17.Siege Warfare

 倉持洋一は、人目も気にせず苛立っていた。

 季節は十一月。秋大会は優勝、神宮大会は戦力ダウンで逃し、青道野球部はオフシーズンが到来していた。冬場の練習は厳しい。練習試合は春までお預けとなるのだから、当然と言えば当然だ。その分トレーニングを積み、春の甲子園に備える必要がある。選手は一丸となって、グラウンドで泥だらけになるまで駆けずり回るのだった。

 さて、そんな数年ぶりの甲子園出場の立役者となった御幸一也についてだが。正直ムカ突くことも多い男だが、尊敬はしている。自分以上にキャプテンの器だと思うし、野球もうまいし背も高いし、更には顔も頭も悪くない。野球にかける情熱は大したものだと舌を巻いたほどだったのだが、ここ最近は本当に見ていられなかった。原因はただ一つ、クラスのとある女生徒だ。

「倉持さん倉持さん、太田先生より『公民のレポートが未提出』との言伝が」

「──ヤベッ、忘れてた!」

 それが、倉持の机の前で困惑したように微笑む少女である。名前は天城凪沙。眉目秀麗、成績優秀、品行方正──そんな言葉は彼女の為にあると言っても過言ではない。男ならば一度は憧れるようなクラスの、いや青道が誇るマドンナ的存在である。誰に対しても礼儀正しく、物腰丁寧な所作はどこか浮世離れしているように見えるが、彼女の美貌がそんなものさえ武器にして引き立たせる。物腰柔らかなのに、親しい友人以外には一線を引く少女を、遠巻きに眺める男のなんと多いことか。

 そんなマドンナと一野球部員、クラスメイトとはいえ接点など合ってないようなものである。普段は遠目に眺めて『いつ見ても顔はタイプだな』と思うだけなのだが、今日は少し違う。先日の公民の授業、うっかり居眠りしてしまった倉持は罰として授業のレポート作成を命じられていた。勿論そんな罰もまたうっかり忘れていた倉持は、慌てて公民の教科書を引っ張り出す。期限は昨日だ。猛ダッシュで作成しなければ。

 そんな焦る倉持に、凪沙は一枚のメモを差し出した。

「これ、使ってください」

 メモには彼女と同じぐらい整った字で、レポートの題材と教科書の引用ページが簡単に綴られていた。バッと顔を上げると、少女は女神のような顔で柔らかく微笑んだ。

「二千字ぐらいであれば、引用文含めて余裕で埋まるかと」

「お、おお──わりぃ、助かる!」

「いえいえ、こんなことでしかお力になれませんので」

 練習頑張ってください、華やかな笑みと共に、凪沙は自席に戻っていく。彼女の倉持のただ一つの接点。それは『天城凪沙が異様なまでに野球好き』である点にある。試合にはいつも応援に駆け付け、そうでなければ配信を追ってまで応援するという熱狂ぶり。普段は近付き難い高根の花だが、野球が絡むと彼女はちょっとネジが緩む。そういうギャップに心動かされる者もいるのだろうが、生憎倉持はそうではなかった。理想はあくまで理想でしかなかったのだと、少年はしみじみと思う。

 ただ、今のはだいぶぐっときた。どうせ野球部部長の太田に手助けするよう言われたのだろう──でなければ、クラス委員でもない彼女が倉持にレポートの提出を促すなんて不自然だ──、それでも今のは危なかった。こちらに足早にやってくる鬼の顔を見なければ、妙な気を起こしていたかもしれない程に。

「……どうしたんだよ」

「んでもねえよ、クソメガネ」

 鬼こと我らがキャプテンにして、倉持のここ最近の苛立ちの種である御幸一也に、先制して否定する。だが、御幸はムカつくほど端正な顔をきゅっと顰めるだけだった。だが、倉持の机に広げられたプリント類を見て、ああ、と御幸は頷いた。

「公民のレポートね。お前さあ、部長の授業でいびきかいてんじゃねえよ」

「うるせーな、あの日はバカの寝言が煩くて眠れなかったんだ」

「そんな繊細な性質かよ」

 御幸は小ばかにしたように笑う。だったら代わってやろうかと声を大にして言いたい。寝てる最中、突如『おーしおしおしおーし!』、『ガンガン打たせていきますんでー!!』なんて叫ばれてみろ、ぐっすり眠っていられるわけがない。お前の相棒だろ何とかしろと言いかけて、そんな暇はなかったと、倉持は凪沙の残してくれたメモに目を落とす。御幸なんぞに構っている余裕は今の倉持にはないのだ。けれど。

