EX.Stille Nacht

 御幸一也は、かつてないほど焦っていた。

 地獄の冬合宿を前に御幸は珍しく野球以外のことで頭を抱えるはめになった理由はもちろん、つい先日できた恋人についてだ。そう、付き合って早々、恋人たちにとってのビッグイベントの内の一つ、『クリスマス』が目前まで迫っていたのだ。

 クリスマスは合宿真っ只中。冬休みとはいえ、デートなんかできようはずがない。早速破局の危機だと囃し立てる部員たちの野次を背負い、御幸は迷いなく凪沙に謝罪した。クリスマスは部活で、とてもデートなんかする暇がないと。まるで仕事を理由に家族サービスを断る親のようだと思っていると、凪沙は意外にもきょとんとした顔でこう言った。

「クリスマス? 私もバイトだから大丈夫!」

「……バイト?」

「冬休みでしょう? 受験間近だし、かき入れ時なの!」

 彼女は塾の講師のバイトをしている。冬場は追い込み時なのだろう、にこにこと楽しそうに笑う凪沙に、御幸はほっと胸を撫で下ろした。期待されていなかったと考えると寂しさも過るが、こればっかりは我儘を通すことはできない。

「あ、でも、ちょっとだけ会えないかな?」

「クリスマスに?」

「うん。バイト終わったら学校に顔出すから」

「……それ、何時ぐらい?」

「二十二時ぐらいかなあ」

「危ねえだろ。俺、迎えに行けねえし」

 この近辺はお世辞にも駅から近いとは言えないし、街灯も少ない。あまり夜道を出歩かせるわけにはいかないのだが、凪沙はぐっと拳を握り締める。

「ううん、平気。道中安全な方法を考えましたので!」

「安全な方法?」

「それは当日見てのお楽しみ!」

「お楽しみって……別に違う日でも──」

「……あのね、実はクリスマスプレゼントを渡したくて」

 彼女の安全第一にと思っていた矢先、そんな爆弾を落とされた御幸は激しく動揺した。プレゼント、プレゼントってなんだ、と。思えばここ数年は野球漬け、クリスマスを楽しむ余裕もなかったし、そんなものに目を向けている余裕はなかった。無論、そんな生活を続けている御幸が、『恋人に贈るためのプレゼント』など用意しているはずもなく。

 照れたようにはにかむ恋人を前に、御幸には喜び以上に動揺が走った。ただ、だからといって『いらない』なんて非情なことは流石に言えない。困惑する御幸を前に、凪沙は不思議そうに小首を傾げた。

「どうかしたの?」

「いや──えっと、俺、そういうの用意してなくて……悪い」

 かといって見栄を張っても意味はないし、嘘を吐いても事態は好転しない。こういう時、一番有効的なのは『謝罪』一択である。こういう時、器用に振る舞えない自分に嫌気が差す。けれどそんな御幸を慮るように、凪沙はふるふるとかぶりを振る。

「いいのいいの! 私が勝手に用意しただけだから!」

「けど──」

「クリスマス、顔見れるだけでいいの」

 だからお願い、とニコニコと微笑みながら頼み込んでくる恋人を、一体誰が断れようか。どうも御幸は、彼女の『お願い』に弱いらしい。無茶振りだろうがちょっと気が進まなかろうが、この邪気のない笑顔を前にするとつい頷いてしまうのだ。魔性の女だと気付いた頃には、御幸はとっくに凪沙に溺れているのだった。

「……ほんと、会うだけ、な」

「うん!」

 だめだ、自分の情けなさを露呈して尚、彼女の弾けるような笑顔に敵わない。せめてこの笑顔を曇らせてはいけないという使命感に駆られてしまう。やったやったと飛び跳ねる凪沙に、御幸は待ったをかける。

「それはいいけど、ほんとに安全なんだろうな?」

「それは平気。近付いてくる人がいたら、文字通り入院じゃすまないから」

「……入院じゃ……すまない……?」

 中々物騒な言葉が聞こえた気がするが、用心棒でも雇うつもりなのだろうか。だが、彼女はそれ以上口を割らなかった。まあ、彼女の秘策が全く見えないが、一人夜道を歩く危険は、誰よりも彼女が理解しているはずだ。

「それでは、またクリスマスに」

「ああ。気を付けて帰れよ」

「はあい」

 気付けば駅に辿りつき、御幸は静かに凪沙と別れる。今日から冬休み。つまり、地獄の冬合宿のスタートである。参ったな、と御幸はランニングがてら駅から走り出しながら、脳内会議を開始する。議題は勿論、凪沙に贈るクリスマスプレゼントについて、だ。

