御幸一也と文化祭B

 野球部員や先輩たち、更には姉親子の冷やかしを捌きながら凪沙はクラスを行ったり来たりしながら飲み物や軽食を運び、注文を受け、後片付けに奔走した。その甲斐あってA組のコスプレ喫茶はなかなかの繁盛ぶりで、すでにいくつかの食材が底を尽き、売上金で食材の買い出しが必要になるほどの盛り上がりを見せていた。

 凪沙たちは店番シフトを終え、ようやく自由時間を手にした。これからは文化祭を楽しみつつクラスの宣伝に赴くつもりだ。何せ手製の看板を掲げる、或いは店情報を書いた段ボール紙を背中に背負えば、コスプレも相まって校内を歩くだけで宣伝になるのだ。凪沙は梅本と夏川と共に、看板片手に文化祭を大いに楽しむ。劇を上映するクラスや、フランクフルトを売りさばくクラス、チア部と吹奏楽部のコラボショーなど見どころ目白押しだ。

「そういえば凪沙、御幸くんとはいいの?」

 そんな中、三人でフランクフルトを食べながら──夏川はその着ぐるみのせいで人目につかない場所で素早く飲食を行う羽目になったが──、梅本がそんなことを尋ねる。学園祭という一大イベント、恋人がいる生徒は二人一緒に練り歩いてはヒューヒューとからかわれたりするのを、凪沙も何度となく見てきた。フランクフルトの串をゴミ箱に捨て、凪沙は御幸からの贈り物である腕時計で時間を見る。

「御幸くんは今、たこ焼きと戦ってるはず」

「えー、シフト同じ時間にしなかったの?」

「B組のシフト、うちとちょっと時間がずれてんだよね。でも、あと三十分ぐらいすれば自由時間になるはずだから、午後から一緒に回ろうかなって」

「なるほどね。明日はどうすんの?」

「沢村くんたちの応援行ってから、後夜祭だけ来るみたい」

「私らも店番なかったら行ったのになー」

「でも文化祭だって今年が最後だし、楽しまないと!」

 夏川の前向きな言葉に、凪沙も梅本もにっこりと頷く。後輩たちを応援したい気持ちがないとは言わないが、自分たちの高校生最後のイベントを堪能するのも大切だ。学際のパンフレットを広げながら、梅本が次はどこへ行こうかと唸る。学生たち手製のパンフレットには、どれもこれも魅力的な展示が面白おかしく紹介されている。

「東校舎のドーナッツは?」

「ちょっと遠いよね、四階だっけ」

「軽音の方はどうかな」

「三年のバンドって大体明日だったと思うよ」

「私これ行きたいんだよね、C組のお化け屋敷」

「あー、いいね!」

 C組は確か広い社会科室をまるまる一室使ったお化け屋敷だ。麻生や関、中田といった野球部員たちがたびたび血糊塗れの顔でウロウロしていたので彼女たちの記憶にも新しい。ただ、ガタイもよく、人相の悪い野球部員たちにはその容姿も相まって血糊が顔につくと完全に『その道』の人間が抗争に巻き込まれた風貌にしか見えず、怖さの意味が違うとC組の子が嘆いていたのを耳にしていた。

「E組は縁日だよね」

「そうそう。射的とかボール掬いとか、結構それっぽいのあるよね」

「ここは明日でもいっか……えーっと……D組どこだっけ……」

「視聴覚室で劇の上映だよ。ほら、フェアリー・渡辺の」

「あー、あれか!」

 D組の催しは学校内でも珍しく『劇』だ。いや、どちらかというと『自主製作映画』に近いだろうか。あらかじめ劇を撮影しておき、それを視聴覚室で定期的に上映する。少々毛色が異なるのは、演目が『逆・宝塚〜夏の世の夢〜』という点だろうか。往年の名作を演じるのは、全員男子。女子はカメラ、小道具、衣装、監督、演出など裏方に回ったのだという。おかげで、運動部員にしては比較的華奢な男たちは妖精役を演じることになり、当然渡辺も例外ではなかった。ここ数週間、真っ白なワンピースのようなドレスに月桂樹の冠を被った渡辺の姿がたびたび目撃された。

