御幸一也にライバル出現?

「あ、薬師の真田くんだ」

 そんな呼ばれ方を──随分と久しぶりにされたような気がした。そう呼ばれなくなって、たった一か月しか経っていないというのに、だ。大学の教室、何百人と講義を受けられるその一角で、ぽつりと呟いた彼女とまみえたのは、まさに奇跡と言っていい。

「俊平くん、知り合い?」

「うちの科にこんな子いたっけ?」

 同じ科の友人たちが訊ねてくる。知り合いと言えば、まあ知り合いだ。少なくとも顔を見れば誰かは分かる。だが、名前は曖昧だ。何なら、一瞬誰か分からなかったほどだ。最後に彼女を見かけたのは夏の日。制服に身を包み、化粧っ気の一切ない顔は人一人射殺さんばかりにギラついていた。それが今や華やかな私服に身を包み、血色のいい肌は化粧をしているのだろうか。洒落っ気があるというか、垢抜けたというか。それでもその、抉るような目付きだけはあの日のままだった。その目は誰もが記憶しているほど、鮮烈だ。

「──青道の、マネさん?」

「うん、青道のマネさんでした。よく覚えてたね?」

「うちの雷市があんたのこと怖がってたからな」

「……その節は本当に、申し訳ないというか」

 ぺこり、と軽く会釈する彼女は次の授業を受けるのだろうか、席についてプリントを広げている。プリントには、しっかりと彼女の名前と思しき名前が綴られている──天城凪沙、と。ぴーん、と全ての線が繋がったような気がした。

「ワリ、先行ってて」

「あー、うん」

 そう言って去っていく友人たちを尻目に、スペースの空いた彼女の隣の席に座る。なんだこいつ、とばかりに顔を顰める凪沙は、明らかに先ほどとは異なる表情を浮かべている。

「“凪沙チャン”だ」

「……な、なに?」

「──あのイケ捕と付き合ってるって、マジ?」

 ぴたり、と不自然に一瞬動きが止まった。だがすぐに、何でもないように澄ました顔で文具を用意する。

「どこ情報?」

「成宮」

「え? 成宮くん? 仲良かったっけ?」

「去年の東京選抜情報」

「いやいや、真田くんメンバーじゃなかったよね?」

「成宮があのイケ捕くんにでっけー声でウザ絡みしてるのを平畠が聞いてたんだと。“凪沙チャン”は元気にしてんのかー、まだ続いてんのかー、とか何とか」

「あー……成宮くんに口止めしとくの忘れてた……」

 がっくり項垂れる凪沙こそ、成宮とは浅からぬ仲の様子。意外といえば意外な組み合わせだが、件のイケ捕と成宮はシニアの頃からの友人である、というのはドラフト会議を見ていた連中なら誰もが知っている──本人たちは『友人ではない』と否定しているが──。成宮の話が本当なら、顔見知りでも何ら不思議ではない。

 噂の出所が分かって安心したのか警戒心を解いたのか、凪沙は深々とため息をつくと、真田の方を見ることなく言った。

「そうだよ。付き合ってる」

「今も?」

「今も」

 涼しげな横顔だった。けれど、機微はやや硬い。去年の五月の時点で付き合っていたのだから、少なくとも一年は経過しているであろうに、どことない余所余所しさがある。

「あ、一応オフレコで」

「分かってる分かってる」

 けれど、今度はしっかりと釘を刺すあたり流石というか。まあ、過敏になっても仕方ない相手だ。何せ彼女が付き合っていた同級生の同じ部活の男は、今やメディアにも『イケメン選手』だの、『天才捕手』だのと取り上げられるプロ野球選手。顔で食っていくアイドルやら俳優ではないにしろ、やはり声高に言いふらせるような関係ではないらしい。

「あんたも大変だな」

「それほどでもないよ」

「へー?」

「……何? 連絡先欲しいとか?」

「ちげーって」

 じろじろ見つめていたからか、凪沙はますます怪訝そうに眉をひそめる。だが、その顔を見れば見るたびに興味が湧いてくる。

「凪沙ちゃん一人?」

「……うん。友達もいたけど、この授業面白くないって切っちゃった」

「へー、そうなんだ。俺も一人なんだよね」

 話が見えない、とばかりに首を傾げる凪沙。

「初回の授業出れなくてさ、プリント見して?」

「……」

 きゅっと表情が強張る。意外と顔に出るタイプらしい。警戒心のメーターというものがあれば、一気にゲージが最大になったのが目に見えるほど。その警戒度が上がれば上がるほど、真田の興味度合いも上がることに、きっと彼女は気付いていなくて。

「……履修登録、してないでしょ」

「してるしてる」

「じゃあなんでさっき教室から出ようとしてたの?」

「この授業って自由席だろ? 後ろの席の方取りたくてさ」

「……」

 じっと、二つの目が真田を見据える。ビー玉のような瞳には、へらへら笑う自分の笑みが見える。どんな投手にも笑いながらかっ飛ばしていた轟雷市をも震え上がらせた青道のマネージャーが今、自分の目の前で半ば睨みを利かせている。彼女が何を考えていて、また何を警戒しているのかは分かる。だからこそ。