「……あの人、なんて?」

「ああ?」

 ぼそりと呟かれたその一言に、倉持は分かっていながら惚ける。また始まった。それ以外の感情がないからだ。だが、御幸も御幸でこの程度では引いてくれない。

「だから、天城さんだよ」

「……別に。レポートが未提出だって教えに来ただけだっての」

「そんだけ?」

「他に話すことなんかねえよ」

 こう言うのもなんだが、倉持はその風体から多くの女生徒から『ヤンキーだ』と怖がられており、目の前の男と違って女の子の扱いにはとんと不得手だ。いや、御幸が特別得意という訳ではないが、少なくともこの男は女生徒に非常に人気がある。秋大会以降、御幸を呼び出してほしいと何度言われたか分かったもんじゃない。それに比べると倉持は女生徒と話すことがほとんどなく、話題の引き出しは常に空っぽだ。だから凪沙とだってただの業務連絡しか話していない。このメモだって、親切というよりは教師の根回しでしかないわけで。

「ふーん……」

 そんな倉持の答えに、御幸は不服そうに鼻を鳴らす。そうして顔を上げてこの男は決まって凪沙の方を見る。ちらりとマドンナの方を見れば、教室の隅で友人たちと楽しそうに談笑している。

「……」

「……」

「……」

「……用がねえなら席戻れ、邪魔だ」

 こっちは今日中にレポートを仕上げねばならないのだ、御幸に付き合っている暇はない。シャーペンをカチカチとノックして、倉持はレポートに覆い被さるも、御幸はまだ動かない。

「……」

「……」

 そうして二人は無言のまま。倉持はレポートに取り掛かり、御幸は何をするでもなくぼんやりと凪沙の方を見つめる。何でわざわざ倉持の席に来てまで、と早速腹の底のコンロが着火する。いや、無視だ無視。付き合ってられるか。それよりレポートだ。ただでさえ提出期限が過ぎているのだ、一分一秒を無駄にできない。なのに。

「……」

「……」

「……」

「……チッ!」

 倉持洋一は良くも悪くも他人を放っておけない性質であり、また繊細な男であった。こんな思わせぶりな御幸を前に、レポートに集中できるはずもない。

「そんなに気になるなら、テメーから話しかけりゃいいだろ」

「……いや、別に、そういうんじゃ」

 どこかだ。どこが『そういうんじゃない』だ。ふざけるな。倉持の腹の底はもう沸騰寸前だ。どう見ても天城凪沙が気になって仕方がありません、なんて顔をしているのに。倉持が凪沙と業務連絡をしているだけで血相変えて飛んできたくせにどの口が、と言いたいところをぐっと飲み込む。

 面倒なことに、御幸はこの『嫉妬心』に対して引くほど無自覚なのだ。

「んだよ、言いたいことあるなら直接言えや」

「……別に、話したいことがあるわけじゃねえし」

「じゃなんで天城さんのことジロジロ見てんだよ、気持ち悪ぃな」

「キモ……っ!?」

 容赦ない倉持の一言に、御幸はショックを受けたように口を噤んだ。そう、それが一番気持ち悪いのだ。見ていて苛々する。用もないのにジロジロと、ここ最近の御幸はいつも凪沙を見つめている。特に秋大会以降はそれが顕著だった。まるで何かを待っているように、相手の出方を窺うように、見つめるだけのその行為が倉持にとってはたまらなくムカつくのだ。そんなに用があるなら自分から行け、と。

 だが、そんなことさえ自覚がなかったのか、御幸は落ち込んだように眉を八の字にする。

「……俺、そんな見てる?」

「おー。天城さんが気付かねえのが奇跡みてえなもんだ」

 ヒャハハッと笑い飛ばすも、奇跡でも何でもなく当然のことである。何故なら天城凪沙ほどの美人であれば、常に他人の視線に晒されている。こうした気持ち悪い視線も、言ってしまえば彼女にとっては日常茶飯事だ。だからこの視線に気付かないのだと、倉持は読んでいる。だが、それすら見通せない御幸は、ますます落ち込んだように倉持の机の前でしゃがみ込む。