「どこも女装モノ好きだよねえ」

「まあ、一目見るだけで盛り上がるし」

「いやいや、川上くんは過去最高の可愛さを──あれ?」

 そんな話をしながら三人はぶらぶらと正門前までやってきていた。『青涼祭』と書かれた大きな看板や派手なゲートを潜り、多くの来場客が行き来している玄関口に、凪沙見慣れた顔を見つけたのだ。両手に近所のスーパーの袋を引っ提げ、頭にはタオル、クラスTシャツを肩までまくった姿は完全に的屋の人である。凪沙が特に考えなく手を振ると、倉持洋一はこちらに気づいて足早にやってくる。

「おー、お前らその格好で歩き回ってんのかよ」

「宣伝になるしね。倉持くんはどこ行ってたの?」

「たこ焼きのタコが底尽きたんだと」

「なるほどね、御幸くんにパシられたと」

「その言い方やめろや」

 忌々しげに舌打ちする倉持だが、否定しなかったということはそういうことなのだろう。パックのタコが入っているであろうスーパーの袋を担ぐ倉持に、そうだ、と凪沙が呟いた。

「ね、御幸くんにたこ焼き二パック作ってって伝言お願いしていい?」

「ハ? 自分で言やいいだろ」

「御幸くん、電話繋がんないんだよね」

「あー、家庭科室から出られねえからか……しゃーねえなあ」

「あと、ロシアン部分は抜きでお願いします」

「せこいこと考えてんじゃねえよ」

「ワサビ、あんま好きじゃないんだけど……」

「ヒャハハッ、安心しろ。唐辛子バージョンもあるからな」

 そう言って家庭科室へ向かう倉持を、凪沙たちは手を振りながら見送る。あんなことを言いつつ、倉持はちゃんと伝言係の役目を果たしてくれるのだから、人は見かけによらないものだと凪沙はしみじみ思う。御幸が家庭科室から解放されるまであと数十分、どうしようかと周りをぐるりと見回したその時──。

 一人の男性と、ぱっと目が合った。

「!」

「……!」

 自分の父親と同じぐらいだろうか、アースグリーンの作業着を着た眼鏡をかけた中年の男性だ。目が合うとすぐに目をそらされるが、どこかその横顔に既視感を覚えた。どうしてだろう、初めて会う気がしない。そして凪沙は、その理由が分かるような気が、して。

「あの、何かお困りですか? 案内、必要ですか?」

 梅本と夏川から離れ、男性に声をかける。静かな眼差しがそっと向けられ、まさか自分に声をかけたのか、とばかりに瞳が細められる。ああ、やはり、彼は。この人は。

「……先ほど、『御幸くん』と──聞こえた、もので、」

 ぽつりぽつりと、言葉が紡がれるだけで胸が詰まる。顔や声が似るとはよく言うが、まさか一目見て、一声聞いて分かるほど似ているとは思わなかった。ああやはり、自分の考えは間違えていなかったのだと確信した凪沙は彼の言葉の続きを待たずに、にぱっと笑った。

「声、そっくりですね。すぐ分かりましたよ!」

「君は──」

「ご案内します、息子さんの頑張ってるとこ!」



***



 そうして凪沙は梅本と夏川とは別れ、御幸の父親と二人、家庭科室を目指して歩く。恋人の父親とこんな形で遭遇するとは夢にも思わなかった。流石に『初めまして息子さんの恋人です!』とは言えず、凪沙は『野球部の元マネージャーです』と挨拶してから家庭科室を目指す。話を聞くと、御幸がこの時間たこ焼き屋のシフトに入っているはずなのに、屋台には息子の姿がいなかったので、ちょうど帰ろうとしたところに凪沙と倉持の会話が聞こえて振り返ったのだという。なんという幸運だろう。