「……あとでコピーするね」

「さーんきゅ」

 そうして、彼女とにっては都合が悪いことにチャイムが鳴る。梃子でも動かぬ様子の真田に、凪沙は大きくため息をついてからペンを取る。真面目に授業に集中するつもりらしい。仕方ないと真田も受けるつもりのなかった授業のため、回されてきたプリントを手にする。履修登録が間に合うかどうか、急ぎ確認しなければ。

「……」

「……」

 そうして彼女は一人、黙したまま大して面白みもない授業を熱心に耳を傾けている。彼女の友人が切ったのも理解できる。だが、彼女にとっては何かとても価値のある講義なのだろう、うんうんと相槌を打ったり、時折顔を輝かせながら懸命にメモを取っている。その横顔はただの学生。どこにでもいる、女の子。試合を見に来ていたあの殺気にも似た瞳が嘘のような穏やかな横顔。先ほど、自分を警戒していた番犬のような顔も、そこにはない。

 こういうところなのだろうか。あの曲者キャッチャーが彼女に惚れ込んだのは。

「……へーえ」

 面白くなってきた、と、男は一人ほくそ笑んだ。



***



 ガー、とコピー機が唸る。

 そのあと彼女は約束通り、初回のプリントをコピーすべく棟の一階の一角にやってきていた。ここには安価なコピー機があり、テスト前は生徒たちでごった返すのだと部活の先輩たちから教わった。新学期が始まってまだ一週間程度。人はほとんどおらず、彼女から受け取ったプリントを複製する。その隙に素早く彼女と同じ授業の履修登録をして、何食わぬ顔でプリントを返す。

「サンキューな。あの授業、誰も知り合い居なくて助かったわ」

「いえいえ。それじゃ私、ご飯行くから」

「じゃあ俺も」

「え?」

 そう言って、当たり前のように凪沙の横に並び立つ真田に、いよいよ彼女の顔色は曇る。そういう顔を見るのは本当に久しぶりだ。

「……えーと、気を悪くしたらゴメンなんだけども」

「ん?」

「真田くん、何が目的?」

 疑うような、鋭い目つき。何故自分が彼女に執拗に話しかけ、つまらない授業を履修してまで付きまとったのか。そんなの、理由は一つだ。

「友達になりたかったから、じゃダメ?」

「……友達?」

「そ、友達」

「まともに話したの、初めてだよね?」

「だからこそ、友達になりたいんだけど」

「……」

 疑うような目付きが、ほんの少し細まった。改めて間近で見ると、まるで胃の裏まで見透かされそうな目だと思った。その目に雷市は怯えて、彼女が偵察に来ると肩を震わせていたほどだった。懐かしい。あの後輩が最高学年、最後の夏の為にバットを振り込んでいるのだろうか、なんて関係のないことを思い出してしまう。

「真田くんは、なんで私と友達になりたいの?」

「逆に聞くけど、なんでそこまで警戒してんの?」

「警戒──まあ、警戒か。うん、してる。友達になりたいって思う理由が分からない。あのさ、真田くんに下心があろうとなかろうと、初めて話をした人にここまでぐいぐい来られて警戒するなって方が無理じゃない?」

「そう?」

「そうだよ。あ、あのね、別に真田くんだから、ってわけじゃないよ。私より身体が大きくて喧嘩じゃ勝てなさそうな人なら、誰にだって同じこと言うよ、私」

 静かに、淡々と語る凪沙。全くもって正論である。彼女は特別体が大きいわけでも、筋骨隆々というわけでもない。男に対して警戒心を抱くのは当然なのだろう。ただ、こうして真っ向から指摘されたのは初めてだったが。

「うん、はっきり言って私は真田くんを警戒してる。学科も違うし、高校の頃だってろくに話したこともないのに、あんな大嘘ついてこそこそ履修登録し出したんだから、そりゃ警戒するよ。なんで?」

「そういうこと考えてくれる天城さんだから、友達になりてえなーって」

 真田のカウンターが思いもよらなかったからか、凪沙はぱちぱちと目を瞬かせた。そう、真田は最初から嘘は言っていなかった。友達になりたい。ただそれだけの、シンプルな考え。勿論、相応の理由があるのは認める。

「イケメンで稼ぎのある彼氏がいて、それでいてちゃんと節度もある女友達[・・・]。天城さんなら、べたべたせずに距離感保ってくれそうだなーと思ってさ」

「……あー、うん。そうね、あー……なるほど……」

 真田の考えがようやく凪沙に伝わったらしい。どこか脱力したように凪沙はため息をついた。イケメン投手──無名校ながら甲子園に出場し、登板経験もあり──そんな看板を無理やり背負わされて明神大学に転がり込んだ真田は、まあそこそこに人目を引いた。流石にプロへと進んだ生意気な金髪ピッチャーやイケメンキャッチャーほどではないにしろ、高校以上に真田を見る目が増えた。大学は出会いの場、と浮足立つ気持ちが分からないとは言わないが、科の共通授業では必ずと言っていいほど女子に囲まれた。さっきもだ、頼んでもないのに女子たちに脇を固められてしまう。同じ科の野球部員とつるんでいても、声をかけてくる者もいる始末。息の休まる場がないとはまさにこのことだ。

