御幸一也の未来に妬く

「倉持くん一人?」

「あ?」

 聞き慣れた柔らかな声に、倉持は席についたままスマホから顔を上げる。他クラスのマネージャーである天城凪沙が青いスコアブックを片手にそこに立っていた。やべえ、その一言が倉持の脳裏をよぎる。

「御幸くんは?」

「御幸は──トイレ」

 一瞬の言いよどみ。だが、自分にしてはうまく取り繕えたと思う。だが、凪沙は意外そうに片方の眉を跳ね上げた。

「あれ、倉持くんってそういう気遣いできる人だっけ?」

「……んだよ、分かってんなら聞くなや」

 それこそ、気を遣った方が馬鹿みたいだと、倉持は重々しい溜息をついた。せっかく御幸一也の行方を誤魔化してやったというのに、存外鋭いこのマネージャーにはお見通しのようだ。

「ほんとにトイレなら、倉持くんの答えは『しらねー』でしょ」

「なにお前、探偵か何かか?」

「私が同じ立場なら、そう答えるだろうから」

 昼休みにクラスメイトがどこ行ったかなんか気にしないでしょ、と凪沙。全く以て仰せの通りである。あーくそ、と倉持は気まずそうに舌打ちを漏らす。

「あー、そうだよ。お察しの通り呼び出しだよ、呼び出し」

「どんな子だった? 同学年?」

「E組のバレー部」

「三人いるけど」

「あれだ──あの、合唱コンで伴奏引いてた奴」

「あー! あのモデルみたいに背の高い! へえー、なるほどなるほど」

 ふむふむとしたり顔で頷く凪沙。相変わらずよく分からない感性をしている、と倉持は思った。曲がりなりにもそのバレー部の、モデルみたいな女子に、自分の恋人が呼び出されたというのに。それが何を意味するか、分からないほど子どもでも鈍感でもないはずなのに。凪沙は怒りもせず焦りもせず、ただただ頷くだけ。

「助かるよー、倉持くん。御幸くんに聞いてもロクな答え返ってこないからね。『髪が長かった』とか『背が低かった』とかばっかで、そんな情報じゃ全然分かんないからさ」

「あいつはあいつでおかしーんだよ」

「いやなに私までおかしいみたいな」

 おかしいだろうが、と怒鳴りつけないだけ倉持は冷静だ。野球部主将とマネージャーの交際は、人知れず夏大後にスタートしたと聞く。それから半年以上経過して、喧嘩どころか部活と帰り道以外で二人きりで過ごしているところさえほとんど目撃情報が上がらないこのカップルが、円満な関係を築けているのかどうか、非常に分かりづらい。ただこの様子を見るに、少なくとも『悪い』わけではないらしい。ただ、クラス内にいるようなカップルとは、やはり異なるようで。

「つーか、御幸にいちいちンなこと聞いてんのか」

「そりゃ聞くでしょ」

「なんでだよ」

「じゃあ倉持くんは自分がフラれる原因になった子と仲睦まじくお喋りできる?」

 ──なるほどそういうことか。存外全うな理由が返ってきたため、倉持は面食らった。交流関係は深く狭く派の倉持や御幸と異なり、凪沙の交流関係は縦にも横にも広い。誰とでも、どこでだって話題を広げられるコミュニケーションの鬼には鬼なりに、困りごとがあるようで。

「円満な学生生活を送るためには、色々と考えなきゃいかんのです」

「へーへー、そうかよ」

「なのに御幸くんってば未だに相手の顔も名前も全然覚えてないから、相手特定するのすっごい苦労するんだよ……よし、今度から倉持くんに聞くことにするね」

「やめろ。俺をそんなことに使うな」

「とか言って聞けばちゃんと答えてくれそうなのが、倉持くんなんだよねえ」

 にこにこと、こんな状況で何が楽しいのか凪沙は笑っている。野球部主将として、四番打者として、常にチームを引っ張る御幸一也のメンタルはだいぶ仕上がってきたなと思っていたが、こいつはこいつでぶっとんだメンタルだと、倉持は常々思っている。

「……仮にも彼氏が呼び出されてんだぞ、思うところの一つぐらいねえのかよ」

「あったところでどうにもならなくない? 御幸くんを好きになる権利はみんなが平等に持ってるんだよ。それを一つ一つ略奪するなんて、できないでしょ」

「だからって嫉妬すらしねえわけか、薄情な奴」

「……」

 すっと凪沙の瞳が細まった。その表情に、地雷を踏んだか、と倉持は意外に思った。無論、倉持とてそのつもりで踏み抜いたわけだが、こんな安い挑発に乗る奴だとは思わなかったからだ。がやがやと騒がしい教室内で、二人の間の空気だけは殺伐として。だが、凪沙は怒っている様子はない。静かに、瞳に驚きを湛えている。

