御幸一也と卒業式

 御幸一也はすでに寮を出て春季のキャンプへ参加をはじめ、プロとしての道を既に歩み始めていた。一方で天城凪沙もまた、第一志望の大学に見事合格し、同じ歩みを進めるために、二人は異なる道を進み始める。悔いはしない。互いに互いのステージで戦うと決めたのだ。それがいつか至る、二人にとっての最善の道なのだと信じているから。

 そして今日は、最後の最後。高校生の御幸一也と、高校生の天城凪沙でいられる、最後の日。三月某日、今日は青道高校の卒業式だ。

「卒業式、もっと泣くかと思ってたのにな」

 式を終え、卒業アルバムを配られながら凪沙はぼやくように呟いた。確かに一抹の寂しさはある。だが、この情報化社会故か、特別寂しさは感じなかった。凪沙の友人はほとんど関東圏の大学へ進学を決めた、今生の別れというわけでもあるまい。それでも証書を受け取り、卒業ソングを全員で歌い、下級生たちの横を颯爽と歩いているその時は、過ぎ去った三年の早さと、そして尊さを噛み締めることになった。過ぎてみれば早く、しかしなんと充実した三年だっただろう。まさか野球部に入って、この先の人生を決めることになろうとは、思いもしなかったが。

 改めて、とんでもないことになったと思う。プロ野球選手と人生を共にしようなどと、三年前の自分は想像すらしなかっただろう。付き合ってたかだか一年の相手に、どうして御幸一也ほどの男が天城凪沙に入れ込むのか、理由は未だによく分からない。けれど、二人の気持ちは同じだ。だから何も疑わないと決めた。常人では手は届かないステージで戦い始めた彼と生きるため、凪沙は凪沙なりの戦いをすると決めたのだから。

「凪沙! 卒アルにメッセージ書いていい?」

 決意を新たにしたところで、クラスメイトの何人かが大きな卒業アルバムを抱えて席にやってきた。聞けば最後のページのフリーページに、寄せ書きのようにメッセージを書くのだという。よしきたと、凪沙はにっと笑いながら色ペンを手にした。

「いいね! 他のクラスも行く?」

「行く行く!」

「早く行こ! 美部の子が似顔絵描いてくれるってさ!」

「おお、何それすっご!」

 そうして少女たちは、互いのアルバムを交換し、思い思いのメッセージを綴る。それが終われば、最後の制服姿のままアルバムを抱えて教室を飛び出す。青き春の日の最後を、より美しく、輝かしく飾るために。



***



 御幸一也は、これ以上ないぐらい辟易していた。

 既に野球選手となった身だ、多少の覚悟をしていたとはいえ、これは予想以上だった。年始から学校へはほぼ来ておらず、久々の出席と相成った男は引く手あまたの大忙しだった。すげえな応援してるね試合見に行くよ頑張ってね好きです最後に伝えたかったんですサインくれよせめてボタンだけでもエトセトラエトセトラエトセトラ。これで校舎から出たら後輩に、校門をくぐれば取材陣に囲まれるのだから、息をつく間もない。校舎内までマスコミが来ないだけましだと思うことにする。これから取材を受けるのでボタンだけは勘弁してくれと、御幸は逃げるように教室へ帰る。すでに教室の人はまばらで、帰った者もいれば、いつまでも卒業アルバムを開いたままにしている者、様々だ。そんな中、見慣れた顔のいくつかが御幸を振り返った。

「あ、やっと帰ってきた」

 倉持、梅本、夏川と一緒に、ここ一番の笑顔を浮かべたのは恋人の天城凪沙だった。四人とも机に広げた卒業アルバムに覆いかぶさるように、何かを懸命に書き込んでいるところだった。しかし、御幸を見るなり、その服装をじろじろと見やる。

「んだよ、意外と無事じゃねえか」

「当てが外れたね」

「ブレザーのボタン全部引っこ抜かれてると思ってた」

「何ならYシャツのボタンまで引き千切られてるぐらいは覚悟してたよ」

「青道はいつからスラム街になったんだよ」

 同級生たちのからかいを交わしながら、四人のアルバムを覗き込む。どうやらフリースペースにメッセージを書いているらしい。そういえば何人かにサインを強請られたような気がする──あっちこっちに呼び出されたので、結局サインできていないのだが──。女子三人の卒業アルバムは分かりやすい。色とりどりのペンで、文字やイラストやらがびっしりと埋まっている。たびたび無骨な男の字も混じっているのは、クラスメイトか、野球部か。倉持の卒業アルバムはマネージャー三人ほど多くの文字は書かれていない。ほとんどは男の字だ。数少ない煌びやかな色は、マネージャー三人のものだろうか。