「みゆ──息子さんは器用なんで、店番じゃなくてたこ焼きを作る係なんですよ」

「ああ、なるほど……てっきり、人前に出るのが嫌で逃げたのかと」

「あっははっ、そんな無責任じゃないですよ、彼。何分有名人ですからね。店番したらファンに囲まれて一生店から離れられなくなるから、敢えて裏方にしたみたいです」

「それを、あの子が言って……?」

「ええ、はい。息子さん、モッテモテですからね〜」

 凪沙の言葉が不思議なのか、御幸の父は彼によく似た眼差しを意外そうに丸めている。御幸自身、自分のモテ具合をいちいち父親に報告しないだろうし、この反応も納得であるが。

「だから御幸くんが裏方やってるのは緘口令敷かれてて、ファンの子たちは何も知らぬまま御幸くんが丸めたたこ焼きを食べるという……罪な息子さんですよ……」

「そうか……あの子が、そんな……」

 どこか思い出に浸るように口元を緩めるその人を見て、凪沙まで胸が暖かくなる。『あの子』、と父は語る。御幸も人の子なんだ、なんて言葉を誰かが呟いていた気がする。木の幹から生まれたわけでもあるまいし、なんて思っていたけれど、こうして『父親』という存在を目の当たりにすると、その言葉の意味が分かるような気がした。あの子、あの子だって! ニヤニヤした笑みが込み上げてくるのを、何とか理性で抑えつける。大きな眼鏡をかけていてよかったと、慣れぬ手つきでブリッジをいじる凪沙。

「……そういえば、」

 そんな凪沙を見下ろしながら、おずおずと御幸の父が口を開けた。んん、と凪沙は首を上に向ける。

「もしかして、あのしょ──」

「あーっっ、凪沙だ!!」

「うそっ、私も彼氏コス見たい!!」

「凪沙こっち、こっち来てー!!」

 そんな静かな言葉を遮るように、波のような黄色い声が押し寄せた。はっと目を見張ると、気付かぬうちに家庭科室の前の廊下に辿り付いていたようだで、B組の友人たちは凪沙を見るなり大はしゃぎで、窓から身を乗り出してくる。そういえば今コスプレをしていたのだと思い出し、誰が彼氏コスか、と恥じらいを憤りで隠しながら友人たちの元へ向かう。

「もお、ただの学ランと眼鏡ってだけなのに……ところで御幸くんは?」

「あー、今注文が殺到しててさ、ちょっと忙しいんだよね」

「御幸が一番早く作れるからね、もうちょっと待ってて」

「え、いいよ気を使わなくても。まだ時間あるしさ」

「そう? 悪いわね、御幸の雄姿でも見てて」

「あたしらコレ運んでくるから、あとで写真撮ろ!」

 そう言いながら、友人たちは紙パックに詰め込まれたたこ焼きをいくつも抱えて家庭科室から飛び出していく。そうして解放された凪沙は先ほど御幸の父親の言葉が途切れたこともすっかり忘れ、窓からひょいっと顔を覗かせる。

 中には何人かのB組の生徒がおり、御幸もそこにいた。全員揃いのクラスTシャツの上から各々持参したと思われるエプロンを纏い、頭には三角巾、口元はマスクで覆われている。皆汗だくで家庭用のタコ焼き機に覆いかぶさって、必死に竹串を駆使してたこ焼きを引っ繰り返している。御幸の眼鏡は湯気で曇りまくっており、視界が悪いのか人一人殺せそうな眼光で作業を進めており、こちらには気付いていない。

「ン、ッフフ……御幸くん、すんごい顔してる……ッ!!」

 込み上げてくる笑みをそのままに、思わずスマホを取り出して写真をパシャリ。当然、誰も気付かない。寧ろ、忙しいのかクラスメイトとあれこれ大声で話している。

「タコ切ったの誰だよ!? でかすぎて入んねえ!」

「文句なら、あんたんとこの倉持に言いなさいよっ!」

「御幸ィ! 時間ないからはみ出していいからそのまま作って!」

「はい厨房ー! 九パック追加でお願いー!」

「無理無理無理無理、次の時間のやつ呼べって!!」

「今呼んでる!!」

「あーもー、ワサビも唐辛子も足りなくなってきた!!」

「ソースない!! ねえ御幸ソースどこやったの!!」

「冷蔵庫に買い足したの入ってんだろ、よく探せ!!」

 家庭科室はさながら戦争状態である。人が出ては入って、たこ焼きパックが行き来する。今ちょうどお昼時なので、腹持ちのいいたこ焼き屋に人が集まるのは当然といえば当然か。これはしばらく御幸は解放されないかもしれないと少し残念に思いながら、ちらりと彼の父親を見上げて──そんな無念は場外に吹き飛んだ。

