落合コーチに小湊春市を呼んできてくれ、と言われたため凪沙は春市を探してグラウンドを軽く走っていた。探し人はすぐに見つかり、寮の近くにあの珍しい髪色を二つ見かけた。兄弟水入らずを邪魔したら悪いかな、と思いつつも、これもマネージャーの仕事の内である。凪沙は意を決して、二人の方へと駆け出す。 「いたいた! 小湊くん、コーチが呼んでたよ!」 そう言って声をかけると、兄弟二人して振り返った。凪沙の探し人はすみません、と軽く会釈する一方で、探し人ではない方の『小湊くん』はどこかむっとした様子で腕を組む。得も言われぬ威圧感に、二人揃って震え上がる。 「……なーんか気に食わない」 「名前を呼んだだけですが!?」 理不尽すぎると凪沙は抗議するも、小湊亮介は口元に笑みを浮かべながら、全く微笑ましくないオーラを纏いながら言う。 「後輩にタメ口利かれて黙ってられないでしょ」 「弟くん!! 弟くんをお呼びしたんです!!」 「分からないだろ、そんなの」 「先輩のことは先輩って呼んでるじゃないですか!」 「そうだけど、後輩にクラスメイト感出されるのなんかムカつく」 「理不尽〜〜〜!!」 確かに『小湊くん』では兄と弟どっちを呼んでいるのか分からない。とはいえ、部のマネージャーはみんな兄の方は『小湊先輩』、弟の方は『小湊くん』で統一している。春市が入部して一年経とうとしている中で、何故今更指摘されねばならないのか。 そうは言っても先輩の言うことは絶対なのは、男だろうが女だろうが関係なく、凪沙は項垂れる他ない。しかし、振り下ろされるチョップには軽やかに避けるあたり、凪沙もただでは起きないわけで。 「ほーんと生意気」 「い、痛いのはヤなので……」 「そういうとこ」 ぴしゃりと放たれるそんな一言になんと返したものか分からず、へへ、と愛想笑いを浮かべる他ない。そんな凪沙と実兄をオロオロしながら見守る小湊春市が、ようやくフォローに入る。 「あ、兄貴その辺に……!」 「春市だってややこしいだろ、小湊は二人いるんだし」 「えっ、い、いや──そんな、別に、かな」 「そうですよ……先輩引退したじゃないですか……」 「うるさいよ、そこ」 確かに三年は互いに下の名前で呼び合っており、仲の良さをうかがえる。後輩たちもそれに倣っている節があるが、流石に異性同士でそれはちょっとアレかな、なんて思う程度の抵抗感は凪沙にもあるわけで。みんな良い先輩だと思うし、名前を呼ぶことに嫌悪感があるわけではないが……。 「天城先輩は、御幸先輩のことも名字で呼んでるからっ!」 どこか恥じらったように叫ぶ少年の声に、ハア?とばかりに兄が首を傾げる。確かに、名前呼びに抵抗がある理由の一つがそれである。恋人の名前さえ名字で呼んでいるのに、他の異性を名前で呼ぶのもいかがなものか。だが、その程度の理由じゃ納得してもらえないらしい。 「お前ら付き合ってもう半年経つんだろ? 何未だに純情ぶってんの」 「純情ぶってる……わけではないんですが……」 「じゃあ何? 例の甥っ子がどうとかってやつ?」 「なんで……知ってるんですか……」 がっくりと肩を落とす凪沙。御幸のことを未だに名字で呼んでいる理由の一つもそれである。親愛なる姉の息子と恋人が同じ名前なので、どうにもその名を口にすると別の顔が過るのだ。目に入れても痛くないほど溺愛している少年の母親代わりに過ごした日々を思うと、御幸の名前を真顔で呼ぶことは凪沙にとってひどく困難であった。故に、むにゃむにゃと言葉を濁す凪沙に、さらなる追い打ちがかかる。 「お前らのことなら何でも知ってるって」 流石です先輩、とは素直に言えず。この人が言うと本当に何でも知っているように聞こえてしまうのだから恐ろしい。そんな恐ろしい先輩かつ実兄を前に、凪沙と小湊春市は『年功序列』の重みを嫌と言うほど味わっていたのだった。 *** 「ってことがあったんだけど、いつまで苗字呼びさせてんの?」 「いやー……タイミングってのもあるじゃないですかー……」 その日の夜、小湊直々の指名で部屋から引きずり出された御幸一也は、寒空の下の自販機前で理不尽なクレームを受ける羽目になった。成宮といい小湊といい、どうしてこう他人の付き合い方に口を出してくるのだろう、と御幸は愛想笑いをしながら思う。自分たちはこれを良しとしているのだから、放っておいて欲しい。お節介なのか、それとも別の意図があるのか、単なる嫌がらせなのか──この人のことだし、嫌がらせの可能性が高いが。 「タイミング、ねえ」 コーヒー缶を片手に、小湊はひどく不満げだ。