 そのため、たった一週間で疲れ切った真田は、とにかく憩いの場が欲しかった。そして都合よく見つけたのだ。自分以上の良物件を既に確保していながら、男女の距離感を弁えた『女の子』が。

「こういうことあんまり言うのもあれだけど、男の子の友達増やしたら?」

「男はさー……俺の味方してくんねーのよ。寧ろ、あー、敵?」

「……そうだね。真田くん、格好の撒き餌だもんね……」

 そう、普段白球を追いかけ続けている野球部員たちには、大学の授業以外で異性と出会う場所がない。大学でも野球をやるぐらいなのだ、中学・高校から野球を続けていたものがほとんどで、当然そんな彼らが授業でしか関わりのない女の子に声をかけるのは至難の業。だが、そこに真田がいればどうだろう。いるだけで女子がつるんで声をかけてくる。まさに彼女の言う通り、『撒き餌』。紹介しろ紹介しろ、と同級生ならまだしも先輩にまで言われるのだから困った話である。

「へー、『友達』を虫除けにしようって魂胆?」

「困ってる友達を助けてくれんのが『友達』だろ」

「私ら、いつから『友達』になったのかなあ」

「此処まで聞いといてそんなこと言う?」

 くすくす笑う少女に、先ほどの番犬のような眼差しはない。からかいがちに微笑むその顔は、どこにでもいる女の子のもの。けれど決して一線を踏み込んでくることはない。むやみやたらにこちらに触れることもなく、肩が触れるほど近付くこともない。その遠さに、ひどくほっとする自分がいる

「分かった」

「!」

「友達、いいよ。私たち、友達」

 こくんと頷いて、凪沙ははにかんだ。その笑顔にようやく力が抜けたのを感じて、真田もまたゆるゆると笑みを浮かべた。ただし、と凪沙は待ったをかけるように手のひらをこちらに向ける。

「二人きりは、なしね」

「……一緒に飯食ったり、どっか行ったりは無しってこと?」

「うん。あのさ、嫌な気分にさせたらごめんね。真田くんが何も思わなくてもさ、私も何にもなくてもさ──御幸くんは、嫌がるから」

 照れたように笑みを浮かべる彼女は、本当にただの恋する乙女だ。そのやり取りから、少なくとも二人の仲は良好であることは分かる。プロに行ったら色々トラブルもありそうだが──まあ、相手はあの曲者キャッチャーだ。環境が変化したらかといって、彼女との関係にひびが入ることはない様子だ。

「ふーん。イケ捕、そんな嫉妬深い?」

「逆に聞くけど、真田くんって自分の彼女が『友達だから!』って男の人と二人っきりでご飯食べたり遊びに行ったりするの、許せる人?」

「ぜってーヤだ」

「じゃあそれが答えだよね」

 ぴしゃりと言い放つ凪沙に、それもそうだと真田は笑った。そうして友情の証にと、二人の連絡先が交換された。そうしてその日から、真田は凪沙を避難所としてたびたび声をかけることになった。勿論彼女だっていつも一人ではない。学科か、或いは部活の友人を伴っていることがほとんどだった。ただ、類は友を呼ぶというべきか、もしくは真田の事情を事前に説明していたのか、むやみに真田に声をかけてくる子はあまりいなかった。情報科の彼女と経済科の真田はさほど授業が被ることはなかったし、ソフト愛好会に所属する彼女と、バチバチに毎日練習やら合宿がある真田の交流は彼らが思うほど多くはなかった。だけど、ひとまず声をかければ見返り無しに席を空けてプリントをよこしてくれる、気の置けない友人の存在は間違いなく真田にとって大きな存在になったのだった──が。

 ある日スマホを見てみると、知らない番号からのメッセージが残されていて。怖いもの見たさでメッセージを再生してみれば、聞き覚えのある声が随分と物騒な一言を発した。

『妙な気起こしたらぶっ飛ばす』

 たったそれだけのメッセージに、真田は一人部屋で笑いしながら早速彼女にメッセージを転載してやったのだった。一応断っておくが、からかいではなく親切心である。どうやって電話番号を知ったかは定かではないが、仲は良好なんてレベルの話ではないらしい。嫉妬できる立場かよ、なんて思いながらぽんとメッセージを飛ばす。おアツいことで、なんてからかいを飛ばせば、すぐさま既読マークがつく。そして。

『うるせーよ』

 たった一言、彼女らしからぬメッセージが返ってきて、こんなの笑うなという方が無理な話。ひとしきり大笑いした後に、真田は一言メッセージを返してスマホをベッドに投げた。全く、清々しいほど仲睦まじいようで何よりである。時折見せる彼女の笑みを思い出すと、久々に彼女が欲しいな、なんて思ったのだった。

『──邪魔して悪かったな』

(真田俊平と友達になる話/プロ1年目春)

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