19.鳥の空音はどこまでも

 御幸一也は、得も言われぬ焦燥に駆られていた。

 ただ、何に焦っているのか、その原因に心当たりがなく、少年は小首を捻る。確かに、秋大中は本当に余裕が無かった。この試合に負ければ、監督が自分たちの元を去ると決まっていたからだ。更にはキャプテンとしての重責も中々御幸を苦しめたし、チームメイトとはたびたび衝突する羽目になった。だが、時は十二月。秋大を制し、甲子園出場を勝ち取り、監督の離任問題も白紙に戻った。チームも一丸となったし、打線も繋がり始めたし、何より投手陣の頼もしさと言ったら。準決勝で負傷するというトラブルも発生したものの、特に後遺症なく練習への復帰が許された。今の御幸に、何も焦るようなことはないはずだ。なのに。

 何か、足りないのだ。何かが、欠けているのだ。それはとてもささやかなもので、その不足はふとした瞬間にしか思い出せない。野球をやっている間は何一つ過不足を感じないのに、グラウンドから離れて、着替えて、喧騒から離れて一人で過ごしている時に、その『孔』を自覚する。別段、その『孔』が何か悪さをするわけではない。苛立つとか、不安になるとか、そういった精神的不調は来さない。ただ『孔』はそこにあるだけ。ああ、『孔』がある、そう意識してしまう。何と言うべきか、見慣れぬ巨大なぬいぐるみが部屋を占拠しているような、そんな感覚。別に悪さをすることはないが、何となく意識を割かれる気分なのだ。

「──すみません、今からD組に行かないといけないんです」

 そんな凛とした声に、思わず視線が引き寄せられる。そこには、学年一の美女がお昼を食べようと誘うクラスメイトにそう断って、席を立ち教室を出ていく後ろ姿。綺麗な髪を翻し、颯爽と歩く姿はそれだけで絵になる。ああ言うのを、『歩く姿は百合の花』なんて表現するのだろうか。その百合の根っこに何が潜んでいるか知っている御幸は、どこか力ない笑みが込み上げてくる。

「おーおー、まだやってんのか、テメェ」

 すると、そんな視線を遮るように目の前にチームメイトの身体が差し込まれる。倉持だ。ここ最近の倉持はあからさまに不機嫌だ。ただ、その理由を訊ねても『なんでもねェよ!』とキレられるので、面倒な奴だなと密かに御幸は思っていた。その理由も明かせないのに、当たらないで欲しい、と。

 何か用、と御幸が頬杖を突きながら聞く。だが、倉持がそれに答えるより先に、大きな声が教室の隅から飛んできた。

「くーらーもーちー! 美術の教科書かーして!」

 それは隣のクラスの女子、凪沙の友人の瑠夏だった。いつも物を借りに凪沙を訪れるのだが、何故か今日は倉持の名前を呼んでいる。不思議に思っていると、瑠夏は勝手知ったるとばかりにクラスに足を踏み入れ、御幸たちの方へと向かってくる。

「おめー何回目だ! いい加減学習しろ!」

「ええっ!? 凪沙は文句言わずに貸してくれるのに!?」

「ありゃ呆れてんだよ、馬鹿!」

「甘いね倉持。あれは諦めてんのよ」

「ンなことで胸張ってんじゃねえ!!」

「……え、お前ら、いつの間にそんな仲良くなったわけ?」

 御幸を前にまるで旧知の友のような漫才を始める二人に、御幸は純粋に驚いた。全く接点の見えない二人だが、どういう関係なのか。不思議にそうに見上げる御幸に、二人はキョトンと顔を見合わせる。

「まあ、なんつーか、成り行き?」

「そーそー。ちょっと色々話して、ね」

「……ふうん?」

 野球部員と凪沙の友人──恐らく漫研部員。どういうきっかけがあったのか気にはなったが、話すつもりはないらしい。ならいいか、と手持無沙汰になった御幸はいそいそとスコアブックを取り出し、いつものお勤め開始。そんな御幸など目に入らないように、二人は話し始める。