 男は実に穏やかな眼差しで、家庭科室を奔走する息子を眺めている。息子と同じような眼鏡の奥にあるその瞳に、凪沙は確信する。やはり、この選択は間違っていなかったのだ、と。

「……野球以外で、あの子のあんな楽しそうな姿を見るのは、随分久しぶりです」

「そう──ですよ、ね。三年も離れて、暮らしてるんですから」

「ええ。……そうか、三年か」

「!」

「一也はもう、十八になるんだな……」

 遠く、遠くを見つめるその柔らかな視線。けれど噛み締めるように呟かれた独り言は、どこか寂しげに聞こえるのは、凪沙の気のせいか、それとも。

 人生百年と言われる中の、たった三年という人もいるだろう。けれど、されど三年だと凪沙は思う。御幸の口ぶりから家族仲は悪くないとは思っていたが、『悪くない』なんて表現ではこの親子に失礼すぎると思った。これが愛の形だ、『愛』以外の何だというのか。可愛い愛息子の成長する姿を、三年も見られなかった父親の寂しさは、決して凪沙たちには理解できない。凪沙たちにとってはあっという間に流れ去った時の重さをその身で思い知る日は、いつか来るのだろうか、なんて考えた時だった。御幸の父はこちらをに身体を向けると、きっちり四十五度腰を折って頭を下げた

「ありがとう、ございます」

「えっ、いやっ、そんな、滅相もないっ! 私ただ、案内しただけで、」

「いや、あなたがあのしょ──」

「ハア──ッ!?」

 再び、父の言葉に被さるほどの大声が家庭科室から飛んできた。けれどそれは男の、それも自分のよく知る人間の声。二人して窓から家庭科室を見ると、竹串片手にこちらを見てわなわなと震える御幸一也の姿があった。凪沙がにこやかに手を振れば、御幸はクラスメイトにたこ焼き機の面倒を押し付けると、ずんずんと足音を鳴らして窓際にやってくる。

「おま──えっ、なんで、なにっ、ハァ!?」

「御幸くん、そろそろ上がる頃かなって」

「そういう意味じゃ──親父っ、なんで」

「お父さん、迷ってたみたいだから、案内役にね」

「いやいやいや!!」

 珍しく、明らかに動揺した様子で凪沙と自身の父親を見比べている。こうして近くで見るとますます似た親子だなと凪沙は思いながら、窓から身を乗り出した御幸に背伸びして手を伸ばし、その三角巾と竹串を奪い取った。

「ちょっ、なに、」

「人手足りないんでしょ? 私が代打入るから、御幸くん休憩してなよ」

「代打、て──いや、そうじゃなくて、なんで、おま」

「いーからいーから」

 そう言って凪沙は御幸の父親ににこりと笑って一礼し、物言いたげな御幸を他所に家庭科室に侵入する。そして窓際で困惑する御幸の腕を軽く引いて、廊下の外に叩き出す。そうして大きな声でご挨拶。

「不肖天城凪沙、御幸くんのピンチヒッター入ります!」

「え? 御幸くんは?」

「野暮用だって。どうせあと十五分ぐらいだし、私でもいいでしょ?」

「まあ唯はともかく凪沙ならいっか……あんた、たこ焼き作れんの?」

「任せて! うちもよくタコパするから!」

「採用! 四十秒で支度しな!」

「はいよー! あ、誰かマスクちょーだい!」

 他クラスだろうが戦力になれば関係ないらしい。大歓迎ムードの中で凪沙は使い捨てマスクをつけながらちらりと廊下の方を見る。窓から見える親子のぎこちない会話姿にくすりと笑みを漏らして、凪沙はたこ焼きの生地が入ったボウルを手に取った。

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