9.掃き溜めの鶴に、銃口

 御幸一也は、騒がしい空き教室を前に呆然と佇んでいた。

 どうしてこうなった。御幸も思っただろうが、彼女も同じ思いだったらしい。天城凪沙は困惑した表情で、視線を泳がせている。二人してプリントの束を抱えながら、険しい面持ちで顔を見合わせた。

「……なんか、悪いな」

「い、いえ。ちょっと予想外ではありますが……!」

 凪沙は最大限言葉を選びながら、そのように答えた。目の前には、青道野球部二年生のほとんどが、でかい図体を空き教室に押し込めてぎゃあぎゃあ騒ぎながらノートやら教科書やらを広げている。教室前でそんな姿を目の当たりにした御幸は、横にいる凪沙に心底申し訳なく思いながら教室の戸を開けた。

 話は、数日前に遡る。

『御幸さんお待たせしました。こちら、約束の品です』

 それはテスト前の出来事。隣にいる凪沙が、何冊かのノートとプリントの束を差し出してきた。それが以前、『防具を見せる代わりにテスト対策ノートを作ってもらう』という取引の報酬であることすぐ気付いた。

『サンキュ。……うわ、これすげえな』

『要点に加えて応用問題対策もおまけしておきました。最悪これ丸暗記していただければ数学以外は八十点以上確実ですよ!』

 ふふん、と得意げに胸を張る少女はこのクラス──どころか、学年トップレベルの才女である。ぱらぱらとノートやプリントを捲ると、授業の内容がこれでもかと分かりやすくまとめられている。漫画研究部らしく可愛らしいイラストやカラーペンで彩られており、女子のノートっぽい、なんて思った。

『これ、いつまでに返せばいい?』

『いつでも結構ですよ?』

『いやいや、天城さんだって勉強する時に要るだろ』

『んー……これを作った時点で、復習は終わったようなものですし』

『マ、マジか……』

 どうやら才女はテスト前にわざわざ一夜漬けしないらしい。であれば、ありがたく頂戴するとしよう。これでテスト勉強が楽になる。そしたら、その時間は自主練習に使える。テスト期間の部活は強制的に休みになるが、自主練習は可能だからだ。

『あ、もしレクチャーが必要なら、今なら無料でお付けしますよ』

『へー、福利厚生充実してんね』

『御幸さんにお返しできるの、これくらいしかないので』

 これだけが取り柄ですから、と肩を竦める凪沙。謙遜しているように見えて、勉学にはこれほどまでの自信があるのだと暗に告げる彼女の横顔が、これほど頼もしく見えた日はない。

 使えるものは、何だって。貪欲に追及するのが、御幸一也という男だった。

『天城塾って、古文とかも頼める?』

『ええ、ええ。お任せください、文系は得意分野です!』

 迷いなく答える凪沙。そして、そのまま続けてこう言ったのだ。

『何なら、他にも困ってる方いたら塾に誘ってあげてください』

『え、いいの?』

 そのお誘いは大変ありがたい。周りは揃いも揃って野球馬鹿ばかり、テスト前に大騒ぎしてギリギリをやり過ごしては監督に厳しい視線を寄越されるばかり。凪沙ほどの助力があれば、これほど心強いことはない。ただ、当然教える側の負担も増える。いいのかと再度訊ねると、彼女はちょっと気まずそうに身じろいだ。

『ほら、マンツーマンだと、誰かに見つかったら面倒ですし』

『あー……そりゃそっか』

 確かに、ただでさえ仲を勘ぐられているのだから、放課後二人きりで勉強会なんて姿を見られたらどうなるか火を見るより明らかだ。凪沙のことは異性というよりも『変な奴』として認識しているため、つい警戒心が薄れていた。

『分かった、何人か連れてくわ。いつなら空いてる?』

『平日ならいつでも大丈夫ですよ。バイトは土日にずらしてありますので』

 テスト前だからといってバイトを休んで勉学に励むわけではないようだ。つくづく彼女の頭の良さには感服する。そんな彼女の好意と気遣いに甘え、何人かのチームメイトを誘って、次の金曜に勉強会を開くことにしたのだった。

 まず最初に誘ったのは、同じクラスの倉持だ。凪沙とも面識はあるし、テスト勉強が不要なほど頭がいいわけでもない。なので部活の後、風呂に入っている時にふと思い出した提案をチームメイトに告げる。

