16.曲解パラフィリア

 天城凪沙は、どこか夢見心地だった。

 修学旅行、そして文化祭。大きなイベント二つは、まあ、滞りなく終わった。道行く男に何度も声をかけられるなど凪沙の苛立ちゲージは中々のボルテージであったが、友人たちの守りもあってか爆発せずにイベントを終わらせることができた。委員会の仕事もひと段落したことだし、凪沙も興味は再び野球観戦に注がれていた。凪沙たちがイベント事に奔走している間に、青道野球部は順当に勝ち進み、いよいよ決勝戦。これに勝てば、春のセンバツ出場確定。準優勝でもセンバツ出場校に選ばれる可能性がある。

 甲子園、彼らが──甲子園に。

「シフトいっぱい入れなきゃ……!!」

「応援の宿泊費は学校が出してくれんじゃないの?」

「分かんない。だから、稼げるだけ稼がないと!」

 鼻息荒くそんな未来を夢見た凪沙は、うきうきでシフトを組んだ。塾のバイトは下半期がかき入れ時である。春には間に合うはずだと、夢見るような表情で今日の教室の隅でスコアブックを読みこむ御幸の背中をちらりと見る。

「やー、あんなの見せられたら期待しちゃうよねえ」

「うん、ほんと……かっこよかった……」

 準決勝はシフトの都合で見に行けなかったが、後の配信で彼らの試合は一つ残らずチェックしている。準決勝ではラフプレーが発生し、御幸は体格のいい対戦相手に思いっきりタックルされていた。だが、そんな不安を吹き飛ばすような、逆転ホームランを叩き込んだ御幸に、スタンドは騒然とし、配信でそんな終幕を見届けた凪沙と瑠夏は思わず抱き合って大歓声を上げたものだ。あの逞しい背中を見ていると、あの逆転ホームランが脳裏を過り、体が熱くなるほどだ。

「……ま、純さんほどじゃないけどね!」

「ふふっ、瑠夏ちゃんもすっかり夢中だねえ」

「最推しだもん、当然よ」

「推し、かあ」

 瑠夏のそれは、『恋』ではないのだろうか。部外者である凪沙には判断がつかない。でも、伊佐敷純の話をする瑠夏はいつも楽しそうだ。頬を上気させ、顔を輝かせ、まるで恋をしているように見える。自分もいつか『恋』をする時、こんな素敵な顔になればいいなと思うほどに、彼女はとても美しい。

「……それは、恋とは違う?」

「どーだろ。かっこいいって思うけど、付き合いたいわけではないし」

「付き合いたい、って思わなければ『恋』じゃない?」

「分かんない、そんなの。人によるでしょ」

「そういうもの?」

「人の数だけ愛があるってワケ」

 分かったような口ぶりでそんな高説を垂れる瑠夏。凪沙の知る『恋』は、何らかの見返りを求めるものだ。話したい、付き合いたい、肉体的接触をしたい──そういったあれこれがなければ、胸が苦しくなるというもの。けれど瑠夏のそれは、やはり凪沙の知る『恋』とは少し違って見える。彼女は純粋に、伊佐敷純という一人の選手を応援している。それだけで十分だと語る少女は、まさにファンの鑑である。

「で、そういう凪沙は? やっぱ御幸推し?」

「推し……」

 今の今まで三次元に『推し』がいたことのない凪沙は、その問いに腕を組んで考え込む。そういえば以前、御幸にも似たようなことを言われた。確かに定義的には一番好きで、誰よりも応援していて、他のキャラが目に入らないぐらいそのキャラに夢中になる。そんな経験を元に、『推し』かそうでないかを定めてきた。では、御幸たちはその定義に当てはまるのかどうかというと──。

「強いて言えば……」

「言えば?」

「青道野球部、箱推し?」

「箱推し」

「うん、それが一番しっくりくるかな。全員、応援してるから」

 箱推し──すなわち、全員推し。それが一番しっくりくる。御幸とよく話すから、御幸がキャッチャーだからとか、そういう理由ではない、と思う。確かに推しと同じポジションなので試合中はよく目で追ってしまうのは認めるが、御幸個人を応援しているわけではない。凪沙は、青道野球部全員を応援しているのだ。

