20.推しは君ではありません!

 天城凪沙は、どうやら『恋』をしたらしい。

 『恋』というものを、凪沙は理解しているつもりだった。漫画、アニメ、ゲーム、小説、映画──あらゆる作品に『恋』という題材はつきものだ。それこそ何十もの、いっそ何百もの非現実の『恋』を見てきた。それでなくとも、現実でも凪沙は何度となく他人から身勝手な『恋』を寄せられてきた。だから、それが何たるかを知っていたつもりだった。けれど、百聞は一見に如かずとはこのことか。思いを寄せている相手に恋人関係を仄めかされてようやく、少女は自身の『恋』を自覚したのだった。

「──で、結局付き合ったってことでいいの?」

「う、うん……お騒がせ、しました……」

 で、そんな恋はどうやら周囲には筒抜けだった様子。見てられない、じれったいと苛立っていた瑠夏は、倉持まで巻き込んで御幸と凪沙をくっ付けようと一芝居打ってくれたらしい。テニス部への取材もその一環と知った凪沙は、言質代わりに録音していた土下座動画を削除することに決めた。

 放課後の部室。瑠夏から根掘り葉掘り聞かれることになった凪沙は、迷惑をかけたこともあり、素直に聞かれたことを答え続けていた。瑠夏の言うように、御幸と凪沙は互いに思い合っていることが分かった。なので付き合うことになったと、昼休みの出来事を簡潔に報告した。すると瑠夏は大きな溜息をついて椅子にへたり込んだ。

「よかったー……あのままくっつかなかったら、私も倉持も胃潰瘍で倒れてたところよ」

「ご、ごめんね……こういうの、あんまり慣れてなくて……」

「……まあ、好かれるばっかだったもんね」

 そう、身勝手に好かれるばかりの人生に、ほとほと辟易してた。だから二次元にのめり込んだのかもしれない、なんて考えていたほどだ。だからまさか、自分も彼らと同じように誰かにこんな感情を抱いて、振り回されて、心臓が壊れそうなほど高鳴る日が来るなんて、思わなかった。

「まー、いいよ。凪沙が自分の気持ちにちゃんと向き合えたなら」

「瑠夏ちゃん……」

「おめでとう、凪沙。せいぜいお幸せに」

 そうやって、心の底から祝福してくれる友人に、じんと胸が熱くなる。人間関係にはそれなりに悩まされた人生だったが、こういった出会いで全てが帳消しになったような気分だ。ありがとう、凪沙は素直な感謝の気持ちを述べたのだった。

 ──ただ。

「嫌だ〜〜〜!! 凪沙がリア充なんて〜〜〜!!」

「凪沙先パイ、よりによってなんで御幸一也なんですかぁ!!」

「イケメン×美少女とか芸能界でしか聞いたことないんですけどお!!」

 祝砲を上げてくれるのは、どうやら瑠夏だけだったらしい。部活の先輩後輩はどうやら複雑な心境の様子。ぽつぽつと御幸と付き合いだしたと報告する凪沙の話に、誰もが耐えられないとばかりに頭を抱えた。

「まあまあ皆さん、何がそんなにご不満なんですか」

「漫研でリア充とか欲張りすぎだろふざけんな」

「先パイは男なんか作らず涅槃エンドを迎えて欲しかった」

「強豪野球部キャプテンのイケメンと学年トップの秀才オタクの美少女って、設定がモリモリすぎてカロリーオーバーです」

「先輩はともかくあんたたちはどういう目線なの?」

 拗らせたオタクたちはそれぞれ思うところがあるらしく、やいのやいのと口々に文句を告げる。瑠夏は呆れ半分でしっしとオタクたちを追い払う。

「おら、散った散った! 私は今から恋バナするんですゥー」

「恋バナって……今日、付き合ったばかりなんだけど」

「ばっかあんた、そりゃ話すことなんか色々あるでしょ!」

「例えば?」

「どういうとこ好きなったとか、これからどうしたい、とか」

 真剣な顔で訊ねてくる瑠夏に、凪沙の背筋も釣られるようにピンと伸びる。何やら、ただの雑談とは思えぬ雰囲気だ。今回のことで、自分がいかに恋愛に対してポンコツかましていたかを痛感した。そんなポンコツがまた変な勘違いをしていないか、瑠夏はチェックしてくれるのかもしれない。友人の言葉には素直に従おうと、凪沙は神妙な表情でコクリと首を振った。