『倉持、金曜に天城さんが勉強教えてくれるらしいんだけど、来る?』

『は? んだそりゃ、なんでそんな贅沢してんだ、テメェ』

『日頃のお礼なんだと。サシだと誰かに見つかったらめんどくせえし、寧ろ来てくれると助かるんだけど』

『……行く』

 一瞬間を置いたが、倉持は迷いなく頷いて湯船から出て行った。倉持だって赤点回避のために必死に机に齧りつくタイプだ、この提案は渡りに船に違いない。おまけに──本人は『ちょっとイメージ違ったわ』とのことだが──顔はタイプと言っていたし。

 あと誰に声をかけるべきか、と湯船に浸かりながら候補者の顔を浮かべる。あまり下心のなさそうな奴がいいだろう。白州や川上なんかは真面目でいい奴だし、ベンチメンバーだから、彼女の助力は次の夏の大会に直に響くに違いない。そんなことを考えながら湯気で曇った天井を見上げながら黄昏ていると、麻生や関たちがすすすと寄ってきた。

『何の話だよ、御幸』

『今天城さんって聞こえたけど、あのすげーあったまいい?』

『B組のキレーな子だよな』

『どういう関係? 彼女?』

『なになに何の話?』

『天城さんが勉強教えてくれるんだって?』

『マジで!? ぜってえ行く!!』

『え、ちょっ──』

 人が人を呼ぶとはまさにこのこと。御幸が止める間もなく話がどんどん広がっていく。倉持カムバック、と思う頃にはその場にいる全員が天城塾に参加したいと言い出してしまった。一応本人に確認を取ると保留して凪沙に持ちかけたが、恩返しすると言った手前断り切れなかったようで、彼女は『全員まとめて面倒見ますとも』と承諾したのだった。

 で、今に至る。

「……ほんとに大丈夫そ?」

「え、ええ、大丈夫です。女に二言はありませんから」

 やや緊張した面持ちだが、凪沙はコクリと頷いて教室に入った。

 一歩、少女が足を踏み入れるだけで、教室内はしんと静まり返る。凛としたかんばせは、野球漬けだった男たちには刺激が強すぎたのだろうか。掃き溜めに鶴なんて言葉があるが、誰もが鶴の存在に目を奪われ、ぽかんとした馬鹿面で教壇に上る少女を見上げている。

「初めまして、天城凪沙です。この度は御幸さんのご紹介で、皆さんの勉強のサポートをさせて頂くことになりました」

 授業中、いつも聞いている声は湖面の様な静けさがあった。あれが野球──正しくは彼女の『推し』──が絡むと五歳児のように無邪気にはしゃぎ倒すのだから、一周回って詐欺だなと思いながら、御幸も教室に入って適当な席に着く。

「分からないところがあったら何でも聞いてください。同じ質問が多ければ授業形式で解説しますので、お気兼ねなく質問頂けると嬉しいです。あと、全教科要点をまとめたノートとプリントがあるので、集団学習が不要ということであれば、それだけ取って帰って頂いても構いません」

 そう言いながら、机にプリントの束を並べていく凪沙。『今日は先生モードなので』と事前に宣言していただけあって、テンションは抑え目だ。おかげでこちらもふざける隙はないと判断したのか、みな監督を前にしたように背筋を伸ばし始めた。

「席は同じ科目ごとに固まってください。席は自由に移動頂いて構いませんし、自分の中で対策が終わったと思ったら離席しても大丈夫です。基本的には自由に勉強してください。飲み物、間食、周りに迷惑にならない程度の歓談も問題なしです」

 授業ほどガチガチに厳しいわけではないが、天城凪沙という野球部員にとってはイレギュラーな存在が場を支配するだけで、それなりに気が引き締まる。自分たちだけでは絶対に集中力が続かないだろうし、彼女がここにいるだけでも意味があるらしい。