「話すことねえなら何なんだよ」

「……俺はないんだけどさあ」

「ああ?」

「あの人が、聞きたいことあるって言うから」

 その一言に、倉持は初めて御幸の顔を見た。どこか拗ねたような表情は、秋大会後に突如弱音を吐き出した男の顔とよく似ていて。

「……部活が落ち着いたら、また聞きに来るって。秋大の頃に、言われた」

 なるほど──なるほど。その一言で全てが分かった。だから御幸は、ずっと待っているのか。彼女がまた、あの子犬のような顔ではしゃぎながら御幸の元にやってくるのを、ずっと。何故ならいつだって、凪沙の方から御幸に話しかけていた。だから御幸の引き出しの中身は、空っぽなままなのだ。彼女に告げるべき言葉を、何も思いつかないのだろう。

 そんな煮え切らない御幸にも苛立つし、そんな御幸のことが本人以上に理解できてしまう自分にも腹が立った。チッ、と一際大きな舌打ちをして、倉持は御幸を睨みつける。

「んじゃ、忠犬よろしく待ってるこった。一生な」

「……まあ、何も無いならいいんだけどさ」

 まるで自分に言い聞かせるように、御幸は立ち上がって席に戻る。とても『いいんだけど』という顔には見えなかった。ただ、他人の揉め事に首を突っ込むほど倉持は暇でもないし優しくもないし、自分で自覚すらしていないその感情を、外からとやかく言うのは無粋だ。そもそも、倉持の読みが当たっているという保証もない。あの感情が倉持の知るそれと同じかどうか、本当のところは御幸にしか分からないのだから。

 だから御幸が自分で気付くまで、倉持は放っておくことにした。せいぜい悩んで、頭抱えて、無様を晒せばいいとさえ思った。見ていて苛々するが、それ以上にあの御幸一也が一人の女の子に振り回される姿は、中々に面白かったからだ。



***



 と、思っていた時期が倉持洋一にもありました。

「(クッソ、見てらんねえ……ッ!!)」

 今日も倉持は御幸のことで頭を抱えて机に突っ伏す羽目になった。確かに倉持の読み通り、凪沙に話しかけに行くこともできず、自分でも理解できない感情に右往左往するツラは中々に笑えた。だが、一か月経ってもそんな体たらくなのだから、ただでさえ短い倉持の堪忍袋の緒が容易に千切れるのは、まあ、言うまでもなかった。確かに面白いには面白いのだが、それ以上に苛立って仕方がない。素晴らしいシナリオなのに、UIが余すところなくゴミ仕様なRPGをプレイしている気分になる。シナリオの続きは気になるし面白いのだが、コントローラを持つだけでストレスがマッハになるのだ。

 御幸がもだもだする程度であれば、じれってえなと蹴りを入れたくなるぐらいで、まだ笑えたのだ。笑えなくなったのは、御幸が『本丸ではなく外堀から埋める』、という死ぬほどせこい真似をし始めてからだ。

「なー、御幸、倉持。お前ら天城さんと仲いいんだろ? どうにか取り次いでくんねえ? デート誘ってもツレないのなんのって……」

 凪沙は男を寄せ付けない。故にこそ、気兼ねなく凪沙と談笑する姿をたびたび目撃された御幸や倉がを、ちょうどいい仲介役に見えたのだろう。倉持たちはたびたびこうして仲介を頼まれることがあった。あれだけの美人なのだからワンチャン狙う連中がいてもなんら不思議ではないが、にしても何で自分たちなのだと御幸と最初顔を見合わせたほどだ。というか御幸はともかく倉持はそこまで話す間柄ではない。なのにこうして仲介役を頼んでくるということは、それほどまでに、彼女は鉄壁のガードを誇っているという。

 夏頃まではそんな声はかからなかったのに、秋から急にこんな無粋なお願いが増えてきた。きっと御幸と凪沙が話さなくなったのを見て、チャンスと勘違いした男たちがこうして足を運んできているのだろう。ただ、それで分かった紹介してやるよと言うほど親切でもないし、そもそも凪沙と親しいわけじゃない。なので、お断りだ他所を当たれ、そう告げるつもりだったのだが──。

「んー……やめた方がいいんじゃね?」

「は? なんで?」

「あの人、夢中になってるキャラ[やつ]がいるみたいだし」

「ぶっ──」

 突如、御幸がそんな勝手なことを言い出したので、倉持は思いっきりむせ返ってしまった。逆にそれが信憑性を増したのだろうか、マジかよと名前もおぼろげな男子生徒が呻いた。

「んだよ、彼氏なんかいりません〜なんて顔して、ちゃっかり遊んでるわけね」

「いや、彼氏じゃねえよ」

「は?」

 真顔で否定する御幸が、何を考えてるのか倉持には読めない。ただ、呆ける男子生徒の前で、御幸はまるで我が物顔で語るのだ。天城凪沙のことは、何でも知っていますと言わんばかり。口ぶりは静かだが、明らかな威圧感が御幸から発せられていて。