「んで、倉持くん、美術の教科書をだね──」

「生憎、そこまで慈悲深くねーんだよ。つか、天城さんに頼めや」

「えー、しょうがないじゃん。凪沙、ここ最近取材に忙しいみたいだし」

 ぴたり、とスコアブックを捲る指が止まる。取材──取材って、なんだ。分からない、だか、不思議と嫌な予感がする。こういうのを第六感が働く、なんていうのだろうか。そんな御幸の様子などお構いなしに、二人の会話は続く。

「取材? あの人、新聞部だっけ?」

「ううん。最近テニス漫画にハマり始めたらしくてさ、テニ部の奴らに取材して回ってんの」

「ついこの間まで野球にお熱だったのにかぁ?」

「あんたら今オフシーズンでしょ? 暇になったんじゃないの、あの子も」

 肩を竦める瑠夏の口振りはあくまで他人事だ。だが、淡々と紡がれる事実と思しき会話が、御幸の胸を焦がす。

 ああ、そうか。彼女は飽きてしまったのか、と。あんなに野球が好きだと、ファンだと、応援していると、言ってくれたのに、試合が無くなったら、何もやることが無くなったら、乗り換えてしまうほどの熱情だったのか。そう考えると、身勝手な苛立ちが浮かんでくる。凪沙が何を見て何を好きになろうと、彼女の自由だ。御幸が口出す領分ではない。なのに、その事実に御幸はひどく動揺していた。

 ぐ、っと机の上に置いた拳に力が入る。怒り、それから失望。なんとも、馬鹿馬鹿しい感情だ。御幸にそんな文句をつける権利など──そう、そんな権利などありやしない。けど。

『じゃあ、部活落ち着いたら、またお話をしに行ってもいいですか?』

 あの日、彼女は確かにそう言ったはずなのに。

 未だにその日は訪れない。あの少年のような輝く笑顔で、『御幸さん!』と呼んでくれたのは、もうどれくらい前だったか。あんなに野球が好きだと言っていた彼女は、もう心変わりしてしまったのか。一人の高校球児として、純粋にショックだった。あんな熱心なファンが、こんなにも容易く熱を失うのかと。それだけだ。それ以外の理由なんか──。

「ああでも、野球始まったら戻ってくるわよ。凪沙、一度沼ると長いから」

「……ほーん。んじゃあの人、また御幸に纏わりつくわけか」

 そんな瑠夏と倉持の言葉に、無意識に背筋が伸びた。ただ、それはそれで複雑だ。戻って来てくれる嬉しさと、その間はどこか遠くへ行ってしまうという事実。どう処理していいか分からない感情に、スコアブックは同じページが開きっぱなしのまま。

 けれど──次の言葉だけは、流石に許容できなかった。


「ああ、そうね。部活引退したら[・・・・・・・]また来るって、凪沙が」


 それは瑠夏にとって、きっと何気ない一言だったのだろう。だが、今までモヤモヤと燻っていた何かが、パチンと音を立てて弾けたのが分かった。引退──引退したらって、なんだ。いや、ああ、でも、そうか、そういうことだったのか。彼女の言う『部活落ち着いたら』は、そういうことだったのか。邪魔したくないと、健気にそう笑った彼女は今後、御幸が引退するまで話しかけに来るつもりはなかったのか。どうりで待っても待っても一向に話しかけに来ない訳だ。それをあと、引退まで。つまり、半年以上先、ということで。

 ガタン、と椅子が鳴る。立ち上がったのは、本当に無意識だった。どこに行くのか、何をしたいのか、音を立てて弾けたそれのせいで、御幸には正常な思考が保てなかった。だが、足は真っ直ぐとD組に向かっていて──。

