御幸一也は2/14が待ち遠しい

 二月。それはオフシーズン。対外練習のできない月。御幸一也は真っ先にそう答える。だが、世間一般ではそうではない。クラスでも部内でも、話題はチョコレート一色。そう、バレンタインの季節が、今年もやってきたのだった。だが、今年は今までとは違う。御幸は初めて、バレンタインというイベントに対して好意的に、そして前向きに捉えることができていた。理由は単純、御幸にはもう付き合っている恋人がいるからだ。これにより御幸には例年とは圧倒的に異なる心持ちでいられるのだ。すなわち、御幸は今、『他人からのチョコを断るこれ以上ない理由を得た』からだ。

 勿論、彼女からのチョコが楽しみじゃない──わけではない、勿論。去年の様子を見るに、彼女の料理の腕は少なくとも同じマネージャーの夏川よりは信用に値する。甘い物が苦手な部員のために別途カロリーも甘さも抑え目のケーキを焼いてくれた凪沙を思えば、少なくとも御幸の口に合わないものは寄越さないだろうという確信はあった。だがそれ以上に、御幸は誰とも分からぬ甘ったるいチョコを断り、処分、或いは他人に譲る大義名分を得たことが嬉しかったのだ。好きでもない食べ物、おまけに好きになる予定もない子からあれこれ押し付けられて困っているのは御幸だというのに、それを拒絶するだけで『女の敵』『いつか刺されろ』『死ね』などという罵詈雑言が飛んでくる。理不尽だと御幸は常々思っていた。こんなイベントなくなってしまえとさえ。だが、今年は違う。『彼女のチョコしか貰う気はない』──自分が言うにしては些かきざったらしいセリフな気もするが、これほど万能な大義もあるまい。野球や好みを言い訳にすれば『女の敵』と称されるのに、彼女を言い訳にすれば誠実な男だと思われるこの差に、未だ理不尽さは感じないではないが。

 閑話休題。何にしても、今年はいい。呼び出しはされるかもしれないし、倉持たちにはからかわれるだろうが、去年に比べればずっとマシだという確信があった。

「御幸くん、なんかご機嫌だね?」

 部活の後、いつものように恋人を家まで送り届ける、ささやかな二人だけの時間。そんな中で、凪沙はにこやかにそんなことを告げる。繋がれた手をにぎにぎとからかうよう力を籠められて、御幸もまた笑みが込み上げてくる。

「今年のバレンタインは、気が楽だと思ってさ」

「あー、『彼女います』って言えば体良く断れるもんね?」

「よく分かってんね」

「カノジョですから」

 自分で言っておきながら、さっと耳を赤くする恋人は贔屓目なしに可愛いと、御幸は思う。無論、それだけではないのだが、やはり何年もの間頭を悩ませてきた問題が解決したと思うと、この清々しい気分は隠しきれるものではなく。

「御幸くん、去年も大変そうだったしねえ」

「『彼女以外から受け取る気はありません』が許されて、『甘いもの嫌いなんで』が通らない理由が分かんねーわ。そんなに誠実さって大事かよ」

「まあ、御幸くんの場合、言い方に問題、が──」

 そこで、凪沙の言葉がぷつりと不自然に途切れた。立ち止まる彼女を振り返ると、肩をわなわなと震わせて、信じられないとばかりに目を大きく見開いている。

「え、なに?」

「御幸くん、もしかしてチョコ要る……?」

「えっ」

「えっ」

 お互い驚き顔を見合わせる。互いが互いに、何を言ってるんだコイツはとばかりに怪訝そうに瞳を歪めている。

「え、チョコくれないんですか」

「え、要るんですか寧ろ」

「逆になんで要らねえって思うわけ?」

「だって御幸くん甘いの苦手でしょ」

「そりゃケーキワンホール食えって言われりゃきついけど、少しなら食えるって。というか、冬合宿中もお前らが作ったケーキ食ってたからな、俺」

「た、確かに……!」

 秒で論破され、凪沙はその場で頭を抱えて蹲ってしまった。どうやらこの様子だと、『甘い物が苦手な御幸』に遠慮してチョコを用意する気はなかったらしい。危なかった、言ってよかった。九死に一生を得るとはまさにこのこと。これがバレンタイン当日だったら目も当てられない。

