EX.小悪魔ロマンス

※夢主が性犯罪に巻き込まれる描写があります

※本当に何でも許せる方向け














 御幸一也は、柄にもなく焦っていた。

 原因は、つい先日付き合い始めた天城凪沙にあった。ただ、彼女自身に悪気はなく、また悪意もない。ただ良かれと思ってのことだろうと理解しているため、御幸も強く言い出せずにいた。だってきっと、彼女はただただ御幸が好きなだけで、ただただ間が悪かっただけなのだ。



「──あ、やべ。財布忘れた」

 きっかけは、付き合って数日経ったある日のこと。デートだのなんだのと恋人らしいことができずにいる御幸は、少しでも時間を作るために凪沙を駅まで送ることにしていた。なのでその日も二人で夜の道を行こうとした時だった、うっかり部屋に財布を忘れたことに気付いた。外出ついでに買い物するほど金銭的な余裕はないのだが、今日はたまたま先輩に捕まり、パシられてしまったのだ。

「わり、ちょっと待ってて」

「ん、分かった。急がないし、ゆっくりでいいよ」

 凪沙がニコリと微笑む。敬語の外れた凪沙は新鮮で、未だに彼女の領域に踏み込むことを許されたのだと思うとむずむずとした気持ちになる。日も暮れた学校は暗く、少女一人残すのは忍びないので少しでも明るい校門で待っているよう告げ、御幸はダッシュで財布を取りに行く。

 部屋に戻って、財布を取って、校門へ戻る。時間にして五分とかからなかった。だというのに、そのたった五分でトラブルは容易に発生するのだと、御幸は知る由もなかった。

「凪沙、お待たせ──」

 そう言いながら、凪沙に近づいた御幸は物の見事に凍り付いた。何故ならこのたった五分の間に、彼女は一人じゃなくなっていたからだ。凪沙の前には、見知らぬ男が一人。対する凪沙は無表情のまま、目の前にいる男などまるで見えていないようにスマホを覗き込んでいる。だが、男を見るなり御幸は驚きのあまり咽こんだ。男──四十代ぐらいだろうか──は、なんと下半身丸出しだったのだから。

「おっ、おま──ッ!!」

 一瞬、妖怪か何かかと錯覚したほど、それは異質だった。所謂、変質者だと気付くまで時間を要したのは、御幸のような大柄な男にそういった連中が無縁だったからだ。

 そんな混乱に乗じ、変質者は御幸に見つかるなり素早くズボンを引き上げると、脱兎の如く逃げ出していった。引き留める間もなく去っていった男に、徐々に怒りが込み上げてくる。しまった、逃がした。顔もろくに見ていなかったのに──違う、それよりも凪沙を。こういった事態に直面したことのない御幸は、年相応に焦っていた。だが、それよりも凪沙だ。彼女が一番の被害者なのだから。

「凪沙! 大丈夫か!!」

「ん? 平気平気」

 美しい恋人は、スマホから顔を上げてニコリと微笑んだ。まるで先ほどの変質者は、御幸にしか見えなかったかのような反応だ。

「平気って、お前……!!」

「慣れっこだから、ああいうの。……まあ、学校のこんなところで変質者に会うのは、流石に初めてだったけど。ほーんと、どこにでも湧いてくるねえ」

 凪沙は何でもないように告げて、いそいそとスマホを仕舞う。強がりでも何でもなく、本心からそう思っているように見えるのが信じられない。御幸でさえ、見ず知らずのオッサンの丸出しの下半身にショックを受けているというのに。

「一也くんこそ、大丈夫? 変質者なんて初めてでしょう?」

 そうして彼女は御幸の心配すらしてしまうのだ。まるでちょっと気色悪い虫を見たとばかりの、カラリとした反応。美しい彼女が異性に人気があることは知っている。だけど、その美しさにはこういった被害も出るのかと、御幸は初めて痛感した。

「……悪い。こんなとこに一人で待たせるべきじゃなかった」

「ううん、謝らないで。悪いのはああいう性犯罪者なんだから。それに私だって学校近辺であんなのが出てくるなんて思わなかったから……今度から気を付けるね」

 ふむぅ、と唸る凪沙は空しくなるほど普段通りだった。まだ怖かったと泣き喚かれる方が、ずっとよかった。こんな──こんなおぞましいものが、彼女にとっては日常であることが、ただ辛かった。女の子だから、綺麗だから、ただ弱そうだから、そんな理由で彼女がつけ狙われるのかと思うと、はらわたが煮えくり返りそうだ。