「……流石の御幸でも動いたか」

「やっとか。……ねえ、これで進展しなかったらどうする?」

「しゃーねえ、そん時は偽ラブレターでも書くかぁ?」

「結構古典的なこと考えるのね、倉持って」

「『惜してダメなら引いてみろ』なんてコテコテの作戦立てるお前に言われたくねえ」

 御幸の去った後、倉持と瑠夏がそんなことを話していたことなど、御幸は知る由もなかった。



***



 凪沙はD組にいた。どこに居ても目立つ彼女は、探そうと思えばすぐ見つかる。そんな彼女は件のテニス部と思しき男女に話しかけていた。時折驚き、時折笑い、興味深いとばかりに頷いて、何やら熱心にメモを取っている。

 そのメモがいつも御幸と話している時に握り締めていた青いメモ帳だと気付いて、もう我慢ならなかった。

「──え?」

 そのか細い腕を掴む。こうして触れるのは、二度目だ。あの夏の日、転びそうになる彼女を助ける時、にやむなくこの手を伸ばした。長袖にカーディガンを重ねて尚、あの頃と変わらずこの腕は細い。そうして、御幸を仰視するきれいな瞳もまた、あの夏と同じ。

「みゆき、さん……?」

 呆けるその瞳、その声、その表情。ああ、随分久しぶりに彼女が、こんなに近くにいる。それだけで、先ほどまでフツフツと沸き立っていたマグマの如き熱が、徐々に落ち着いていくようで。けれど。

「天城さん? それに御幸、だよな、野球部の……?」

 そんな風に、訊ねてくる顔も名前も知らない──多分、テニス部の男子生徒の声で現実に引き戻される。腹の底のマグマは再び噴火寸前に熱され、御幸は制止の声も振り切って凪沙の腕を取って歩き出した。

「み──みゆき、さッ!?」

 足をもつれさせながら、凪沙は引きずられるようにしてついてくる。軽い腕を引っ張って歩くのはさほど労しなかった。どこか、どこか人目のない場所へ。冷静とは言い難い思考が、それだけを指示する。御幸はきゃあきゃあ騒ぐ凪沙を無視し、階段を上る、上る、上る。

 屋上は普段施錠されており、そこへ通じる階段は人気はない。薄暗く、明かりもないこの場所は昼食を食べるには向かないからだ。ここならいいか、御幸はようやく凪沙の腕を放した。

「御幸、さん……?」

 薄暗い階段の踊り場で、少女の不安げな瞳がこちらに向けられる。変わらぬ彼女の、見たことのない表情に胸がズキンと痛んだ。違う、そんな顔をさせるつもりじゃ。だけど。

「……もう、野球には飽きたわけ?」

 どこか責めるような口調に、自分で嫌気が差した。そんな権利が一体どこにあるのか、そう理解していながら、どうしてこんなことを聞いてしまうのか。違う、もっと、あるはずだったのだ、何か。彼女に言いたいことが。なのに、上手く思考が整理できない。だから、思慮する暇もなく、思った言葉がぽんぽんと口に出てしまう。

「それともなに、『推し変』とかいうやつ?」

 所謂、推しを鞍替えすることを差す言葉だと、アイドル好きの後輩が話しているのを小耳に挟んだ。あれだけ好きだ好きだと言っていたのに、その程度だったのか。ああ、そうだ。それは紛れもなく御幸の怒りで、失望だった。その程度の熱だったのかと、あの笑顔はその程度で輝くものだったのか、と。

 けれど──今の今まで不安げに揺れていた少女の瞳が、御幸の一言によって光を取り戻した。

「そんなこと、あるわけがないでしょうっ!!」

 ひどい侮辱を受けたと言わんばかりに、彼女の凛とした声が叱りつける。小さな拳をぎゅっと握り締め、わなわな震える凪沙もまた、確かな怒りを見せていた。

「飽きた、なんて──そんな、そんなことあるわけが!」

「……でも、今はテニスにお熱なんだろ?」

「何を根拠に言ってるんですか、あなたは!!」

「瑠夏って子が。さっきだって、テニ部の奴らと話してたんだろ?」

 そうだ、凪沙の友人である彼女がそう言っていたのだ。その言葉通り、凪沙はテニス部の連中を訊ねていた。男女問わず壁を作ってるような奴が、わざわざ他クラスに行ってまで。ギリ、と軋む奥歯をそのままに告げれば、凪沙は愕然としたように形の良い唇をギュッと結び、叫んだ。

