数十分防具を洗って彼女に見せるのと、数日かけて机に齧りつくのと、どちらが効率が良いか言うまでもなく。あとは洗っても多少は残る臭いをお互い許容できるかどうかである。恐らく、彼女は気にも留めないだろう。後は彼女にどう思われるか、という御幸自身にかかっているのだが──。

『……分かった。それで取引成立ってことで』

『ありがとうございます!』

 テスト勉強時間の短縮、なんて夢のような代物に敵うはずもなく。そんな経緯故に、御幸はこうして暗い星空の下でせっせと防具を丸洗いするはめになったのだ。だが、凪沙の提案はその苦労と多少の羞恥を飲み込んでなお有り余るほどの魅力がある。運が良ければ今回のテストは一夜漬けで何とかなるかもしれないのだ、数十分ぐらいは必要経費と割り切ろう。そう思いながら、バケツから防具を引き上げる。

「(んー、コレ大丈夫かぁ……?)」

 洗いたてのプロテクターに顔を近づける。臭いとしては洗う前に比べれば遥かにマシだろうが、全くの無臭という訳でもなく。どうせ彼女のことだから気にも留めないだろうが。

「……もっかい、洗うか」

 彼女はきっと気にしない。御幸だって、凪沙にどう思われたって気にしない。だというのに、御幸はバケツから引き揚げたプロテクターを今一度水に沈めたのだった。



***



 さて、善は急げとばかりに──どうせ一日あれば防具など汚れてしまうのだから──翌日の昼休み、食事を早々に片付けた凪沙を連れて寮の方へ向かう。流石に部屋に入れるわけにはいかないので、プレハブの陰になるところで待っていてもらい、御幸は防具一式抱えて彼女の元へと向かう。六月の梅雨真っ只中だったというのに珍しく晴れ渡った真昼間、外で待っていてもらうのは気が引けたが、室内練習場は三年の部員が何人か素振りしていたため、やむなく外で待機してもらうことに。防具を見せるためだけとはいえ、女の子を寮に連れてきたなんて先輩たちに知られたら、一巻の終わりだ。

「よー、お待たせ」

「いえいえ」

 防具を持っていけば、少女が額の汗を拭いながらにこりと微笑んだ。日に焼けたことなどなさそうな白い肌には、珠の様な汗が浮かんでいる。本当に物好きだと思いながらケースを開けると、凪沙がハッと息を呑んだ。

「……っ!! っっっ!!」

 興奮のあまり声も出ないのか、両手で口を押さえながら震える凪沙。どこにでも売ってるような防具にこれだけ興奮するなんて、どういう感性なのか不思議でならない。

「さ、触ってみてもいいですか……?」

「……まあ、いいけど」

 触るぐらいなら、まあ。そんな思いで頷けば、凪沙はキャッと悲鳴を上げながら何か聞き分けのできない何かを叫んだ。多分『ありがとうございます』だろう。そんな少女は恐る恐るといった体でレガースに触れ、そっと両手で持ち上げる。まるで壊れ物に触れるかのような手付きに、思わず笑みが零れる。

「すごい……! 見た目より結構軽いんですね……!」

「まあ、これ着て走り回らねーとだし」

「そっか、そうですよね……わあああこれ脚にこうつけるんですよね!」

「そうそう」

 きゃあきゃあはしゃぎながら、防具を手にとっては細部まで観察し、そっと大事にケースに仕舞う凪沙。大袈裟だと思いつつ、父親に連れられて自分だけの防具を買いに行った日を思い出した。そうだ、思えばあの日の少年も、一人だけ形の違う防具を身に付ける捕手の大きな背中に憧れたのだったか。

「かっこいい……っ!!」

 そう、それがかっこよかったから、捕手になりたいと強く願ったのだ。だから他のポジション何かに目もくれず、少年は監督に向かって名乗り上げた。彼女のはしゃぐ笑顔は、そんな過去を思い出すには十分すぎた。きっと凪沙は、あの日の御幸と同じものを見ていたから。

「すてき……」

 興奮も一周回って落ち着いてきたのだろうか、うっとりと防具を見つめだす凪沙。流石にここまでくると理解ができないが。ちらり、と凪沙を見る。すると、凪沙の大きな瞳もまた御幸を仰視していて、ぎょっとした。

「な、なに」

「防具、着てみてもらえたり、しませんか?」

 恐る恐ると言ったそんな提案に、まあそう来るだろうな、と御幸は内心頷いた。制服のまま防具つけるなんて妙な気分だが、洗ったので臭いはつかないはず。それに、『着てみていいですか』じゃないだけマシだと思おう。分かったと頷いて、御幸は慣れた手付きで防具をケースから引っ張り出して、身に付けていく。