「それに、もう警察に通報したから大丈夫!」

「えっ、いつの間に……」

「此処だけの話、私のお父さん、警察なの。ライン一本で即通報できちゃうんだ。……って、そもそも通報するようなことに巻き込まれるなって話なんだけどね!」

 おどけて笑う凪沙に、ズキリと胸が痛む。そんな顔、させたいわけじゃない。だけど、強かであろうとして──或いはあり続けた結果、今に至る彼女に、そんな言葉をかけていいものか、迷う。慣れたのではない。慣れなければ、彼女の心を守ることはできないのだと、御幸は悟ってしまったのだ。

 そんな御幸の暗い顔を見て、凪沙は慌てて言葉を付け足す。

「き、気にしないで! ほんとによくあることだから! ゴキブリ見たようなものだし! ……まあ、力では勝てる分、ゴキブリの方がマシなんだけど」

「……」

 その言葉に、やはり本当は強がっているだけだと分かる。例え慣れたとしても、どう考えたって気持ちのいいものではない。同じ男である御幸だってそう思うのだから当然だ。怒りとも悲しみとも取れぬ感情が胸に渦巻き、言葉が出ない御幸に凪沙は少しだけ寂しそうに笑った。

「……分かってる。ほんとは怒った方が良いって。でもね、もうこんなの珍しくもなんともないの。だから、いちいち怒って、悲しむのは疲れちゃった」

「……」

「あ、だからって泣き寝入りはしないよ。お父さんの正義の名の元に、捕まえてもらう。許さないよ、絶対。例え慣れても、それだけは、絶対に」

「……」

「全く、なんでああいう人ってどこにでもいるんだろうね。性欲を持て余して、他人を巻き込まなければ発散できないなんて……本当に、おぞましい」

 その一言が、きっと彼女の怒りで、本音だった。当然の反応だと思う。御幸だって気持ち悪いと思ったほどだ。彼女の言い分は、何一つ間違いではない。二度と彼女を一人にして暗い場所に置き去りにしないことを誓いながら、御幸は凪沙を連れて駅まで歩き出す。彼女は被害者だ。彼女は正しい。彼女は、傷ついているのだから。だから、守らなければ、と。

 ──故に、自分自身に言い聞かせる。そんなおぞましい感情を、他でもない御幸もまた抱いているなんて、知られてはいけないと。手を繋いで隣を歩き、目が合うとふわりと微笑む恋人は本当に美しい。腹の底が、ぐらりと揺れるほどに。故に、悟られてはいけない。気付かせてはいけない。隣で歩く男もまた、変質者と同じような劣情を彼女に向けているなんて、絶対に。



***



 ただ、そんな誓いはわずか数日で揺らぐ羽目になった。

「一也くん、お昼行こ?」

「お、おおー」

 凪沙と付き合いだしたことは隠すつもりはなかったので──お互いの人気具合を考えれば、寧ろ隠す必要は皆無である──、男女問わず様々な好奇の視線に晒されるのは、別段不都合はなかった。敬語と敬称がなくなっただけで、基本的に彼女の態度はさほど変化ない。それでも、“あの”天城凪沙が男子生徒相手にこれほど砕けた口調で話すのは、御幸の知る限り自分以外にはいない。それはほんの少しだけ、少年の心に優越感を生み出していた。ただ。

 適当に購買で昼食を調達し、二人で人のいない場所へと移動する。告白をすることになった屋上へ続く階段は薄暗いが人が少なく、二人きりになるには格好の場所だった。これまでは、いい。これぐらいなら、全然。問題は、これからだった。

「(ちっか……!!)」

 いつも階段を椅子代わりにして並んで座るのだが、どうも凪沙との距離が近いのだ。互いの膝や肩の距離はほぼゼロである。普段人目のある場所で、凪沙は決してこんなにくっついてはこない。だから、敢えてそうしているのだということは分かる。意外と甘えたがりなのだろうか、それは可愛いし好意自体は嬉しく思う。そうしてくっついて食事をして、その後はとりとめのない穏やかな会話が続く。野球のこと、勉強のこと、お互いのこと──話したいことは、山積みだ。ただ、この状況で冷静でいられるほど、御幸は大人ではない。

