14.忙殺マーチ

 天城凪沙は、久々の通学に浮足立っていた。

 九月、新学期。まだまだ残暑で茹だるような気温に辟易しながら、生徒たちは重たい足を引きずって登校する。クラスはほぼ一か月ぶりに顔を合わせて喋る生徒たちで大賑わいで、夏休みに何をしていたかというありきたりな話題で盛り上がっていた。

「天城さんは何してたの? やっぱ塾?」

「そうですねえ、週に何回かは塾(のバイト)に行ってましたね」

 そんな中、大して仲良くもないクラスメイト相手に馬鹿正直にあれこれ喋る気もない凪沙は、愛想笑いを浮かべながら談笑に興じる。夏休みは野球を見に行く他、海外にホームステイしたり、バイトに奔走したり、友人たちと遊んだりとそれなりに忙しい毎日を過ごしていたのだが、いちいち事細かに説明する間柄でもない。なので彼女は、彼女が望まれた通りの役を享受する。それだけで、会話はスムーズに進むことをよくよく知っているからだ。

「えー、えらーい」

「流石青道が誇る天才!」

「私らなんか遊びまくってたもんねー」

「おかげでこんなに焼けちゃってさぁー」

 そんなクラスメイトの話を聞き流している間に予鈴が鳴り響き、彼女たちはバタバタと自席に戻る。やっと落ち着いたと一息つきながら、ちらりと横の御幸を見る。御幸は、熱心にスコアブックを読んでいる。どこか張りつめたような空気は人を寄せ付けない雰囲気があり、どこか話しかけ辛い。夏休みの間練習はどうだったか、なんて声をかけるのを躊躇うくらいに。だから凪沙は暇つぶしに授業の予習をしていた、のだが。

 本鈴が鳴るその直前、一人の生徒が御幸の席の前に訪れた。倉持だ。見るからに剣呑な雰囲気で、話を盗み聞くにどうやらチームメイトの投手が夏の敗戦から立ち直っていないらしく、キャプテンである御幸に相談を持ち掛けているようだ。しかし、御幸はあくまで本人に立ち直って欲しいらしく、干渉する気はないらしい。二人の話は平行線を辿る一方、堪忍袋の緒が切れたのは倉持が先だった。

「んなことは分かってんだよ!! けど、先輩として放っておくわけにはいかねーだろうがッ!!」

 情に厚いらしい倉持の怒鳴り声に、ざわめくクラスメイトたちが一瞬で静まり返った。当然、横にいた凪沙もまた、その声量をモロに浴びて飛び上がらんばかりに驚いた。どくどくと早鐘を打つ胸を押さえながらチラリと横を盗み見る。そこには、先ほどまで努めて冷静な声で淡々と話していた御幸が、窓の外に視線を向けていて。

「──イップスなんかで潰れてもらっちゃ、こっちが困るんだよ!」

 冷たく突っぱねるような、けれどどこか温かな一声だった。御幸──捕手にとって、その投手はよほど大事な人なのだろう。たった数分にも満たないやり取りの中で、それだけは凪沙にも飲み込めた。けれど、どこか余裕のない御幸、そして倉持の顔を見て、凪沙が思っている以上に野球部は切羽詰まっていることが分かる。

「(……伊佐敷先輩のこととか、色々聞きたかったんだけどな)」

 思えば最後に御幸に会った時、どこか気負ったような表情をしていた。あの敗北以前は決して見たことのなかった、静かな面持ち。運動部の事情はあまり分からないが、倉持と御幸のやり取りを見るに部活の雰囲気はあまり良くないのだろう。三年生が引退して、凪沙の知らないところで何かが起こったのかもしれない。

「(しばらくは、邪魔しないようにしないと)」

 ファンの一人として、応援している人の邪魔だけはしたくない。彼らの活躍と勝利を祈りながら、少女は教科書に目を落とす。漫画知識でだが、高校野球には秋にも大会があるはずだ。それに勝てば、春に甲子園に行けるということも知っている。夏を逃した彼らはきっと秋の大会に集中するだろう。しかも、三年生が引退してしまい、自分たちが主軸になって初めての大会だ。きっと忙しいに違いない。