 アルバムを眺めている御幸に、凪沙は柔らかく微笑んだ。

「御幸くん、まだ時間ある?」

「まー、あと三十分ぐらいは」

「じゃあ御幸くんのアルバムにメッセージ書いていい?」

「いーけど」

 卒業式の後はいくつか取材を受けてから、そのままキャンプに戻らなければならない。ハードスケジュールだ。それでも、高校生活最後のイベントだ、楽しみたいし、何より彼女の要望に応えたい。そう言いながら、机に押し込めたままにしていたアルバムを引っ張り出して、最後のページを開く。

「「「「……」」」」

 フリーページを覗き込むなり、四人とも言葉を失った。真っ白も真っ白。まっさらなそのページは、誰もペンを走らせていないことを雄弁に物語っていて。

「御幸、お前……」

「いやいや、仕方ねえだろ。アルバム見てる暇なかったんだよ」

 物寂しい目で見てくる倉持に、御幸は真っ当な意見で否定する。卒業式が終わった途端、教室に帰るだけでも方々に呼び止められて一苦労だったのだ。ゆっくりアルバムを捲って思い出に浸る暇などあろうはずがない。

「これ……どうする……?」

「逆にやりづれーっつーか……」

「うーん、いっそもうこのままで……」

 そんな御幸のまっさら新品のアルバムを前に、倉持、梅本、夏川の三人が顔を見合わせ始める。凪沙は未だ、倉持のアルバムに何か書き込んでいる。ふと、その文字を見て目を瞬かせた。

「お、洒落てんな」

「そ?」

 凪沙はメッセージを英語で綴っていた。ご丁寧に筆記体で書いているので、癖の強いその字をぱっと見で解読することができなかった。

「目立つでしょ? これ見て私が書いたってすぐ分かるかなって」

「読めねえけどいいのかよ」

「いいんだよ。こうしておけば何年か先に卒アル見返した時、『あー、英語得意だった奴いたなあ』って思い出してもらえるかもしれないし、その時に初めてメッセージを翻訳してもらえたら、ちょっとロマンティックじゃない?」

「タイムカプセルみたいな?」

「そうそう」

 にこにこと笑う彼女は、そこかしこにタイムカプセルをばらまいてきたのだろう。そのタイムカプセルを開けて読める奴が何人いるかは定かではないが。御幸のアルバムにも、そんなメッセージが刻まれるのだろうと思うと、どこか気分がいい。どうせ自分じゃ読めない。いつか未来の果てに、彼女になんと書いたのか聞く日を想像して、御幸は表情を緩めた。

「よーし、倉持くんの書けたよ! あとは御幸くんのだけ!」

 サインのような名前を綴り、凪沙はペンを持ち変えた。鮮やかな紫色のインクが詰まったペンだ。そうして席から立ち上がった凪沙ににアルバムを渡そうとしたところで、倉持が二人の間に割って入った。

「どした?」

「天城、このまま行け」

「え、でも、みんなの分、」

「別に今生の別れってわけでもねえし」

「そりゃそうですけども」

「御幸だってその方がいいに決まってんだろ」

「え、なに、何の話?」

 急に名前を出され、何を企てているのかと訊ねるも、誰も答えない。けれど、凪沙は意を決したようにコクンと頷き、御幸と自身のアルバムを両手に抱えた。

「御幸くん、ちょっとばかし、その、いいかな」

「あ、ああ」

 そうして慌ただしく荷物をまとめ、学生鞄を引っ掛けて彼女は教室を出ていく。虚を突かれたその行動にぽかんとするも、三人から背中を押され蹴られ、御幸はその小さな背中を追いかける。途中、たびたび名も知らぬ生徒に呼び止められそうになったが、「ごめんね、副部長に呼ばれるんだ」と凪沙が御幸の腕を引っ張っていく。