 Xデーまであと数日ある。昨今のネット通販は、早ければ注文の翌日に荷物が届く。資金だって問題はない。親から定期的に貰っている小遣いも野球道具にしか使わないので、溜まりまくっている。用意はしていないとは言っても、流石に貰うだけでは申し訳ないし、御幸だってチャンスがあれば凪沙にプレゼントを渡したい。ただ、合宿は辛い。練習が終わると誰もが泥のように眠りこけてしまうほどだ。そのため、プレゼントを吟味する時間がないのがネックだが、何もしなければプレゼントもクソもない。よし、と御幸は更に速度を上げて駆け出した。



***



 とはいっても、年頃の女の子の喜ぶようなプレゼントを、野球漬けの高校生男児に見繕えるはずもなく。かといって部員たちに聞くこともできず──からかわれるのもそうだが、周りも野球馬鹿しかいないからだ──、マネージャーたちにそれとなく訊ねるも、反応は芳しくない。

「定番なのはアクセサリーとかコフレセットとか?」

「でも好みじゃない物貰っても、ねえ……」

「肌に合うかも分からないですし」

「天城さん勉強できるし、文房具系とか?」

「でも普段使いする物ってこだわりあったりするよね?」

「お菓子とかどうでしょう!」

「それこそ好み別れない?」

 じゃあ何なら良いんだよ、と叫びたい気持ちを必死で飲み込んで御幸はマネージャーたちの姦しい談議に首を突っ込む。話を振ったのは自分だが、彼女たちは御幸なんか置き去りに話題に花を咲かせる。で、結局『本人に聞くのが一番いい』という、アドバイスも何もない正論が下されたのだった。

 聞くのは最終手段として、本人の好みに寄せるのが一番だろうことは分かる。ただ、付き合いだしてまだ数週間と浅く、好みも何もよく分からない。趣味嗜好は漫画やゲームのようだが、御幸にとっては門下外のジャンルである。アクセサリーだの化粧品だのはもっと分からないし、付き合いたてということもあり、肌に身に付ける物はあまり得策ではないはずだ。そうなると選択肢がお菓子や雑貨ぐらいしかなくなる。ネット通販のプレゼント特集を眺めながら、御幸は嘆息した。

「(あいつの好きなものってなんだよ……)」

 いや、一つ確実に確かなものがある。野球だ。だが、それをどうプレゼントすればいいのか全く思いつかない。彼女のことだ、練習試合のビデオでも飛び上がるほど喜びそうだが、クリスマスプレゼントとしては些か色気に欠ける。バットやグローブを贈ったところで──多分喜びはするだろうが──使い道がない。凪沙はキャッチボールができるほど運動神経よくないからだ。御幸は実用性のない物を贈るという発想が無かったので、クリスマスまで頭を抱える羽目になったのだった。

 そうして悩みに悩んでいるうちに時は刻一刻と過ぎていき、冬合宿が始まってしまった。合宿は一日を乗り越えるのがやっとで、体力は持っていかれる一方。結局、心身共に疲弊した御幸は一番無難な商品をカートに入れ、注文ボタンを押下したのだった。

 そして、クリスマス当日。

『バイト終わったので、今から学校に向かいます』

 今日ばかりはいつもより早く練習が終わり、夕食はチキンやケーキなどが用意されたり、余興が催されたりと、数少ない余暇をそれぞれ各々で楽しんでいた時だった。凪沙からこんな連絡があったのは。周りにバレないよう──実際はバレバレだったのだが──、御幸はプレゼントをベンチコートのポケットに忍ばせてこっそりと寮を抜け出し、校門まで向かう。寮から一歩外に出るだけで寒風が肌を刺し、ぶるりと震えた。寒い、晴れろ、早く春になれ、と思いながら恋人の到着を待つ。

 しかし、一体どうやってこの暗い夜道を歩いてくるのだろうか。凪沙は『道中は絶対安全!』と言い張っていたが、叔父でも連れてくるのだろうか。確か叔父が経営する塾でバイトしていると聞いている。そうなると彼女の家族に顔を合わせることになる。それはそれで厄介だと思っていたその時だった。前方から眩いライトが近付いてくるのは。

「……?」

 ぶおん、というエンジン音と共に、どんどんとライトが大きくなっていく。そうして気付けば目の前には一台のバイク。赤と黒のボディのバイクからさっと降り立ったのは、ライダーウェアにフルフェイスのヘルメットの人物。バイクを止めると、優雅な足取りで御幸のほうに歩いてきて、ヘルメットを外した──。

