EX.小悪魔アタック

 天城凪沙は、思いがけぬ強敵を前に攻めあぐねていた。

 強敵というのは先日から交際がスタートした御幸一也のことである。ただその交際自体に問題があるわけではない。確かに、御幸は毎日夜遅くまで部活があり、デートだのなんだのと一般的に恋人らしいことはあまりできていない。それでも、御幸は御幸なりに忙しい時間を縫って、二人で過ごす時間を作ってくれた。遊びに行くことはできないが、昼休みに二人で過ごしたり、授業の合間にお喋りをしたり、帰りに駅まで送ってくれたりと、努力してくれる。好きすぎる。ラブ。一生応援する。初恋に浮かれた凪沙は、割とバカップル脳が極まっていた。

 さて、そんな御幸と付き合って一か月ほど経過したが、凪沙はとある悩みがあった。悩みというか疑問というか、あれれおかしいな、と思う出来事があった。

「(一也くん、手出してこないなあ……)」

 付き合って一か月、二人の仲は手を繋ぐだけで進展はなかった。

 恋愛に対して、凪沙はある程度の理解があるつもりだった。漫画にゲームに小説に映画にドラマ、恋愛を題材にした作品は山ほどあるし、それらを好き好んで履修してきた。なので、好き合っている者同士が付き合い始めてからのノウハウも、持ち合わせているつもりだった。『手を繋ぐ』は思いのほか早くクリアできた。だが、その先が音沙汰なしだ。デート、ハグ、キス、そしてセックス。できること、したいことは山ほどある。なのに御幸は一向に手出ししてこないのだ。

 なので凪沙なりに、モーションをかけてみることにした。自分から行くのは少々はしたないかもしれない、という恥じらいはあったので、あくまで誘うだけ。誘い受けという奴だ。二人きりになったら身体を密着させたり、積極的に手を繋いだり、恥を忍んで水着姿の写真まで見せたことがあった。それでもなお、御幸は一歩と踏み出さない。

「(無反応ってわけじゃないんだけど……)」

 仮に御幸がそういったことに一切興味のないタイプであれば、凪沙も潔く手を引いた。恋愛感情と肉体的接触はまた別物、と考える人だって少なくないと聞く。だが、少なくとも御幸はそうではないように思えた。凪沙がくっつくとあからさまに動揺するし、水着の写真を見せた時にはその下半身はしっかりと勃起しているのが見えたからだ。

「(何で触ってくれないのかな?)」

 御幸一也の気遣いなど露とも知らぬ、少女は一人疑問を抱く。

 というのも、凪沙は割とスキンシップが好きだった。親しい人にハグされるのは好きだ。手を繋いでもらえると嬉しいし、頭を撫でてもらうのは心地よい。無論、親しくない、全く見ず知らずぬの連中にやられたところで身の毛がよだつだけ。痴漢やら変質者に何度となく吐き気を催す行為をされてきたのも事実だが、それを上回る愛情の形を、天城凪沙はこれでもかと注がれて育ったのだ。

 なのでぜひとも御幸にもそういうスキンシップをしたいし、してもらいたい。なのに、御幸は堪えるような顔をするだけで指一本手出ししない。その誠実さを愛おしく思いはするが、それ以上に御幸に触れて欲しいという気持ちが勝った。だが、攻防すること一か月、御幸は未だ一歩と動かない。なので。

「一也くん、なんで手を出してくれないんだろう……」

「イヤァッ! 聞きとうないッ! 友達のそういう話は聞きとうないッッ!」

 一人で悩んだところで解決はしない。恋愛に関してはポンコツかましたばかりである、あまり自分の『分かってます』は宛てにならない。いくら数多の恋愛作品を手に取ってきたとはいえ、人の数だけ愛がある──なるほど瑠夏の言うとおりである。難しい数式だって、一人で悩んだところで解は降りてこない。なのできっかり一か月の攻防の末、大人しく降参した凪沙はまず瑠夏に相談した。だが、思いのほか拒否反応が強かった。

