※変換無しのオリキャラがだいぶ出張ります オフシーズンの練習は、とにかくしんどい。あの冬合宿程ではないにしろ、練習試合ができない今、とにかく身体を酷使する他ない部員たちは心身共にボロボロになっていく。だが、今年は春にセンバツが待ち構えている。甲子園に向けた調整をと思えば、部員たちのモチベーションは格段に上がった。ありがたいことだと御幸は思う。一時はどうなるかと思った新チームも、今や同じ気持ちで同じ場所を目指している。それが分かるからこそ、日々の辛い練習もどこか心地よくこなせる。そうやって一つ一つの日々を越え、彼らはどんどん力をつけていく。 そんな中、いつものように夕食を腹に収めた後、部員たちは各々に自由な時間を過ごす。余暇を楽しむ者、自主練に赴く者、様々だ。そんな中で天城凪沙は御幸たちと共に甲子園出場高校のビデオチェックを始めていた。相手校の特徴、癖、試合運び、更には過去の試合との比較。データはどれくらいあってもいい。御幸たちは今日も画面を睨みながら、ああだこうだと議論を交わしている、と──。 「天城、ちょっとええか」 凪沙を呼ぶ声に、彼女はテレビから視線を外した。食堂の入口には、困惑した面持ちの前園と小湊春市の同室コンビがいた。彼女は首を傾げながらも立ち上がり、入口の方へと向かう。御幸たちは彼女の離脱に口挟むことなく、ビデオに集中する。 「あー……お前、弟おるんか?」 「私? ううん、姉しかいないけど」 「やっぱそうやんな。人違いやって、なあ」 「でも、うちの部で『凪沙』って言えば天城先輩じゃ……」 「私? 何かあった?」 話が読めず、首を傾げる凪沙。だが、前園と小湊はもっと困り果てたような、難しい表情を浮かべている。 「さっき、先輩と素振りに行こうとしたら、どこからともなく声がしたんです。『凪沙ちゃん』、って子どもの声が、ずっとしてて」 「……え?」 「だから先輩の知り合いじゃないかって、思ったんですけど……」 「──まさかっ」 息を呑む凪沙。そして小湊の背後から、ちらりと顔を覗かせる、一人の少年の姿に誰もが食堂の一口に目をやった。小学校低学年ぐらいだろうか、青いランドセルを背負ったその少年は、涙を浮かべながらも必死に耐えるようにして小湊のジャージの裾を握っている。一瞬少女かと見まごうほど、愛らしい顔立ちの少年を見るなり、凪沙は膝を落として少年の方を引っ掴むなり、こう言った。 「カズヤくん!? 何してんのこんなとこで!!」 ぶほっ、と吹き出したのは御幸だけじゃなかった。前園や渡辺も思いっきり吹き出して顔を背け、真面目な顔でそんなことを叫ぶ彼女に信じがたいほどの動揺を見せていた。だが凪沙はこちらの様子など目にも止まらぬほど切羽詰まった形相で、がくがくと少年を揺さぶっている。だが、少年は凪沙を見るなりぱあっと笑顔になる。 「凪沙ちゃん! やっぱりここにいた!」 「いやいや嘘でしょカズヤくんなんでここに!? 学校は!?」 「終わった!」 「だよね! おね──お母さんは!? 一緒じゃないの!?」 「ううん。おれ、一人」 「一人!? カズヤくん一人で、え、学校から、ここまで!?」 「うん。凪沙ちゃん、『にしこくぶんじ』にいるって、言ってたから」 「だってそんな、小田原から此処までどれだけかかると、」 「おだきゅーで来た!」 「ちゃ、ちゃんと安い方で来てる──じゃなくて! なんで!?」 「凪沙ちゃんに! 会いに来たの!」 元気よく宣言する少年、もとい『カズヤくん』。凪沙はこれ以上ないくらい困惑したような顔で、言葉を選びあぐねている。一方で『カズヤくん』は目を輝かせたまま、楽しそうに凪沙の手をギュッと握る。 「凪沙ちゃん、夏休みも冬休みも会えないから!」 「うぐっ……」 「でも、かーさんが『凪沙ちゃんは忙しいから仕方ない』、って」 「う……」 「だったらおれが会いに来ればいいよね? そしたら、凪沙ちゃん忙しくても平気だよね?」 「カ、カズヤくん……」 「かーさんはダメって言うから、おれ、お年玉使ってきたんだ。ねえ、ダメだった? 凪沙ちゃんは? おれに会いたくなかった? 嬉しくない?」 矢継ぎ早に質問攻めにする『カズヤくん』に、凪沙はウッと言葉を詰まらせたまま。だが、今にも涙をこぼしそうな大きな目に、ようやく観念したように彼女は『カズヤくん』をぎゅうっと抱き締めた。 