「御幸!」 ある夜、三年生の何人かで学校近くのコンビニで雑誌やら軽食やらを買い込んでいる時のことだった。戦利品を手にコンビニを出ると、後輩の御幸一也がちょうど目の前の道を一人歩いているところだった。楠木が呼び止めると、彼は小さく会釈をして近付いてきた。 「皆さん、買い出しですか」 「これから夜通しゲーム大会でよ」 「ほどほどにして下さいよ。先輩らの声で起きる奴らいるんで」 へらへら笑う御幸。正論とはいえ、相変わらず先輩相手にもずけずけ物を言う男である。普段であればもっとましな言い方はねえのかと、小湊あたりが生意気な後輩の頭をぶっ叩くところであるが、そんな彼にも可愛げがあるところを彼らは知っているため、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべるだけ。そんな上級生たちの様子に気づいた御幸は、笑みを引き攣らせる。 「な、なんですか先輩ら、気味の悪い」 「いやあ、天城とはずいぶん仲良くやってんだなあ、と思ってな」 「……」 からかう門田の言葉に、御幸は押し黙った。見られていたのか、と顔にでかでかと書いてある。生意気で勝気な後輩も、恋人が絡めばこの通り年相応の少年らしい姿を見せるのだから、可愛いものだと、誰もが思う。 そう、先ほどコンビニの前を御幸と天城凪沙が二人、肩を並べて歩いていくのをたまたま目撃したのだ。御幸がにやにやと笑いながら何か言えば、凪沙はやいのやいのと笑顔で反論し、ぽすぽすとその広い背中を叩く。暗がりに消えていく二つのシルエットに、仲いいなと肉まん片手に丹波が呟いた。可愛い後輩たちのため、二人が見えなくなるまで大人しく待つ程度の優しさは、彼らにもあったわけで。 「……すごいよな。お前ら、マジで付き合ってるんだ」 そんな御幸を前に、どこか感心したような口ぶりで楠木はそんなことを言い出した。今更な話だと丹波は横で聞きながら思う。この生意気な捕手がマネージャーと付き合っている、と後輩伝手に聞いた時はにわかには信じられなかったが、ああした姿を何度となく見送ってきたのだ。監督や部長ですら認知しているであろうその関係を、今更掘り返すつもりはなかった。だが、楠木にとってはそれが意外な光景に思えるらしい。 「いやさ、天城ってパーソナルスペース広いようでかなり狭いよな?」 「そうなのか?」 「知らねーよ」 意外な言葉だった。先輩後輩関係なく、誰に対してもにこにこ笑みを浮かべながら話を弾ませる彼女はコミュニケーション能力の鬼、と倉持が称していたのを耳にしたことがある。気の弱い丹波や逆に気の強すぎる小湊とは違い、そういった人付き合いのいい人間は総じてパーソナルスペースが広いものという認識だが、楠木は首を振る。 「天城ってホラ、男に触られないよう振る舞ってるだろ?」 「え、そうなんですか?」 初耳だとばかりに御幸は問い返す。言われてみれば彼女は異性に対してべたべた触れるタイプではない。ただ、それが『意図して』振る舞っているかどうか、御幸は気にしたことなどなかった。だが、楠木は何か知っている様子で小湊を振り返る。 「小湊は知ってるだろ。『天城の背後を取れない』って話」 「……ああ、あったね、そんなこと」 数秒考えるそぶりを見せて、小湊もまた小さく頷いた。ただ、後輩の女生徒に使うにしてはいささか物騒な話の前振りである。伊佐敷も丹波も御幸も何の話だとばかりに顔を見合わせる。 「んだそりゃ、格ゲーの話か?」 「違うって。ほんと、文字通りの話」 「あいつ、後ろに目がついてるのかってぐらい気配に敏感なんだよ」 そうして語られる、悪戯精神旺盛な上級生の悪だくみの思い出。 最初にそれに気付いたのは、小湊だった。凪沙が入部した当初、倉庫の整理に奔走していた彼女の頭にいくつもの埃が付着しているのを見かけた。流石にその格好で動き回られるのは衛生的にもどうなのか、と親切心ではなく、あくまで自分たちのために小湊は彼女に近づいた。後ろ向きで作業をする彼女に何気なく手を伸ばした──その時。 『──っ!』 『!』 彼女の真剣な目が、いきなりぐるんと振り向いてきたのだ。その目は確かに、敵意にも似た鋭い眼光が潜んでいた。おかげで伸ばしかけた手は中途半端に空を切り、二人して無言で見つめあうこと数秒。凪沙はようやく、いつもの気の抜けたような笑みを浮かべた。 『小湊、先輩?』 『あ──ああ、お前の頭、埃だらけなんだけど、』 『ギャッほんとですか!? すみません身を清めてきます!!』 そう言うが否や、脱兎の如く倉庫を飛び出していく彼女。いつも通り、大人しそうな外見とは裏腹に明るく溌剌としたその様子に、小湊は特に気にすることなくその場を後にした。だが、その後も似たような『目』を目撃することになった。 どちらかといえば小湊はスキンシップが多い。男子相手ほどではないが、女子相手にだって容赦はない。