15.九年と待てず

 御幸一也は、とある違和感を抱いていた。

 というのも、ここ最近、天城凪沙が近付いてこない、もとい、話しかけてこないのだ。具体的にいつからだったかは明確に覚えていないが、新学期始まってから彼女の声を聞く機会が減ったように思う。夏休み前はほぼ毎日のように御幸さん御幸さんと笑いかけてきたのに、だ。ただ、そんなことを気にしている余裕は御幸・新キャプテンには欠片もなかった。キャプテンの重責、監督の離任問題、打線の貧弱化、投手陣総崩れ──解決すべき問題は山積みだった。なので、日常からクラスメイト一人の影が消えたところで、御幸の野球に影響はなかった。

 ただ、やはり周りはそうは思っていないようで。

「そういや最近どうなんだよ、天城さんとは」

 新学期に入り、男女問わず何度となくそう聞かれてきたが、最も回数が多いのはやはり倉持だった。その変化を最も肌で感じ取っていたのだろう、話さなくなったことは事実だし。練習後の風呂へ向かう道すがら、人目のある場所で聞いてこないだけマシかと思いながら御幸は溜息を吐く。

「どうも何も、話しかけてこねえし」

「なんだ、じゃあ飽きられたのかよ、お前」

 いい気味だと倉持はゲラゲラ笑い飛ばす。いい気味も何もないと、何百回言っても倉持は聞きはしない。おかしい、彼はもっと周りに気を配れる男だったはずだ。的外れな物言いに疑問を覚えながら、その発言だけは否定すべく口を出す。

「飽きたってことはないんじゃね。土日の試合はほとんど来てるみたいだし」

「は──」

「忙しいだろうに、毎週毎週よく来るよなあ」

 何せ地方大会の初戦でさえ、スタンドで凪沙の顔を見かけたほどだ。よっぽど熱意がなければ何度も何度も足繁く球場に通うことはできまい。彼女の『推し』への愛がどれほどか御幸には分からないが、応援してくれる人が増えるのはいいことだ。最近じゃ友人も引き連れてきてるみたいだし。まあ、あの友人はもっと別の目的がありそうだが。

 そんな御幸に、倉持は気味悪そうに眉を顰めた。

「……何でお前、んなこと知ってんだよ」

「なにが?」

「天城さんが毎回来てるってことをだよ! 連絡取り合ってんのか!?」

「んな馬鹿な」

 そもそも連絡先を知らないのに、どう連絡を取れというのか。呆れ半分で御幸は肩を竦める。何故倉持が気付かないのか、御幸にはとんと理解できないからだ。

「知ってるも何も、あの人すげー目立つだろ」

「……、いや、まあ、そりゃ」

 何分、彼女は同じ学年の男ならほとんど知っているほど評判の美人だ。しかし、どこか浮世離れしているというか──実際は他人に対して徹底した壁を構築しているだけなのだろうが──、とにかく彼女は目立つ。スタンドが埋まるほど賑わう決勝の舞台ならいざ知らず、親やOBたち、もしくは見知らぬおじさんたちがちらほらいるだけのスタンドに彼女のような美人は、いい意味でも悪い意味でも目立つ。そういう意味では、一人だと声を掛けられがちだというので、友人と一緒に来ている点ではこちらとしても安心だ。球場で下手なトラブルは起こしてほしくないわけだし。

「……お前なあ」

「どうしたんだよ倉持、その顔」

「いや、なんつーか……」

 すると倉持は先ほどまでの鬱陶しい表情をどこへやら、随分と歯切れ悪くなった。風呂桶を抱えながら立ち止まると、倉持はぎろりと睨んできた。

「……んでもねえよ」

「なんだよ、お前が振ってきた話だろ」

「うるせーな、テメーはそうして一生やってろ!」

「何をだよ」

 真っ当なツッコミをしたはずなのに、倉持はそれ以上何も言わずに背中を蹴り上げるだけだった。いてえ、うるせえ、そんな風に騒ぎながら主軸二人は風呂場へと消えていったのだった。