 そうして辿り着いたのは、英語準備室。凪沙は澄ました顔で鍵を取り出してドアに差し込み、くるりと捻る。がちゃんと、錠の落ちる音と共にドアがスライドする。中には誰もいない。教材やらなんやらが所狭しと並ぶ、狭い部屋が広がるだけ。凪沙に促されるまま、御幸は部屋に入る。凪沙も同じように部屋に入ると、即座に鍵を閉めた。丁寧にポケットに鍵を押し込む凪沙を見ながら、御幸は壁にもたれかかる。

「どーしたんだよ、その鍵」

「高島先生にお願いしたんだ。最初で最後のわがままに、ね」

「へー、あの真面目な礼ちゃんが」

「私、英語の先生には結構可愛がられてるんだよ」

「ははっ、知ってる」

 あれだけの語学力があるのだ、多少授業態度が不真面目だろうと、教師陣の評価が高いのは目に見えている。ましては高島は野球部の副部長、流石の凪沙でもある程度はちゃんと授業を受けていたに違いない。そんな可愛い生徒からの、最初で最後の可愛らしいわがままに、何だかんだ頷く高島の姿は容易に想像できた。

「で、こんなとこに連れ込んで、どうしたんだよ」

「んー、色々。とりあえずアルバム書いちゃうね」

 そう言うなり、窓際に移動した凪沙は床に座り込んでアルバムを広げる。御幸もまた、凪沙の隣にゆっくりと腰を下ろして凪沙のアルバムを受け取る。

「御幸くんも書いて!」

「えー……サインでもいい?」

「もっとこう、恋人に送るメッセージとかないの?」

「わざわざ卒業アルバムに書くことねーだろ」

「いいじゃん、せっかくなんだし。ね?」

 そう言われてしまえば、凪沙に甘い御幸は頷く他なく。とはいえ、日頃の感謝だの思いだのを綴るには時間も、そして卒業アルバムのスペースも足りなかった。まっさらなフリースペースに英字を綴る彼女の横顔を見ながら、いかに凪沙の交友関係が広いかを悟る。仕方なく、文字と文字の隙間を見つけて手短にメッセージを残す。凪沙は未だ、すらすらと解読できない英字を綴っている。真剣な顔を横で眺めていると、凪沙がおもむろに口を開く。

「ごめんね。御幸くんのアルバムにメッセージ書けるの、私だけかも」

「別にいいんじゃね。寧ろ、カノジョ特権ってことで」

「倉持くんたちもそういう意味で言ってたのかな」

「だろーな。まあ、他に書いて欲しい相手がいるわけでもねえし」

「書きたい相手はごまんといるだろうけどね」

 カノジョ特権、と悪戯っぽく笑う凪沙。普段嫉妬やら独占欲やら一切見せない彼女が、こうして時たま優越感に浸るような顔が、愛おしい。この愛おしい顔を毎日見ることができるようになるまで、あと何年要するだろう。最低限にと提示されたのは五年と半年、決して短い時間ではない。高校生活よりも長い時間を、凪沙と離れて過ごすことになるのだ。勿論音信不通になるわけではない。同じ国内にいるのだし、会おうと思えば会えなくはない。それでも、この三年間のように毎日とはいかない。一か月、下手をすれば数か月ろくに話すことができないかもしれない。それに一抹の寂しさを、不安を、恐怖心を、感じないわけではない。

 それでも、彼女の選択を信じると決めたのだ。一緒にいると、決めたのだ。例えプロ野球選手として生きていけなくとも、例えこの命が何かの間違いで失うことがあっても、彼女は御幸と共に在りたいと言った。そのために何一つ諦めないと、笑う彼女の未来を、信じたから。だから。

「うーん、スペース余りまくるね……」

 そこそこの文──御幸にとってはそれが一文二文レベルなのか、長文なのかも判別つかなかったが──を綴って、凪沙はペン先を唇に押し当てる。左端に綴られたその文章を思えば、九割ほど空白のスペースは実に浮いて見える。どうにも不服らしい凪沙は御幸をちらりと見上げる。

「ね、ほんとに他の人にメッセージ書いてもらわなくていい?」

「別にいーけど、何すんの」

「こーすんの!」

 そう言うなり、凪沙はペンの反対側のキャップを引っ張る。少し太めのそのペン先で、凪沙はまるで書道パフォーマンスもかくやというほどの大きさで、文字を綴った。文字は、たった二言。文章として短いそれは、御幸でも翻訳できるほどにシンプルで──アルバムにはでかでかと、こう書かれていた。『Trust me』と。