「……御幸くん、倉持くんにそんなこと相談してるんだ」

 その一言に、地雷が不発に終わったことを知る。それどころか、踏み抜いた理由すら看破された。こいつマジで探偵に向いてるな、とここまでくると感心を覚える。面倒見のいい兄貴肌の倉持でも、恋愛相談はからきしだ。こういうのは俺向きの仕事じゃねえんだよ、と倉持はあっさりと白旗を上げた。

「だから俺に色々言うなっつってんだよ、あのクソメガネ……」

「『薄情な奴』は余計だったね。倉持くんはそういう感情論持ち込まないでしょ」

 本当に探偵のような女だ。人をよく見ているし、円満な人付き合いの何たるかをよくよく分かってる。だからこそ歯に衣着せぬ小湊(兄)や御幸ともうまくやっていけるのだろう。だが、物分かりの良すぎる恋人というのも、それはそれで悩みの種になるようで。

『──あいつ、嫉妬しねえんだよな』

 ぽつりと呟かれたその独り言は、きっと倉持に聞かせるための独り言。彼女もいない男に恋愛相談なんかしてんじゃねえよという悪態は、その静かな横顔を前に終ぞ出てこなかった。

 御幸一也という男は、腹立たしいがすごい男だと倉持は認めていた。野球センスも、その勝負強さも、そのカリスマ性も。本人は向かないと愚痴を零していたが、今の野球部を引っ張れるのは御幸しかいないと思ったからこそ、御幸を主将として推薦された時、倉持は同意したのだ。あの男には人を惹きつけ、その背中を追わせる力がある。だからこそ、既にプロからも注目されるような男が、死ぬほど認め難いが顔だって悪くないようなそんな男が、当たり前のように恋愛事に悩むなんて、想像すらしなかった。それも、『嫉妬されたい』だなんて、死ぬほどしょうもない理由で。

「そういうことは私に言ってくれないかなー、御幸くん……」

「言えるか? 『嫉妬してくれ』なんて、みっともないこと」

「みっともないかな?」

「……そりゃ、する方はいい気しねえからな」

 それを分かってて相手に求めるのだから、あまり褒められたことではない、というのが倉持の見解だ。それに、しすぎても面倒だ。特に──認めるのも癪だが──御幸一也はとても女生徒に人気がある。八割方顔のせいだろと倉持は睨んでいるが、結果的にモテていることに変わりはない。何度となく休み時間中にふらりと席を外し、辟易した顔で返ってくる男の背中をぶっ叩くのは、日常茶飯事といっても過言ではない。そんな御幸にいちいち嫉妬しているようじゃキリがない、というのならまだ分かるが。

「お前、嫉妬したことあんの?」

「あるけども」

「いやあるのかよ」

「倉持くん、私のことなんだと思ってるの……?」

 あるらしい。そこは『ない』っていう流れではないのか。ますます天城凪沙が分からなくなる。癖しかない投手を束ねる御幸も、苦労するわけだとしみじみ思う。ただ、いつものように、ざまあみろ、と笑い飛ばすことはしなかった。

 天城凪沙は、小湊春市と似たタイプだと倉持は思っている。見かけは穏やかで心優しそうなのに、絶対に折れない芯が一本背中を通ってる。気が強い、という印象はないはずなのに、彼女が心を腐す姿がまるで想像ができない。それでいて見た目にそぐわぬ、気の良さが彼女には備わっていた。天城凪沙は『いい奴』だとは思う。倉持だって何度となく助けられてきたし、何度となく談笑を交えてきた。一年の頃はそれこそ凪沙を送り届けるために二人きりになったこともあるが、会話してて楽しい相手だとも思う。何より、夏の敗北後、御幸と共に誰よりも先を見据えて動き出したのは凪沙だった。今思えば、そういう意味でも、この二人似た者同士、惹かれ合う性質だったのかもしれないが。なんにしても、そうやって人並みに恋をし、人並みに悩む御幸に対し、彼女も人並みに嫉妬するのだという言葉が、当たり前のはずなのに、少しばかり信じられない。

「そりゃー不安にもなるし、嫉妬もするよー。私なんかよりよっぽど綺麗で可愛くてお淑やかな女の子が、御幸くんに好き好きってアピールしてるんだよ。何も思わないほど、悟りは開けてないって」

「あー……まあ、御幸はそういうので心変わりするタイプじゃねーだろ」

 つらつらと、嫉妬や不安など無縁のような穏やかな表情で語る彼女に、同情の一つでも湧いたのか。ついついそんなフォローをしてしまう。けれど──それが、初めてのトリガーだった。或いは、無意識のうちに設置した、『地雷』だったのかもしれない。凪沙の瞳が、一転する。