「勘弁してよ……自分も年齢=彼氏無し歴なのに、人の相談に乗れるわけないじゃん……」

「だけどこんな話、瑠夏ちゃんしか相談できないから」

「ウグッ……」

「ね、お願い」

 数少ない凪沙からのお願いに、瑠夏はめっぽう弱い。だから必死に頼み込む凪沙に、瑠夏は仕方ないとばかりに首をがっくりと落とした。

「そもそも、なに。何でそんな話になったの」

「なんでっていうか、一也くんが全然手出ししてくれなくて」

「まあ、あいつそういうタイプじゃなさそうだしね……」

「そうなのかな。男の人って、女を触るの好きじゃない?」

 ──それは嫌味でも何でもなく、凪沙がこの短い人生を生きてきた上で刷り込まれたような教訓だった。そうでなければ数多の性的暴力には理由がつかないと、幼心ながらに思ったのだ。けれど、何気なく放たれたその一言に、瑠夏は大きく傷ついたような顔をした。

「……そうかもしれない、けど。凪沙、それは御幸に失礼でしょ。そういうド変態どもと御幸は、一緒にしちゃいけない」

「ええっ!? いやいや、そんなつもりじゃ!!」

「そりゃ、酷い目に遭ってきた凪沙に、下手なこと言えないけどさ……でもさ、違うでしょ。好きだから触らせるの? 逆じゃないの?」

 瑠夏の指摘にハッと息を呑んだ。そうだ、前提は決して逆ではいけない。こんな風に思い悩んだのは、『凪沙の思う男性像と違うから』ではない。

「……うん。好きだから、触ってほしい」

「だったら、それだけでいい。他の理由は、要らない」

 そうだ、彼が好きだから。彼に『触れて欲しい』という思ったからだ。それ以上も、以下もない。

「でも、ならどうして一也くんは……」

「聞きなよ、本人に。そんなの、御幸本人にしか分かんない」

 瑠夏の言うことは尤もだ。『男は女を触るのが好きなものだ』という認識も、実際のところ御幸は違うのかもしれない。案外シャイな面もあるのだろうか、それとももっと別の理由があるのかも。真実は御幸にしか分からない。だったら、凪沙のすることは一つだ。ありがとうと瑠夏に告げ、凪沙は意を決した。そして。

「一也くん、なんで触ってくれないの?」

「ぶフッ──」

 後日、いつものように屋上に続く階段で、二人きりの時間を過ごす。食事も片付いて、練習に疲れた御幸がうつらうつらとし始めた時だった。寝惚けて本音をぶちまけないか、という期待を胸に訊ねてみた。だが、狙いは外れ、御幸の眠気は彼方へと吹き飛んだらしい。

「な、なに、触っ──!?」

「うん。なんで? そういうの嫌い?」

 顔を真っ赤にして狼狽える恋人は、こう言っては何だが可愛い。これがグラウンドへ向かうとあれだけかっこいいプレイで人を魅せるのに、ひとたびユニフォームを脱ぐとただの男の子だ。この動揺っぷり、やはりそういうことを疎んでいるわけではないらしい。

 ぎゅむ、と並んで座る御幸と距離を詰める。肩や膝、太腿がくっついて、温かい。けれど、御幸は慌てたように詰めた分の距離を離れる。

「やっぱり、こういうの嫌い? なら、私も控えるけれど」

「嫌い、って、控え、え、お前──」

「……わ、私は、触れて欲しいなって、思ってて」

 恥をかき捨て、凪沙は素直に自分の思いを吐露する。親や親族のスキンシップとの好きで、初めて恋をした相手にもそうして欲しいと思った。だから、恥ずかしさはあったが迷いはなかった。じっと見上げる御幸は、あの日の告白とは打って変わって狼狽し、目を泳がせている。膝の上で震える手を取り、硬い指を絡める。ぎゅっと力を入れると、汗ばんでしっとりとした感触で。