「無神論者が神様に誓うっていうのは、ちょっと野暮だけどさ」

 彼女は時折、人の心が読めるのではないかと思う時がある。人の不安や恐れを、的確に察知できるようなセンサーでも搭載されている、と言われた方がまだ納得できるほどに、彼女は鋭い。その鋭さに時には物怖じし、時には気圧され──そしていつも、救われていて。


「私たち、きっと大丈夫だよ」


 凪沙の目が、御幸を見据えて弓形になる。その目は、愛しさだけではない感情が見え隠れしている。愛情と、期待と、羨望、そしてほんの一握りの、不安。ああきっと、彼女もまた同じなのだ。彼女もまた、不安や寂しさ、恐れを抱いている。ともすれば御幸よりもずっとずっと、それを顕著に感じているだろうに。引け目を感じることなんてないとはいえ、世間一般的には野球選手と一般人。御幸が背負ったものを彼女が真に理解することはないよに、彼女に圧し掛かる重圧もまた、御幸が分かつことはない。

 けれど、二人は今、こうして肩を並べている。これから先、ずっとだ。互いの荷が背負えなくとも、同じ足取りで歩んでいけるなら。きっと、大丈夫だ。

「──とはいえね? 言葉だけだと些か心許ないかと思いまして」

「なんだよ、婚約指輪でも買おうって?」

 突如現実的な話をしだすのもまた、彼女らしい。込み上げる幸福感以上の楔など必要なのか、と思う御幸の想像を軽々と飛び越えてくるのもまた、天城凪沙という人間だ。

「はいこれ」

 そう言って、彼女はスクールバックから手のひらサイズのぬいぐるみのようなものを引っ張り出して御幸に差し出す。それは御幸の球団の、ユニフォームとボール型のマスコットだった。『MIYUKI』と銘打たれたそれに、背番号はない。だが、驚くべきはそこではない。その先に括りつけられた、銀色の物体に目が釘付けになった。ちゃりんと鳴るその音を、信じがたい思いで見つめる。

「いやあ、作るの二度目だし楽勝だと思ってたけど、青道のユニがシンプルだったと思い知っただけだった……球団のユニフォームむっずいね……フェルトで文字切ってる時、発狂しかけたよ……」

「おま、そうじゃねえ、だろ、これ、」

 そんな苦労話を語る彼女の言葉とは裏腹に、動揺の声が漏れる。どう見ても、それは鍵だった。リング状のキーホルダーに、マスコットと共に真新しい銀色の鍵が括りつけられている。それが何を意味するのか、分からぬほど愚鈍ではない。まさか。だけどそんな話、一言も。

「実家の、じゃないよ。明日から一人で暮らす家の、鍵」

 御幸の疑念を振り払う、凪沙の言葉。初耳だ。家を出るなんて、一言だって言わなかったのに。そもそも、都内の大学で家を出るメリットがない。第一、彼女の父親が。

「……お父さん説得するの、すんごい大変だったんだからね」

 そんな御幸の考えを読み取ったのか、凪沙は少しばかり苦い顔をした。

「でもこの機会を逃すと一人暮らしのチャンスなんてないと思うし、都内の大学って言ってもドアtoドアで片道一時間近くかかるわけでしょ。往復一時間半。徒歩十分の学校に慣れると、どうしても通学時間が気になっちゃって。電車でだって色々トラブルあるし、ならもう一人暮らしチャレンジしたい! ってここ数か月ぐらいずっと言い続けてたの」

「……それで、いけたのかよ」

「決め手はお姉ちゃんの説得だったけどね」

 何度かまみえた、凪沙に少しも似ていない気だるげな美女を思い出す。彼女まで、力添えしてくれたのかと、驚きを隠せない。そりゃあ、仲のいい姉妹だとは、知ってはいたが。二の句が継げずにいる御幸に、凪沙は照れくさそうにはにかむ。