「テニスにハマったのは、瑠夏ちゃんなんですけど!?」

「……、はい?」

「瑠夏ちゃんが! 取材して来いって土下座までするから!! だから嫌々聞いてきたんです!! 部活の練習風景とか、スケジュールとか、色々!!」

 これが証拠、とばかりに凪沙は何故かスマホを取り出す。そして何か操作して、凪沙は御幸の眼前にスマホを突きつける。暗い踊り場でも、バックライト光るその画面はハッキリと見える。どこかの教室で土下座する瑠夏の後頭部が見える。

『私はもう二度と凪沙から教科書やら辞書やら資料集やらを借りないことを此処に誓いますので、どうかテニ部に取材をしてきてもらえないでしょうか……!!』

『ほんとに土下座する子初めて見た』

『先パイにはプライドってもんがないんですか』

『瑠夏先輩、かっこいいです! 逆に尊敬します……!』

 それはムービーだった。土下座する瑠夏の情けない誓いの文句と、漫研の部員と思しき女生徒が何人か映っている。

「瑠夏ちゃん、最近テニス漫画にハマって、テニ部のことが知りたくなったって言うんです。でも、彼女すんごく人見知りで、自分じゃ聞きに行けないからって土下座までしてきたんです。だから、私、わざわざ──」

 そう言いながらスマホを仕舞う凪沙に、御幸の理解が追いつくまでたっぷり数十秒要した。どういうことだ。瑠夏は先ほど、『凪沙がテニスにハマっている』と言っていた。だが、凪沙の子の様子とムービーを見る限り、テニスにハマっているのは瑠夏の方だ。つまり、どちらかの少女が嘘を吐いているということで。

 憤る凪沙の顔を見れば、どちらが嘘か疑いようもなく。

「飽きてなんか、いません。今でも、秋の大会を動画で見返しています。あなたたちの試合を見て、早くセンバツが始まらないかと、願うばかり、なのに」

「……わ、悪い」

 むくれる凪沙に、反射的に謝罪の言葉が飛び出した。怒りと、少しばかりの不安に揺れる瞳を向けられるだけで、御幸はその場で溶けてなくなってしまいたくなる。勘違いだった。というか、嵌められた。瑠夏にまんまと、してやられた。

 ──けれど、何故。瑠夏は、あんな嘘を。

「……あ、あの」

 過る、疑問。答えは、ない。けれど、居心地悪そうに身動ぎする凪沙が、ちらりと御幸の肩口の向こうを見た気がした。

「わ、私、戻らなきゃ。こんな、とこ、誰かに見られたら──」

 そう言って、凪沙は逃げるように御幸の脇をすり抜けようとする。けれど、彼女が一歩足を踏み出すより先に、御幸はその大きな身体でその行く手を遮る。

「……見られたら、まずい?」

 眼下で困惑する、凪沙をじいっと見下ろす。御幸の胸元にほぼ胸元に飛び込みかけていた凪沙は、肩を震わせながら一歩、二歩と後退る。

「ま、まずいでしょう、だって」

「だって、なに」

「そんな──だって、困らせたく、ない」

「誰が困んの?」

「……あなたと、あなたの、恋人さん、が」

「は?」

 気まずそうにさっと視線を下に向ける凪沙に対し、何を言われたか分からず御幸は呆ける。恋人。コイビトと言ったか、彼女は。あなた、とは、誰のことで──。

「恋人って何?」

「な、何って──それは流石にあんまりではっ!?」

「いや、恋人なんかいねえし。誰のこと?」

 何の話か、まるで見えてこない。恋人、そんなものを作った覚えはない。最近の告白は全部バッサリ断っている。まさか誰か適当なホラを吹いている奴がいるのだろうか。その名を訊ねれば、凪沙はふるふると首を振る。