***



 十月。始動した頃には問題が山積みだった新チームも、着実に勝ち進むことでいよいよ甲子園が見えてきた。そんな中、十月に行われたビッグイベントの一つである『修学旅行』や『文化祭』は、勝利のささやかな犠牲となったのだが、それを『ささやか』だと考えているのはごく一部の部員だけらしい。

「御幸君、これ、修学旅行のお土産……」

「あー、俺、そういうのは受け取らないようにしてんだ」

 その日御幸はいつものように──と言うと他の部員から顰蹙を買うのだが──名前も顔もおぼろげな女生徒に呼び出され、練習後の日も暮れた校舎の中庭に立ち尽くしていた。とっくに下校時間は過ぎているとはいえ、人目がないわけではない。場所ぐらい選んでくれと文句を言いたいところだが、流石にそれを告げる勇気はない。天城凪沙ほどの豪胆さがあればまた違うのだろうが、なんてことを考えながら目の前で表情を凍らせる少女に答える。

「あっ、その、私──……」

「……悪い、最近大会で忙しくて」

 だからさっさと解放して欲しい、と暗に告げる。名も知らぬ少女はショックを受けたように御幸に渡すはずだったお土産と思しき包み紙を握り締め、何を言うことなくその場を走り去ってしまった。フラれる覚悟もないのにいちいち呼び出すなと辟易しながら、御幸は自販機の方に声を投げる。

「わりーね、天城さん。邪魔しちゃって」

「!!!」

 その一言に、自販機の陰から恐る恐るといった体でクラスメイトの天城凪沙が顔を覗かせてきた。彼女の顔を見たのは随分久々な気して、また少し笑みが零れた。

「な、何故バレたのですっ」

「いや、全然隠れられてなかったし」

 恐らく、中庭の先客だったらしい凪沙は御幸たちの来訪で出るに出れなくなり、慌てて自販機の陰に隠れたのだろう。惜しむらくは御幸の立ち位置からは凪沙の髪や制服のスカートが丸見えだったのですぐに分かったのだが。そう告げれば、凪沙はやや不服そうな顔で自販機の陰から出てきた。

「いや、あの、決して覗き見をしていたわけではなく……!」

「分かってるって」

「寧ろ私もさっき──あ、いえ、そのっ、!」

「あー、そういうこと……天城さんも苦労すんね」

「……いえ、御幸さんほどでは」

 『先客』の理由を知り、御幸と凪沙は疲れたように嘆息した。どうやら、凪沙もまたどこの誰とも分からない輩に告白をされていたのだろう。相手の男は見かけなかったので、凪沙だけが行き場のないモヤモヤを抱えたまま残っていたところ、運悪く御幸たちと鉢合わせた──そんなところか。

「最近、本当に多くて……」

「俺も。なんだろーな、修学旅行の浮かれ気分が抜けてないんじゃねえ?」

「浮かれるのは結構ですが、他人を巻き込まないで欲しいものです!」

「ははっ、相変わらず手厳しーの」

「御幸さんだって同じこと考えてるくせに!」

「そりゃそーだろ。こっちはそんな暇ないってのに」

「ご尤も。ああいうエゴを押し付けられる方の身にもなって欲しいですね」

 ぽんぽんとテンポよく、『コチラ側』にしか理解できない話が飛び交う。誰に言っても顰蹙を買うような話でも、彼女なら深々と頷いて同意してくれる。それが楽で、妙な心地よさがあった。それを感じながらこんな会話を、久しくしていなかったことを思い出した。

「そういう天城さんは、修学旅行じゃ浮つかなかったクチ?」

「そりゃあ、楽しみはしましたけど」

「けど?」

「……泳げないのに、シュノーケリングにチャレンジしたのは失敗でしたね」

 曰く、友人たちに誘われたらしいが、泳げないので散々な目に遭ったらしい。運動はてんでだめだと自負があるのにどうして果敢にも挑むのか。シュノーケルを口に咥えてなお息継ぎできずに溺れかけたという凪沙の話に、御幸は失礼承知でゲラゲラと笑い飛ばした。