「これが単推しではなく、箱推し……!」

「……うん、まあ、そういうことで、いっか」

 生まれて初めての三次元の推し、しかも箱推し。彼らがアイドルだったら破産していたところだ、と凪沙はしみじみと頷く。そんな凪沙を横目に、瑠夏はいまいち釈然としない表情で何か言いたげな言葉を飲み込んだのだった。



***



『東西合わせ二百六十校──秋季東京都大会を制し、センバツへの切符を手に入れたのは、青道高校〜〜〜!!!』

 そんなアナウンスに、スタンドはまるで爆発したかのような盛り上がりだった。その場で声が枯れるほど応援していた凪沙も瑠夏もまた、抱き合って歓喜のあまり悲鳴を上げていた。勝った、勝った、勝った。夏よりも狭き門を、全て破った。

 一進一退の攻防、相手が打って、こちらが守り、こちらが打って、相手が守り。息を呑むシーンが何度も続き、もう失神して早く試合が終わってほしい、と思うぐらいヒリついた試合だった。けれど、勝った。終わらせた。御幸一也が、決勝点を決めた。盗塁、逆転ホームイン、そして最終回はエースを導きしっかり守り切った。こんなの見て、泣くなと言う方が無理な話だ。

「よかった……本当に、よかった……っ!」

「う゛、ん゛……勝゛っ゛た゛よ゛お゛……!!」

 涙ぐむ凪沙の横で、瑠夏はダバダバに泣いていた。あの夏の雪辱が晴れたわけではないだろう。だけど、彼らが甲子園に行ける──それだけで、ありとあらゆる感情が湧き上がってきて、そんな感情が体内で留められなくなって、こうして涙として零れてしまうのだ。そんなものを、彼らは見せてくれたのだ。まるでとんでもなく良質な小説を読み終わったような気分だ。熱量は未だ身体に燻り、感動は未だ瞼に焼き付いて、どこか置き去りにされたような寂しさだけが心臓を揺らしている。

 涙を浮かべながら、選手一同に拍手を打ち鳴らす。本当にすごかった。素晴らしい試合だった。どれほど勉強したとしても、この試合を一言で表現することはできやしない。語彙力を捨てたオタク二人は言葉を選ぶなんて無粋なことをはせず、ただ拍手で敬意を表す。選手たちが一礼して、ベンチへ戻るまでずっとだ。

 ただ──。

「……みゆき、さん?」

 勝利に貢献した御幸が、何故か倉持に肩を借りて歩いている。歩き方はぎこちなく、身体を庇うような動き。それを見た応援団や観客たちもざわつき出す。怪我? どっか痛めた? そういえば準決勝ってラフプレーが──そんな雑音が耳に飛び込んできて、ぞっとした。

「怪我、してた……?」

「みたいね……うーわマジ? 一人で立てないぐらいしんどいのに、打って走って逆転ホームイン? 化け物じゃん!」

 どこを痛めたのか定かではないが、御幸はどこかを庇うような歩き方でベンチに消えていく。閉会式と共にスタンドの観客も退場を求められ、神宮球場を後にする。そんな中、ずっと考えていた。御幸の姿。首皮一枚繋ぐ安打。不調を悟らせないスチール。そして全力疾走でホームイン。あんな身体で。あんな、怪我で。

「ん、フ──フフ……ッ!」

「……凪沙?」

 階段を下りながら堪えきれない笑みを漏らす凪沙に、瑠夏は不審そうな顔で覗き込んでくる。感涙することはあれ、笑うところではないだろう、とばかりだ。全くの同意見である。だが、これを──この解を前に、黙っているなんて到底無理だった。