「し、知りません!! でも、みんな噂してました!!」

「はあ? なんて?」

「み──御幸さんが、恋人さんに言い寄る男の人を、追い払っている、と」

 震える唇がそんなことを紡ぎ、御幸はぽかんと大口を開ける羽目になった。なんだ、それ。初耳だ。そもそも御幸に恋人はいない。なのに、恋人に言い寄る男を追い払ったなんて、そんなことをした覚えは少しも──あ。

「(……まさ、か)」

 言われてみれば、似た行為はしたような。でもそれは不可抗力でもあり、親切であっただけ。その言い寄られる相手は、目の前の少女。凪沙に取り次いで欲しいと馬鹿馬鹿しいお願いをする男たちが多くて、鬱陶しくて、だから親切に教えてやっただけだ。彼女は今野球に夢中で、推し活に忙しくて、そもそも御幸と同じでこう言った告白を迷惑がっているのだ、と。

 それが周囲にどう映っていたのか、御幸はようやく知ることとなった。

「……違う、んですか?」

「誤解だって。俺、彼女いねえし」

「え、でも、だって──」

「確かに似たようなことはしてたけど、それ天城さんのことだから」

「私!? え、なに、なんで……」

「俺ら、よく話してたろ? それ見てた奴らが、天城さんに取り次いでくれーって煩くてさ、適当に追い払ってただけ」

 嘘ではない。ただその相手が、恋人でも何でもないクラスメイトだったというだけの話。凪沙はそれを聞くや否や、暗がりでもはっきりと分かるぐらいボッと顔を赤らめた。またもや初めて見るその表情に、心臓がドクンと脈打った。

「そ、そんな──い、いえ、ええと……あの、それは、ありがとうございます、なのですが……!」

「……何か、問題あった?」

「問題、といいますか……二次災害といいますか……その、情報が確かであれば、御幸さんの恋人、私ってことになっているの、では、と……」

 尻すぼみになってく言葉。凪沙の懸念も尤もだ。というか、よく凪沙が相手を知らずにその噂を拾ったものだと感心する。当人故、噂を流した者も気を遣ったのだろうか。御幸には預かり知らぬ話である。ただ、そんなものは、どうでもよかった。

 真っ赤な頬に手を当てながら狼狽えている凪沙の顔を見たら、そんなもの、なんだって。

「……困る?」

「こ──困る、って……!」

「俺は別に、そう思われても困らねえけど」

 ドクン、ドクンと心臓が、脈が激しく打ち鳴らす。そうだ、それに何の問題があるのだろう。凪沙は言い寄ってくる男を鬱陶しいと思っている。だったら御幸は、露払いをするだけだ。そうすれば、彼女の安寧が約束される。だったら。

「そんな、だって、恋人って──……」

 目を泳がせながら、凪沙は力が抜けたようにその場に崩れ落ちる。視線を下にやれば、小さなつむじと、真っ赤になった耳がよく見える。でも、その顔は見えない。それが勿体なくて、御幸もまたその場にしゃがみ込む。顔を近づければ、暗くて静かな空間に彼女の息遣いだけがはっきりと聞こえて、冬場であることが嘘のように体温が上昇するのが分かる。首が、背中が、手のひらが熱い。喉がカラカラで、今すぐ水を浴びたいほどだ。

 手のひらで真っ赤になった顔を覆う凪沙を、どうにかして覗き込もうと首を傾ける。指の隙間から見える瞳は狼狽していて、涙で潤んでいる。その目に、ぞくぞくと背筋に電流のような何かが走った。これは、この感覚──は。

「天城さんは、俺が恋人だと思われるの、嫌?」

「……っ!」

「俺は、嫌じゃない」

 嫌じゃない、寧ろ──寧ろ、そうであれば。そうすれば、彼女はまた御幸と話しに来るだろうか。半年なんて悠長なことを言わずに、また一緒に野球の話ができるのではないか。そうだ、彼女のことを負担に思ったことなど一度もない。寧ろ、束の間のそんな穏やかな会話が楽しかった。そんな緩やかな時間が、嬉しかった。それがなくても、御幸は生きていけるし、野球をする上で何ら支障はない。それはこの数か月が証明した。それでも。