「どういうとこ、かあ……」

「やっぱ野球やってるとこ見て?」

「うん……うん、そうだと思う……」

「ていうかいつから好きだったの?」

「分かんない。気付いたら……たぶん……」

「……一応聞くけど、御幸のことほんとに好きなんだよね?」

「たぶん……?」

「多分とはなんだ多分とはーッ!!」

 曖昧な質疑応答に、友人の堪忍袋は秒で着火した。そう聞かれると、明確な答えが無い凪沙にはそう答える他ないのだが、どうやら瑠夏はそれが気に食わないらしい。だって、と凪沙は唇を尖らせる。

「だって、初めてなの、こんな……」

「……初めて、て──なに、え、御幸が初恋なの!?」

「うん……たぶん……」

 以前、瑠夏と話している時に初恋の記憶を辿ったことがある。その時は思い出せなかったので『それぐらい昔のことなのだろう』と片付けたのだが、恋を自覚した今なら分かる。こんな激情、こんな熱量は凪沙の記憶にはない。だからきっとこれは、初めての恋なのだ。

「カァーッ!! なんだそりゃー!!」

「甘ずっぺぇええ……!」

「初恋は実らないって嘘じゃないですかヤダー!!」

 ぽっと頬を上気させる凪沙に、外野も大騒ぎだ。けれど、本当のことだ。十数年という短い人生の中で、ただ一人、御幸一也だけが凪沙の恋だ。彼と話せない時間が、寂しかった。彼の活躍を見れない時間が、とてもつまらなかった。それが恋の切なさだと教えてくれたのは、御幸だけだ。

 そんな凪沙を見て、瑠夏はただ一人肩を落とした。

「どーりで全然自覚しない訳だ……初恋まだとか思わないじゃん……!!」

「え、えーと……ご、ごめんね……?」

「謝ることじゃないけどさあ……ならもっと早く蹴っ飛ばしておけばよかった……」

 どうやら凪沙の知らぬところで苦労していたらしい。ごめんね、と何度も謝る凪沙に瑠夏はもういいからと嘆息する。

 すると、コンコン、と部室の戸が控えめにノックされて大騒ぎだった室内が一瞬にして静まり返る。部員は全員揃っている。誰かの友人であれば、ノックなんて礼儀正しい真似はせずにズケズケと入って来ている。おまけに、曇りガラスの向こうに見えるシルエットは、どう見ても男子生徒のそれ。その場の全員の視線が、凪沙に向けられるのは自然なこと。まさか、と凪沙は息を飲んで立ち上がり、部室のドアをガラリと開ける。そこには誰もが想像した通り、御幸一也がそこにいた。

「御幸さっ、なんで──」

「いや、その、帰りの話、途中だったから……」

 慌てて温かな部室から一歩出て、戸を閉める。廊下は寒く、ふるりと震えながら御幸を見つめる。御幸は未だに見慣れぬユニフォーム姿だった。

「帰りって──あ」

 思い出した。今日の昼休み、紆余曲折を経て二人は付き合うことになった。ただ、御幸は日々忙しい身。中々一緒に過ごせないねと零す凪沙に、御幸が提案してくれたのだ。凪沙が部活のある日は、駅まで送る、と。仔細を決める暇なくチャイムが鳴ってしまったので、わざわざ声をかけに来てくれたのだろうと思うと、ぽっと頬に熱が灯る。