「凪沙!?」

「こんばんは、一也くん。メリークリスマス!」

 赤いヘルメットの下から現れたのは、サンタクロースならぬ自分の恋人だった。まさかの登場に、御幸も狼狽せずにはいられない。

「おま──これ、免許!」

「ふふん、普通二輪免許ぐらい取得済みですとも!」

「なんでだよ……お前電車通学だろ?」

「いやあ、とある推しくんがバイク乗ってたのがかっこよくて……高校生になったら絶対免許取ろうと決めてて! バイト代注ぎ込んで、去年買ったの!」

「しかも借りたとかじゃなくて自前かよ……つか、普通二輪免許ってこんなでっけーバイク乗っていいの?」

「これでもサンパンだよ?」

 そう言いながらバイクのボディを撫でる凪沙。『サンパン』が何かよく分からないが、彼女の口ぶりから法律上は問題ないらしい。バイトだの免許だの、野球に青春を捧げた身としては程遠い単語過ぎて、それだけで彼女がほんの少し大人に見えてしまう。

 そしてようやく気付く。凪沙の言っていた秘策は“これ”なのだと。『道中安全』──『入院ではすまない』──なるほど、確かにその通りだ。凪沙は結構背が高い。おまけにこの厚めのライダーウェアにフルフェイスのヘルメットでは、顔どころか男か女かも分からない。よしんば近付く者がいたとしても、バイクでさっと逃げられる。感心半分尊敬半分でバイクを見つめていると、目の前の凪沙がにこりと微笑んだ。

「今日も練習、お疲れ様でした」

「あ、あぁ、サンキュ」

 自分も朝から晩まで教え子に振り回されて奔走していたというのに、凪沙は気疲れなど一切悟らせない表情だ。寧ろ、こちらを気遣うように顔を覗き込んでくる。

「時間、大丈夫そう?」

「ん、ああ。消灯は二十三時だから」

 正確には、青心寮に消灯時間はない。起きる時間は決まっているが、寝る時間は個々の裁量に委ねられている。だから日付を超えてスイングをしている者もいれば、御幸のように二十三時きっかりに眠る者もいる。ただ、合宿中はそうもいかない。自宅通い組が寮に泊まるので、一部屋当たりの人数が普段の倍以上になる。他の部員の睡眠を邪魔しないためにも、どうしても就寝時間をある程度足並み揃える必要があったのだ。

 ただ、そんな裏事情を彼女に伝える必要はない。なので御幸は、いそいそと紙袋から何かを取り出す凪沙を他人事のように眺める。

「では改めて、メリークリスマス!」

「あ、ああ。ありがとな」

 そうして、おもむろに差し出してくる包みを、御幸は手に取る。軽い。布製の何かだろう。開けていいか訊ねると、凪沙は恥ずかしそうに頷いてくれたので、街灯の下で丁寧に包みを開ける。

「これ……マフラー? いやでも短いな……」

「ネックウォーマー。一也くん、いつも寒そうにしてるから」

 それは濃紺のネックウォーマーだった。モコモコとしたそれは、見るからに温かそうだ。この冬に重宝するだろうそれを、御幸は迷いなく頭から被る。ふかふかしたそれに顔を埋めるだけで、じんわりと温もりが湧いてくるようだった。

「どう?」

「う、うん! 似合う! 似合う!」

 コクコクと熱心に頷く凪沙。心なしか顔が赤く、挙動が不自然だ。どうしたのだろうと、眼下のネックウォーマーに触れて気付く。そういえば、これには大事なものがついていない。

「……コレ、もしかして、手編み?」

「な、何故バレ……っ!?」

 目を大きくさせ、狼狽する凪沙。やはりか、と御幸はくつりと笑みを漏らす。

「洗濯する時どうすんだろって思ったら、タグついてねえからさ」

「そんなバレ方あります!?」

 服を買う時に御幸が最も重視しているのが、手入れのしやすさである。昔から家事は御幸の仕事だった。故に、どうしてもそういう視点で物を見てしまうのだ。

 しかし、まさか手編みのプレゼントとは思わなかった。というか、どう見ても市販品にしか見えない。タグがなければ御幸も気付かなかったかもしれない。付き合ってまだ日も浅いというのに、御幸のためにせっせと編み物をしてくれたのだろうと思うと、胸がぎゅうっと抓まれたような気分になる。黙したまま得も言われぬ感情に震える御幸に、凪沙は悲しげに眉を顰めた。

「ひ、引きました……?」

「全然。なんで?」

「や、やっぱり、ホラ、手編みは重いって言うので……!」

 確かに、そういう風潮もあるだろうし、付き合ってもない子から手編みのマフラーなどプレゼントされたら流石の御幸も引くかもしれない。だが、好きな子が手作りしてくれたプレゼントを、どうして『重い』などと蔑めるだろうか。