 こうして誰かと付き合うのは初めてだ。何ならこんな明確に『好きだ』と他人に対して感じたことはない。ただ、そうはいっても御幸もまた健全な男子高校生である。ちゃんと精通はしているし、女の子に対して性的興奮を覚える。溜まっていれば一人で抜くし、そのお供は大体先輩たちからお下がりで貰ったAVやエロ本なわけで。つまり、何が言いたいと言うと、だ。

「(やべぇ……勃ちそ……)」

 この至近距離に、御幸はとんでもなく興奮しているのだった。

 隣り合っているだけとはいえ、柔らかで温かな肢体がぴったりと御幸にくっついているのだ。それだけで意識するなという方が無理な話なのに、何でか凪沙はとんでもなくいい匂いがする。甘くて、ふわふわした、形容しがたいその匂いが鼻孔を擽るだけで下っ腹が熱くなる。ちょっと首を傾ければキスでもできそうな距離で、少女は警戒心一つ見せずにたおやかに笑っている。どんな拷問だと御幸は凪沙に見えぬように太腿を思いっきり抓って、どうにか理性を繋ぎ止めていた。

 それでも、どうにか理性を手放さずに済んだのは、その痛みと先日の彼女の言葉があってこそ。『おぞましい』──そう告げる凪沙の瞳は、憎悪すら感じるほど侮蔑に塗れていた。知らぬ仲ではないとはいえ、御幸もまたそんなおぞましい性欲を抱いていると知れたら、どんな反応をされるか分からなかった。嫌われたくない、その一心で御幸は目の前の魅力的な恋人に手出しをしないよう必死だった。

「これは首里城の写真。良く撮れてるでしょ?」

「あ、ああ……」

 なのに凪沙はこちらの苦労など知らぬ存ぜぬと言わんばかりに距離を詰めてくるのだから、その場で頭を抱えたくなるというものだ。無邪気に御幸にスマホの画面を見せようと、思いっきり身を預けてくるのだ。柔らかそうな耳に艶やかな髪をかけ、凪沙は熱心に喋りながら画面をスワイプするも、全く話が耳に入らない。修学旅行に行けなかった御幸にその当時の楽しさを事細かに伝えてくれているのに、御幸の頭には凪沙の匂いやら柔らかさやらそんな浅ましい欲望ばかりだ。

「それで、これはシュノーケリング体験!」

「ああ……お前、溺れたんだっけ?」

「うっ、よく覚えてたね……」

 ウェットスーツを身にまとい、友人たちと並んで笑う凪沙の写真を見る。身体のラインがモロに出るその格好は些か青少年には刺激が強いものの、黒く武骨なスーツのデザインのおかげでなんとか一線を越えずに済んだ。浮き出た胸部やくっきりと凹んだくびれは、薄眼で見ることで事なきを得た。

 そんな会話を交えながら、早く昼休みを終えるチャイムが鳴らないかと御幸は必死に願う。おかしい、こうなると分かっていたから昨日抜いてきたのに、全然足りない。このふにゃふにゃでいい匂いのする存在に、己の欲望を押し付けたいと本能ががなり立てる。けれど、そんなのあの変質者と何が違う。あのおぞましい男の性と同じだと、彼女に知られてしまうのは恐ろしかった。

 凪沙に、嫌われたくない。なのに。

「それで、その後にビーチバレーをして──」

「ぶっ」

 そうして白い指がスワイプした瞬間、御幸は終わったと思った。薄暗いこの場所にスマホの画面が煌々と光る、そこには友人たちとビーチバレーに興じる恋人の姿があった。弾けるような笑顔が眩しいほどだ。だが、先ほどまで身に付けていたはずの黒いウェットスーツとは打って変わったほぼ肌色一色。鮮やかな花柄のビキニに、大きなリボンがあしらわれてたそれを、彼女は見事に着こなしていた。だめだ、意識するな、目を背けろ──そんな警告が脳裏に鳴り響くのに、視線は画面に注ぎ込まれたままだった。