「──嬉しいよ。私もカズヤくんに会いたかった」 「やっぱり!! そうだと思ってた!」 「すごく嬉しい。会いに来てくれて、ありがとう」 「いいよ! おれの『こんやくしゃ』の為だからね!」 幼い子どもの戯言のはずなのに、状況が状況だけに誰もが吹き出すのは自然の摂理と言えよう。しかし、凪沙はこらこらと慣れたように小さな頭を小突くだけ。 「捏造しないの。私、言ったよね、できない約束はしないって」 「えー、なんで?」 「甥っ子とは結婚できないの。何度も言わせない!」 「大丈夫だよ! おれが大人になったらほーりつ変えるから!」 「今度は法律改正ときたかあ……」 現実的なんだか非現実的なんだか、そんなことを宣言する少年に凪沙も呆れ半分、苦笑半分だ。笑いをこらえながら、傍にいた小湊が声をかける。 「その子──甥っ子、なんですか?」 「う、うん。ほら、カズヤくん、野球部の大先輩だよ。挨拶しよ」 「おれ、天城カズヤ! 八歳! ピッチャー!」 はーい、と元気よく挨拶する少年。名前を聞くだけで笑ってしまいそうになる野球部員たちは、複雑な顔をする御幸を視界に入れないよう顔を背ける他なかった。小湊は肩を震わせながら、必死に平静を装って会話を続ける。 「ピ、ピッチャー?」 「そう。この子も野球やってて」 「『カズヤ』で『投手』って……」 カズヤという名前で、ピッチャー。どうしても連想してしまうのは、某有名な漫画。小湊が呟くようにそう言えば、凪沙はくすりと笑んで肩を竦めた。 「あー、字が違うんだよね」 「どういう字を書くんですか?」 「おれ言える! へーわの『わ』に、しがなおやの『や』!」 「すごい難しい伝え方覚えたね……」 「かーさんが前電話で言ってた!」 胸を張る少年に、凪沙はえらいなあとべた褒めしている。平和の『和』に志賀直哉の『哉』──和哉。御幸とも例の漫画のキャラクターとも字が違うらしいが、そうはいっても読みは一緒なのだから、ややこしいったらない、と御幸はなんとか真顔を取り繕う。苗字と違って下の名前はかなりありふれているため、同名と出会ったことがないわけではないが、まさか恋人の甥っ子と同じ名前だなんて思いもよらず、耳慣れた名前が今はどうしても妙なノイズに聞こえてしまう。そんな御幸を見かねてか、凪沙は慌てて荷物をまとめだす。 「ご、ごめん、今日はちょっと早めに上がらせてもらうね」 「いや、僕たちは別に気にしな──ぶっ、ふふ」 「渡辺くん……今日一番説得力ない発言だよ……」 堪え切れず、ついには堂々と吹き出した渡辺に凪沙も呆れたように肩を落とす。コートやマフラーを引っ掛けて明日の準備のチェックだけして帰ろうとする凪沙は、背後に立つ御幸を振り返った。 「御幸くん?」 「……お前ら二人だけで、帰すわけにいかねーだろ」 「あ、そっか」 片や女子高校生、片や小学生男児。いくら十分少々で帰れるとはいえ、いくら一人ではないとはいえ──いや寧ろ一人の時より危険度は上だ。帰るというのなら、いつもの通り御幸が送り届ける。ただそれだけの話だ。決して、名前を聞くたびに笑いをこらえる部員たちから逃げ出したいわけではない。断じて。 「ごめん、お手数おかけします」 「いーよ。上着取ってくるから待ってて」 「うん!」 そう言って御幸はニヤけ面の部員たちを押しのけて、自室にかけてある上着を羽織って食堂に戻る。凪沙は和哉と手を繋いでおり、やいのやいのという部員たちに肩を落としながらいなしている。 「お待たせ」 「ううん、平気。いつもありがとね」 「……だれ?」 じっと、暗がりから大きな瞳が御幸を射抜く。明らかに敵視したその目に、幼いながらも分かるもんなのかと御幸は感心した。凪沙は少し迷いがちに告げる。 「夜遅いし、おうちまで危ないからね。この人に送ってもらうんだよ」 「いらないよ。凪沙ちゃんはおれが守るもん」 可愛いナイトは、大好きな『凪沙ちゃん』との時間を見知らぬ男に邪魔されるのがよほど嫌らしい。明らかにむっとした表情だ。どうしたものかと、御幸は苦笑いを浮かべる。子どもの相手などしたことない。とりあえず、敵意はないことを伝えるべきだろうか。 「まあまあ、そう睨むなって、な?」 「いらない! ねえ凪沙ちゃんおれこいつヤだ!」 「こらあ! 失礼なこと言わないの!」 「おれ一人でここまで来たんだよ。