 そうしてつらつらと天城塾の説明を続け、ただし、と付け加える。

「必ず一時間ごとに十分の休憩を取ってください。そしてその後、休憩前にしていた勉強を十分ほどおさらいしてください」

「なんで?」

「エビングハウスの忘却曲線、です」

「……な、なんて?」

 御幸が疑問を投げかけると、聞き覚えのないワードが返ってきた。凪沙はいい質問ですとばかりに、黒板に何らかのグラフを書き始めた。

「これは記憶の保持率と、それを忘れるまでの時間を示したグラフです。皆さんが何か新しいことを学んだ際、たった一時間で五十六パーセント忘却します。つまり、学んだことの半分以上覚えていられないわけです」

「半分も?」

「半分『以上』ですよ、御幸さん。ただ、学んでから二十四時間以内に繰り返し学べば、定着率は大幅に上昇します。先生方が口を酸っぱくして復習をしろと言うのには、こういう理由があるわけですね」

 にこりと笑みを湛えながらつらつらと、まるで教師のように理路整然と語る同い年の少女。

「勿論、この曲線はあくまで『新しく学んだ』際の実験結果です。おまけに意味を持つチャンクではなく、子音・母音・子音から成る無意味な音節を記憶させたものです。人間の記憶は他の記憶と結びつきますから、無意味な情報よりは定着率が高いとされています。おまけに皆さんは一度学んだことを再び学ぶのですから、学んだことの半分を忘れるなんてことはないはずだと、信じています」

 得も言われぬ圧に、そろそろ誰もが気付いただろう。学校が誇る成績優秀・才色兼備の同級生との勉強会は、決して周りが騒ぎ立てるほど良いものではなかったのだと。ちょっと噂のあの人とお近づきに、なんて甘い考えはすぐさまゴミ箱に捨てる羽目になったと気付いた頃にはもう遅く。

 ぱん、と両手を合わせて微笑む彼女は、何故か背筋が震えるほどに美しい。

「天城凪沙の名にかけて、誰一人赤点なんて取らせません」



***



 結果的に言えば、教鞭を取った天城凪沙は誰から見ても良い教師であった。一人一人が理解できるまで根気強く教えてくれるし、何より話が分かりやすい。特に数学教師は話しかけるのも気遅れするほど厳しく、しかも教えが分かりにくいため、彼女の解説は大人気であった。おかげで凪沙は数学壊滅組に引っ張りだこで、当初御幸が頼んでいた古文の解説は聞けずじまいだった。だが、彼女がまとめてくれたノートやプリントは非常に分かりやすく、これだけでも十分な収穫である。

 何より、赤点予備軍たちが美人教師に揉まれた結果、目覚ましい成果を発揮していたのだ。前園や倉持、麻生辺りは数学に対してひどく苦手意識があったようだが、それが嘘のように少女の褒め言葉が飛び交っていたのだ。

「前園さん、自信を持ってください。ちゃんと合っていますよ!」

「ほ、ほんまか……?」

「嘘吐く意味がありませんよ。その証拠にほら、簡易テストも全問正解です!」

 彼女はわざわざ小テストを自作して彼らに自信を付けようと奮闘していた。その甲斐はあったようで、彼らの表情は数時間勉強漬けにされたとは思えないほど明るい。反比例するように教室はもう薄暗く、夕食の時間が近付いているためあちこちから腹の虫が鳴りだした。そろそろ潮時だろう、それを悟った凪沙は前園から離れて再び教壇に上る。

「皆さん、今日はもうお開きにしましょう」

 普段であればやっと終わったとばかりに歓声が上がるところだが、確かな手ごたえと達成感、何より外部講師の奮闘に、誰一人そんな礼を欠いた声を上げなかった。寧ろ、どこからともなく拍手が鳴り出すほどだった。

「ええ、ええ、皆さんお疲れさまでした。今日の内容を一日十分で結構ですから、毎日復習してください。そうすればテストなんて恐るるに足らず、です!」

 温かな拍手を前に、先ほどまでの真剣さとは打って変わって、にこやかな雰囲気の凪沙に何人かがぼーっと目を奪われている。前園健太もその一人だった。単純な奴らだと、頬杖をつきながら御幸は思う。

「それでは私はそろそろお暇させて頂きます。皆さん長い時間お疲れさまでした!」

 ぺこり、と礼儀正しく頭を下げる凪沙。お礼を言いたいのはこちらの方だと、示し合わせたわけでもなく誰もが立ち上がった。そうして一斉に頭を下げた。

『『『ありがとうございました!!』』』

 教室がぐわんと揺れたと錯覚するほどの大音量に、小柄な少女は飛び上がるほど驚いていた。先ほどまでは大の大人程もある体格の球児たち相手に淡々と教鞭振るっていたというのに、今は普通の女の子に見える。そのギャップに、御幸はまた鼻から抜けるような笑いを漏らした。