 頑張れと、凪沙は小さく呟いた。御幸にはきっと、届かないことを知りながら。



***



 凪沙が気を遣うまでもなく、新学期すぐに始まった席替えにより御幸と凪沙の席は大きく離れた。どういう偶然か御幸は席替え前と全く同じ席だったが、凪沙は廊下側の席になった。気軽に話しかけられる距離にいなくなった御幸は、日を追うごとに忙しそうになっていく。誰に呼ばれるでもなく、昼休みにスコアブックを携えて姿を消してはふらっと帰ってくるような日々。キャプテンとして、正捕手として、きっと忙しい毎日なのだろう。御幸に話したいこと、聞きたいことは山ほどあったが、それらはメモに留める程度に止めておいた。せめて大会が終わるまでは、邪魔をするまいと。

 そうでなくとも凪沙も凪沙で忙しくなってきた。凪沙は修学旅行委員だったため、その準備に追われ出したのだ。更には文化祭も近く、漫研部員たちは部誌を作成するために原稿に追われ出した。凪沙は比較的タスクが早い方なのでさっさと脱稿したのだが、所謂部誌はアンソロである。他のメンバーの原稿が揃わなければ製本することができない。友人たちの叱咤激励及びお手伝いに駆り出された凪沙は、中々に多忙な生活を送っていた。そんな中で、ようやく一つの大きなタスクに区切りがついた。修学旅行のしおりがやっと完成したのだ。スケジューリングやレクリエーションの内容で揉めに揉め、中々制作が進まなかったのだ。ホームルームで生徒たちに冊子を配り終えた凪沙は、疲れたように椅子に崩れ落ちた。

「ねーえ、天城さん! 修学旅行の班って好きに組んでいいの?」

 そんな凪沙にクラスメイトの何人かが近付いてきた。一応、一班四人でホテルの部屋割りも自由に決められるが、形式上の枠でしかない。実際は他のクラスの仲のいい友人たちと観光地を巡ったり、アクティビティに参加したりするものである。どうぞご自由に、とニコリと微笑むと、クラスメイトたちは「やったぁ!」とはしゃぎ出す。

「じゃあ、余り出ないように好きに決めるね!」

「ええ、構いませんよ」

「やった! じゃあ仲いい組で分けちゃお!」

「あと野球部は別に固めておかないとね」

「……?」

 誰かの一言に、凪沙は静かに小首を捻る。何故そんな作業が必要なのだろうか、と。そんな凪沙に、クラスメイトたちはどこか慣れたようにけらけらと笑う。

「だって野球部、秋の大会と修学旅行の日程被ってるらしいし!」

「……え?」

「そりゃ、どっかで負けたら修学旅行行けるだろうけどね〜」

 彼女たちはそんなことを言いながら、クラス名簿を見ながらああだこうだと言いながら修学旅行の班分けをしている。そんな言葉が、どこか現実味を怯えない音として凪沙の脳内でぐるりと回る。秋の大会と修学旅行の日程が被っている──それはつまり、彼らは修学旅行に一緒に行けないということで。

「(そっか。大会優先、だよね)」

 その為に親元を離れて寮生活しているのだ。修学旅行ぐらい、犠牲になって然るべきなのか。そうか、そういうものなのか。どこか脱力したような気分だ。色々、企画したのだ。一人でも多くの生徒が楽しめるように、凪沙たち修学旅行委員は懸命に企画したのだ。けれど、彼らは一緒に来ないかもしれない。

 そう考えると、不思議な虚しさが胸を吹き抜ける。

「(せっかくなら、みんなに楽しんで欲しかったな……)」

 同じ学校の生徒たちで、遠くの地に旅行する。一緒に寝泊まりし、有名な観光地を巡り、美味しい食べ物を食べて、遊んで、学んで、体験して。学生なら誰もが通るビッグイベントだ。その準備に、凪沙たちは数週間ほど奔走していたのだ。その努力を彼らが享受することはないのかという、そういう類の感情だった。残念だ、と肩を落とす凪沙の元に、一人の生徒がやってくる。