一人で大丈夫だって!」 「あのなー、大丈夫なわけねえだろ」 埒が明かないと、御幸はぎゃあぎゃあ騒ぐ和哉の両脇にするりと腕を滑り込ませると、ひょいっと抱き上げた。三十キロもないのだろう、羽根のように軽い。普段これの倍はある部員を担いでグラウンドを駆けまわっている御幸にしてみれば、なんとも頼りないナイトである。 「は、はなせよ!!」 「ほらな。お前じゃまだ、凪沙ちゃんは守れないってこと」 「はーなーせー!!」 少年はじたばたもがくも、平均的身長・体重の彼が甲子園出場を果たす高校球児のパワーに勝てるはずもなく。涙を浮かべながらギッと睨みつけてくる和哉の両足を、ようやく地面に触れさせる。 「凪沙ちゃんおれこいつ嫌い!」 「こらあ! なんてこと言うの!」 「だってこいつ!! ヤなこと言ってくる!!」 「元はと言えば、和哉くんが嫌なこと言うからでしょ?」 「だ、だって……」 「お兄ちゃん、野球の練習忙しいのに、私たちのこと心配だからって送ってくれるんだよ。おばあちゃんちまで、暗くて危ないからって」 「……」 言い聞かせるように凪沙が告げるも、和哉は完全にへそを曲げてしまったらしい。凪沙のコートの裾を掴んで、涙目で見上げるだけだった。謝る気はないようだが、抵抗する気配もなくなった。 「和哉くん、お兄ちゃんにごめんなさいは?」 「……」 拗ねたようにぷいっと顔を背ける。今時珍しいぐらい素直な小学生だと御幸は思った。数秒待っても、真一文字に結ばれた少年の唇から言葉は出ない。 「もー、強情なんだから」 「いーって。それより、早く行こうぜ」 「ん。そうだね」 ほら行こう、そう言いながら未だ不服そうな和哉の手を引いて凪沙は歩き出す。いつもはその場所は御幸が居るのだが。まあ、流石に九つも年下の、しかも血の繋がった甥っ子相手にあれこれ言う気にもなれず、数歩離れて御幸は二人の後を追う。校門を出る辺りまで来ると和哉の機嫌も回復したのか、今日は学校で何をした友達と野球をしたのだと、嬉しそうに凪沙に報告し始め、凪沙はそれを母親のような眼差しで聞く。親子というよりは姉弟といった方がしっくりくる年齢差だが、不思議とそう感じた。姉の子と言っていたが、彼女は姉と年が離れているのだろうか。そういえば凪沙の姉は既に家を出たと聞いているし、あれくらい大きな子どもがいてもおかしくないのだろうが……。 すると、静かな夜道でブーブーというバイブ音が響く。コートのポケットからスマホを引っ張り出した凪沙は、画面を見て息を呑んだ。 「あ!」 「凪沙ちゃん?」 「おね──お母さんから、電話」 そう言うが否や、和哉はこれ以上ないぐらい顔をギュッと顰めた。未だ振動鳴りやまぬスマホを見せながら、凪沙は再び膝を落として和哉と視線を合わせる。 「ほら、和哉くん見て。お母さん、心配してるよ」 「……ちがうよ」 「どうして?」 「……かーさんは、おれのことすきじゃないもん」 「そうなの?」 「凪沙ちゃんは、おれのことすき?」 「もちろん」 「……かーさんは、そんなこと言わない」 拗ねたように零れ落ちたその一言に、凪沙の表情が一瞬歪んだ。だがすぐに朗らかに笑んだかと思うと、和哉の頭をくしゃりと混ぜ返す。 「分かった。じゃあ私が、お母さんのこと叱ってあげる」 「……ほんと?」 「うん。嘘吐きはよくないもんね」 「かーさん、うそついてる?」 「そうだよ。お母さんはね、和哉くんのことが大好きすぎて、いじわるしちゃうんだ」 「……がきじゃん」 「そうだね。お母さんはさ、とっても悪い子なんだよ」 「……」 「だから、私が叱るの。ちょっとだけ、待っててくれる?」 未だ振動鳴りやまぬスマホと、穏やかな表情で微笑む凪沙と、数歩離れた御幸をちらりと振り返る和哉。そして、どこかもじもじとしながら凪沙を上目遣いで見上げる。 「……凪沙ちゃん、おれ、おなかすいた」 「すぐ終わらせるから。今晩はオムライスだよ!」 「おれ! 待ってる!」 「いい子だね」 にっこり微笑んで、凪沙は立ち上がって和哉の手を離す。そうして御幸の方を見て、少し気の滅入った様子で肩を竦めた。 「ごめん、お姉ちゃんと五分だけ話してくる。ちょっと待っててもらっていい?」 「分かった。あんま遅くなるなよ」 「当然。