「……そりゃ、欲しいだろ。好きな奴からの、チョコなんだから」

 彼女に下手な誤魔化しや皮肉は無用だ。何故ならこちらを気遣いすぎて御幸の悪い方に捉えかねないからだ。気恥ずかしくとも、ストレートにそう告げる。だが、思いの外凪沙の様子は芳しくない。険しい表情で、相変わらず頭を抱えたままだ。

「……だめですか」

「だめじゃないんだけどぉ……だめなわけないんですけどお……!!」

 どんなのっぴきならない事情があるのか、凪沙は苦悶の表情を浮かべている。どうにも様子のおかしい彼女に、御幸もまた何と声をかけていいものか判断に迷う。だが、すぐに凪沙はすっと立ち上がる。そうして両手でTの文字を作る。

「……タイム?」

「ちょっと……作戦を練り直す必要が……ありまして……」

「もしかして、別になんか準備してたとか?」

「それはまだ買ってないからいいけど……チョコ……チョコかぁ……」

 何が難しいのか、ぎゅっと眉を顰める凪沙は相変わらず何か思うことがある様子。だが、凪沙にしては珍しく煮え切らぬ様子で、結局その日はお開きとなり、自宅に入っていく彼女を見送る。よっぽどまずいことを言ってしまったのだろうか。いやしかし彼女はお菓子作りも不得手ではない様子だったし、そもそも去年も何か手作りして友人たちに配っていたと聞く。何が彼女をあそこまで悩ませているのか御幸にはとんと見当もつかぬまま、ほんの少し気落ちしながら寮に戻るのだった。



***



 そして、来るバレンタインデー当日。御幸と凪沙の交際はそこそこの知名度があった──或いは上がったおかげで、昨年ほど声をかけられることはなく、声をかけられたとしても『彼女いるんで』の一言で撃退可能だった。おかげで御幸はとにかく機嫌がよかった。倉持に引かれる程度には。凪沙からは『おはようございます。ハッピーバレンタインです。今日の夜渡します』という相変わらず業務連絡じみたメールを送られてきたので、練習後を心待ちに一日を過ごす。なお、机に押し込まれていたいくつかのチョコレートを倉持にあげようとしたらドン引きされたため、潔くグラウンド近くのごみ箱に処分させてもらった。後輩たちにあげてもよかったが、勿体ないだのかわいそうだのやいのやいの言われる未来が目に見えているからだ。

『『『ハッピー・バレンタイン!』』』

 夕食時、昨年と同じようにマネージャーたちが部員たち全員にチョコレートを用意して現れた。今年は可愛らしくアイシングされたチョコレートがけのクッキーで、丁寧にラッピングされている。昨年同様、甘い物苦手な人にはチョコレートコーティング済みのかぼちゃのシフォンケーキが用意されていた。こちらも一切れ一切れラッピングされている。六十人近くいるというのによくやるもんだと御幸は感心した。

「これ、俺も貰っていいの?」

「いいよー。食べて食べてー」

「因みにカロリーは?」

「今年はあんま抑えきれなかったな……一切れ百八十キロカロリーです!」

 卵いっぱい使うからねえ、と苦い顔の凪沙からシフォンケーキを受け取る。今年も美味しそうだ。夏川と吉川の手綱を握りながら見事なものだと、御幸は素直に感心した。なお、味音痴と究極のドジっ子は今年はラッピングとアイシング担当で、キッチンへはほぼ立ち入っていないことを多くの野球部員が知る由はない。

 何はともあれ、女子からのチョコレートであることには変わりない。主に一年生たちはマネージャーたちからのチョコレートに大歓声を上げ、我先にとクッキーに手を伸ばしていた。去年も見た光景だ。

「繁盛してんなあ」

「あれだけ喜んでくれたら、頑張った甲斐あるってもんだよ」

 肩を並べる御幸と凪沙を、訝しむ者はいない。不本意ではあったにしろ、こういう時は関係性を明かしてよかったと心底思う。一際でかい声で大騒ぎしてお礼を言う沢村を見ながら、彼女はくすくすと笑っている。