「まあでも、天城さんのそういうチャレンジ精神は良いと思うけどな」

「身の丈に合わない挑戦は身を滅ぼすだけだと、思い知りましたけどね……」

「でも打てないくせにバッセン行ったんだろ?」

「あれは取材です! 見るもの全てを糧にするための!」

 鼻息荒く答える彼女は、以前と何ら変わらない。これのどこが『飽き』なのかと、いつか彼女のことをそう称した倉持に舌を突き出す。そうだ、どんなきっかけがあったにしろ、凪沙の野球への愛は本物だ。じゃなきゃたった数日でスコアを読めるようにならないし、打てもしないバッティングセンターに行くわけがないし、何より、何より──。

「……じゃ、毎週試合に来るのも、取材?」

 何より、あんなに何度も試合に見に来るはずもにない。最近じゃ一回戦二回戦レベルでもインターネットで試合観戦ができるというのに、わざわざ移動費やら時間やら使ってまで現地に見に来ているのだ。理由は何であれ、飽きているはずないだろうに。なのに、どうしてかそんな聞き方をしてしまった自分に驚いた。

 問いを投げられた凪沙はきょとんとして、その綺麗な瞳を瞬かせている。しまった、こんなこと聞くつもりなかったのに。表情を強張らせる御幸を前に、凪沙はすぐに破顔した。

「いいえ! あなたがたの勝利を見届けるために!」

「!」

「当然ですよ、ファンですから!」

 それは清々しいほど迷いのない答えだった。ニッと白い歯を見せて、彼女は嬉しそうに笑っている。そう、敗戦のすぐあと、凪沙はそんなことを言っていた。ファンだと。ファンとして、御幸たちの活躍を楽しみにしていると。推しがどうとか、取材がどうだとかではない。

 純粋に、御幸たちを応援するために。

「……へー、じゃあ俺らも天城さんにとって『推し』?」

「推し……?」

 横に並ぶ凪沙が、じっと御幸を見上げる。アイドルのファンが、一番好きなアイドルを『推し』と称していた。ならば彼女にとって御幸たちも『推し』になるのだろうか。次の疑問は、そんな好奇心。けれど。

「推し……なのかな、うーん……?」

 先ほどまでの迷いなさはどこへやら、凪沙はしきりに首を傾げるばかり。なんか悪いことを聞いてしまったような気がして、御幸はすぐに「何でもない」と言葉を濁した。

「あ、でも、修学旅行や文化祭で応援行けなかったのは悔しかったです!」

「悔しいって……どーせネットで見たんだろ?」

「見ましたけども! でも直接応援行きたかったですよ! 王谷戦なんかもう初回からハラハラドキドキで、ねったまくん見ながら瑠夏と大騒ぎしてたんですよ!」

「あー、初回の沢村酷かったからなー」

「でも二回目以降は覚醒してましたよね、沢村さん! すごいですよ、まだ一年生なのに!」

 きゃあきゃあと興奮気味に話す凪沙。ああ、懐かしいな。そんな風に思った。そうだ、以前は彼女とこんな話をしていたのだ。毎日のように御幸さん御幸さんと呼んで、自分の席まで来てくれていたのに──。

「ふふ、御幸さんとこうして話すの、随分久々ですね」

「──、そうだっけ?」

 御幸の考えていたことと全く同じことを凪沙の口から聞かされて、思わず惚けてしまった。そうですよ、と凪沙は気にした様子はなくクスクスと笑みを漏らす。

「御幸さんたち忙しそうだし、お邪魔するのも申し訳ないなと思いまして」

「……別に、天城さんのこと邪魔だって思ったことねーけど」

 なんだ──そうか、その程度のことだったのか。たった、それだけだったのか。その瞬間、強張っていた肩の力がふっとすり抜けていったような気がして、知らず知らずのうちに背筋が伸びた。何故そう思ったのか、考える間もなく凪沙が目を細めて、また笑う。