御幸くんの貴重な時間を、これ以上無駄にはしないよ」 そう言いながら、彼女はクリスマスプレゼントに御幸が送った送った腕時計を見る。五分、そう言い残して凪沙は和哉を残して校門へ向かう道から少し逸れ、中庭の方へと向かっていった。 残されたのは、同名の少年が二人。たかが五分と思ったが、案外時間の進みは遅い。携帯の時間を見ながら、御幸は既に真っ暗な空を仰いで、ちらりと傍に佇む少年を見る。和哉はじっと、凪沙が立ち去った方向を見つめている。あの朗らかな笑顔が戻ってくるのを、今か今かと待っているような、そんな顔。 「……母さんと、仲わりーの?」 普通の家族とは、何か。御幸には分からないし、『普通』なんて無責任な定義は存在しないとは思う。だが、和哉の凪沙への執着心とでもいうのか、愛情は『大きくなったらお母さんと結婚する』といった物とは著しく乖離しているように思えた。故に、その根幹にはきっと、この少年の母親が関係しているのではないか、と。他所の家庭事情に首を突っ込むなんて、らしくないと思った。けれど。彼女は──彼は、自分にとって。いつか。 「……分かんない」 「分かんねえのに、『好きじゃない』のは分かるんだ?」 「だって!」 和哉は此処に来て初めて、御幸に年頃らしい表情を向けた。凪沙を守らんとするナイトではない、八歳の子どもとしてのむき出しの感情。怒り、悲しみ、失意、そのどれもが入り混じった苦悶の表情。子どもらしからぬ感情を、それを正直に表に出す子どもらしさが、どうにもアンバランスでちぐはぐな絵画のように見えた。けれど和哉はすぐに冷静さを取り戻したように俯く。 「かーさん、いつも仕事。おれと遊んでくれるのは、凪沙ちゃんだけ」 「父さんは?」 「いない」 静かに告げられた言葉に、御幸は謝ることはなかった。静かな空気が流れる。そんな時、御幸はようやく思い出したのだ。どうして甥っ子だと聞いて察せなかったのか。『姉』の子だというのに、何故彼女と同じ苗字を名乗っていたのかを。いつか凪沙が言っていた、あの言葉から、何故汲んでやれなかったのかを。 『昔、お姉ちゃんが恋人関係でトラブル起こして──』 父親が男女交際に厳しいのだと、以前凪沙は言った。その理由が、姉にあるのだとも。つまり、父親が『いない』というのは、少なくとものっぴきならない理由で不在、ではないのだろう。少なくとも、彼女の父親の気に障る何かが、あったのだ。自分とは違う、何かが──けれど。 「ふーん。じゃあ、俺とは逆だな」 「逆?」 「俺は母親が、いないから」 その一言に、和哉はハッとした様子で御幸を見上げる。大粒の瞳の中に、驚きと、ほんの少しの仲間意識のようなものが芽生えている。子どもって単純だ、なんて考えて笑う。 「天城は──あー、凪沙はさ、優しいけど、嘘は言わねえだろ」 「……うん」 「あいつが、お前の母さんはお前のこと好きだって言ってる」 「……うん」 「母さんは信じられなくても、凪沙は信じられるだろ」 何せお年玉を叩いて二時間かけて西国分寺まで来るのだ。和哉が、ともすれば母親以上に凪沙に懐いているのは目に見えていた。そこまで告げれば、小さな頭がコクンと頷く。 「母さん、お前を育てるために仕事頑張ってんじゃねえの?」 「わかってる……でも……仕事ばっかで、学校来てくれないし」 「授業参観とかな、俺も来たことねえなあ」 「弁当も、おれだけコンビニのだし」 「あれ浮くよなー」 「とーさんがいないのは、『オカシイ』、『変』だって、言われるし」 「だったらあいつらに何の関係があんだよ、なあ?」 九歳も年が離れているというのに、不思議とこの瞬間だけは年齢差を感じなかった。自分よりもずっと素直な少年が吐露する思いは、かつて御幸が蓋をして捨ててきた物ばかり。この素直さは凪沙──もとい、天城家譲りなのだろうか、なんて思った。 「……さびしく、なかった?」 「多分な」 「たぶんて? どっち?」 「さあ、どっちでしょう」 にやりと笑ってみせれば、和哉はあからさまにムッとした表情を浮かべる。この分かりやすさは投手には向かないな、と御幸がけらけら笑えば、和哉はますます目を三角にする。 「お前っ、やっぱ性格わるい!」 「捕手にとっては褒め言葉だな」 はっはっは、と笑い飛ばせば和哉はぴたりと静まった。意外そうに、或いは信じがたいものを見るような目で、じろじろと御幸を見上げる。 「……捕手? お前、キャッチャーなの?」 