「変なの。沢村くん、山ほどチョコもらってたのにねえ」

「え、マジで?」

「うん。うちのクラスの子もあげたって言ってたし」

「あの馬鹿がねえ……やっぱ投手って花なんだな」

 とはいえ、クラスでもムードメーカーでもあり比較的誰とでも仲良くやれるのが沢村の数少ない長所である。野球がんばってね、という意味合いでチョコを渡す女生徒が多いのも納得できた。

「でも小湊くんも東条くんも紙袋持ってたよ。降谷くんもバッグから溢れるぐらいチョコもらってたみたいだし、今年の一年はモテモテだねえ」

「──天城先輩、それ以上は俺らに刺さるっす……」

「──モテモテに含まれない連中の方が多いということもお忘れなく……」

 凪沙の何気ない一言が男たちに傷つけた。慌てて平謝りする凪沙に、一年経ちは遠い目をしながらありがたそうにクッキーを両手で持っている。

「俺らもベンチ入りできたら、モテるようになるんすかねえ……」

「うーん、そういうモチベもありっちゃありかねえ、キャプテン?」

「期待しない方がいいぜ〜。ゾノや倉持を見てみろって」

「「殺すぞ」」

 テーブル一つ挟んだ先から殺気が飛んできた。ベンチ入りし、チームの主軸を担う強面代表格は今年も収穫はなさそうだった。その横で、むずむずした顔でクッキーを手にする川上の姿が目に入り、思わずにやりと笑みが深まる。

「じゃあノリは?」

「え、えーと……」

 しまったとばかりに、動揺する川上。投手としてその分かりやすさはどうなのかと言いたいところだが、これくらいは大目に見るべきか。沢村がもらえて川上がもらえない道理はあるまいという軽い気持ちで声をかけると、その後ろで順番待ちをしていた白洲が不思議そうに首を傾げていた。

「貰ってたなよ。いくつか」

「ちょっ……」

 かあっと真っ赤になる川上に、途端にヒューヒューというへたくそな口笛が鳴り響く。本当にこの手の話題が好きな奴らだと思いつつ、自分がからかわれるのでなければ御幸だって大歓迎だ。一方で川上は誰にもらったいくつ貰ったと質問攻めにされている。

「ほ、ほとんど義理だって!! 野球がんばって的な!!」

「ほとんど──てことは?」

「一部は本命ってことでは?」

「おい誰かノリの鞄持ってこい! 荷物検査だ!!」

 どたどたと慌ただしく何人かが食堂を飛び出していく。元気なことだ。やめろおおお、と川上も慌てて食堂を飛び出していき、残った者たちはそのコントのような一連の流れにげらげらと大笑いしている。凪沙のそのうちの一人で、ひとしきり笑ったあと、爆弾を落とした白洲へとターゲットを向けていた。

「そういう白洲くんは? 結構貰ってたよね、本命あった?」

「──そうだな」

 からかう笑みに、川上という弄り役がいなくなった多くの部員たちの多くが視線を向けた。寡黙な男は少し考えるそぶりを見せた後、こう言った。

「お前らがくれたのが本命じゃなければ、ゼロだな」

 そう言いながら二年マネージャー三人を見る白洲に、野球部員一同にどおっと動揺が広がる。思いもよらぬ切り込み方に、御幸も思わず白洲たちの方に視線を奪われる。だが、マネージャーは三人とも感心したように頷くだけで。

「川上くんにもそういういなし方を教えてあげるべきじゃない?」

「ただでさえクラスでも大騒ぎになってたのに……」

「だったら尚更、学習すべきだろ?」

「自分で爆弾放っておいてよく言うよ……」

 そういえばこの四人は同じクラスだったか。あくまでさらりと自分だけは被弾を避けるあたり、白洲らしい。マネージャーたちから呆れた視線を向けられるも、彼は静かに肩を竦めるだけだった。そんな白洲の様子を見て、傍の一年がエッと息を呑んだ。