「……おかしいんです、私」

 蹲る凪沙が、ぽつりとそう告げる。身体は小刻みに震えていて、怯えているようだった。けれど、声はハッキリしていて、御幸に意思を伝えんと必死に喉を揺らしている。

「心臓、痛いんです。芯がぎゅうっとなって、苦しいんです。息、ちゃんとできなくて、身体が熱くて、頭、ずっとぐるぐるなんです。ずっとあなたのことを考えて、恋人がいるって聞いて、勝手にショック受けて、前まで、こんなこと、なかったのに。なかった、はずなのに」

「──、」

「御幸さん、これ、なんですか。私、どうしちゃったんですか」

 顔を上げて、潤んだ瞳が御幸を真っ直ぐに射抜いた。美しいかんばせは焦りと不安が入り混じり、きゅっと唇を噛み締めるその仕草だけで、ぐわんと脳が揺れる。同じだ、御幸も。心臓が痛いほど早鐘を打ち、息苦しくて、行き場のない熱ばかりがぐるぐると体内を駆け巡る。

「……俺より、天城さんの方がよく知ってるだろ」

「なっ──」

「俺よりずっと、頭いいわけだし?」

「そ、そんな、ずる、い!」

 声を詰まらせる凪沙に、全くその通りだと頭の片隅で冷静な自分が叱責する。けれど、他でもない彼女の口から、聞きたかった。

「なあ、教えて。あの日みたいに、さ」

 希う御幸の声は、自分でも笑えるぐらい震えている。ああ、そうだ。こんな簡単で、単純で、シンプルなこと、どうして今の今まで気付かなかったのだろう。この美して愛らしい少女を、誰の目にも晒したくないと、どうしてこんな狼狽した姿を見るまで自覚できなかったのだろう。彼女にはただ、野球に夢中になっていて欲しいと、そんな身勝手さから、どうして目を背けられていたのだろう。認めてしまえばそれは驚くほど素直に、穿たれていた『孔』にすとんと埋まったのに。

 けれど、狡い男は敢えてそれを言葉にしない。自分と同じようにこの想いに名前を付けることができなかった少女が何と称するのか、引き出してみたくなったのだ。震えて蹲る凪沙に加虐心でも芽生えたのだろうか。そんな趣味はないはずなのにと自嘲気味に笑みを浮かべる御幸に、学年一の才女は再び両手で顔を覆ってしまった。しまった、やりすぎた。慌てて弁解するように彼女に手を伸ばした、その時だった。


「こけこっこ」


 細い指の隙間から、そんなか細い声が漏れてきた。最初なんと言ったのか、我が耳を疑った。しかし、誰がどう聞いても、真似をしようという気概の欠片も感じられない鶏の鳴き声だ。こんな状況で一体何のつもりなのか、呆れ半分でその疑問を口にしようとしたその時、御幸は思い出したのだ。

「鳥の声は、孟嘗君のにや──」

 思い出す、狭い部室。彼女の教え。紙の捲る音と、しんとした二人きりの空間。関を超えれば結ばれる男女。鶏の鳴き真似。それが意味する何もかもを、御幸は他でもない凪沙から教えられている。そして御幸は、それをしっかりと記憶している。

 拗ねたような瞳が、ちらりと御幸を捉える。

「ごめん、こーさん」

 ふはっ、と力が抜けたような笑みが零れた。そんなの、狡い。反則だ。けれど、先に仕掛けたのは御幸だ。凪沙はそれを、御幸にも分かるように懇切丁寧に皮肉として返しただけ。ああ、全く。やはりズルはだめだ。スポーツマンシップに反する。御幸はそう反省しながら、咳払いをする。

 今度はちゃんと、自分の思いを言葉にするために。

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