御幸一也は決意した

 その日、御幸一也はいつものように教室の自席でスコアブックを眺めていた。授業の合間という短い時間も、有効に使わねばならないのがキャプテンの、正捕手の辛いところである。まあそれすら楽しんでしまうのだから、天職だろうと倉持に言われたが。そんな倉持は飲み物を買いに行くだとかで席を外しており、久々に一人静かに席に座していた。

「──凪沙とも相談したけど、やっぱその方がいいって思って……」

「えーっ、それで結局別れちゃったの!?」

 すると、前の座席に座る女性と二人がそんなことを話し始めた。どこにでもある会話をわざわざ御幸の耳が拾ったのは、彼女たちの会話の中に自らの恋人と同じ名前が混じっていたからだ。所謂、カクテルパーティー効果、というやつだろう。御幸の集中力は一瞬の乱れを生じさせたが、特に彼女たちと親しいわけでもないのでスコアブックに今一度目を落とす、が。

「そっかー、勿体ない気もするけどね。結構イケメンだったじゃん」

「でも、全然『好き』とか『かわいい』とか言ってくれないんだもん……」

「えー、それだけであの優良物件を手放したの?」

「大事なことだよ! そういうの言葉にして言ってくれなきゃ、ほんとにわたしのこと好きか分かんないじゃん!」

「そりゃそうだけど……」

「凪沙だって言ってたもん、『不満やストレスを口に出しても伝わらないなら、付き合ってても辛いだけだよ』って!」

「あー、凪沙っぽい」

 同意見である、とスコアブックに目を落としながら御幸もこっそりと頷く。恋愛相談なんてガラじゃない、と言いながらも、なんだかんだ的確なアドバイスをぶつけてくる恋人の顔が容易に想像できた。

「……じゃあ、言っても駄目だったんだ」

「うん……恥ずかしかったけど、ちゃんと言ったもん。『言わなきゃ伝わらないのに、察してもらうのを待つのは怠慢だよ』って怒られちゃったし……」

「それも凪沙?」

「うん……」

 静かな声がやんわりと諭す姿もまた、容易に想像できた。ただ、だんだんその会話の内容に意識がそがれつつあることを、御幸は認めざるを得なくなっていって。

「でも、言っても駄目、直接がだめなら文章でも、って言ったけどそれでも嫌だって言われちゃって……」

「強情だね。なんでそんなに嫌がるの?」

「『なんでそんなこといちいち言わなきゃいけないんだ』って」

「うわなにそれ、彼氏でしょ!?」

「だよね!? そんなこと言われたらますます、私のこと好きか分かんなくなって……もともと告白したのも私からだし、好きじゃないならもういいやと思って、別れて、って言ったの。そしたらその人、ひどいんだよ!」

 だんっ、と机を殴る御幸の前に座る女生徒に、思わず肩が震えた。まるで自分が怒られているような気分になったのだ。何故か、不思議と。

「『別れる』って言った途端に大慌てで『好きなのになんで』とか『俺は別れたくない』とか言い訳始めてさ! なんかもう引き際の悪さ見せつけられて、一気に冷めちゃった」

「うっわー……」

「だからもうおしまいにしてやったの! 頼んでも言わなかったくせに、別れるって聞いた途端にこれなんだもん。ばかばかしくなっちゃった」

「凪沙はなんて?」

「『気持ちは移ろうもの。次に切り替えていこう!』だって」

「あいつの達観精神どっから来るんだろ……」

 いつだったか似たようなセリフを耳にしたことがあるだけに、御幸としても気が気じゃない会話になってきた。スコアブックに目を通してはいるが、ほとんど内容が頭に入らない。脳裏に情報として入ってくるのは、彼女たちの会話ばかりで。

「何で男って言葉に出さないかねー」

「なんかねー、恥ずかしいって言ってたよ」

「それで彼女からの気持ち失ってちゃ世話ないでしょ」

「だよねー。しかもわたし、ちゃんと言ってほしい、って伝えたのに」

「最終勧告を無視したんだから自業自得! 凪沙の言う通り、次に切り替えてこ!」

「そうする!」

 そうして何組の誰それがかっこいいだとかネットで有名なイケメンだとかの話が盛り上がるうちにチャイムが鳴り、授業が始まる。ただ、授業が始まってなお御幸の頭には先ほどの少女たちの不平不満がぐるぐると輪を描いていた。