「動画撮りたいぃいい……!!」

 それを食い入るように見つめながら、口を覆った両手の隙間からそんな小声が聞こえてきた。流石にそこまではしないようだが、それでも瞳というレンズに焼き付けんばかりに見つめてくるので、死ぬほどやり辛い。何でこんなことをしているのだろうか、なんて思いながらレガース、プロテクター、ヘルメット、マスクを制服の上から身に付ける。

「えーと、これでいい?」

「……っっ!! っっっ!! っぅ!!」

 防具を身に付け、凪沙に向き合う。少女の目からは涙でも溢れそうなほどに見開かれており、両手で口を押えたままコクコクと激しく首を振る。時折悲鳴のようなものが漏れ出しているので、ぜひそのまま押さえこんでいて欲しいものである。

「かっっっっっ……こいい……っ!!」

 溜めに溜めて、ようやく凪沙は言語らしい言語を漏らした。綺麗な女の子に褒められたら多少は嬉しいはずなのに、何故かちっとも嬉しくない。恐らく、語尾に『推しが』という一言が見え隠れしているからだろう。現に彼女の視線は御幸ではなく御幸の防具に吸い寄せられているわけで。

「しゃ、写真……!」

「流石にそれは勘弁」

「じゃ、スケッチ! スケッチしてもいいですか!?」

「これ着たままぁ!?」

「十分……いえ、五分で終わりますからぁ!!」

「五分で!?」

 そう言いながら、オレンジ色のスケッチブックと鉛筆を引っ張り出す凪沙。準備が良すぎる。

「お願いします!! お顔までは描きませんから! 首から下だけでも描かせてください!! 貴重な資料なんです!!」

 首から下だけっていうのもどうなのか。心の底から御幸本人には興味がないことだけは伝わる。そうして何度かの押し問答の末、その熱意に押し負けた御幸は『首から下だけな』と頷く羽目になった。彼女は大急ぎでスケッチブックを捲り、御幸を睨みつけるように観察しながら鉛筆を素早く走らせる。

「えーと……俺、どうしてたらいい?」

「動かないで頂けたらどんなポーズでも!」

「……ほんとに五分だけな?」

「勿論です! いえっ、欲を言えばあと数時間と言いたいところですが!」

「数時間は無理だから」

「さ、流石にそこまで非常識じゃないですよっ!」

 心外とばかりに声を荒げる凪沙に、どうだかな、と御幸は声に出さずに胸の内に答える。常識人か非常識人かと聞かれれば、正直即答できないでいた。けれど、彼女がこうでなければ、御幸はこんな風に凪沙と話すことはなかっただろうし、いくら見返りがあるとはいえ貴重な休み時間を割いてまで防具を見せるなんて真似はしなかっただろう。凪沙が変な子でよかった、とは思わないにしろ、この不思議な関係を『友情』というカテゴリに含める程度には、御幸一也にとって天城凪沙は近しい存在となっているのかもしれない。

「……しかし、今更こんなこと言うのもなんですが」

 彼女はスケッチブックと防具を交互に目をやるのを止め、顔を上げる。御幸にとっては珍しく真剣な表情で、思わず背筋が伸びる──すると。

「御幸さん、ほんとに野球部だったんですね……」

「今更すぎるだろっ!!」

 しみじみと呟く凪沙に、思わずでかい声で突っ込んでしまった。本当にこの少女は自分のことを何だと思っているのか、と。大真面目にそんなことをのたまう彼女に、思わず脱力する御幸。

「すみません、普段制服姿の方が見慣れてるから」

「そりゃそーかもだけど……俺そんなに似合わない?」

「とんでもない。とてもよくお似合いですよ」

 思いもよらぬストレートな褒め言葉に、思わず面食らった。だが、凪沙は静かな眼差しをスケッチブックに注ぐだけだった。特に何も考えずに発言したのだろうか、なんとなく、彼女らしくもない言葉だと思った。凪沙という少女のことを、御幸はほとんど知らないというのに。

 じわり、と汗が浮かぶ。蒸すような炎天下で、遠くにセミの唸る声と、柔らかな紙に鉛筆が滑る音、遠くに誰とも分からぬ生徒たちの笑い声が聞こえてくる中で、二人の間の会話がぷつりと途切れる。

「(……らしくねーの)」

 いつになく真剣な凪沙の顔に、御幸はそんなことを思ったのだ。きっと、たぶん、それだけだった。

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