「……」

「……」

「……」

「……えーと、お、俺、帰るわ」

 これは──いや、寧ろこれが狙いだったのだろうか。男子生徒は黙する御幸を前に怯んだようにその場を去っていく。確かに、見た目だけは雰囲気がある男である。上背もあるし、黙りこくって対峙するだけで、気の弱い奴は逃げ出してしまうだろう。おまけに、狙ってた女の子を前にこんな物言いをする男だ。そりゃあ気まずくもなるというものだ。

 逃げ出す男を表情一つ変えず見送る御幸に、倉持は呆れたようにその頭を軽く殴る。

「……あんなこと、勝手に言ってよかったのかよ」

「別に、嘘じゃねえよ。告られて鬱陶しいって言ってたし、親切親切」

「し、親切って、お前なあ……」

 確かに仲介役を使ってまで近付こうとする男がいるのだ、彼女も迷惑がっているのは目に見えている。目に見えているのだが、だからと言ってこんな──こんな物言いは、まるで──。

「……どういう権利があってんなこと言えんだ、テメェ」

「権利も何も……フツーに、ただの親切心だって」

 どうやら御幸は本気であれを『親切』だと思っているらしい。そりゃあ、『告箔されて鬱陶しいと言っていた』という下りが事実であるなら、彼女にとっては親切になるのかもしれない。かもしれないが──だが、それ以上を告げる気のない倉持は、喉元まで出かかったあれやそれやを無理やりにでも飲み込んで、その背中を軽く蹴飛ばすだけに留めてやったのだ。が。

 その一件から気を良くしたのか。或いは、変なタガが外れたのだろうか。それから何度となく凪沙に取り次いでくれないかと何度も声をかけられるようになったが、それら全てを凪沙の了承なしに御幸が突っぱね始めたのだ。『あの人は今忙しいから』、『夢中になってる人がいるし』、『そういうの迷惑って言ってた』──あれこれとそれらしいことを述べ、御幸は高根の花に群がる虫たちをライターと殺虫スプレーを構えて追い払う。確かに、それが巡り巡ってそれが凪沙の為になっている、のかもしれない。彼女が迷惑がっていた、という大義名分とばかりに振りかざす男は、とても活き活きとしていた。それはいいのだが──。

「どう見ても彼氏面です、本当にありがとうございました」

「だよなあ……」

 倉持の傍で溜息をつくのは、凪沙の友人である瑠夏という隣のクラスの女生徒だ。御幸のこの所業は隣のクラスにも渡っているようで、どういうことなのかと瑠夏は倉持を訪ねてきたのだった。

「……倉持さあ、あれほっといていいと思う?」

「思わねーよ。ムカつきすぎて胃が沸騰寸前だっつの」

 あれ、というのはいつものように凪沙をぼんやり眺める御幸の姿だ。他クラスにまで悪名を轟かせているくせに、当の本人は外堀ばかり守って肝心の本丸には一向に踏み入れない。見ていて苛々する。あんなに『自分の彼女です』みたいな顔でアピールをしまくっているのに、その感情を自覚すらしていないのだから手に負えない。

「私もさあ、あんま外からとやかく言うもんじゃないと思うんだけど」

「ああ。俺もお前と同意見だ」

「でもね、あの二人がくっつく頃には、私ストレスで剥げてると思うのよ」

「おーおー、俺は胃潰瘍になる寸前だぜ」

 倉持だって、本当は放っておきたい。本人たちの問題だ、本人たちで解決させればいい。ただ、それをするには倉持も、そして目の前にいる瑠夏も、些か繊細過ぎたらしい。瑠夏の話を聞く限り、凪沙も無自覚モンスターと化しているようで。このまま放っておけば、御幸と凪沙が自分の想いに自覚する頃には傍で見ている倉持や瑠夏の胃は荒れに荒れ、メンタル面でもフィジカル面でも影響が出かねない。

「──というわけで倉持クン、ちょいとあの馬鹿二人の背中蹴っ飛ばさない?」

 よしきた、倉持はノータイムで答えた。邪魔する奴は馬に蹴られるとは言うが、邪魔ではなく助太刀なのだから蹴られる道理はないはずだ。これは彼らのためではない、自分たちの心の安寧を守るためなのだと、少年と少女は人知れず立ち上がったのだった。

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