 日焼けなど無縁とばかりに白い肌、細く長い手足が水着から伸び、まるでグラビア雑誌のようだと思った。何より目を引くのはきゅっとくびれたウェスト回り、そして──ぼんと突き出た胸部。思わず現実の凪沙の胸元にちらりと視線が吸い寄せられたのは、不可抗力だったと言いたい。でっか、なにこれ、着やせ? 馬鹿と煩悩丸出しのワードが喉元から飛び出してきそうになり、寸で咳払いで誤魔化した。

「これ写真部の子が撮ってくれたの。すごく綺麗でしょ、自分じゃないみたい!」

 はしゃぐ彼女の言葉が、厚い厚い壁に阻まれたように遠くの音に聞こえる。マジでふざけるなとキレそうだった。こんな──こんな下着同然の格好を付き合ってる奴に見せつけてどういうつもりなのか、襲われたいのか、と。死んでも言わないが。

 それでも、鋼の理性と先日の彼女の冷たい眼差しを思い出し、どうにか“起立”せずに済んだ。危なかった。あと一歩間違えたら完全にアウトだった。助かったと胸を撫で下ろすも、焼き付いた光景は忘れられそうにない。しばらくはこれが“お供”になりそうだと、とんでもなく最低なことを考えながら薄目のままコクコクと頷く。だが、流石の凪沙も御幸の様子がおかしいことに気付いたのか、きゅっと瞳が細くなる。まずい。

「一也くん、どこ見てるの?」

「ち、ちがっ──これは、あの」

 違うも何もないのだが、人はどうして図星を付かれると否定したくなってしまうのか。ぎくりと身体を強張らせる御幸を、じいっと見上げるのは咎めるような瞳。俺は悪くない、不可抗力です、男ってこういう生き物だから──そんなぶっ飛ばされそうな言い訳ばかり浮かんできて。

 しばらくの沈黙。仰視する瞳に、背中にダラダラと冷や汗が流れる。けれど、凪沙は責めることも怒ることもしなかった。寧ろ、クスリと悪戯っぽく笑みを浮かべた。薄暗くともはっきりと分かるぐらい、頬をピンク色に染めて、美しい少女は御幸の顔を覗き込んだ。そして。


「えっち」


 ──勘弁してくれ。御幸は今度こそ気絶するかと思った。

 どこか恥ずかしそうにはにかんで、少女はそんな爆弾を叩き落として、ぴょんと座っていた階段から立ち上がった。翻る短いスカートと、まっすぐ伸びる白い足が目の前で踊り、ビシリと思考が固まった。えっち、えっちって、なんだそれ。やばすぎる。おかげで御幸はその場から立ち上がれなくなってしまった。ある意味立ち上がっているのだが、いや、言ってる場合ではない。

 そんな御幸に追い打ちをかけるように、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴り響く。あ、と凪沙は弾むような声で天井を見上げる。

「昼休み終わっちゃったね、戻ろっか」

 どうやら凪沙は御幸の不躾な目線はさほど気にしていないらしい。まあ、男性器を見せつけられてもあの態度だ、悪い意味で彼女はこういったことに慣れているのだろう。御幸にそういった嫌悪感を見せないのだけが、唯一の救いか。

 ただ、今一緒に戻ることは、どうやらできそうになくて。

「わり……先戻ってて……」

「どうかしたの?」

「あ──足、痺れた……から……」

「階段に座ってただけで……?」

 苦しい言い訳だ。自分でも分かっている。だが、どうしてもここで立ち上がるわけにはいかなかったし、このまま教室に戻るわけにもいかなかった。なので不思議そうに小首を捻る凪沙に、若干前かがみになりながら逃げ口上を述べる御幸。そんな御幸の言い訳を信じたのだろうか、凪沙は「うん、分かった」と白い歯を見せて去っていく。パタパタパタ、と軽い足取りが遠ざかっていくのを耳にしながら、御幸は階段に座ったまま深々と溜息をついた。授業開始まであと五分。どうにかいきり立った自身を沈めんと、御幸は必死で萎えそうな記憶を引きずり出す。

 ──人が羨む美しい恋人がいると、こんな厄介な悩みを抱える羽目になるのかと、少年は一人修行僧のようなポーズで煩悩を滅却するのだった。

(番外編/二年冬)

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