「御幸一也。年上に『お前』はやめとけ、『お前』は」 「カズヤ!? パクんなよおれの名前!」 「投手って人の話聞かねえ奴しかなれねーの?」 前言撤回、これは投手向きの人種かもしれない。パクリパクリと騒ぐ和哉は、先ほどまでの物憂げな美少年はどこへやら、立派なクソガキだった。御幸のジャージの裾を引っ張ってぎゃんぎゃん騒ぐ和哉を見下ろしながら、凪沙の帰りを待つ。彼女は守れない約束はしない。もうすぐ、五分が経過する。 「お」 「凪沙ちゃん!」 中庭の方から、頬を上気させた凪沙が走ってくる。さっきまでのクソガキムーブはどこへやら、目をキラキラさせて手を振る和哉。凪沙はこちらまで駆け寄ってくると、和哉の手を取るなりこう言った。 「和哉くん、お母さんは私の説教なんかいらないみたい!」 「え? なに、なんで、」 「おいで!」 そう言って御幸に目配せして、凪沙は和哉の手を取ったまま走り出す。とはいえ、ともすれば学年トップレベルの俊足を持つ彼女なので、和哉の歩幅に合わせているが。そうして二人の後を追って校門を出る。すると──。 「カズヤッ!!」 叩きつけるような、ハスキーな声に身体が震えた。自分じゃないと分かっていても、十七年もの間で馴染んだその音を、自己と切り離すのは難しい。けれど、御幸以上に驚いたのは和哉本人だろう。凪沙と手を繋いだまま、信じられないとばかりに声の主を凝視している。御幸からでは暗くてよく見えないが、こんな人通りの少ない場所に現れたその人物が誰か、言うまでもない。 「かあ、さん」 零れ落ちるその声に、御幸の推測は当たっていたことを知る。凪沙はとても穏やかな表情で、和哉の頭を撫ぜる。ちらりと凪沙と、それから──予想外なことに──御幸を振り返る和哉の目に、言葉が詰まる。けれど、すぐに少年は凪沙の手を離すと、母親の元へ駆けていき、その首元に飛びついた。母親はそんな我が子を、力いっぱい抱き締める。 「一体、どれだけ、心配、したか……ッ!!」 「ご、ごめんなさ、かあ、さん」 「無事で、よかったっ……和哉、本当に──心配した、のよ」 涙声でそう言いながら、息子を抱きしめる母親。全く、何が『好きじゃない』なのか。あれほどの愛情を一心に受けておきながら、よくまあそんなことが言えたものだ、と。そんな真向な愛情を、和哉も感じ取れないはずがなく。ごめんなさい、とぐずぐずに泣き出す少年は、どこか満ち足りたような涙を流してたのだった。 *** 「お姉ちゃんね、十七歳で和哉くんを産んだの」 「……十七?」 「そう。私らと同じ、高校二年生の頃。相手はバイト先の大学生だった」 その後、泣き疲れて眠る和哉を背負った母親は凪沙と少し話した後、御幸に一礼してから二人で帰って行った。ようやくいつもの帰り道を、二人きりで歩ける。そうして彼女の口から、事の顛末を聞く。 「当然、お父さんは大反対。でも二人は結婚する、和哉くんも産むんだーってもう大喧嘩。お父さん、ついには『幸せになれるはずがない、堕ろせ』なんて言い出してさ。お姉ちゃんはブチ切れてそのまま家出して、和哉くんが産まれた。だけど」 「……旦那は、逃げた?」 「ううん、旦那にすらなってくれなかった。その人は身重のお姉ちゃんを置いて、どっか行っちゃった。結婚の約束も、お姉ちゃんも、和哉くんも、全部置き去りにした」 「……」 「酷い人って思うよね。私も思った。でもね、私、その人に会ったことあるんだよ。いい人だったよ。優しかったし、私やお母さんにも礼儀を以て接してくれた。だから大丈夫だって思った。でも、その人の『お姉ちゃんへの想い』はきっと、一年と続いてくれなかったんだろうねえ」 苦々しくそう呟く凪沙は、恨みや憎しみといった感情は感じられない。ただただ、『仕方ない』とばかりの、諦めた眼差しだけ。いつだったか、彼女の恋愛観を耳にしたことがあった。『人の気持ちは移ろう』と、彼女は断言した。浮気ですら、仕方ないのだと。だから人は永遠の愛を夢想するのだ、と言う彼女は少しだけ寂しげな表情だった。なるほど、そういうことだったのかと御幸は独り言ちる。愛が移ろうその姿が、幼い彼女の目にどう映ったのか、想像に難くない。 「それから私とお母さんは、一人になったお姉ちゃんに会いに行って、説得したんだよ。せめてお父さんを頼ろうって。