「凪沙ー!! 悪いけど──」

「はいはい、数学の教科書でしょ、瑠夏ちゃん」

 あまりに到来頻度が高いため、もう瑠夏のクラスの時間割まで覚えてしまった。今日も今日とて忘れ物を借りに来る瑠夏が全てを言い終える前に、その眼前に教科書を差し出す。

「さっすが、凪沙! 私のこと誰よりも分かってるゥ!」

「分かりたくないよ、全くもう……」

 いつになったらこの友人は忘れ物をしなくなるのかと、凪沙は重々しく嘆息する。とはいえ、ついつい甘やかしてしまう自分が悪いのだけれど、瑠夏の頼みはどうにも断りがたい力がある。これはこれで一種の才能なのだろうと、凪沙は密かに思っていた。

 すると瑠夏は凪沙の机の上に広げられた、努力と奔放の日々の結晶を手に取る。

「お! ついに完成したんだね、修学旅行のパンフ!」

「うん。すっごい大変だったけど、いいものできたと思う」

「お疲れー。あ、そうだ、体験学習何にする?」

「瑠夏ちゃんたちに合わせるつもり」

「マジ? シュノーケリングにするつもりだけど、いいの?」

「な、なんで?」

「先輩たちが沖縄の海は一回潜っとけって言ったから」

「……お、泳げなくても何とかなるかな」

「大丈夫大丈夫、人間の身体は浮くようにできてるから」

 カナヅチには中々重たい体験になりそうだが、友人たちと一緒ならきっと楽しいはずだ。水着を買いに行かないと、と二人で話している時──。


「行かないよ、俺たち。試合に負ける予定がねえ」


 そんな御幸の声が響いて、思わず二人してそちらを見る。野球部員が何人も集まっていて、先ほど班分けしていた女子たちがぽかんとした顔で御幸の前に佇んでいる。彼らが修学旅行の話をしていたことは分かる。そして御幸たちは、それを楽しむ気はサラサラないということも。

「へーえ、カッコいいこと言ってるじゃん、野球部」

「……うん、そうだね」

 瑠夏がニヤニヤしながらそんなことを呟くので、凪沙もコクリと頷いた。誰もが修学旅行に浮足立つ中で、あれほど毅然と言い放つ彼らはまさしく高校球児の誇りだ。応援し甲斐があるというものだ。寂しくはあるけれど、彼らには彼らの戦いがある。やはり、それを邪魔するのは野暮というもので──。

「……凪沙?」

「んん?」

 瑠夏に名前を呼ばれるのと、その感情に『寂しさ』と名前を付けた自分に驚くのは同時で、凪沙は首を傾げた。この感覚を、『寂しい』と呼ぶのだったか、と。自分の努力を、彼らは知ることも楽しむことも無い。それを勿体ないと思った。それは間違いない。だが、それは『寂しい』と呼ぶのだったのだろうか。不思議に思って首を傾げる。

 だが青道が誇る才女は、すぐにその解を叩き出す。

「私たちが修学旅行に行っている間、みんな試合をしてるんだよね」

「まぁ、このまま勝ち続ければ」

「……試合、見に行けないのは惜しいなあ」

「あ、そっち?」

「どっち?」

 素っ頓狂な声を上げる瑠夏に、凪沙は訊ね返す。だが、瑠夏はなんとも言えない顔で頬をかいてから、なんでもない、とかぶりを振った。

「ふうん? 瑠夏ちゃんも同意見だと思ってたんだけど」

「いやいや、流石に修学旅行と天秤にかけられないわ」

「試合、先輩たち見に来てるみたいだけど」

「……修学旅行、台風でも来て日程ズレないかなあ」

「それ、試合の日程もズレちゃうでしょ」

 やっぱり同意見だった、と凪沙はからかいがちに笑う。この友人はどうにも引退した先輩に熱を上げており、たびたびファンレターを先輩のロッカーに届けているらしい。友人の恋に満たない淡い思いを応援するのも、この沼に引き込んだ者の努めである。修学旅行の仕事がひと段落付いたため、次は応援に行けるねと二人は楽しそうにスケジュール帳を開いたのだった。

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