「重くねえよ。寧ろ嬉しい」

「ほ、ほんと……? よかったあ……!」

 ほっと胸を撫で下ろす凪沙の口元から、白い吐息がふわっと吐き出される。よほどバレたくなかったのだろう。そんなの気にしねえよ、と御幸は言葉を続ける。

「凪沙、器用なんだな。市販品かと思った」

「市販品に偽装するために、すっごい丁寧に編みましたので!」

「じゃ、俺が気付かなかったら手編みだって黙ってる気だったのかよ」

「だって、こんな……私一人浮かれてるみたいで……!」

 恥ずかしそうに俯く凪沙。そんなことない、と御幸はベンチコートのポケットに手を突っ込んで、プレゼントを取り出す。

「え、かず、く──それ……!」

「浮かれてんのは、お前だけじゃないってコト」

 凪沙の顔が、見る見るうちに輝きに満ちていく。そんな嬉しそうな顔をされるシロモノではないので、御幸は慌てて付け加える。

「あのな、別に大したモンじゃねえぞ」

「でも、そんなっ、用意してないって!」

「用意してなかったけど、何もナシって訳にはいかねえだろ」

「私──やだ、そんな、催促したみたい……!」

「いーから!」

 あわあわする凪沙に、御幸はそれを押し付けるように渡す。両の手のひらに乗るぐらいの大きさの箱の中身は、凪沙の手編みネックウォーマーに比べたら随分と質素なプレゼントである。それでも、凪沙が気に入ればと祈りながら必死に忙しい時間を塗って吟味したものである。

 喜んでもらえるだろうか、それとも、センスがないと呆れられるだろうか──凪沙がそんなことを言うとは思わないが──、そう考えるだけで底なしの不安に足を突っ込んだような気分になる。

「あ、開けていい……?」

「いいけど、ほんと期待すんなよ」

 しつこく予防線を張る御幸を他所に、凪沙は頬を上気させながら箱を開けて、アッと息を呑んだ。中身はただのマグカップだ。クッキー付きの、いかにもそれっぽいギフトである。だが、凪沙はまるで素敵なおもちゃを与えられた子どものように目を輝かせた。

「えー! かわいい! 野球ボールの形してる!」

「お前の好きなもん、よく知らねーからさ」

 唯一、自分なりの要素を盛り込んだのは、カップの形。蓋を被せると野球ボールになるマグカップだ。白地に赤の縫い目が描かれたそれを、彼女嬉しそうに抱きしめる。

「すてき! ありがとう、一也くん! 毎日これでコーヒー飲む!」

「毎日は飲みすぎだろ」

 意気込む凪沙の目は真剣そのものだ。本当に毎日コーヒーブレイクしそうである。思いのほか喜んでもらえて、ほっとした。ああ、よかった、がっかりさせなくて済んだ。ひとまずは山場を乗り越えられたようである。次はこんな思いをしなくていいように、彼女の好みをじっくりとリサーチしていこう。大丈夫、時間も機会もある。こんなにも喜んでもらえるなら、リサーチぐらいくらでも、だ。

 子どものようにはしゃぐ凪沙を見ていると、思わず顔が緩みそうになる。彼女がこんなにもかわいい。そんな馬鹿馬鹿しいセリフが脳裏を過るほどだ。必死に表情筋を律して耐え忍ぶ。すると、凪沙は所在なさげにぶら下がっている御幸の手を躊躇いなくぎゅっと握った。手袋越しとはいえ、突如手を取られて心臓が跳ねた。

「ありがとう! バイク飛ばしてきてほんとによかった!」

「……帰り、気を付けろよ」

「勿論! 安全第一ですとも!」

 繋いだ手をぶんぶんと振って、ニコニコとはしゃぐ凪沙。そんな気は一切ないのだろうが、年頃の少年にはいささか心臓に悪い。意識してないであろう凪沙を前に、御幸はそんな邪な態度を出さないよう務めた。

 御幸は冬が嫌いだった。バッティングするだけで手は痺れるように痛むし、寒さは筋肉を縮ませて故障の元にもなるし、朝は布団から出るのが億劫になる。いつだって夏空を求める高校球児として、真っ当な考えである。けれど、今だけはこの凍てつくような寒さがありがたかった。そうでなければ、彼女はきっと素手だった。雪も降ろうかという気温でなければ、こんな厚い皮手袋など決して身に付けていなかっただろうから。

 手袋越しでよかったと、御幸は視線を逸らしながらそんなことを思ったのだった。

(番外編/二年冬)

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