「(天城は……まあ、そういうタイプじゃ、ねえよ、な?)」

 先の彼女たちの話題、言うか言わないかであれば御幸は圧倒的に『言わない』側の人間である。そういう自覚もある。思ってはいるが、あまり口に出さないよう自制してきたのが原因だろうか。性分じゃない、恥ずかしいという理由を差し引きしても、一番の理由は『思いを口に出してはいけない癖がついている』からだ。彼女と付き合うまでの一年間、誰にもバレないよう、悟られないよう、御幸は強靭な精神力でその淡い恋心を抑えつけてきた。その反動からか、どうにも思いを口に出してはいけないような、どこかブレーキを踏みたくなるような感覚が残っているのだ。要は慣れていないだけなのだが。故にこそ、そういった感情は言葉より態度で示す方がまだ得意だ。伝わるかどうかは、さておき──ああ、なるほど、目の前に座るクラスメイトの恋人もまた、御幸と同じような考えだったのかも、しれない。結局それは伝わらず、彼らの関係は物の見事に終わってしまったようだが。そう考えればますます、今の状況に甘えているのはまずいのではないか、という危機感が襲う。

 何故そう思うかといえば、御幸と違って凪沙はどちらかといえば好意を口に出す方だからだ。態度でも示すが、『好き』とか『かっこいい』といった言葉は恥じらい一つなくさらりと告げてしまう。年始の初デートを乗り越えたあたりからは特に、だ。そういう素直な面も彼女の美点であり、また好ましく思うところなのだが、じゃあ同じように御幸も返せるかといえば、それは全く別問題である。

「(けど、何か文句あったら言うだろ、あいつは)」

 他人にそう説教する彼女だ、何か御幸の態度に思うところがあるのなら声に出すはずだ。だから御幸が不安に思うことなどない。はずだ。だというのに、手はカチカチとシャーペンをノックしては引っ込めて、またノックしては引っ込めて、と落ち着きない。

「(さっきの話、天城に相談してた、ってこと、だよな)」

 名前とセリフの言い回しから、彼女たちの言う『凪沙』は御幸の恋人である天城凪沙であるのは間違いない。今まではそんなことを微塵にも思わなかった彼女が、相談を受けて同じような不安を抱いていたら。相談をきっかけに変化する可能性だって十分にある。凪沙流に言うならば、『人の心は移ろうもの』だから。

「(──いや、でも……まさか、なあ?)」

 そんなまさか、と思う自分もいる。だが、変化を『やむなし』と受け止めている彼女を思うと、何事も『ありえない』では済まなくなってくる。考えれば考えるだけ、自らの怠慢が重く肩に圧し掛かる。カチカチカチ、とシャーペンは出す芯もないというのにノックを続けていき。

「──出席番号三十二番! いないのか、御幸! 御幸一也!!」

「っ、はい!!」

 そんな鋭い声と共に、手にしていたシャーペンがころりと床に落ちるのもいとわず、御幸は威勢よく返事をして即座に立ち上がった。何故ならその声の主は我らが敬愛と畏怖を抱く野球部監督、片岡鉄心その人だったから。そう、何を隠そう今は現国の授業中だ。

「いるなら返事をしろ。それとも、授業に集中できん理由でもあるのか」

「い、いや……ない、デス……」

 ゴゴゴ、という威圧感と共に凄まれては、まさか恋人のことを考えて授業を疎かにしていましたなどと口が裂けても言えない。罰として課題プリントを叩き付けられた御幸の視界の端に、倉持が笑いを堪えて机に突っ伏す姿を捉えたのだった。



***



「御幸くん、今日監督の授業で怒られたんだって?」

 その日の夜、いつものように凪沙を家に送り届けるために御幸は夜道をゆく。隣にいる恋人は、珍しくニタニタとからかうような笑みを浮かべている。誰のせいだと言いたくなったが、自業自得だと気付いて何も言えなくなった。

