18.グレーテルのつまみ食い

 天城瑠夏は、人知れずブチ切れていた。

 その理由は、親友である天城凪沙にあった。ただ、直接的な原因でもないため、文句をいうこともできず。悶々とした感情を一人抱えることになってしまった。瑠夏はあまり気が長い方ではないし、親しい相手にはわりとズケズケ物を言う方だ。凪沙とは決して浅い仲ではない、普段であればギャンギャン騒ぎ立てるところだが、今回ばかりはそんな彼女でも物申すことができずにいた。

 浅い仲ではない、といいつつ凪沙との付き合いは青道高校一年の時からだ。人付き合いの苦手なとあるオタクは、高校デビューもできずに教室の隅でまごついていた。そんな瑠夏に、苗字が同じだったために前後の席に座っていた凪沙が、こう話しかけてきたのだ。

『あ! あなたも魔法少女なんですね!』

 筆箱についたとあるアニメのチャームを見るなり美しい笑顔を浮かべ、こっそりと耳打ちしてくる凪沙に、瑠夏が心を開くまでそう時間はかからなかった。

 天城瑠夏はこう見えて人見知りだ。陰キャで、人付き合いが苦手で、誰かと話すのは正直得意じゃない。おまけにオタクだと打ち明けた途端、同じオタクだ分かるや否や距離を詰めてくるタイプも苦手だった。人付き合いは長い長いソーシャルディスタンスを経てから、そんな瑠夏にとって凪沙は実に付き合いやすい人種だった。圧倒的美貌と頭脳に育まれた陽キャ精神ではあるが、常に他人とは一線を引く態度。クラスメイトの瑠夏に対しても、半年以上敬語を使っていたほどだ。ちょっとお高く止まってるよね、なんて嫌味を囁かれてなお、涼しい顔で対応を変えない彼女の強かさと礼節が好ましかった。

 そんな彼女との関係に少しばかり足を踏み込んだのは、出会って半年ほど経過した後。いつものように二人で昨日見たアニメや週刊漫画の話をしていた時だった。

『あーもお、瑠夏ちゃんほんとにおもしろいねえ!』

 凪沙は基本的に、他人は全員苗字にさん付けで呼ぶ。よほど仲が良くなければ名前やあだ名で呼ばない中、ただ一人その壁を容易く突破したのは瑠夏だった。何せ苗字が同じなのだ、流石の凪沙もこそばゆかったのだろう。けれど、そんな日々が半年ほど続いて、徐々に凪沙から敬語が取れるようになった。こんな風に、普通の女の子のようにお喋りする日が増えてきた。それぐらい、彼女に信頼されていることが嬉しかった。

 だから、つい聞いてしまったのだ。

『凪沙って、なんでみんなに敬語使うの?』

 ──思えば、それは彼女にとっての壁だった。そんな気軽に、聞いていいものではなかった。その一言に傷ついたような顔をした凪沙を見て、瑠夏は心底死にたくなった。間違えた、これだから陰キャは、やらかした、そんな後悔だけがぐるぐると脳裏を駆け巡りパニックになる中で、凪沙は困ったようにふわりと笑みを浮かべた。

『昔、距離感を間違えて色んな人を困らせちゃって』

『……いろんな、ひと?』

『男の子も、女の子も、たーくさん』

 さらりと告げられたその一言に、どれほどの苦悩の日々が積み重なったのか瑠夏には分からない。ここまで来たらもう引けないと深く深く踏み込めば、凪沙は己の過去を懺悔するように語り始めた。彼女が惑わせてきたのは、決して異性ばかりではなかったこと。そんな中、とあるトラブルが起きてしまったこと。それから彼女は性を問わず他人と距離を置くようになったのだと、少女は寂しそうに語った。

『でも、瑠夏ちゃんは大丈夫って思ったから』

 彼女は半年かけて、瑠夏との距離を測っていたのだ。そうして瑠夏は凪沙に踏み込むことを、許されたのだろう。恐らく、人見知り故に他人に安易に踏み込まない──精神的にも、肉体的にもだ──瑠夏に、気を許してくれたのだろう。おかげで瑠夏はこの巨大で、分厚い壁に覆われた城に足を踏み入れた。『これからもよろしくね』と、そうやって微笑む学年指折りの美少女を前に、瑠夏はこう思った。