まだ高校生なのに子どもを一人で育てるのは無理だって。でも、お姉ちゃんは和哉くんを殺そうとしたお父さんは絶対に許せないって、折れなかった」 「……」 「だから、私とお母さんはお父さんに内緒で、お姉ちゃんの家があるボロアパートに通って可能な限りサポートを始めた。お姉ちゃんは──所謂、夜のお仕事を始めて、お母さんと私で和哉くんの出産と育児の手伝いをした。私、あの子が保育器にいる頃から知ってるんだよ」 懐かしそうに目を細める凪沙。けれど語られるのはあまりに──あまりに、穏やかとは言い難い、彼女の姉の人生。十七歳。御幸も十七だ。それが子どもを成して、結婚だなんて。そりゃあ『いつかは』とは思う。いつかを願う相手も、横にいる。けれど『今すぐ』は、流石に決断できないだろう。 「お姉ちゃん必死だった。高校も中退して、友達もみんな縁切られちゃって。生きるために、仕事に専念するしかなかったんだよね。お姉ちゃんも大概不器用な人でね、あんまり素直になれない人だから、ついつい私があの子を甘やかしちゃって……」 「そりゃ、あんだけ懐くわけだ」 「あの子が生まれた時、私、九歳だったんだよ! 弟ができたみたいで嬉しくて……そりゃー可愛がるよ!」 凪沙も甘やかしている自覚はあったらしい。一人っ子の御幸にはその感覚は共有できないが、あれだけ素直に懐いてくる弟分が居ればさぞ嬉しかろう。 「でもまさか、小田原から西国分寺まで来るとは思わなかったよ。こんなこと何度もあるようじゃ危険だし、私からお姉ちゃんにきつーいお灸を据えてきた」 「お前が『きつーいお灸』、ねえ」 普段あまり──あまりどころか一度だって──本気で怒ったところを見たことない彼女の言う『きつーいお灸』がどれほどか、御幸には想像もできなかった。だが、凪沙はむっとしたように頬を膨らます。 「私だって怒る時はちゃんと怒るよ?」 「想像できねえわ」 「うーん……だから私、和哉くんにも──あ、ええと、」 何を言いかけたのか、ぶつりと不自然に言葉を切ってしまう凪沙。ほんのり赤らんだ耳に、何を躊躇ったのか意味を知る。今更気付いたらしい。全く、紛らわしいったらない。 「分かってるって。あいつらじゃあるまいし」 「いやでもこう、意識するとどうにもこそばゆいというか……」 「それ、俺のセリフな」 呼ぶ方も気を使うのだろうが、一番響いてるのは呼ばれる方である。何度胃の中がぞわぞわしたことか。元々御幸はその名字の珍しさも相俟ってほとんどのチームメイトに名字で呼ばれている。とはいえ、十七年慣れ親しんだ名前を、よりにもよって恋人が呼んでいるのだから、スルーしろという方が無理な話だ。 「……やっぱり」 「ん?」 「名前の方が、いい?」 ちらりと、躊躇いがちな目が御幸に向けられる。恋人になって半年近く経過した。手を繋いで、抱き締めて、キスをして、セックスをした。だというのに、『名前を呼ぶ』ただそれだけの行為──しかも同じ音は散々口にしているというのに──が、一番恥じらっているように見えるのはどういうことか。相変わらず照れるポイントが独特だと思いながら、御幸はしばし考える。 どちらかと言えば、名前で呼ばれた方が嬉しい気はする。名字で呼んでいるよりは親しみを感じるし、何より凪沙はほとんど人を苗字か、そうでなければあだ名で呼んでいる。先輩同級生後輩関係なく、だ。そんな中で、名前で呼ばれる特別感はひとしおだろうと御幸は考える。ただ──。 「天城が呼びたいように呼べばいいんじゃね?」 「呼びたい、ように……?」 「強制するもんでもねえだろ。俺だって苗字呼びなわけだけど、そんなに名前で呼んで欲しいもん? 凪沙チャン?」 「!!」 悪戯半分にそう呼べば、凪沙はずささっと後退るのだから、分かりやすすぎる反応に御幸は吹き出した。さっきまで『和哉くん』に散々呼ばれていたというのに、御幸が呼ぶとこの耐性のなさである。凪沙の感覚では、『名前で呼ぶ』という行為はそれほど特別なのだろう。だからこそ、御幸は無理強いするつもりはなかった。 「……しばらくは、苗字でお願いします……」 「はいはい」 手を繋いで、抱き締めて、キスをして、セックスをした時よりも、顔を真っ赤にして両手で顔を覆う凪沙に、御幸は穏やかでふわふわとした感情が込み上げた。彼女の言う『しばらく』が、どれくらいか分からないが、それを待つのも悪くない。