「倉持か? あいつほんと口軽ィなあ」

「珍しかったんじゃない? 野球部員って監督の授業だけはちゃんと聞くし」

 睡魔に負ける者、そもそも不真面目な者もいる中で、片岡鉄心の授業だけはみな背筋を伸ばし、眠気と戦いながら講義に集中する。顧問の授業なのだから当然といえば当然だ。授業中に睡眠など貪ろうものなら、レギュラーから外されたって文句は言えまい。

「どうかしたの? なんか悩みごと?」

「なんでも。……ちょっと、考えごとしてただけ」

「ふうん?」

 そういって、黒い二つの目がじいっと御幸を見上げる。嘘、ではない。本当のことを、言っていないだけで。だが、その鋭い観察眼は御幸のそうした後ろめたさも見通すかのように動いているようで。五秒ほどそうしていたが、やがて凪沙はいつものようにふわりと微笑んだ。

「何かあったら、いつでも言ってね。力になりますゆえ」

 どうやら、深く追及するまでもないと判断したらしい。凪沙はそう言って、手を繋いでいない方の腕で力こぶを作って見せた。なんとも頼りないか細い腕ではあるが、様々な意味でこの腕は見かけ以上の頼りがいがあるのだから驚きだ。こういう仕草一つ一つが、可愛いと思うの──だが。

「か──」

 言ってしまおうか。勢いに任せて口を開くも、やはり言葉は出てこず、喉にブレーキがかかる。恥ずかしさ以前に、唐突すぎる。浮気した後にご機嫌取りにケーキを買うサラリーマンみたいだと思えば思うほどに、今更態度を変えるのも不自然だ。だが、言いかけた声はしっかりと凪沙の耳が拾っていたらしく、ん、と首を傾げた。

「『か』?」

「か──髪、なんか、ついてる」

「え、うそ、どこ」

 咄嗟に当たり障りのない誤魔化しを告げると、凪沙は頭をしきりに撫で付け始める。幸か不幸か、凪沙の髪には本当に羽毛のような小さな羽がついており、凪沙の手はそれを払い落とせずにいた。いつまでも見当違いの場所に触れる手を、御幸の手がそっと払う。

「ん?」

「動くなって」

 そう言ってつむじあたりに鎮座する羽毛をつまんで払い落とす。なるほど確かに避けないな、などと全く関係のないことが脳裏を過る。ありがと、そう告げる彼女の頬は、薄らと赤くなっている。

「なに?」

「いや、うん……御幸くん、こういうのさらっとしちゃうあたり、かっこいいよなあ、と……」

 どこにときめくポイントがあったのか分からないが、凪沙は恥ずかしそうにはにかんでいる。彼女のセリフの方がよっぽど恥ずかしいと思うのだが、チャンスだと御幸の脳は僅かコンマ一秒で判断した。今の流れなら言える。不自然さゼロだ。こんなに美しいパスは今後あるかどうか分からない。あれこれモダモダ悩むよりは、言ってしまった方がいいに決まってる。妙なところで腹を括るのが早い御幸は、ブレーキをぶち壊し、言いあぐねていたその一言を口にした。

「……俺は天城のそういうとこ、か──かわいいと、思う、けど」

「!」

 言った。少々ぎこちなかったのは認めるが、はっきりと言えた。よし、と心の中でガッツポーズを決める。どこかの誰かのおかげで犠牲のおかげで事無きを得た、顔も知らぬ顔も知らぬクラスメイトの元彼氏に感謝の念を送りながら、さて反応はと凪沙の顔を見る。だが、想像に反し、凪沙はぽかんとした間抜けな顔で御幸を見上げていた。

「ど──どうかした?」

「どうかしたてお前」

 言うに事欠いて『どうかした』はないだろう。デジャブ、デートに誘った時と同じような反応だと即座に記憶が蘇る。だが、それぐらい慣れないことをしているのだという証拠でもあるのだろう。苦い顔をする御幸に、凪沙はおろおろと戸惑うばかり。