「それは、どうだろうね」

「は──何、」

「明日、明後日、一年後のことなんて、誰にも分かんないよ」

 寂しそうにも、或いは泣き出しそうにも見える、凪沙の目。口元はいつものように微笑みを浮かべているだけに、なおのこと痛々しく見える。倉持は、何気なく発したそれが引き金になったと、瞬時に気付いた。

 御幸と凪沙の交際が順調かどうかは、正直なところ判断がつかない。喧嘩している様子はないが、仲睦まじく肩を寄せ合っている姿もさほど見たことがない。お互い学生らしく節度のある関係を築いてはいるようだが、御幸は御幸なりに彼女の淡泊さに寂しさを感じているようだし、凪沙は凪沙で恋人がると公言しているにもかかわらず呼び出しが減らない御幸に思うところがある様子。それでも、二人がどれだけ互いを思っているかなど、部外者の倉持にだって分かる。寧ろ思い合っているからこそ、こうしてどこへ行くこともできない感情が零れているのだ。なのに、彼女はあっさりと、そんなことを言う。そんな倉持の憤りに気付いたのか、凪沙はふっと切なげに微笑む。

「別に、御幸くんを、信じてないわけじゃないよ」

「だったら──」

「でも、永遠に変わらない思いがある、なんて夢物語は信じてない」

「あるかもしれねえだろ」

「ない」

 ぞっとするほど、真っ向な否定。恋に恋してもおかしくない年頃の少女が、ばかみたいに冷酷にそんな夢物語を否定する姿が──どうしようもなく、薄気味悪ささえ、感じてしまい。

「そんなものはないよ、倉持くん」

 まるで人生に疲れ切ったような、寂しい言葉。そんなものを浴びせられ、倉持はどっと老け込んだような気分になる。何故彼女がそんなことを言い切れるのか理解できるほど、倉持は凪沙を知らない。そこまでの親しさは、ない。ぱらぱらとスコアブックを捲る彼女が、まるで知らない大人のように見える。

「人は変わるよ。いい意味でも、悪い意味でもね。だから明日御幸くんが私から離れることだって、十分にありえるよ」

「ンなわけ──」

「でも、向こう五十年連れ添う可能性だって、十分にあり得る」

 ぱたんとスコアブックが閉じられ、再びくるりと瞳の奥が揺れる。先ほどまでの寒気はどこへやら、彼女はまるで子どものようにきらきらと目を輝かせる。

「御幸くんがどっか行っちゃうかも、なんて不安や嫉妬はまだ見ぬ未来のもの。だからそういうのは全部締め出して、御幸くんが傍にいる今を、私は全力で生きたい」

「──」

「嫉妬はするっちゃするけど、すぐ追い出しちゃうから、平気なんだ」

 言葉が出ない、とはこのことか。すげえとか惚気かよとかなんだこいつとか色々な言葉が脳裏に浮かぶが、どうにもそれを投げつける気すら起こらない。現状が変わるかもしれないという不安は、誰しも持つ。恋だの愛に限らなくとも、だ。そういった不安や揺らぎを、凪沙は何でもないように言った。『追い出す』、と。そんなことができるのか、それを当たり前のようにできてしまうのか、倉持にはやはり分からない。彼女がそう言うのであれば、そうなのだろう、としか。だから倉持は思うのだ。

 前言撤回。どこが人並みなんだ、こいつらは。

「……お前、昔なんかあったのか?」

「いやあ別に。ごくごく普通の高校生ですよ」

「どこがだよ」

「……まあ、お姉ちゃんのことで色々学んだから、そのせいかもねえ」

 なるほど、それは影響力がありそうだと、倉持は驚くほど素直に納得した。仔細は知らないし、御幸や凪沙も語ろうとはしないが、かつて野球部のグラウンドに現れた一人の少年の名前を聞いたその日から、おおよその理由は察している。『変わらない思いはない』──なるほど、紅顔の美少年を脳裏に思い描きながら、彼女の薄暗さの根底を垣間見た気がして、どこか安心した。彼女には彼女なりに考えがあったのだ、と。

「うーん、でも倉持くんに相談するぐらいだし、ちゃんと言った方がよさそうだねえ──嫉妬、嫉妬かあ……難しいけど、頑張ってみるよ」

「おーおーそうしてくれ。ガラじゃねえんだ、こういうのは」

「いつもありがとね、倉持くん」

 にこりと微笑む凪沙に、倉持は適当に頷く。正直なところ、この二人が上手くいく分には倉持にとってはどうでもいいことだった。だが、その逆は非常に厄介だ。高校生という多感な時期で、お互い野球部を中心とその支えという重要な役割を担っている二人に何かあったら非常に面倒だ。面倒事を起こすぐらいなら付き合うな、とは流石に言えないが、それぐらい部内恋愛は微妙な問題だ。二人の仲をあれこれ悪く言うような連中はいないとはいえ、その関係がひとたび悪化したらどうなるかは、それこそ分からない。