「白洲先輩、マネージャーからチョコ貰ったんですか?」

「ああ。こいつら、クラス全員に配ってたからな」

「なあんだ、そういう──」

「あーっ!! そうだ!!」

 その瞬間、梅本が一際大きな声を出したのでみんなが飛び上がった。驚く彼らを他所に、何故か彼女はずんずんと御幸の方に近付いてきて──。

「忘れてた! 御幸くんのせいで私らチロルチョコになったんだけど!」

「は?」

「ばっ、さっちんシィ──ッ!!」

 突如、言われない怒りが御幸に向けられ、思わず首を傾げる。だがすぐに何を察したのか凪沙が梅本を引き留める。

「いーや、こればっかりは一言物申さないと気が済まない!」

「謝ったじゃんモ〜〜〜!! 来年は頑張るから〜〜〜!!」

「来年まで待てないわよ!」

「じゃあ来月!! 来月は頑張るから!!」

「言ったな!!」

「え、ほんと!? 凪沙ちゃん約束だからね!」

「分かってるよ……ほんとごめんて……!」

 興奮気味のマネージャー二人を宥めるように抑えながら、凪沙はぐったりとした様子で謝罪をしていた。苦々しげな表情の凪沙に、こっそり耳打ちする。

「えーと……俺、梅本たちに何かした?」

「後で話すよ……」

 そう言いながら、凪沙はヨロヨロとした足取りで厨房の方へと引っ込んでいく。マネージャーたちはまだまだ仕事が残っているらしい。そんな中、部員たちを労うためにあれこれ用意してくれたのは嬉しいが、やはり先ほどの『チロルチョコになっちゃった』発言だけはどうにも理解できず、御幸はただただ首を傾げながらかぼちゃのシフォンケーキをデザート代わりに口にしたのだった。今年も、美味い。彼女からのバレンタインチョコが、楽しみだ。



***



 マネージャーたちの仕事が終わる頃には時計は二十一時を示していた。凪沙以外の三人のマネージャーは実家通いの部員が駅まで送ることになった。彼女たちを見送り、凪沙も着替えてコートやらマフラーを着込み、ようやく帰路につける。いつものように雑談を交えながら校門をくぐっていく。

「──で、さっきの何だったわけ?」

 二人きりになった帰り道、御幸はようやくその話題に触れる。さっきのとは言わずもがな、梅本から向けられた怒りのこと。

「ああ……それはひとまず……これを見てもらって……」

 どこか気まずそうな表情で、凪沙は手にした紙袋をごそごそと漁る。袋の中は煌びやかな包み紙で溢れており、去年同様、彼女曰く『モテモテ』だったことを知る。そしてその中から、両手に収まるサイズの箱を取り出した。

「ええと……ハッピー、バレンタイン、です」

「あ、ああ……どーも、」

 自分から言い出したくせに、いざこうして差し出されると些か面映ゆい。この二年、誰からも受け取らなかったそれ──チョコレートを受け取る。保冷剤でも詰めてきたのか箱は冷たく、やや重い。中身が見えるようなその箱の中には、一口大のクッキーのようなものがいくつも入っている。

「マカロン、です。お口に合えば、いいんだけど」

「すげー綺麗。これ、天城の手作り?」

「勿論!」

「今食ってもいい?」

「うん!」

 嬉しそうに返事する彼女の前で、チョコレート色のそれを、一つ摘まんで口に運ぶ。さっくりとした触感、中には苦めのチョコレートクリームが挟まっている。外側は甘いが中はビターな風味のため、御幸でもぱくぱくと食べ進められた。

「美味いなコレ。初めて食う触感」

「よかった〜〜〜……」

 心底ほっとしたように、今にも崩れ落ちそうな凪沙が笑う。何を出されても美味いと言う自信はあったが、流石の腕前といったところか。逆に彼女はその自信がなかったのだろうか。