 お開きになるとみな凪沙に声をかけたそうにうずうずとしていたが、当の本人がきびきびと後片付けをし、教室を閉めるからさっさと出て行くよう告げるので、一人、また一人と男たちは教室を去っていく他なかった。少女の鉄壁は、たかだか勉強会ぐらいでは崩れてくれないらしい。

「あ、そうだ、御幸さん」

 全員を教室から追い出し、ドアを施錠する凪沙に、御幸ただ一人が呼び止められた。何人かが色めき立って振り返るも、凪沙は真顔のままだった。

「先日借りた本をお返したいんですが、お時間よろしいですか?」

「え、もう読んだの? 五冊ぐらい貸さなかったっけ?」

「テスト期間は暇なので、つい」

 そんなバカなと誰もが顔を引き攣らせたが、それが嘘ではないということ、この数時間で全員が思い知った。凪沙は先ほどと変わらぬきびきびとした所作で御幸と話しを続ける。

「ただ、少々重たいので、今ロッカーに保管しているんです。このままお引き取り頂いても構いませんか?」

「分かった──わりー倉持、先メシ行ってて」

 業務連絡のように何気ない会話を交わす二人に、なんだそういうことかと、どこか残念そうな嬉しそうな顔で少年たちは足早に去っていく。残された凪沙はちらりと御幸を見上げる。

「じゃあ、行きましょうか」

「おお」

 そうして半歩先を歩く凪沙の後を、御幸が追う形で歩き出す。薄暗い廊下を、二人で行く。テスト期間のためどこも部活はやっておらず、学校は昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。普段なら聞こえてくるはずの軽音部や吹奏楽部のパート練習と思われる楽器の音も、運動部の声出しも、今は遠き日の幻のようだ。そんな静寂に包まれた階段を降りながら、御幸はふうと一息零す。

「今日はありがとな、助かった」

「いえいえ。少しでも恩返しになれば幸いです」

「ほんとはもっと少人数規模だったんだけど、あいつら天城さんの名前に釣られたみたいでさ……」

「ふふ、恐縮です。でも皆さん、浮つかずに真面目に勉強してくれましたし、思った以上に楽でしたよ」

「マジで?」

「ええ、大人しく椅子に座ってくれてるだけで、手放しで褒めたいぐらい」

 一体何と比べているのか、彼女のアルバイトの実態を知る御幸は深くは追求せずに乾いた笑いを漏らす。そんな会話を続けながら暗い階段を降り、ロッカーへと向かう──はずなのだが、彼女の足取りは御幸の思い描く場所とは全く違う方へ進んでいく。

「天城さん?」

「──私、約束は守る方なんですよ、御幸さん」

 そう言いながら足早に歩いていく彼女を、御幸は不思議に思いながらついていく。そしてとある教室の扉の前で足を止め、凪沙はにこりと微笑んだ。

「古文の解説、まだできていないじゃないですか」

「え──」

「だから、天城塾・延長戦です」

 そう言いながら凪沙はポケットから鍵を取り出す。ドアを見上げると、プレートには古ぼけた字で『漫研部室』と書かれていて。

「この時間、この部室なら誰も来ません」

「や、でも──」

「御幸さんが、気にしないのであれば」

 そう言って鍵を開ける少女を見下ろす。誰よりも声を出して誰よりも教室中を駆け回り誰よりも頭を使っただろう彼女が、御幸の為だけに、約束を守るために時間を使うと言っている。これは、まごうことなき『好意』である。もっといえば親切であり、信頼でもあるのだろう。それを素直に受け取っていいのか、躊躇いが生じる程度の常識は御幸にもあった。

 けれど、その好意を突っぱねるだけの理由は、御幸にはなく。

「……じゃ、お願いします」

 正直疲れているし、腹も減った。おまけに一人だけ遅くに戻ったら、倉持たちから勘ぐられるかもしれない。それでも、「お任せ下さい」と誇らしげに胸を張る少女を前に、そんな面倒なあれやこれやは不思議と溶けてなくなっていくのだった。

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