「『凪沙を私の代わりに縛り付けてるのはやめなよ』ってさ」

「……そりゃーまた、手厳しい一言だな」

「でもお父さん、それでちょっと目が覚めたみたい。私とお姉ちゃんは違うって、ようやく気付いてくれた」

「……そっか」

「それからはお姉ちゃんと一緒に部屋や家具なんかを探してー、三月はいい部屋や引っ越し業者抑えるの大変だからって二月に部屋見繕って家賃発生日の交渉しまくった! その甲斐あって、もう引っ越しもほぼ終わってて、明日から移り住む予定! で、合鍵作ってマスコット縫って、御幸くんと話す最後のチャンスなのでと高島先生から英語準備室の鍵借りて、今に至ります!」

 にっ、と満ち足りた表情で語る凪沙。この数か月、ただただ自分の為だけに奔走していた自分が恥ずかしくなるほどに、彼女は先を見据えていたのだ。十代の少女の一人暮らしなんて、不安もあるだろうに。金銭的な面でも、決して楽な選択ではないはずだ。それでも、凪沙はこうして御幸に自室の鍵を差し出している。信頼がなければ決して託すことのできないそれを、凪沙がどんな思いで差し出しているのだろう。

「……家、行ってもいいんだ」

「もちろん。でも、事前に連絡はちょうだいね」

「俺、いつ行けるかも分かんねえのに」

「だからこそ、持ってて欲しい」

「週刊誌に撮られるかも」

「覚悟の上だよ」

 これ以上の問答は不問だった。ぎこちない動きで、凪沙の覚悟を受け取る。改めて見ると、キーホルダーにしては些か主張が強い。鍵の何倍あるんだか、『絶対に失くすな』とでも言いたげな大きなユニフォームとボールは、御幸の手から零れそうで。

「あ、鍵失くしたら契約金でドア交換してね」

「……失くさねえよ、こんなでっけえキーホルダー」

 茶化すような物言いに、御幸は胸に込み上げる感情を噛み締めるように手のひらに力を籠める。中にはぎっしり綿が詰まっているのか、マスコットは少し固い。にぎにぎと、感触を確かめるように握るだけで銀の鍵が嬉しそうに揺れ動く。

「んふふ、早く来て欲しいなあ」

「そういうこと言われっと、キャンプに戻り辛いんですけど」

「我慢した分、会える日がきっと楽しみになるよ」

「そりゃ分かってっけどさ〜……」

「あ、実はお父さんにナイショで、ちょっと大きめのベッド買っておいたよ」

「おまっ、」

 にたりと、いたずらっ子のような笑みを浮かべる彼女に言葉が詰まる。密室で男と二人で、よくそんな挑発ができるものだ。だが、あと三十分もしないうちに御幸はこの場を後にしなければならない。最悪十分で──なんて最悪な選択肢が過らなかったわけではないが、流石に理性が打ち勝った。

「あーもー、お前ほんとふざけんなよ……」

「ごめんごめん、ジョークジョーク」

「……でかいベッド買ったのも?」

「それはほんと」

「こいつ!」

 全く気を紛らわせない。苦し紛れに彼女のふにゃふにゃの頬をぎゅむっと抓る。痛い痛い、とけらけらと笑いながら凪沙は抵抗の意を見せず、実に楽しそうだ。そうして、普段通りにじゃれ合う二人の間に、刻一刻と時間が流れていく。凪沙の笑みは曇らない。これから先の未来に、不安や恐れもあるだろうに、彼女は決して、おくびにも出さない。

 思えば、彼女の弱さを御幸は受け止めたことがあっただろうか。御幸を心配して涙したり、幼き日の仄暗い思い出を語ったりすることはあれど、その真っ直ぐ通った芯がぶれることは一度もなかった。この三年間、ただの一度もだ。それを寂しく思う反面、誇りに思う御幸はその狡さを自覚していた。これほど強い彼女となら、もっと、きっと、ずっと、大丈夫だと、信じていられるから。

 ──とはいえ、だ。

「(いつになったら、こいつに頼られるようになるんだか)」

 優秀で、真面目で、強かなマネージャー兼恋人は自分の誇りである。それに違いはないが、人間やはり好きな相手には頼ってほしいと思うものである。いつだったか、電話越しに涙する彼女を泣き止ませたいと言ったことがある。その時はいつかそんな日が来るだろうと思っていたが、その『いつか』はきっと、御幸が思うよりもずっとずっと先の話なのだろう。

 故に少年はその『いつか』を手にする為に、戦い続けるのだ。

(卒業のお話/3年春/高校生編・完)

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