どうしろというのか、というのが正直なところである。お互い名前を呼び合って、所構わずイチャイチャしてれば彼らは満足なのだろうか。それはそれで袋叩きにされそうな気もする。お互い苗字呼びを貫いているのは部の空気感の尊重だったり、凪沙サイドの事情もあったりするわけなので、御幸としても強要する気もないし強要される筋合いもない。 ただ、それが何らかの癪に障ったのだろうか。怖い先輩代表の軽いチョップを頭に食らう羽目になった。 「お前ら付き合ってるように見えないから、大丈夫かと思って、一応ね」 「は、はあ……まあ……」 「天城、お前が思ってるより男ウケいいみたいだから」 「──」 その一言は聞き捨てならず、思わず身体が強張った。からかいがちの口ぶりが一転、ぞわりと鳥肌が立つような一言。そんなの、そんなの御幸が一番知っている。だから零れるような告白により凪沙との付き合いがスタートしたのだから。 「……それは、えーと……どこ情報、すか?」 「秘密」 にっこりと笑みを浮かべ、小湊はコーヒーを一気に呷る。確かに三年には凪沙に──大して仲良くもないのに──告白してきたという男がいる。まだ彼女に未練があるのか、それとも全く別の相手なのか。少なくとも小湊はその名を吐くつもりはないらしい。けれど後輩の為に忠告の一つでも、といったところか。 「手遅れになってからじゃ、遅いからね」 「……そう、ですね」 「何か策でもあんの?」 「やー、まあ、一応……」 そこまで言われたら、対策の一つや二つも立てねばならない。正直そんな対策など微塵も思いつかないが、見栄を張ってそんなことを言う。そんな些細な嘘が見抜かれたかどうかは定かではないが、小湊はポイと空き缶をゴミ箱に投げ入れる。ガコンッ、と音を立てて沈む空き缶を見て、小湊は踵を返す。 「名前呼ぶだけじゃどうにかならないと思うけど」 「まあ、そうですよね……名前、名前なあー……」 「なに、呼ばれたくないの?」 「いやー、そういう訳じゃないんですけど……」 呼ばれたいか呼ばれたくないかで言われたら、そりゃあ呼ばれたい。ただ、様々な事情もあって強要する気もならない御幸にとっては、どちらでもいい、というのが正直なところ。それに、御幸は何だかんだこの状況を楽しんでいた。なので機を見て改めて──なんて思っていたのだが。 「何笑ってんの?」 「え、いや」 「気味が悪い」 酷い物言いだ。足が止まって、小湊は半ば睨むように御幸を見ている。その理由を吐け、とばかりの圧。流石にこれは恥ずかしい、と口を閉ざすも『先輩命令』とばかりに一歩二歩と距離を詰められてしまえば、この不機嫌極まりないオーラからは逃げられず。せめてサシじゃなければと思いながら、御幸は観念したようにホールドアップして、後ずさる。 「え、えーと……なんていうか、今だけじゃないですか」 「なにが?」 「みょ──名字で、呼ばれる、の」 しん、と辺りが嫌に静まり返り、腹の底がカッと熱くなるのが分かる。小湊の痛いぐらいの視線が全身を突き刺しているのが分かる。深くは説明しなかった。だが、それがどれほどの『重み』を持つ一言なのか、小湊相手に隠し通せる気はしなかった。どこまで本気なのか──少なくとも御幸は本気だった。あの日、彼女の家で食事をした日からずっとその文字が脳裏にちらついていた。だが流石にそれを告げたことはない、凪沙相手にもだ。 だから言いたくなかったのに、と半笑いになる御幸に、小湊はたっぷり息を吸ってから、吸った酸素全てを吐き切るようにため息を吐いた。そして。 「生意気」 そう言って、今日一番のチョップを脳天に叩き込まれた。ゴッ、と頭蓋が陥没するようなパワーかと思うほどの力に、一瞬目の前に星が散った。思わずその場に蹲りながら、どこかデジャブを感じてしまう。だが追撃の言葉はなく、ちらりと小湊を見上げれば、彼はどこか楽しげに微笑んでいて。 「そう思うなら行動でも示せよ、ヘタレ」 辛辣に──けれど悪意なきその一言は、不思議と御幸の心にすとんと落ち着くように居座った。言いたいことだけ言ってスッキリした顔で去っていく先輩の背中が、今はやけに大きく見えた。そんなことは分かっている。本当はすぐにでもそうしたい。だけど、様々な状況がそれを許してくれない。だから今は、今だけしか過ごせない日々に目を向けようと御幸は決めたのだ。故に、その忠告はきっちりと胸に刻む。 ひとまず不届き者への牽制策を考えねばと、御幸は一人頭をかいた。 (小湊亮介に警告されるお話/2年冬) |