「瑠夏ちゃん、私ね、分かっちゃった」

「お、おお?」

 したり顔で頷く凪沙を、瑠夏は何とも言えない曖昧な表情で直視する。ふっふっふ、と明らかに不自然な笑みを浮かべながら、凪沙は涙を拭う。

「瑠夏ちゃんの読み、強ち間違ってなかったのかも」

「読みって?」

「御幸さんのこと」

「御幸? え? なに? まさか──」

 ハッと息を呑む瑠夏。ただ、早合点される前に凪沙は静かに首を振る。

 今までどうだったか、凪沙には判断つかない。だが今は確実に、一つ言えることがある。御幸一也のことだ。男嫌いで名高い──そう呼んでるのは友人だけだが──凪沙が、御幸にだけは進んで話しかける。心を砕き、『友人』とさえ称した。天城凪沙にとっては数少ない、というか唯一の異性の友人だった。そういう意味では確かに御幸一也は特別だ。だが、それ以上の感情はないと思っていた。瑠夏に向ける感情と、御幸に向ける感情に、さほど差はないのだと、信じていた。

 けれど、今は違う。この試合を見て、気付いてしまった。いや、思えばその兆候はいくつかあったのだ。ただ、それは言語化するには曖昧過ぎて、どこかふわふわとしていて、凪沙の中で確かな感情ではなかった。けれど今は違う。今はこんなにも、自分のことが分かる。確かに認めがたいことではあったが、自覚してしまえば、ああ、なるほど。周りが早とちりするはずだと、独り言つ。

「御幸さんを見てるとね、すごくドキドキする」

「お、おお!」

「あの人の所作の一つ一つが、頭から離れてくれない」

「お──おぉおお!!」

「彼は、推しとかそういう次元の存在じゃないって気付いたの」

「おお! それで、それで!?」

 急かす思いを堪えるように、けれど抑えきれない興奮気味な表情で瑠夏は相槌を打つ。そう、御幸一也は特別だ。ただの友達で片付けるには、この感情はあまりにも膨れ過ぎていた。

 青道が誇る才女は、この感情の名前を知っている。


「あの人、もうありとあらゆる部分が私の『性癖』なの……っ!!」


 そうして才女は、キャッと恥じらう乙女のように耳を疑う発言をした。

 そう、御幸一也は何かと凪沙の性癖をくすぐる。私生活は野球一辺倒で趣味嗜好が希薄なところも、モテるくせに全くそれを喜ばないところも、怪我を押して試合に出るところなんか、胸がぎゅんぎゅんして心臓が弾けてしまいそうだった。そんな『誰かさん』の姿がきっかけで、凪沙は野球という沼に落ちてきたのだから。

「ほんと推しくんそっくりで困る……捕手ってみんなああなの? もうね、なんか所作がいちいちそれっぽいのがもう、ね、こう……分かるでしょ!?」

 そう、御幸一也は何かと『推し』に似ているのだ。ルックスは似ても似つかないが、野球に対する姿勢とか、私生活のあれこれとか、とにかく色んな所がリンクしているのだ。やはり捕手というポジション上、気質が似通うのだろうか。彼を見ているだけで楽しい。彼を通して『推し』が実体化して見えるのだ。もうテンションが上がらないわけがなかった。確かに、この感覚は世にいう『恋』に似ているのだろう。勘違いされるわけである。

 実在する人間にこの物言いはどうかと思うだけの常識はあったものの、それ以外の答えを持たない凪沙はスッキリしたとばかりに晴れやかな笑顔を浮かべている。いい、本人にバレなければオールオッケーだ。これからも末永く仲良くさせてもらうとしよう。

「もー、とにかくいちいちツボでね──って瑠夏ちゃん? 聞いてる?」

 隣を見ると、何故か瑠夏は腰を抜かしてその場に頽れていた。どうかしたのかと訊ねれば、瑠夏はどこか遠い目をしながら「アーハイハイソウダネソウダネ」と片言で返事をしていた。泣きすぎてどこか調子が崩れたのだろうか、親友を横目に凪沙はそんな寝惚けたことを思ったのだった。

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