「じゃあ、部活落ち着いたら、またお話をしに行ってもいいですか?」

「──」

 反射的に、足が止まった。柔らかく笑っていた少女は、不思議そうに小首を傾げている。別に、彼女との雑談を邪魔だとか鬱陶しいだとか、そんなことを考えたことは一度もない。何時間もべったり付きまとわれるわけでもないし、御幸の興味のない話を振られるわけでもないからだ。寧ろ──否、なればこそ、即答すべきだった。別にいいけど、と。ただ、咄嗟に答えようとした一言に、潜在意識が警報を鳴らした。

「──いい、けど」

「やった! ありがとうございます!」

 ただ、何を言いかけたのか自分でも思い出せないその一言は、喉奥に消えたまま凪沙に向けることはなかった。そんなことは露とも知らない少女は、子どものように上機嫌にお礼を告げてくる。

「お話したいこと、たくさんあるんですよ!」

「……へー、そうなんだ?」

「ええ、勿論! だからちゃんとメモを取っていますとも!」

「相変わらずマメなことで」

「それぐらい、野球を好きになれたんです」

 再び、足が止まる。それに気付いた時には、彼女がくるりと振り返ってぱちりと目が合っていた。じっと御幸を仰ぎ見る瞳が、心配そうに揺れている。

「もしかして、お疲れですか?」

「あ──や、まあ、そーかも」

 詰まる、言葉。上手く話が、続かない。戸惑いがちに揺れる視線に、凪沙はますます心配そうに表情を曇らせる。しまった、違う、そんなつもりではなかった。せり上がってくる焦りに殊更言葉の選択に時間を要してしまい、嫌な沈黙が駆け抜けていく──すると。

「それでは、御幸さんにおすそ分けを」

 凪沙はおもむろにスカートのポケットから何かを取り出し、御幸に差し出した。言われるがままに手のひらを上に向けると、そこに彼女は小さな飴のようなものをぽろぽろと乗せてきた。銀色の包み紙に包まれたそれは、ほんのりと温かくて。

「沖縄で買ったハイチュウです!」

「ハイチュウ」

「シークワーサー味なんですが、お嫌いですか?」

 純粋な疑問を抱いて仰視する瞳に、御幸はまごつきながら首を振る。

「え──と、分かんね。食ったことない、かも」

「ではぜひ食べてみてください! クエン酸には疲労回復効果もありますし! まあ、ハイチュウにどれほどクエン酸が含まれているかは定かではありませんが……」

 手のひらに乗せられた、三粒のハイチュウ。それを見つめながら、凪沙はシニカルに肩を竦める。純度百パーセントの好意に、ひとまず人として叩き込まれた礼節が反射的にお礼を述べる。

「……サンキュ」

「いえいえ、少しでも気晴らしになれば幸いです」

 きゅ、と手のひらのハイチュウを握る。得も言われぬこの感覚を、なんと表現べきか御幸は言葉を持たない。凪沙ほどの才女であればその解もすぐに分かるのだろうか。だが、自分でも理解できない感覚を人に伝えることもできないまま、困惑しがちな御幸を他所に凪沙はくるりと踵を返す。

「それでは、私はこの辺で」

「あ、あぁ……今日も叔父さんの迎え?」

「はい。お気遣い、ありがとうございます」

 嫌味なく軽く頭を下げて、学年一の才女は「それでは、また明日」と手を振って昇降口へ向かう。軽い足音が聞こえなくなるまで、御幸はぼんやりとその背中を見送っていた。別段、暇でも何でもないのに。ようやく凪沙の姿が見えなくなってから、御幸の足はようやく寮の方へと向かう。その道すがら、手のひらに残されたハイチュウの一つを摘まみ、包みを剥がして口に放る。

「──すっぱ……」

 舌一杯にじゅわっと広がる酸味。この味を思い出すだけで、いつだって唾液が分泌できそうな酸っぱさだ。未だ温もり残るそれを口内で転がしながら、御幸は日が落ちた暗い道を歩いていく。ただ、才女の助言は確かなもので、つい数十分前までへろへろになるまでグラウンドを走り回ったというのに、足取りは驚くほど軽かった。シークワーサー、恐るべしである。

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