『(守護[まも]りてえ……!)』

 何だこの生き物。これがリアルとは恐れ入る。陽キャのくせして他人に一線を引く高嶺の花が、『あなたは大丈夫だから』と招き入れてくれる。この信頼感を前に、高揚するなという方が無理な話だった。俺が守護る、そう誓いを立てたのは、ちょうど一年ほど前だったかと少女は黄昏れる。

 さて、そんな誓いを何故今更思い出したのか。それは、そんな守護るべき少女の城に今、忍び込もうとしているうつけ者が現れたからだ。いや、そんな奴は今までだって腐るほどいた。誰もがその花を手折らんと城壁をよじ登っては、その壁の高さと厚さに敗れ去っていく。けれど、その男は他の有象無象とは違った。瑠夏同様、どうやらその堅牢な城に足を踏み入れることを許されているらしく。

 うつけ者の名を、御幸一也という。

「(御幸か……よりによって御幸なのか、凪沙……!)」

 誰よりもよく知っているその名前に、瑠夏は頭を抱えてのたうち回った。よりによってなんでこいつなのか、と。何故なら、特に異性に対しては鉄壁のガードを誇る凪沙に御幸一也という存在を仄めかしたのは、他でもない瑠夏自身だったのだ。

 そんなつもりはなかったのだ。軽い気持ちで勧めた高校球児の漫画に凪沙がどぼんと沼に落ちた。完璧主義というか凝り性というか、沼にハマった凪沙は作品の解釈のためにまず知識から集め出した。キャッチャー推しという友人を見て、そういえば凪沙のクラスにいる御幸一也もキャッチャーだったな、と思い出したのだ。他学年にも噂されるぐらいのイケメン故かいまいち女の子相手に愛想がなく、しかして野球部員として最低限の礼儀は弁えている、そんな男だったと記憶している。だから直感的に『あ、凪沙と同じタイプだ!』と思い、つい名前を出したのだ。男嫌いと野球馬鹿、どうあってもトラブルにはなるまい、と。

 結果として、確かにトラブルはならなかった。ならなかったのだが、それ以上に厄介事を招いてしまったのだから、引き金を引いた瑠夏は嫌でも責任を感じてしまうのだった。

「凪沙ー! 教科書かーして!」

 少女は今日も、凪沙の教室へ遊びに行く。夏頃は凪沙はいつも自分の机で授業の予習をしているか、小難しい小説を読んでいるか、だ。今日も今日とて、高嶺の花は一人静かに教室の隅でひっそりと咲いている。だが、その表情はどこか浮かない。

「凪沙、聞いてるー?」

「え、あっ、ごめ、瑠夏ちゃん。えっと、なに? 辞書?」

 肩を揺さぶって初めて、凪沙はハッとしたように目を瞠った。鞄を漁る凪沙を見下ろしながら、またか、と瑠夏はバレないよう嘆息する。ここ最近──具体的には高校野球の秋季大会決勝戦後から、こうしてボーッとしている時間が多くなった。まるであの明治神宮に魂を置いてきたかのようだ。嗚呼、それだけであればどれだけよかったか。

「凪沙、具合悪いの?」

「まさかぁ。元気だよ、元気」

 にこりと微笑む凪沙は今日も美しい。確かに、身体は健康なのだろう。問題は心の問題。自分自身でも気付かない不調、不具合。その理由を瑠夏は気付いているのだから、恥も外聞も捨てて声を大にして言いたい。それができないのは、相手が天城凪沙だからだ。この手合いにトラブルが付きものだった彼女相手だからこそ、外部からとやかく言い出せないのだ。

 何より、凪沙自身が『それ』に気付いていないのだから。

「なーんか、最近ぼーっとしてること多いよね」

「そうかな……?」

「そう。秋大以降、なんかおかしいよ、あんた」

 だからそれとなく、本当にそれとなーく、瑠夏は健気にその材料を凪沙に示す。まるで親に捨てられたヘンゼルとグレーテルのように、道しるべとなるパンくずを一つ一つ道に置いていく。気付いて欲しい。向き合って欲しい。その不調は決して、凪沙にとって悪いものではないのだと。

 ただ、瑠夏の想像以上に才女は手強かった。

「うーん、そっかあ……なんだろ、燃え尽き症候群かな?」

「も、燃え尽き症候群……?」

「野球お休みになっちゃったし、毎週欠かさずリアタイしてたアニメが終わっちゃったのと同じ感覚かも。ほら、毎週試合が合ったしさ」

 だが、懸命に撒かれたパンくずに気付くことなく、凪沙は真顔で寝惚けたことを抜かし始める。瑠夏は頭を掻き毟って発狂する寸前のところで「ソーカモネ」と一声捻りだすのがやっとだった。