「今日、遅いんだろ。駅まで送るから、此処で待ってて」

「あ、ありがとうございます……でも、そんなわざわざ、連絡してくれればよかったのに……」

 これから練習だろうに、わざわざ部室まで来ることなかったのに。驚く凪沙に、御幸は気まずそうにサッと目を逸らす。

「や、天城さんの連絡先、聞いてなくて……」

「えっ、嘘──ヤダ、教えてなかったっけ!? ああ、もう……!」

 そう言われてみれば、御幸のことは友人とは思っていたが、連絡先を交換したことはなかった。基本的にクラスでしか話さないからだ。慌ててスマホを取り出すも、御幸は今携帯を持っていないらしい。ユニフォーム姿なのだから、当然だ。

「だからさ、帰りに教えて」

「も、勿論!!」

「よかった」

 くしゃりと、力の抜けたような御幸の笑顔に、胸がギュッと鷲掴みにされたような気分になる。コクコクと何度も何度も頷くと、御幸はくるりと踵を返す。

「それじゃ、また」

「は──はい! 練習、頑張って! ください!」

「ん、サンキュ」

 そう言って足早に廊下の向こうに消えていく彼の背中の、なんと愛おしいことか。どくんどくんと心臓が喚く。体育の時でもなければ、こんなに心音が乱れることなんかなかったのに。それが今や、ほんの少し話をして、その笑顔を見るだけで、こうだ。恋愛恐るべし、すっかり寒さなんか忘れた凪沙は頬を仰ぎながら部室に戻る、と──。

「カァアア〜〜〜!! なに今の!! 全身痒くなってきたんですけど!!」

「ウエェエエン……凪沙先パイが盗られたぁあああ〜〜〜!!」

「イケメンと美少女、意外とアリかもしんないっすね……」

「あんた手のひらにドリルついてんの?」

 しっかりはっきり二人の会話を聞いていたらしい漫研部員たちは、泣いて叫んでネタ帳にメモ取ってと大騒ぎだった。宥める瑠夏を横目に、少しは人目を気にしようと凪沙は決めた。

 喧騒を他所に、少女は時計を仰ぐ。部活が終わるまで、まだ三時間以上ある。窓から見える冬の高い空に輝く太陽をちらりと見ながら、早く日が落ちればいいのにと、少女は一人呟いた。



***



「わり、お待たせ!」

 日も暮れ、夜の闇が静かな学校をすっぽりと包み込む時間、ようやく御幸は漫研の部室を訪れた。他の部員たちは瑠夏たちが──散々冷やかしを残していったが──連れて行ってくれた。なので、施錠された漫研の部室の前で一人待っていた凪沙は、いえいえ、と微笑む。

 御幸はジャージ姿だった。髪はどこかしっとりとしていて、仄かに石鹸の香りがする。練習後すぐにシャワーを浴びたのだろう、ほかほかと湯気が立っているように見える。此処まで走ってきたのだろうか、微かに息が上がっている。

「こちらこそ、迎えに来てもらってすみません。どうせ外に出るんですし、私がグラウンドまで行けばよかったですね」

「外さみーだろ。いいよ、これくらい何でもねえし」

「……それでは、お言葉に甘えて」

 外のグラウンドは寒風吹きすさび、防寒着で身を固めてもなお凍えるほどの寒さだ。お言葉に甘えて、ここで待たせてもらうことにしよう。ぎこちなく頷いてはにかむ凪沙に、御幸もたどたどしい所作で視線を宙に泳がせる。

「えーと……」

「は、はい」

「……帰る、よな?」

「む、無論です!」

「じゃ……あー、行こうぜ」

 お互いぎくしゃくとしながら、暗い廊下を歩き出す。肩を並べ、つかつかと歩く二人の間に会話はない。おかしい、以前はもっと色々話ができていたはずなのに、どうにも自分は緊張しているらしい。どうしよう、話題が見つからない。御幸も同じ思いなのだろうか、驚くほど静かだ。

 けれど、せっかく──或いは、ようやくまた話せるようになったのだ。それに、御幸がわざわざ迎えに来てくれたのだ。この時間を無為にするには、あまりに惜しい。カラカラになった喉に勇気ののど飴を放り、凪沙は意を決する。