そもそも、部活をやっている中で名前呼びし合うのも如何なものかと御幸も思っていたところだ。オンオフすっぱり切り替えられるほどお互い器用とは言い難いし、これで良かったのだろう。 そんな調子で慣れた道を二人で歩いていく。そして道の角を曲がり、あと数メートルで彼女の家に辿り着くというところで、凪沙の家から誰かが出てくる。 「あれ、お姉ちゃん」 「早かったじゃない、凪沙」 どうやら、凪沙の姉のようだ。亜麻色のたっぷりとした長い髪に、背は凪沙よりも少し高い。美人だが、凪沙にはあまり似ていない。だが、その気の強そうな目は間違いなく和哉と同じ目だと思った。 「そりゃあ、普通に帰るだけだし。お姉ちゃんこそ、お父さんとは仲直りできたの?」 「……まあ、あっちが頭下げてきたもの。譲歩ぐらい、私だって」 「お姉ちゃんも大人になったねえ」 「何、今度はあんたとやり合ってもいいのよ」 「人前で喧嘩売らないでよ、恥ずかしい……」 なるほど、凪沙とはまただいぶ違ったタイプの性格らしい。こういった強い姉がいるからこそ、今の穏やかな凪沙があるのかもしれない。兄弟のいない御幸にはそれが非常に面白い現象のように映る。そういえば小湊兄弟も性格は正反対といっても過言ではない。案外兄弟の性格は似ないのかもしれない──なんて思いながら姉の方に目を向けると、ばちりと視線が噛み合った。 「へー、母さんが言ってたけど、マジでイケメンなのね、彼氏」 「ど、どうも……」 「あーでも、あんた眼鏡ない方が顔綺麗に見えるわよ。コンタクトにしたら?」 「お姉ちゃん……初対面の相手に失礼だよ……」 ずけずけ物を言う姉に、凪沙は呆れたように嘆息する。こういったところも似ていない。いや、ある意味、好みは似ているのかもしれないが。挨拶がてらひょいっと手を上げる彼女の姉に、ひとまず軽くお辞儀をする御幸。 「どーも、凪沙の姉で和哉の母です」 「……初めまして。御幸、一也です」 「は? あんたもカズヤなの? まさかピッチャー?」 「いえ、捕手ですが……」 「あれ、違った。あの子がキャッチャーやりたいっつったの、凪沙の彼氏に張り合う為だと思ってたけど、違うの?」 「え?」 「御幸くんと付き合いだしたの最近だし、それは関係ないよ」 違う違うと訂正する凪沙。キャッチャーやりたい? だが、和哉は食堂で『ピッチャー』と言っていた。どういうことかと凪沙を見ると、少し困ったように肩を竦めた。 「えーとね、和哉くんも野球やってるんだけど、最初キャッチャー志望だったんだよね」 「へー、珍しいな。うちのシニアじゃ人気なさ過ぎて押し付け合いだったのに」 「だから聞いたの。なんでキャッチャーなのって」 「お前捕手好きだっけ?」 「私の好みじゃないよ。昔、あの子とキャッチボールで遊んでた時、私の投げ方が上手いからピッチャーやってるって思われてて、だったら自分がキャッチャーやるからバッテリー組みたい──ってのが動機みたいで」 どこまでも凪沙ちゃん大好き少年である。スポーツに関しては飛んで走って打ってと、何一つ不得手の無い凪沙も凄まじいが、まさか投げもできるとは恐れ入る。いつかその腕前を見たいものだと、思ったところで疑問が浮かぶ。何故その流れでピッチャーへ転向したのかと。 「……でも、今はピッチャー?」 「そう。和哉くん少年野球やってるんだけど、あの子身体は普通だけど制球力すんごくて、もう高低左右投げ分けできるんだよ」 「すげーな、天城家ってスポーツ一家かよ」 「それめっちゃ言われるけど、そんなにすごいの?」 「え」 「一方で、お姉ちゃんは野球あんまりなんだよね……」 息子が野球をやって、妹は野球部のマネージャーだというのにこの関心のなさ。和哉の言うように、『自分が好きじゃない』と思われる所以を垣間見た気がした。 「結局チームの意向でピッチャーやり始めた、って感じ。最初はブーブー言ってたけど、ピッチャーが花形だって気付いてからはのめり込んでるっぽい」 「へー。『カズヤ』でピッチャーとか不吉って言われなかった?」 「監督はともかく、世代的に元ネタよく知らない子の方が多いんじゃないかな」 「私も凪沙に言われて初めて知ったもの」 「お姉ちゃんはもっと野球に興味持とうよ」 清々しいまでに関心がない様子だ。