 どう考えても、凪沙は御幸のことが気になっている。そうではないかと夏頃から薄々思っていた。そうでなければ、この鉄壁女がわざわざ男どもに勉強を教えるなんて、そんな慈悲をかけるはずがない。相手が御幸だから、御幸がいたからに決まっている、と瑠夏は睨んでいる。そうでなくともこの三次元一切興味ありませんと豪語するオタクが御幸を見て素直に『かっこいい』などと評するはずがないし、推しがどうとか以前に凪沙の御幸の見る目は明らかに“熱”が籠っている。自分が伊佐敷純に向けるのとは違うそれを、彼女は抱いているはずなのに。

『あの人、もうありとあらゆる部分が私の『性癖』なの……っ!!』

 こんな超ド級の勘違いをしてみせるのだから、瑠夏は階段から転げ落ちるところだった。そこまできたらもう好きじゃん、愛じゃん、恋じゃん、そう正してやりたかった。だが、聞くところによると初恋もろくに経験していない──本人は記憶に無いだけと言っているが、絶対勘違いだと瑠夏は思っている──凪沙には、その初めての感情を自分の意志で自覚をして欲しかったのだ。そうすればきっと、上手くいくのだと信じて。

 正直、くっついて欲しいか欲しくないかで聞かれれば、後者だ。どんなイケメン相手だろうと、大事な友人が取られるのは我慢ならない。大事にできるのか、幸せにできるのか、そこは私だけの居城だったのに──そんな思いがないとは言い切れない。それでも、人よりも綺麗に生まれただけでたくさんの傷を負ってきた凪沙が、こんなにもただ一人の男に惑わされている。それが嬉しかった。まるで子の成長を喜ぶ親の気分になったのだ。

 だが、それを黙って見守ることは、どうやらできそうにもなく。

「(だって御幸の奴、絶対凪沙のこと好きだもん〜〜〜っ!!)」

 そう、百歩譲ってそれが凪沙の片想いだけであれば、こんなにも歯痒い思いをすることはなかった。凪沙の一方通行なら、自覚のない感情に右往左往する可愛い友人を微笑ましく見守るだけで済んだのに。なのに、よりにもよって両想いなのだから、もどかしいなんてレベルじゃなかった。

 無論、御幸本人に直接訊ねたわけではない。だから本当のところ、御幸が何を思っているのか、誰を想っているのかは分からない。分からないが、これで御幸が凪沙のことを好きでなかったら、そんなの嘘だ。ばかだ。頭がおかしいとさえ思う。だって、だって、だって。

「(めっちゃこっち見てくるんだもんさあ〜〜〜!!)」

 何故なら今も、御幸はこちらを見てくるのだ。誰を見ているかなど、一目瞭然。焦がれるようなその視線の意味を、どうして凪沙が気付かないのかと愕然とし、そういえばこの女は引くほどモテるのだと気付いて呻く。なんてピタゴラスイッチだ、と。そう、凪沙にとってこんな視線は日常茶飯事。なので視線なんて知りません気付きませんとばかりに意識からシャットアウトすることに、彼女は慣れ過ぎていたのだ。

 だったら御幸本人が話しかけに来いと思ったが、どうやら御幸にその気はないらしい。いつだって凪沙を見つめて『話しかけに来いよ』とばかりに待っているくせに、自分の足を動かすことはない。なんでだよ。そんな内気なタイプじゃないだろと思ったのだが、そこで瑠夏は嫌な予感が警鐘を鳴らした。

 もしやこいつも、凪沙と同じく自分の気持ちに気付いていないのでは、と。

「(いやいやウソでしょ、そんなことある!?)」

 ただ悲しいかな、そんなことがあってしまうのだから恐ろしいものである。しかも厄介なことに、御幸の方が重症だった。どうやら御幸は容易に凪沙に近付こうとする不届き者を、あの手この手で追い払っているらしい。『御幸が凪沙の彼氏面をしている』という噂は容易に瑠夏の耳にも飛び込んできた。ただあくまでツラだけで、実際御幸が凪沙になにかしらのモーションをかけたわけではないのだから、もうめんどくさいというかなんというか。