「……だめです?」

 ウッ、と御幸が呻く。嫌なら、この手を振り解くのは容易なはずだ。だからきっと、御幸が手出ししないのは何か他に理由があるからだと、凪沙は確信した。

 吹き抜ける沈黙が、ほんの少しだけ胃に圧し掛かる。そして。

「……お前が、嫌がると思った、だから」

「嫌がる? どうして?」

「言ってたろ、変質者に……『おぞましい』って」

「一也くんは変質者じゃない!」

「同じだろ。……妙な気、起こしそうになる」

 ふい、と視線を逸らす御幸は心底自分に腹を立てているようだった。けれど、ああ、凪沙はようやく瑠夏の怒りが理解できた。それと同時に、自らの過ちも。

 御幸は誠実だった。数多の性暴力被害に遭う凪沙に、ずっと気を遣っていたのだ。他人を巻き込まなければ性欲を発散できない犯罪者たちを、凪沙は淡々と『おぞましい』と評した。御幸もまた、そういった欲望に苛まれらからこそ、凪沙に手出しすまいと踏みとどまってくれたのだ。そうとも知らず、子どもじみた挑発を繰り返していた自分が心底情けない。逃げるように引っ込められる手のひらを、凪沙はぎゅっと繋ぎ直す。

「起こして、妙な気」

「お、まえ──人がせっかく──!!」

「私はそうして欲しい。それに、私だって触れたい」

 手のひらの温もりだって心地よいけれど、もうその程度ではこの思いは留まらない。もっと、もっと、もっと、彼に触れていたいし、触れられたい。結局のところ凪沙を突き動かすのは、自身が『おぞましい』と称した劣情に他ならない。気色悪いとさえ思っていたその感情を、恋をすることで凪沙は驚くほどすんなりと受け入れてしまったのだ。

「……お前ね、意味分かってんの?」

 深々と溜息を吐いて、御幸はようやく凪沙の方を振り向いた。慌てふためいていた少年の顔は鳴りを潜め、どこか冷たささえ感じる眼差しには目を瞠った。けれど。怖くはない。この思いに、陰りはない。聡い少女は迷いなくコクリと頷いた。

「本気?」

「ええ、勿論」

 怒りや苛立ちを閉じ込めたような瞳が、凪沙を見下ろす。けれどゆっくりと、御幸の端正な顔が近付いてくる。今そういう雰囲気だったのか、と凪沙は慌ててて目を閉じる。凪沙は本気だ。スキンシップの何たるかを、十分に理解しているつもりだったから。

 ──けれど、いつまで経っても何もされない。ちら、と薄目を開けると、目の前にはむすっとした御幸の顔。目が合ったまま小首を捻ると、御幸はどこか悔しそうな顔でずいっと離れていく。

「あのな〜……簡単に隙見せんなって……マジで何されても知らねえぞ……」

「私は構わないけど……」

「……お前、絶対何も分かってねえだろ」

「え、セックスしたいって話ではなく?」

「バッ──!!」

 馬鹿正直に訊ねれば、御幸はまたもや真っ赤になって言葉を詰まらせた。それぐらいは理解している。というか、恋愛を題材にした作品を多く手に取ってきたのだから、性行為だって凪沙にとっては身近な題材だ。発想が繋がらないはずもない。

「私はしたいけど、一也くんは?」

「お、んまえ、な……!!」

「あっ、勿論、今じゃないよ? いつかだよ?」

「当たり前だろっ!!」

 流石に今襲われたら大変なので付け加えると、御幸は更に吠えた。よかった、いくら触れて欲しいと言っても此処では困る。誰が通りかかるか分かったもんじゃないからだ。ほっと息を付きながら、未だ困惑気味な御幸に凪沙は更に畳みかける。

「私ね、スキンシップが好き」

「……そーだろうな」

「勿論、今は好きな人にしかしないよ? でもね、昔は結構女友達とも距離近くて。手を繋いだり、ハグしたり、腕に抱き着いたり、色々していたの」

「……?」

 話の意図が読めないのか、御幸は悩ましげに眉を顰める。そう、昔からスキンシップは好きだった。ただ、男の子相手には絶対にしなかった。そういったトラブルは小学生時代、いや幼稚園時代から嫌ってほど経験していた。なので仲のいい女の子だけに頻繁にスキンシップをしてた──のだが。

「けどね、もうできなくなっちゃったから、一肌に飢えてたのかも」

「……できなくなった?」

 ──そう、男はだめだけど女の子なら、なんて馬鹿げたことを考えていた自分がいかに愚かだったか。それを痛感するある事件が起こった。その日を境に、彼女は人との触れ合いを全てシャットアウトしたのだ。