流石に先輩相手には手出しはしないが、同級生や後輩なら小突く──同学年の藤原曰く『どつく』が正しいという──ぐらいは日常茶飯事。だが、どうにも凪沙相手には『当たらない』のだ。軽い談笑中に小突こうとした頭がひゅんとしゃがんだり、背後から忍び寄っても即座に振り替える、途中から意地になってその小さな背中に一発掌底を叩き込んでやりたいと画策したが、そのどれもが不発に終わった。小湊だけに警戒心という名のアンテナを張っているのかと思えばそうでもなく。 ボール探しのために全身が落ち葉だらけになったとき、楠木がそれを取り払おうとした際も『自分はミノムシの妖精でありますので!』と逃げ出していたし、データ解析の際に投手のモーションを盗み取った手柄を称えんと結城が頭を撫でようとした時も『恐れ多い!』などという謎の言い訳をして交わしていた。一人一人に対しては露骨ではないにしろ、全体を通してみれば明らかに他人に触れられるのを避けていることが分かった。 「だから聞いてみたんだよ。『お前、人に触られんの嫌なのか?』って」 「わざわざ本人に聞いたのかよ」 「すげーな、後輩の女子相手によく言えんな」 「お前そういうところだぞほんと」 「なんかトラウマでもあったら可哀想だろ? ここ、ただでさえ男所帯なんだし」 さらりとそう返す楠木。あくまで彼女を慮った上で嫌味なく踏み込めるあたり、楠木の人となりが表れている。彼女にそんなそぶりがあったなどと全く気付かなかった御幸は、ただ感心するばかりだ。楠木は回想を続ける。 『トラウマとかじゃないんです……すみません露骨すぎましたかね?』 『いやあ? けど、親しんでくれる割に距離感保とうとしてくるから、なんかちぐはぐに見えてさ』 『ちぐはぐ、ですか』 『仲良いクラスメイトに近い感じなんだよな、お前。でもそいつと同じように接しようとすると、さっと一歩引くだろ? 警戒してるようにも見えるし、かといって男が嫌いとかって風にも見えないしさ』 『まあ男の人嫌いだったら、野球部マネージャーはできないですからね』 『だろ? だから、なんでかなって』 単純な興味。そして、もしも彼女に何か思うところがあるのだとしたら、背後が取れないと面白がっている小湊達にも一言言ってやらねばならない。そういった親切心からくる楠木の言葉に、彼女は嘘一つなく返答した。 『そうですね……距離感を保つ努力をしてる、つもりは、あります』 『距離感っていうと、俺らが踏み込みすぎないように、ってこと?』 『そゆことです。古今東西、男女間のトラブルは厄介と相場は決まってますしね!』 『……だから、一線引いてるってことか』 『可能性がゼロじゃないなら、ゼロに近づける努力はしておくべきかな、と』 『それは、マネージャーとしての務め?』 『自分のためでもあります。……父曰く、私は『チョロく見られがち』らしいので』 げんなりする彼女は、一見すると虫も殺せぬような大人しい文学少女。彼女の父親の言い分が──言い方はともかく──なんとなく分かるような気はする。相思相愛ならまだしも、一方的な恋愛感情はトラブルの種である。そういった種を潰す為の努力もまた、マネージャーとしての仕事なのだと彼女は語っていた。 「──だから、お前ら二人を見ると、すげーなって思ってさ」 そんな彼女が、今は御幸と肩を並べて、歩き、笑い、触れ合っている。トラブルもなく、互いを慈しんでいるからこそ、凪沙はああして笑っていたのだろう。一方的な恋愛感情はトラブルの種であるが、その矢印が両方に向いているのなら話は別だ。いつ、どうして彼らが惹かれ合ったかは定かではないが、可愛い後輩たちが幸せそうなのはいいことだと楠木は思う。 とはいえ、いつの間にやら彼女の信頼を勝ち得た御幸に対してほんの少しばかり羨ましく思うのは、楠木もまた凪沙を可愛がっていたうちの一人だったからだ。尤も、恋愛感情というよりは兄のような立場での話、だが。可愛い妹が嫁に行くとこんな気分になるのだろうか、と誰もがしみじみ思っていた。 「あんだけ心許されてるんだもんな。ほんと仲良くて──」 羨ましいよな、なんてからかいの声をかけようと楠木はちらりと御幸の顔を見る。だが、その顔を見て言葉は、完全に喉奥に飲み込まれてしまった。 「そ──そう、デス、か……」 引き笑いをそのままに、御幸の顔は暗がりでもはっきりと分かるほど赤らんでいた。動きはぎこちなく、声は裏返っていて、明らかに動揺しているのが目に取れた。自分の恋人がただ一人心許した相手にしかその距離を許していないのだと、どうやら御幸は知らなかったらしい。おかげでグラウンドの上ではどんな場面でも強気で、堂々と佇む正捕手の姿は──今はどこにもない。 本当に可愛いところもあるもんだと、誰もが後輩の顔を見てほっこりとした気分になったのだった。 (三年に絡まれるお話/2年冬) |