 しかもそのめんどくささは、厄介な玉突き事故を起こした。

「そういえばさ、瑠夏ちゃん聞いた?」

「なにが?」

「御幸さん、彼女できたみたい」

 どうしてそうなる。瑠夏は昼食のカレーパンを吹き出すところだった。冷静にその理由を訊ねると、どうやら凪沙もその彼氏面云々の噂が耳に入っていたらしい。だが、肝心の『誰に対して』彼氏面しているか、という部分は抜け落ちており、とんでもハッピーな勘違いをしてくれやがるのだから眩暈がしそうだった。

 ──否、これはチャンスだと瑠夏は思った。気のない男の名前をあえて昼食時に出す意味が分からない。イコール、凪沙は何かしら御幸に対して思うところがあるはず。そんな希望を胸に、瑠夏はなるべく遠回りになるよう訊ねる。

「へ、へえ〜……知らなかった。あいつ、そういうの要りません、ってタイプかと」

「うん、私もそう思ってた。だから……結構ショック」

「ショック? なんでなんで?」

 ようやくか、ようやく自覚したのか。ああよかった、吹き出したカレーパンも浮かばれるというものだ。ニヤけそうになる顔をなんとか律しながら訊ねれば、うつくしい友人は残念そうにかぶりを振るのだ。

「解釈違い、なの……」

「……」

「勿論、御幸さんの自由だと思う。それは分かってる。でもね、瑠夏ちゃん。私はあの人に、推しくんと同じように恋愛も何も要らないって顔で野球して欲しかったの……!」

 我儘よね、なんて恥ずかしそうに微笑む友人に、しゃらくせえとビンタしなかった自分を褒めて欲しい。瑠夏はそんなことを考えながら、中身が飛び出すことも厭わずにカレーパンをぐしゃりと握り潰したのだった。

 おかしい。こんなにお互い大好きなのに。であれば、向かうべき道は一つのはずなのに、何だってこの馬鹿二人はその場で足踏みを続けているのか。好き同士ならくっつくべきではないのか。そりゃあ、恋愛初心者の陰キャにはそれが良いことか悪いことなのか、正直分からない。多様性を重んじる世の中である。好き同士=くっつく、は瑠夏の意見でしかない。二人がどうなりたいかなど、あの二人にしか分からない。

 けれど──否、だからこそ、くっつくべきだと思ったのだ。一般的に好き同士なら結ばれるべきだ。それが二人の間で『違う』と思うのなら、別の形を探せばいい。どんな結果になるにしても、まずは一歩踏み出してみるべきだ。当人同士にしか分からないのだから、まずは当事者である自覚をしてもらわねば、だ。だから瑠夏は慣れないなりに、こうして一生懸命パンくずを撒いているのだが。

 未だ、ヘンゼルとグレーテルは未だ家に辿り付けず。

「(カァアアア〜〜〜じれってえ〜〜〜ッ!!)」

 お互い絶対好きなのに、お互いその感情に気付かないまま、のうのうと過ごしている。百歩譲ってそれだけならまだいいが、それを間近で見せられているこちらの身にもなって欲しい。御幸は人知れず彼氏面したままいつ凪沙に話しかけてもらえるのかと視線を寄越すだけ、凪沙は凪沙で勝手な勘違いで勝手にショック受けてる始末。もどかしすぎて発狂しそうだ。さっさと告って抱き寄せて呆れるほどのキスをしろと叫びたくなる思いを、何度飲み込んだか分からない。

 なので発狂する前にさっさと自覚させるべく、瑠夏は画策する。御幸に発破かけるほど親しくないので、まずは凪沙からだ。どう考えても不調の原因は御幸だ、御幸一也だ。そもそも、夏頃はまるで飼い主に遊んでとせがむ子犬のように御幸の元に駆け寄っていたのに、秋になってからはとんと音沙汰がなくなったのは何故なのか。野球に飽きたのかと思えば、名残惜しそうに秋大会の中継をぼんやりとスマホで眺める始末。なのでまずはその理由を探るべく、瑠夏はその理由をそれとなく──彼女はあまり恋愛話を持ち出されるのは好まない──聞いてみた。すると、凪沙は涼しい顔でこう答えた。