「私ね、ファーストキスの相手は女の子なの」

「──!」

「親友だった。ううん、親友だと、勝手に思ってた子だった」

 さらりと告げたその一言に、御幸が何を思ったか分からない。物言いたげな瞳がレンズの奥で揺れていて、綺麗だな、と他人事のように思った。

 きっと、勘違いさせたのは凪沙だった。それこそ、恋人同士のようにいつもくっついていて、べたべたしていた。当時一番仲のいい友人だと思っていたし、スキンシップの頻度も高かった。そんな彼女にある日、キスをされた。『凪沙が好き』と、二人で遊んでいる時に告白された時、凪沙はごめんと謝る他なかった。彼女は大好きだったが、そういう目では見ていなかった。その日を境に疎遠になった彼女には、本当に悪いことをしたと思っている。

 だからそれ以降、凪沙は他人に対して明確な壁を築いた。男も女も関係なく、一線を引いた。敬語を使い、敬称で呼び、それでも友好的な関係を構築することができた相手だけを、凪沙は『友人』と称した。決めたのだ。こうして触れ合う相手は、彼女のように恋愛感情を抱いている人だけにしよう、と。勘違いでも何でもなく、思い合っている相手だけに、触れようと決めて、ついにその相手に巡り合えたのだ。そのせいで、封じていたスキンシップ欲が膨らんできたのだ。

「……それで、どうなの?」

 そんなわけで苦い過去を語り終えた凪沙は、恐る恐る訊ねる。初心な反応を見せる御幸が何も思っていない訳ではないのだろうが、やはり真相は彼にしか分からない。なので今度は凪沙から距離を詰める。自分よりも高い位置にある顔を覗き込むと、御幸は弾けるように仰け反った。流石にそれは傷つく。

「……嫌なら、しないけども」

「嫌なわけねえだろ」

 そこは素早く否定する御幸に、ひとまずほっと胸を撫で下ろす。耳まで真っ赤にしながら真剣な眼差しで見つめる御幸に、凪沙は試すようにもう一度目を閉じる。繋いだ手のひらが、再び動揺に揺れるのが分かった。数秒の沈黙。唾を呑む御幸の息遣いが、思いがけず近くに聞こえてふるりと震える。ドキドキと心臓が高鳴り、繋いだ手のひらがじわりと汗ばむのが分かったが、動かなかった。

 恐る恐る、飴細工でも触るような手付きで、御幸のもう片方の手が凪沙の頬を撫でる。こんなに寒いのに、燃えるような指先だった。代謝がいいのか、或いはドキドキで血が巡っているのか。後者だったらいいのにな、と思いながら少しばかり表情を綻ばせた。すると、ふに、と頬にかさついたものが押し付けられ、さっと離れる。目を開けると、今にも逃げ出しそうな御幸が、首筋まで赤くして顔を背けていた。

「……止まれなくなるから、これで勘弁」

 ぼそりと呟かれたその一言に、胸がぎゅーっと締め付けられる。なにそれ、萌える、エモ、やばい、好き。恋人が可愛すぎるんだがとSNSに投稿したいぐらい。凪沙は素直で、そして感情表現豊かなオタクであった。叫んで悶えたい激情を理性で抑えつけながら、凪沙は未だ繋がれたままの手にぎゅうっと力を籠める。


「──おかわり!」


 好きな人に触れてもらえるのは好きだ。良いことばかりだったとは言いがたい人生だったけれど、それを補って余りあるほどの幸福がここにある。にっこりと満面の笑みを浮かべれば、真っ赤な顔で苦虫を噛み潰したような顔がちらりと振り向いた。

「おま、ほんと知らねーぞ……」

 頬を引き攣らせる御幸は怒りとも呆れとも取れない表情だ。けれど、そんな様子さえも愛おしく、凪沙はくすくす笑いが抑えられなくなる。正直、まだまだ足りない。尽きることのない欲は、今尚御幸を求めて止まない。けれど、この表情に免じて、今日は手を打とうと小悪魔はほくそ笑んだのだった。

(番外編/二年冬)

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