「や、やっぱり、なんかあった……?」

 やはり慣れないことをすべきではなかった。要らぬ心配を招いている気がする。いよいよ苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる御幸はどう言い繕ったものか考え込むも、名案は浮かばない。黙せば黙すだけどんどん不安そうな顔色になる凪沙にこれまでかと覚悟を決めた御幸は、恥を承知で昼間の経緯を洗いざらい吐く羽目になった。下手な嘘を取り繕うことも考えたが、後輩投手たち相手ならいざ知らず、妙に鋭い凪沙には敵わないと、御幸は知っていたからだ。

 そして全てを話す間、凪沙は静かな面持ちで御幸の言葉に相槌を打ちつつ聞いていた。こういう時、下手に茶化したりしてこない相手だからこそ、正直に白状しようと思えるのかもしれない。そうして話し終えた時、凪沙はなるほどと頷いた。

「ンー、でも御幸くん、わりと『かわいい』って言ってくれる、よね?」

「……俺、が?」

「うん。……も、もしかして、無意識だったの?」

 寝耳に水とはまさにこのことか。驚く凪沙以上に御幸は衝撃を受けていた。さっきの一言を引っ張り出すのでさえ、覚悟を決める必要があったというのに。しかも凪沙の口ぶりでは、一度や二度ではない様子。一体いつ、酒を飲んだわけでもないのに、全く心当たりのない御幸は目を白黒させる。そんな御幸を前に、凪沙の顔はカーッと林檎のように真っ赤になっていく。

「え、俺が──マジで? いつ?」

「い、いつって、そんな、」

 凪沙はあからさまに狼狽えている。だが、御幸自身に全く心当たりがなく、真面目な顔で問いただす。凪沙はますます困ったように表情をふにゃふにゃと動かすも、答えはなく。一応、何か言おうとはしているようだが、言葉らしい言葉は聞こえてこない。

「え……」

「え?」

「や、あの……ほんと、うそでしょ……?」

「嘘じゃねえって……ほんとに? 俺が?」

「ヒエ……」

 とぼけているのかとでも言いたげな視線が飛んでくるが、御幸は首を振る。本当に心当たりがないのだ。じっとその表情を見つめていると、凪沙は観念したように俯いた。繋がれた手に、ぎゅうっと力が込められる。そうして、蚊の鳴くような声が、こう言った。


「──え、えっちのときに、結構……」


 その一言を耳にした瞬間、爆発するかと思った。

 凪沙は今すぐ消えたいとばかりに恥じ入っているが、そんな爆弾をぶつけられた御幸の方が消えていなくなりたかった。正直、言った記憶がない。行為の際は余裕なふりをするが、実際余裕など全くないからだ。奪い合い、求め合うその行為は御幸を何度となく昂らせ、処理しきれない感情を抑えきれずに、そんな言葉がこぼれたのだろうか。無意識にそんなことを何度となく口にした自分にも驚くし、恋人の口から発せられる『えっち』というワードの破壊力も衝撃的で、久々に頭が真っ白になった。

「あの、だから、その、ご心配はなく、ということで……」

「あ、ああ──なら、いい、けど……」

 互いに顔も見れないまま、手だけはしっかり繋いだまま歩き出す。確かに『愛情は言葉にしなければ伝わらない』という問題は解決した。解決したが、予想外の事実を突きつけられて言葉もない。まさかそんな形で解決していたとは思わなかったからだ。無意識に、彼女に対する愛情が零れ出ていたのだと思うと恥ずかしさやら何やらで弾け飛んでしまいそうだ。尤も、そんなセリフを言わされた凪沙へのダメージも尋常ではない様子だが。

 ちらり、と凪沙の顔を盗み見る。耳まで真っ赤になっているのがよく分かる。俯いたまま足元ばかりを見ており、表情まではよく見えない。

「……ほーんとかわいいな、お前」

「!!」

 ばっと顔を上げた凪沙。驚いたように見開いた眼は、今にも零れ落ちそうだ。先ほどと同じように言ったセリフなのに反応が大違いで、少しだけ笑みが込み上げてくる。そのまま声を抑えたまま笑えば、凪沙は抵抗の意を示すように繋いだ手をさらにぎゅうっと握る。けれど、言葉による反論ができるほど、冷静ではいられないようで。

 今後は意識的に言おう、御幸は静かな夜道を歩きながら決心した。

(「かわいい」が言えないお話/3年夏)

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