「ん? 今は部活忙しいみたいだし、落ち着いたらまた、ね」

「え、でも大会終わったじゃん」

 確かに秋大中の野球部はどこかピリついていたし、凪沙たちも文化祭やら修学旅行やらでドタバタしていた。だが、十一月にもなれば大会も終わりイベントごとも片付いた。野球部は今オフシーズンだし、また普通に話し始めるもんだと思っていた。それに、そうなれば流石の凪沙も自分の感情に気付くのではないか、と考えたのだ。

 けれど、凪沙は静かに首を振った。

「だって、甲子園決まったんだよ。今が一番部活大変な時期でしょ?」

「そりゃそうかもだけど……じゃあ、落ち着いたらっていつまで?」

 ──正直、嫌な予感はした。野球部なんか年から年中試合だの練習だので泥まみれになっている。そんな野球部が唯一練習を早く切り上げるのはこのオフシーズンだけ。寒くて、日が早くて、練習試合もできないようなこのわずかな冬の日々だけ。なのにそのシーズンに到来して尚『大変な時期』と称する凪沙が何を考えているのか、念のため尋ねたところ、少女は当然とばかりに胸を張った。


「そりゃあ、御幸さんたちが引退するまで!」


 勘弁してくれ。瑠夏はその場で引っくり返った。

 引退──引退するまで! どんなに長く戦ってもそれは三年夏、今から半年以上先だ。その間、凪沙は御幸にむやみやたらと話しかけには行かないようにする、と言うのだ。ではその半年間、凪沙たちのもどかしい関係を見守っていかなければならないのか。冗談じゃない。こんな甘ったるくてもどかしくて見ていて腹さえ立ってくるような光景を、数日眺めるだけでも胃が捻じれそうなのに、半年以上!

 頬を引き攣らせる瑠夏に気付かず、凪沙は「それにね」とほんの少しだけ声を落とす。そして、どこか儚げな笑みを浮かべて、こんなことを言い出した。

「あんまり話しかけても、彼女さんに悪いしね?」

「(よし、この馬鹿二人蹴っ飛ばそう)」

 瑠夏はその一言を以て決意した。この調子じゃ、絶対に進展しない。凪沙は御幸に彼女がいると思い込んでいる上に、半年以上話しかけに行くつもりがないという。半年もこのもだもだした空気を見守るなんてできない。禿げるか胃潰瘍になってしまうし、凪沙が次にどんなオトボケ勘違いを生み出すか分かったもんじゃないからだ。

 なので、瑠夏は遠回しな戦法を止めた。彼らと同じクラスの倉持を頼ったのだ。胃痛で倒れかけていた倉持もまたこの協力要請に快諾した。見た目ガラの悪い倉持に話しかけるには瑠夏にはそれなりの勇気が必要だったが、凪沙と御幸の苦労話で物の数分で打ち解けられたのは幸いだった。

「名付けて、『くそっ、じれってーな! 俺ちょっとやらしい雰囲気にしてきます!』大作戦!」

「長ェし、やらしくはすんな」

 そうして、もどかしい関係をいつまでも続ける二人を他所に準備は着実と進んでいった。そして、ようやく全ての準備が整った後、瑠夏は凪沙にこう囁いた。

「凪沙、ちょっといい?」

「なあに?」

 野球部がオフシーズンになり、ぼうっとすることの増えた凪沙は、その感覚を『沼ったジャンルのアニメが終わって寂しい』と勘違いしている。箱推しだのなんだのと宣っていたが、要は御幸への感情を『恋心』ではなく『推し』だと思い込んでいるのだ。だから解釈違いだのなんだとの抜すのだ。思えばそれは、過去の出来事故に彼女の心が自身を守ろうとブレーキをかけているのかもしれないが、そんなの結局のところ現実逃避でしかない。

 今までだったらこの勘違いを正そうと躍起になっていたが、このスーパー鈍感美少女には効果はないと分かった。どんな撒き餌も彼女には無意味だったのだ。ならば。

「せっかくスポーツ物イケるクチになったんだから、他の沼もどうよ?」

 瑠夏の手にはありとあらゆるスポーツ漫画の一巻、テニス、アメフト、バスケ、サッカー、バレー、ボクシング、卓球、バドミントン、相撲、柔道、なんでもござれだ。きょとんとする美少女を前に、瑠夏は含みの籠った笑みを浮かべた。

 『くそっ、じれってーな! 俺ちょっとやらしい雰囲気にしてきます!』──作戦、押してダメなら引いてみろ、だ。

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