 だが不思議と、倉持に危機感はなかった。上手くいってるんだかいってないんだか、やはりまだよく分からない二人ではあるが、自分たちが思うような最悪な事態にはならないだろうと、そんな気がしたのだ。例えそんな事態に陥ったとしても、彼らには自力で解決できるための力と信頼と──とても真顔じゃ言えないが──『愛情』というものがあるのではないか、と、そう思ったのだ。

「あれ──天城、なんで」

「御幸くん?」

 気付けば呼び出されていたはずの御幸が教室に戻ってきていた。今しがた告白を断ってきたのだろう、恋人と顔を合わせづらいのか、気まずそうに冷や汗をかいている。そんな御幸に、凪沙は普段通りに笑顔を浮かべる。

「はいこれ。あと、こっちは高島先生から」

「あー、はいはい、了解」

「上の方は提出期限まだ先だけど、ピンクの方は明後日までだから急いでね」

「げえー……天城手ぇ貸してくれよ……こんな原稿なんか、誰が考えたって一緒だろー……」

「だめだめ。御幸くんの言葉じゃないと。その代わり、こっちは私らで埋めておくから、御幸くんはサインだけしといて。明日まででいいから」

「マジか助かる。今サインするから、ちょっと待って」

 スコアブックやプリントを受け渡すその姿は、単なる野球部員とマネージャーのそれ。あれこれ押し付けられた御幸は座席に戻り筆箱を引っ張り出して自分の名前を綴って凪沙に差し出した。念のためとばかりに、端から端までプリントの文字を眺める凪沙に、御幸は気まずそうに口をへの字に曲げている。

「今日は……あー、聞かねえの?」

 ん、と凪沙がプリントから目線を御幸に持っていく。凪沙の鋭さは、どうやら御幸にとっても織り込み済みらしい。ますます気遣った自分が馬鹿見てえだなと倉持は思っていると、凪沙はどこか得意げにふふんと笑った。

「大丈夫、もう倉持くんから聞いた」

「え」

「御幸くんより情報が正確だったし、今度からは倉持くんに聞くよ」

「……倉持、お前さあ」

「んだよ、口止めしてえなら先に言っとけ、バーカ」

 俺を巻き込むなとばかりに悪態をつく倉持。ただ、理由が理由なだけにこればっかりは倉持は凪沙の味方だった。余分なトラブルを生まないよう身の振り方を考える健気な恋人がいるのだから、少しは協力してやれと思う。ただ、御幸一也の場合は興味ない事柄には引くほど関心がないため、仮にも告白してきた相手の顔も名前もうろ覚え、という発言自体は嘘ではないのだろうが。

「あ、そうだ御幸くん」

「ん?」

「──私、ちゃんと嫉妬したりするよ?」

 突如、何の脈拍もなく、そうそう忘れていましたとばかりに、プリントをファイルに仕舞いながらそんなことを言う凪沙。御幸は完全にフリーズしており、手にしていたシャーペンがころんと床に転げた。当たり前だ、今の今まで嫉妬の『し』の字も見せなかった恋人からの、突然のカミングアウト。どこでアクセル踏み込んでるんだこいつは、と倉持すらぎょっとした。

「──は!?」

 そんな御幸の、意外にも良く通る声は『キーンコーンカーンコーン』という予鈴がものの見事に打ち消した。凪沙は転げ落ちたシャーペンを拾って御幸の机に乗せると、キュッと上履きを鳴らして踵を返す。

「やば、次、化学なんだ! じゃあね二人ともまた後で〜!!」

 そうして爆弾だけ落として、彼女は相変わらずのんびりした容姿とは裏腹にジェット機のようなスピードで教室を飛び出した。相変わらず足の速い女だと感心した。一方で、哀れ御幸はフリーズしたまま呆然と恋人が立ち去るのを見守る他なく。

「お前ら、俺のいない間に何話してたんだよ」

「別に何も。詳しくは本人に聞け」

「ぜってー余計なこと言ったろお前!」

「何にも言ってねえよしつけーな! あいつが鋭すぎんだよ!」

「──うるせーぞ野球部、席に座れ!!」

 倉持と御幸のしょうもない言い争いは、数学教師の怒鳴り声によってあっさりと幕引きとなる。互いに睨み合いながら、二人は黙って席に戻る。何が余計なことだと、倉持は机に肘を付きながら教科書を引っ張り出す。やっぱり、こういった事情には関わるべきではなかった、と。助言しようがしまいが、馬に蹴られることに変わりないのだと、倉持は改めて思い知ったのだから。

(倉持と御幸を語る/2年冬)


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