野球に精通し、なおかつ猫可愛がりする凪沙に懐くわけだと、御幸も半ば呆れながら半笑いを浮かべる。流石に初対面の恋人の姉にずけずけ物を言うほど御幸の面の皮も厚くないが。 凪沙はもう一度重々しいため息をついてから、腕時計を見て息を呑んだ。 「ヤバイ御幸くん、そろそろ戻らないと門限が!」 「げ、マジか」 「なに、彼氏泊まってかないの」 「泊まらないよ! 学校の寮に住んでるんだから!」 「ふーん」 心底どうでもよさそうな態度だった。変わった人だと思いながら、御幸は凪沙の姉にもう一度一礼する。流石に門限を破るようでは主将として他の部員に示しがつかない。もう行くわ、と凪沙に声をかけて踵を返したその瞬間。 「『お姉ちゃんがお父さんと仲直りしてくれないせいで、彼氏を家に呼べないんだけど!!』ってブチ切れてくるもんだから、てっきり父さんに紹介しに来たのかと」 「ちょっ──」 「な──」 信じられない言葉が耳に飛びこんできて、思わず足が止まってしまう。あの天城凪沙が姉相手にそんな啖呵を切ったことが、信じられない。だが、耳まで真っ赤になったその顔を見れば、姉のでまかせではないようで。 「それは、そのっ、言葉のあやで──!!」 「ふうん。私にはあんだけ啖呵切っといて、自分は逃げるの」 「別に今日の話はしてないでしょ! 御幸くんだって忙しいんだから!」 「あ、じゃあいつかは父さんに紹介する気なんだ」 「──〜〜〜っお姉ちゃんは家戻ってごはん作ってて!!」 「はいはい」 ニタニタからかいがちな笑みを浮かべながら、姉は手をひらひらと振って家に戻っていく。残されたのはトマトみたいに顔を赤くした凪沙と、にやけが止まらぬ御幸だけで。 「──それが、『きつーいお灸』?」 「御幸くんもう帰らないと監督に怒られるよッ!!」 近所迷惑も考えず、肺から飛び出すその怒鳴り声。しかし、ちっとも怖くない。オオオン、と玄関口で顔を覆いながらしゃがみ込む凪沙に笑みを抑えられない。だが、ドアの向こうから忙しない足音が聞こえて、思わずその腕を引っ張って立たせる。 「お、わっ、」 そのまま腕を引き寄せればバランスを崩し、あっさり御幸の方に倒れ込んでくる華奢な身体を胸で受け止める。だが、間一髪で玄関のドアがガチャリと勢いよく開く。御幸が引っ張っていなかったら後頭部を強打していたことだろう。お礼を、と凪沙が思うより、ドアを開けた人物が叫ぶ方が先だった。 「凪沙ちゃん、ばあちゃんのオムライスもうでき──あああああ!! みゆきお前!! 凪沙ちゃんからはなれろよ!!」 ドアを開けたのは和哉だった。興奮気味の表情から一転、機嫌の悪い猫のようにギャーギャー騒ぎ出す。和哉の目にはどう見たって御幸が凪沙を抱き寄せているようにしか見えないのだろう。 「あのなー、お前がいきなりドア開けるからだろ」 「お前が帰んないのがわるい! いいから手ぇはなせよ!!」 「はいはい。じゃあな、天城。また明日」 「う、うん」 御幸はぱっと凪沙の腕から手を離すと、今度こそ踵を返して玄関から離れる。ふと、大事なことを言い忘れたと思い出し、今だこちらを睨みつけてくる和哉と、それを抱き寄せるように留めている凪沙を見る。 「『凪沙ちゃん』は俺の恋人だから、お前とは結婚しねえぞ」 「──は?」 「ちょっ」 にたりと、意地悪そうな笑みを一つ。和哉は何を言われたのか理解できないとばかりに、毒気の抜かれた顔をしているが、すぐに火が付いたように怒り出す。 「はあああああ──っ!?」 「じゃーな、俺戻るわー」 「ちょおっ、御幸くん火に油注ぐだけ注いで行かないで!!」 「まてよみゆき!! コイビトってどういうことだよ!! おい!!」 「和哉くんも落ち着いて!!」 怒り狂う和哉を抱っこしながら凪沙が宥めている。流石に甥っ子にあれこれ思うほど御幸も狭量ではない。御幸はただ、親切にその夢が叶わぬことを教えてやっただけに過ぎない。それから和哉の怒鳴り声を背中に受けながら門を潜り、天城家から数百メートル離れるまで、子犬のような怒鳴り声が鳴り響き、御幸は心底笑いが止まらなかったのだった。 なお、御幸のこのお節介により和哉の凪沙愛と共に御幸への憎しみは彼が自覚する以上のものに膨れ上がり、後々の彼の人生に大きな影響を与えることになったのは御幸も、凪沙も、和哉自身も、今はまだ──誰も知らない。 (彼女の家族のお話/2年冬) |