「──あの、御幸さん!」

「──天城さん、さ」

 だが、御幸もまた同じことを考えたらしい。二人の口からは、同時に互いの名が飛び出した。顔を見合わせ、目を丸くする御幸を見て、くすりと笑みが込み上げる。かくり、と膝から力が抜けそうだ。こんな簡単なことさえ、恋人だと意識するとぎこちなくなってしまうなんて。

「なに?」

「御幸さん、こそ」

「……レディファーストで」

「あ! ずるい!」

 最初、御幸のことをいい人だと思っていたのだが、どうやらその認識は改める必要があるらしい。どうやら御幸の人物像は倉持の指摘した通りだったようで。ずるい卑怯だとキャンキャン吠えるも、御幸は知らぬ存ぜぬといった顔。むくれる凪沙だが、御幸が一歩と引かぬことを悟り、やむなく先手を打つ。

「別に……ただその、呼び方、変えようかな、って……」

「──!」

「付き合ってる人に、『御幸さん』は、変かな、と」

 敬語と敬称は、凪沙にとっての防具だ。明確な壁を作るのに、これほど楽な対応はないからだ。けれど、御幸相手にその壁は必要ない。寧ろ、壁の内側に入ってきて欲しいのだ。だから、何と呼べばいいのか訊ねたかっただけなのだ。

「ほら! 私は言いました! 御幸さんのご用件は!!」

「あー……えーと、もういいや」

「えぇっ!? それはナシ!! ずるい!!」

 足早に歩き出す御幸に、凪沙はそのジャージの裾を引っ張って応戦する。力じゃ敵わないのだ、振り切ろうと思えばいくらでもできるはずなのに、御幸は決してそうしない。その優しさ故に、顔を背ける少年の首筋は、真っ赤になっているのが見えてしまって。

「……同じこと、言おうとして、先言われた、カラ」

「、え」

「さん付けじゃ、他人行儀過ぎ、だろ──凪沙」

 俺らもう他人じゃないし。零れた言葉に、呼ばれた名前に、恥ずかしそうにまごつくその仕草に、またもや胸がギュッと縮こまる。こんな感覚、今までの凪沙は言語化できなかった。どうしようもなく胸が高鳴って、身体の芯が熱くなって、じわりと涙さえ浮かぶこの感情の名を、少女はようやく知ったのだ。

 他でもない、彼が教えてくれたから。

「一也くんが、すき」

「ッ!?」

「好き、すぎます……!」

 好きすぎて、どうにかなってしまいそうだ。『愛に触れると誰でも詩人になる』──『恋愛とは二人で愚かになることだ』──そんな愛について偉人たちが遺してきた言葉が脳裏を過る。それぐらい、恋は、愛は、人を狂わせる。

 御幸のジャージの裾を握り締めたままその場に崩れ落ちる凪沙。流石の御幸も足を止め、暗く寒い廊下に膝をつく。ふるふるとときめきに震える凪沙を、御幸は拙い手付きで助け起こす。未だ身動きの取れない凪沙に痺れを切らしたように、御幸は凪沙の手首を掴んでまた歩き出す。

「……びっくりした。また推しがどうとか言われるかと思った」

「し、失敬な……一也くんはそういうのじゃないですし……」

「そうなの?」

「そのくらいの分別はあります!」

 確かに、最初はそんなきっかけだった。彼が推しと同じキャッチャーだから、彼が推しと同じようなことを言うから、彼が推しのようにグラウンドで輝いているから──そんな風に思っていたのは事実だ。けれど、この熱情はそれとは似て非なるものだから。

「だって──」

 凪沙のはきはきとした声に、御幸がフッと笑みを零す。そうして、当たり前のように二つ分の足音が続く。凪沙の手首を掴んでいた手のひらは、真冬の寒波でさえ邪魔できないほど、焼けつくような熱量をいつまでも灯していたのだった。



《推しは君ではありません! 完結》

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