「小麦粉もバターもいらないから、フィリング次第だけど、意外とカロリー少ないからこれしかない! って思ってさ。まあ糖質・脂質はそこそこあるんだけどね」

「フィリング?」

「中のクリームのこと」

「へー。いかにも女子が好きそうって感じだけど、低カロリーなんだな」

「うん。大体一個六十〜八十キロカロリーぐらいかな〜」

 こちらを気遣ってか、常にカロリー計算をしながらお菓子を作ってくれる理解ある彼女に頭が上がらない。もぐもぐと彼女お手製のマカロンを咀嚼する。

「……んで、なんで俺、梅本に怒られることになったわけ?」

「いやあ、それがさあ──」

 そうして二人で歩き慣れた道を行きながら、凪沙は語る。事の発端を。どうして彼女があそこまで色々渋ったのか、を。

 御幸にチョコレートをあげることを想定していなかった凪沙は焦った。何故なら材料もなければ、彼の口に合うお菓子作るための練習もしていなかったからだ。家には、友人やクラスメイトに配る用の製菓の材料しかなく、買い足す時間も練習する時間もない。

『ど、どうしよう……!』

 リソースは有限。時間もだ。であるなら、判断基準は優先順位。人生で初めてできた恋人にあげるバレンタインのチョコだ。彼女は迷いなくクラスメイトよりも恋人を優先させた。もともとクラス全員分を作る予定だった為、材料はかなり大目に買ってあった。なので、御幸へのお菓子を作りつつ、余った時間と材料で友チョコを作るという計画を立てた。全員分は作れなくとも、少なくとも仲のいい女友達には用意できるだろうと、たかをくくって。友チョコ用にと想定していたレシピはショコラ・フィナンシェだ。材料は主にバターとアーモンドプードル、大量の卵白に砂糖にクーベルチュール──同じような材料で作れて、残り時間、低カロリーかつ甘さ控えめで持ち運びが楽なお菓子──ということで、マカロンが選出されたのだ、が。

 ここで彼女にとって予想外のことが起こった。思ったよりマカロンを焼くのが難しかったのだ。凪沙も初めて作ったらしく、ピエが出ない、ひびが入る、艶が出ない──数々の失敗を口に出す凪沙だが、生憎御幸にはほとんど理解ができなかった──、とにかく失敗を理由に多くの材料を使い潰してしまい、クラス全員分に用意するはずの材料は、あっという間に底を尽きた。最終的にはいくつかは綺麗なものが用意できたが、残ったのは大量のバターだけ。ここから何かを精製するのは不可能だ。そうして頭を抱えること数分、彼女は決意した。

『そうだ、みんなには既製品をあげよう』

 ──そうして予算などなどの都合から、チロルチョコの詰め合わせを用意した凪沙だったが、当然梅本や夏川たちからは顰蹙を買ったわけだ。何分、彼女の料理の腕は周知の事実。手作りのチョコ菓子を貰えると思っていただけに、落胆もひとしおだったのだろう。その理由を馬鹿正直に訳を話した結果、梅本はああして御幸に食って掛かった、というわけで──。

「えーと……なんか、悪いね」

「悪いのは私だよ〜……確認不足の私〜……」

 がっくりと項垂れる凪沙。何はともあれ、初めて迎えるバレンタイン騒動に、凪沙は大いに揉まれたらしい。申し訳ない気持ちはあれど、約束を果たしてくれた彼女に対してまた一つ、思いが募る。

「ありがとな」

「とんでもない。私も、御幸くんにチョコ渡せてよかった」

「ホワイトデーって来月だっけ、十四日?」

「センバツあるし、そこは無理しないで頂いて……」

「そりゃそうだけど」

 来月は悲願のの春のセンバツ、甲子園。あまり浮かれてはいられない。それは分かっているが、だからといって何もしないなんて選択肢はなく。

「甲子園でのホームラン──は、約束するものでもないしねえ」

「だよな。なんか欲しいもんねえの?」

「思い浮かばないなあ……」

「ほんとお前、こういう時無欲だよな……」

「あ、じゃあホワイトデーは一日コンタクトで過ごすってのは?」

「それはやだ」

「なんでえええ」

 せっかく案を出したのに、とばかりにむくれる凪沙。それとこれとは話が違うのだと、御幸は説明する気にもなれず、二人で暗く長い道を歩いていく。十七歳のバレンタインデーは、御幸にとっては穏やかで、心地よく、そして彼女への愛情を募らせる特別な日になったのだった。それを一年前の、或いは数年前の自分が知ったらどんな顔をするだろうと、御幸は一人想像して笑みを深めたのだった。

(バレンタインのお話/2年冬)


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